ピープル2と文字文化普及1

韓国で学歴志向が強いのは,「長かったヤンパン支配に対する憧れ」と一般に言われていますが,先進文化・・中国の知識を得られるのは,エリートだけ・・特権維持のために漢字文化独占にこだわって来たことに原因があり,中世を通じてラテン語にこだわった西欧文化人と意識では共通です。
欧米旧植民地でも,飽くまで英仏語等支配者言語文献を読み書き出来る人だけがエリート・・自国文字に翻訳せず民族に先進文化を移植する努力しなかった植民地の王族(傀儡支配層)も同じです。
シンガポール・香港を始め多くの旧植民地では今でも全て自国文字を持たないままで,意思疎通出来るように庶民まで英語を使えるように拡大・・外来文字・言語文化の大衆化を実現しただけです。
数十年前にシンガポール人が日本人の殆どが英語を話せないのを知って,日本人の多くは文盲・・自分達よりもレベルが低い民族だと誤解しているような記事が出回ったことがあります。
初めてビフテキを食べた庶民が,淡白な食事をしている上流階級を馬鹿にしているようなものです。
「子鹿のバンビ」の物語で,一時期人間に捕われていて群れに戻った若い鹿が,人間社会を自慢してバンビのお父さんから[可哀相なヤツメ!」と言われる場面があります。
ローマ社会が王族・周辺人を取り込むために,周辺未開人の主立ったものにラテン語やキリスト文化を身につけさせて、ローマ名誉「市民」の称号を与えて取り込んで行った過程で生まれた概念に過ぎません。
日本も古代には「漢の倭の奴の国王」とか卑弥呼の時代までは冊封を受けて特権(漢語では現地異民族で特権を受けた人が「王」(出先市場支配人の意味)この一定の取り巻きが地中海で言う市民)扱いを享受していました。
日本列島の民族独自性が強まった結果、自らを「天子」と称し,冊封を受けなくなったのは周知のとおりです。
聖徳太子が頭でっかちにイキナリ無茶を言ったのではなく,日本列島は,古来から充分な社会変化してから改革して行く社会ですので遣隋使以前の百年以上も前からじわじわと独自性が出来上がっていたからこそ,聖徳太子がそのように表現したと言うべきです。
要するにこのころには独自民族意識が確立していたと言えます・・この確立があってこそ,白村江の敗戦と同時に列島防衛意識が列島全体で自発的に生まれたのでしょう。
歴史上白村江敗戦→列島一体感形成と思われていますが,実はその逆です。
その前から独自民族意識が出来上がっていたからこそ、元々さしたる武力を持たない(だからこそ,やおよろず体制で))弱体な大和朝廷が大した抵抗もなく遠くの東国人を九州の防人に動員出来た背景でしょう。
民族意識が成熟していたからこそ(中世の蒙古撃退も幕末の植民地化阻止)出来たと言うべきです。
日本以外の西洋あるいは中国では,同化度合いに応じて特別扱いする・・社会構成員仲間として[市民」と」[ピープル」の二種類が出来上がったと見るべきです。
我国では聖徳太子・遣隋使の頃から,異民族支配下の経験・序列意識がありませんので,市民と言えば単に行政区画としての「◯◯市に住む人」と言う程度の意味しかありませんし,国民と人民の区別もピンと来ない所以です。
異民族支配の道具として名誉市民・・今でも外国の優秀な人材を取り込む道具としてレジオンドヌール勲章やガーター勲章・・ナイトの称号・名誉貴族・名誉学位などの称号を与えて西洋では取り込むのに利用している大もとです。
韓国はシンガポールが英語を庶民に広げたように戦後外来の漢字を庶民に広げる方向を採用するには,(英語に比べて漢字は難易度が高く)無理があるので語順に無理のない日本の漢字仮名交じり文の利用が合理的だったのですが,文化独立性を優先するために,逆に全面廃止・・民族文字・ハングル一本にしました。
これはこれで(民族独立の意気込みからしてある程度の無茶・元気も必要です)見識のある態度です。
中国も外来文化輸入社会として韓国の先輩と言うだけ・・李氏朝鮮のヤンパンと庶民の関係同様に、士大夫層のエリ−トと庶民とでは文化が隔絶して数千年経て来ました。
何回も書いて来ましたが、四書五経・漢詩・詞文などの高尚な文化を継承して来た士大夫層等はホンの一握り(十何億人中数百人〜数千人以下?)であって,庶民とはまるで文化の違う異民族のような関係だったのです。
民度差が国力差になって来た現在社会において,中国でも遅ればせながら,庶民も人的資源として活用する必要に迫られて来ました。
庶民のレベルアップ・戦後文字文化を庶民に広げるには漢文表記は難し過ぎて無理があるものの、(中共政権は中華の栄光が拠り所ですから)香港のように英語文化圏に入るのは沽券に関わるのでそれは出来ません。
そこで、漢字を簡体字化・・結局は日本の仮名文字の数段階手前の文字化して大衆化・・一般国民が読み書き出来るように努力するようになりました。
韓国のハングル普及と同じ動きですし、時期もほぼ同じです。
ウイキペデアの記事です
「簡体字(かんたいじ、中国語: 简体字、拼音: jiǎntǐzì)または規範字(きはんじ、规范字、拼音: guīfànzì)は、1950年代に中華人民共和国で制定された、従来の漢字を簡略化した字体体系である」
ところで、・・自民族が修得出来ない自国発祥文字とは何か?と言う基本的疑問に発展します。
民族自らの自己表現道具として生まれて来た言語表記であるならば,[てにをは」の助詞がないと不便ですが,我が国に一般に伝わっている中国の漢文表記は私の子供の頃に良くあった電報のようで,「てにをは」がありません・・。
元々象形〜表意文字の発展は原始形態であって,(絵文字を並べて意思疎通しようとする場合を考えれば分るように)表音文字で補足する方法がないと意思をきめこまかく表現する文字として完成しないと言うべきでしょう。
外国へ行って単語だけ並べて何とか物を買ったりタクシーに乗っているような生活は半端な状態です。
何となく犬猫が「ワン」と言ったり少ない表現で最低の意思疎通しているのに似ています。
以上は,私がフランス・イギリスにへ行ったときに「犬になったみたい!」とおかしく思った経験によります。
これを国民が日常的に行なっているしかないとしたら,知能の発達に大きな影響があります。
ただし犬猫と違い人間にはいろんな発音があるので,文字化出来ない不便だけですが・・・。
文字化しないと形而上的観念の反芻・思考訓練には不便・・知能の発達に甚大なマイナス影響を与えます。
ただし,この辺もいつも書くように素人の意見ですので,(漢字は専門的には前後の文字によって意味が変わるので表意文字ではないと言う分類らしいですし)そのつもりでお読み下さい。

シチズン(文化人)とピープル(無知蒙昧?)1

市民・・都市国家の始まりは,フェニキア人等が地中海沿岸に進出して市場を開いた場合に,現地未開人の夜襲等を防ぐために先ずは柵で囲んで城門を夜間閉じるのが先決だった歴史を物語るもので,都市国家とは異民族地域に進出した場合の現地駐在拠点に始まることを書いて来ました。
このやり方は(私の仮説によれば・・)メソポタミア文明の到達点であった中国古代も同じで,川沿いに荷物・交易品を運び現地有力者と交易場所を決めて交易する・・日帰りは不能なので,現地駐在時に夜襲を防ぐため、日没とともに城門を閉じて夜明けとともに城門を開けて(鶏鳴狗盗の故事のとおり)鑑札のある地元業者だけ出入を認める・・これが普通のやり方でした。
集落の交易点は水運を利用して始まるのが普通ですが,中国の場合水源近くの最上流から始まった不自然さは,中央アジアを通じて山を越えて来た異民族が最初に居着いた場所(山越え後平野部に出たばかりの扇状地)とすれば理解可能です。
中国の場合海岸沿いに都市文化が広がらずに,黄河上流から下流にかけて順次下りながら発展した原因です。
すなわち都市国家形態の社会は先進異民族が遅れた地域へ進出して来た名残と見るべきでしょうし,市民(元は駐在員・長崎出島の居留民のようなもの)と城壁外の民族とは別部族と見るべきです。
ただし地中海世界とは違い西洋大平原の農業・牧畜地帯では都市住民と周辺住民とでは,16年12月29日に書いたように同一民族なのでローマ文化受容者とその他の違いでしかありません。
そこで違いを強調するには,「優れた外来文化(キリスト教)を持って来た人と・これを吸収した者のみ」がローマ市民資格と言えます。
キリスト教は西洋の原住民にとって自分たちで生み出した宗教ではない・隔絶した文化レベル差があったコトからキリスト文化を身につけた教養人だけが名誉?「市民」であり、その他はピープルと言う差別意識が生まれたのでしょう。
インデアンのうちで白人文化を身につけたものだけが、人間・市民扱いされる教育をして来たアメリカのインデアン同化政策はこれに似ています。
欧米植民地支配政策もこの延長で,地元酋長・有力者を留学させて欧米文化を理解させる・・名誉白人扱いで上流社会に出入りさせて,特権意識をくすぐり満足させていました。
自国に帰ると貧しい低レベル環境・文化に嫌気をさして文化施設その他インフラの整ったロンドンやパリ・・気の利いた詩文を口ずさめば受ける高度な社会に早く帰りたいと思うように仕向けて来たのです。
日本古代に国司等になって地方赴任すると早く都に帰りたいと願うのと同じ心境です。
ここで、元々の関心である欧米のシチズンとpeopleとの対置に戻ります。
フランス革命で支配権を奪取したのは城壁に守られた市内に住む「市民Citizenの政治参加の権利」であって庶民peopleは対象になっていません。
16年12月17日紹介した記事最後にあるように、フランス革命ではブルジョアのための革命である本質を逸早く表明しています。
ブルジョアとは何か?一般に教養と財産のある「市民」と翻訳されている階層ですが、ここで言う教養は・・天動説を含むキリスト教の教えが中世の支配概念です。
これを体系化するために努力していたのがキリスト教神学者であり,西洋の学問は神学が全ての始まりです。
神学は天動説と言う迷妄な理論ばかりが有名ですが,実は芸術表現も神学によるテーマしかなく,我が国のように花鳥風月や個々人の心情描写が始まりではありません。
漸く宗教から解放された後・・近代でも王様の肖像画中心ですし・・ミレーの晩鐘のように風景が絵画に入って来てもなお教会の鐘の音を背景にする程度です。
ウインザー城を見学して驚いたのですが、天井その他あちこちに書いている絵画は、キューピッドその他神話に出て来るらしい人物画ばかりです。
一緒に行った子供が,人間ばかりで夢に出て来そうだと怖がっていました。
フランス凱旋門の屋上にある塑像?も似たようなものです。
ルネッサンス芸術と言っても,(全部を知らないので遠慮して書くとほぼ全部?)キリスト教神話に基づくものばかりです。
日本の例・・万葉集の歌です。
「山部宿禰赤人が不盡山を望てよめる歌一首、また短歌
  天地(あめつち)の 分かれし時ゆ 神さびて 高く貴き
  駿河なる 富士の高嶺を 天の原 振り放(さ)け見れば
  渡る日の 影も隠(かく)ろひ 照る月の 光も見えず
  白雲も い行きはばかり 時じくそ 雪は降りける
  語り継ぎ 言ひ継ぎゆかむ 不盡の高嶺は(317)
反歌
  田子の浦ゆ打ち出て見れば真白にぞ不盡の高嶺に雪は降りける」
赤人は(生年不詳 – 天平8年(736年)ですし、万葉集には自然描写が一杯あります。
数百年下がると日本人らしいきめ細かな感性も歌われています。
「秋きぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかねぬる」
上記は藤原敏行(生年不詳〜906〜7年頃死亡)ですが、西洋は近代に入っても肖像画に毛の生えた程度の絵画表現だったのですから,西洋文化の浅さが分ります。
自然現象その他全てが,キリスト教と言う迷妄な宗教・・神学と言う名の学問もどき?に縛られていたのです。
以下は冗談ですが、日本に来た西洋人がちょっとした地震に大騒ぎするのは,未だに地動説を心の底から信じていないからではないでしょうか?
日本では天地(あめつち)が動くことは,万葉の昔から誰でも知っていることです。
古今集仮名序(現代語訳)
「仮名序によれば、醍醐天皇の勅命により『万葉集』に撰ばれなかった古い時代の歌から撰者たちの時代までの和歌を撰んで編纂し、延喜5年(905年)4月18日に奏上された」
「やまとうたは、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける 世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、心に思ふ事を、見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり 花に鳴く鶯、水に住む蛙の声を聞けば、生きとし生きるもの、いづれか歌をよまざりける 力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女のなかをもやはらげ、猛き武士の心をも慰むるは、歌なり」
上記に対する江戸時代の狂歌
「歌よみは下手こそよけれ天地の 動き出してたまるものかは(宿屋飯盛)」
ここで西洋庶民(ピープル)の文盲・・無知蒙昧時代が長かった原因・・元々の関心である欧米のpeopleとの対置に戻ります。
フランス革命で支配権を奪取したのは城壁に守られた市内に住む「市民Citizenの政治参加の権利」であって庶民peopleは対象になっていません。
16年12月17日紹介した記事最後にあるように、フランス革命ではブルジョアのための革命である本質を逸早く表明しています。
ブルジョアとは何か?一般に教養と財産のある「市民」と翻訳されている階層ですが、当時のキリスト教に対する批判的文化人であれ,キリスト神学教養が基礎になります・・例えばニーチエFriedrich Nietzsche(1844-1900)の「神は死んだ」と言う哲学はキリスト教神学の理解なしには書けないでしょう)がフランス革命で対象としていた教養人です。
トランプ氏以前のアメリカでは,「民主主義価値観共有」が文化人の資格です。

シビリアンの相対性1(アメリカの反軍思想)

フランス革命に戻ります。
フランスが植民地戦争で負けた意趣返しにアメリカの独立を応援したからと言って市場参入がうまく行くとは限りません・・要はフランスの市場競争力の有無です。
産業の基礎が弱いといくら強制的にこじ開けたり、大陸封鎖令のように経済封鎖しても長期的には効果がないことが分ります。
武力や政治力は一過性に過ぎません。
トランプ氏の強引な政策も長い目で見れば一過性に過ぎませんが,業界は一過性だからと言って4〜5年間も逆境に甘んじるわけに行きません。
先ずは現政権と摩擦を起こしたくない・・迎合するしかないので,昨日のニュースではフォードもメキシコメキシコ新工場撤回に追い込まれていますが,長期的にはアメリカ製造業の競争力にかかります。
フランスがアメリカの独立応援によって市場参入の将来性が開かれたとしても目先の財政危機には役立ちません・・財政危機サナカの新たな戦費負担によって,目先の財政危機が却って高まってしまったのです。
財政危機打開に向けての協議が不調に終わり,その責任のなすり付けあい・・1種の弱い者イジメに向かったのが王制打倒だったように見えます。
昨日ロシア革命についてちょっと触れましたが,本来農奴・工員など弱者向け改革に努力していた帝政に対して大貴族が反対して進まなかったのですが,革命になると逆に王家の方が潰されたのと似ています。
今のアメリカの不満はお家芸である自由主義・グローバリズムによって世界中の門戸開放して来たものの、そのメリットを資本家・・金融資本ばかりが得ていることに対する不満です。
製造能力の基礎が弱っていることに対する不満ですから、誰か威勢の良いことさえ言えば解決できることではありません。
政治的意味としては製造業を強くするための政策努力目標を宣言していることは間違いがない・・長期的目標設定したと言う程度でしょう。
ウイキペデイアの産業革命の記事からの引用です。
「イギリス産業革命は1760年代に始まるとされるが、七年戦争が終結し、アメリカ、インドにおけるイギリスのフランスに対する優位が決定づけられたのは1763年のパリ条約の時である。植民地自体は以前から存在していたので、1763年の時点でイギリスが市場・原料供給地を得た、というよりも、フランスが産業革命の先陣を切るために必要な市場・原料供給地を失ったというべきであろう。いずれにせよ、イギリスはライバルであるフランスに先んじて産業革命を開始し、フランスに限らず一体化しつつあった地球上の全ての国々に対して有利な位置を占めることとなった。言い換えるならば、七年戦争の勝利によって、イギリスは近代世界システムにおける覇権国家の地位を決定づけたのである[1]。」
革命とシビリアンの関係に戻りますと,増税の強制→軍事力背景ですから,アメリカでは独立直後には,軍に対する嫌忌感から常備軍を置かないシステムを採用していると言われています。
http://blogs.yahoo.co.jp/takizawa_shinichiro/61987964.htmlの記載で真偽不明ですが,一応引用しておきます・・真偽を知りたい方は連合規約の原典に当たって下さい。
「連合規約、正式には、連合および永遠の連合規約、アメリカ独立戦争における13植民地の連合の名称を「アメリカ合衆国(United States of America)」と定め、13邦を統括する連合会議の設置を定めた。
アメリカ最初の連邦憲法とも呼ばれている。
この連合規約では、常設の陸軍あるいは常設の海軍を平時に持つことを禁止している。」
以下はhttps://ja.wikisource.org/wiki/%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85:Complex01/%E9%80%A3%E5%90%88%E8%A6%8F%E7%B4%84からの連合規約の引用です
第6条
前略・・・
いかなる邦も、連合会議に結集する合衆国が当該邦の防衛もしくはその貿易のために必要と見なす数以外の軍艦を、平時において保持してはならない。また連合会議に結集する合衆国の判断において、当該邦の防衛に必要な要塞を守備するために不可欠と見なされる数以外の軍隊を、平時において保持してはならない。ただし、すべての邦は、常によく統制され訓練された民兵を、十分に武装し装備して保持すべきであり、政府所有の倉庫に適切な量の野砲、テント、武器、弾薬、および野営用具を準備して、緊急事態に備えなければならない。」
どこのクニも防衛に必要と言う解釈で軍を常備しているのですから,この規約だけから常備軍禁止規約だったとする解釈は文言的に無理があるので,2回の革命経験のあるイギリス系移民にとっては,独立戦争を独立革命と言うように3度目の正直・・軍に対する嫌忌感が強烈でその背景を持った議論の末に出来た条文なので、出来上がった成立経緯を重視した意見でしょう。 
飛躍しますが,日本国憲法の非武装原理もここに淵源があるかも知れません。
いずれにせよ、上記条文のように,装備品を用意しておくだけで必要な都度軍(志願兵?)を招集する仕組みだったらしいので、南北戦争当時もホンの少ししか軍がなかった・・だからこそ日本で想像する政府軍〜反政府軍との大きな差がなく,南北軍が拮抗していた原因だったかも知れません。
でも南軍には大砲がないじゃないかの疑問があるでしょうが,各地に兵器倉庫が分散していれば,南軍支配下にも兵器庫があってそれを南軍が利用したとすれば納得がいきます。
日本で考えると古代の平将門〜藤原純友の乱でも,西南の役でも政府軍と反乱軍とでは,圧倒的兵力差が基本ですから変な感じを受ける原因です。
今のアメリカの強大な軍事力からは想像もつきませんが,建国当時は常備軍不要の思想の憲法になっていたと言うのです。
アメリカでは・・軍の存在そのもが人権抑圧組織として如何に嫌われていたかが分ります。
当時は軍と言っても,一般人が銃を持つ程度ですから,イザ戦争が始まってからの準備でも何とかなるものでした。
18世紀末から19世紀に入ると戦艦や兵器が近代化して来たので,今では数十年単位の兵器開発準備や訓練が必要です。
中国がソ連崩壊後ウクライナから中古の航空母艦を購入して、これを元に作っているのですが,大変な時間(ソ連崩壊後でも既に20年以上です)を要して昨年あたりに漸く進水したばかり・・1〜2週間前に漸く台湾をぐるっと回る示威航海しましたが,これから実際の発着訓練が始まるのを見ても分るでしょう。
そこで常備軍・・職業兵士が必須になって来ます。
近代法の原理と言ってもこの一事だけを持っても,大きな変容を受けていることが分ります。
アメリカ徴兵制の歴史はウイキペデイアよると以下のとおりです。
アメリカの徴兵法の歴史
独立戦争 – 先住民との戦争終結までの徴兵政策
1861年 – 1865年、南北戦争時の徴兵実施。アメリカ合衆国と合衆国からの脱退を宣言したアメリカ連合国は、南北戦争遂行のために徴兵制を実施したが、合衆国軍も連合国軍も兵士の大部分は志願兵だった。
先住民との戦争終結後 – 第二次世界大戦終結までのアメリカの徴兵制策
1916年2月、徴兵制に合憲判決。
1917年5月、1917年の選抜徴兵法の制定。
西欧に戻りますと,王権の強制力は元々軍によっていますが,その正統性の基礎にキリスト教・聖職者がいて実際に異教徒審問などで猛威を振るったので,市民にとっては軍と聖職者を一体的抑圧者として意識してきました。
王制やキリスト教の圧迫に抵抗する市民・・ローマ風の戦うべき階層として市民自らを意識したときに「シビリアン」と言う別の名称が生まれて来たように見えます。
以上のように,西洋では軍と聖職者に抵抗するものとして中世中頃から,徐々にシビリアン概念が育まれたものですが,新大陸アメリカは新教徒が中心になって建国したものですから,既にカトリックによる宗教強制がなくなっていて,軍だけが恐れるべき対象でしたから、軍だけを市民が規制すべき対象になって来たのです。
我が国には,米軍占領を通じてシビリアンコントロール思想がはいって来たので、シビリアンコントロールと言えば軍に対する文民による抑制しかイメージ出来ないのはこの差によります。
タイやエジプトその他で軍事政権が生まれると、すぐに制裁をしたがるアメリカの短絡的発想の基礎がここにあります。
アメリカによる日本軍国主義批判(日本人分断政策)に対する疑問から、16年12月29日以来軍国主義とは何か?その根底にあるシビリアン論に関心を持ってこのリーズを書いて来ました。
シビリアンコントロ−ルがないと戦争になり易いと言う信仰は本当か・・シビリアン・・市民の内包である商人・産業資本家こそが近代の大規模戦争の原動力になって来たのではないか?
重商主義以来絶対王政との二人三脚(フランス)その後の多くの民族国家による政府と一体化させて国際市場を求める・・シビリアン自体が帝国主義戦争の原動力になって来たことを書いて来ました。
歴史の一コマでしかない,「シビリアン概念」を田舎者が?有り難がって時間軸や場所の特性を越えた普遍的な価値と誤解しているのではないかと言う意見です。

フランス革命3と中韓露の財政危機対応への教訓

昨日紹介したようにフランスでは,財政改革が暗礁に乗り上げて,収拾のつかない状態打開のために三部会を開いたものです。
戦費調達のための議会招集はうまく行かないで革命に発展することは,イギリスの2度にわたる革命の教訓から,フランスでも良く知っていた筈ですが,敢えて三部会招集の轍を踏んだのは,フランス王家は貴族と聖職者から税をとろうとしていて市民を対象にしていなかったので,うまく行くと思ったからではないでしょうか?
この経緯から国王は当初聖職者・貴族等と第三身分との仲裁者的立場でしたから、国民公会の最初の決定事項は立憲君主制であり,教会財産の没収・国有化決定だったことを12月17日に紹介しました。
最初は三部会の議決方式(部会別か全体合算決議か)で市民と貴族聖職者連合と揉めた争いが切っ掛けで、第三身分が国王の招集がないのにテニスコートに集まる事態(国民公会の前身)に発展し,次第に騒ぎが大きくなって行きました。
貴族と聖職者に対する増税が元々のテーマだったのに,革命騒動進展の結果貴族層がうまく生き残って,聖職者と王様だけが引き摺り下ろされて終わった・・今になっても貴族層が生き残っているのですから,宮廷の権謀術数下で生き残って来た才覚を活かした政治力は大したものです。
我が国では,古代から(信長時代の近衛前久)戦前の近衛家に至る藤原氏と応仁の乱以降生き残って来た細川家(明智の謀反の危機や関ヶ原でもうまく切り抜け,明治維新では薩長土肥政府に参画し・20年ほど前の細川元総理は近衛文麿の孫)のような能力です。
16年12月20日過ぎ頃に日経新聞連載のファッションデザイナー高田賢三の「私の履歴書」では,同氏のパートナーの紹介部分で貴族が現在も生き残っている状態が紹介されています。
イギリスに比べて貴族層が厚かったことや貴族自体が既に資本家として活躍していたことも原因でしょうし、民間の力まだ弱くて貴族層との共存が必要だった可能性もあります。
元々国王と二人三脚で世界展開していた筈の商人が植民地戦争でうまく行かなかったからと,最後に国王を処刑する方に回るのは変な結果ですが,絶対王政と協調する重商主義の限界・・産業脱皮の限界に不満が出て来た・・保護者的?国王が不要になって来たのでしょう。
現在国際政治で言えば,中ロ等地域大国が国威発揚による内政失敗の誤摩化しが効かなくなったときに,どのレベルで民間が不満を持っているかによってその後の変化が決まって来ます。
韓国で言えば,歴代政権による国民不満逸らし目的で毎回反日批判していても、これまで日本が反撃しなかったので、これで溜飲を下げて政権満足度が上がる国民レベルでした。
こう言う赤ちゃんのような低レベル国民の場合、当てが外れると大変です。
朴政権も歴代政権の成功体験そのままでやったところ安倍政権の反撃で失敗に終わったのですが、朴政権が反日の旗を降ろすしかなくなると・・(国民はがっかりしたでしょう)突如朴大統領降ろしの嵐になって来ました。
当然次の大統領野党候補のスローガンには「日韓合意破棄」が掲げられていますし、数日前には釜山の日本領事館前に慰安婦像を建てる許可をしたと報道されています。
中ロのように「自分らのレベルはこんなもの」と達観できない・・まだまだこ反日を繰り返すしかないのでしょう。
中ロも中進国の罠を抜け出せなくて国内不満を逸らすために対外威信発揮に生き残りをかけていたように見えますが,(シリアで成功しても次々と手を広げることは出来ないので)威信発揮することがなくなると国民がどう出るかはフランス革命同様に国民レベルにかかって来ます。
ロシアではソ連崩壊後民主化・自由化して大失敗した経験があり、(実はロシア革命自体・・農奴解放などして行ったことが,逆に大貴族の反発を受けて命取りになったようにも見えます)このときにプーチンのような強力指導者がもしも出なかったら[アラブの春」のような大混乱に陥っていたと思われます。
この経験から,資源安による財政危機程度の不満でプーチン体制を変えても人民レベルが先進国水準に追いついていない以上どうにもならない・強権支配体制を変えようがないのが実態でしょうし、国民もこれを知っていると思われます。
資源安による経済低迷は仕方がない・・政治責任ではないと国民が達観しているとすれば、プーチンが焦って(経済が苦しいのにむだな軍事費を使って)国威発揚をする必要がなかったことになります。
国威発揚行為が行き詰まったときには,この点に関する(無駄なことに国費を使わないで欲しいと言う)国民批判が起きる可能性がある・・フランス革命で言えば[王様の見栄で戦争しないで!」)ということになるのでしょうか。
同じことは中国にも言えて,国内不満逸らしが本当に必要でやっていたとすれば,対外示威行為が行き詰まると大変なことになりますが,(中華の夢再現は)政府が勝手にやっていただけで,人民の方は冷めた目で見ていたとすれば,行き詰まってもそれ自体で大政変になりません。
アラブ世界のように無茶苦茶にしても意味がない・・歴代王朝末期に毎回繰り返したような大流民化時代を百年規模で繰り返さない・・少しは智恵がついたのではないか、ロシアが完全民主化するのは無理と分ってからプーチンを選んだように、その程度の智恵があると思われます。
中国人民も軍事費(岩礁の埋め立て工事などは世界で孤立する上に莫大な無駄です)に無駄遣いされたことの責任をとって欲しいかも知れませんが,独裁制自体をやめる必要がないと思っている可能性があります。
中国は先端技術を盗む追いつき型社会・・国策によるサイバー攻撃等で先端技術を盗んで追いついて来た側面があります。
今は,まだ完全自由化・民主化しても世界トップに立つのは無理があることは自明・・どうせ5〜6番手に近づく程度がやっとならば、個人で技術を盗むより国策でやって欲しい・・もう少し先端技術剽窃で追いついて行く方が特だと言う判断と完全自由化とどちらを選ぶかまだ分りません。
中国がトランプ氏に脅されて海外膨張よりは,内政に向き合うしかなくなってある程度自由化するしかないとしても、国策による組織的剽窃が必須とした場合,フランス革命型・・貴族に代わる共産党幹部の特権を前提にした国家関与を大幅に残した自由主義社会を目指すことになるでしょう。
これが為替を完全自由化出来ない原因(実力・WTOで非市場国認定を受けている実体的基礎))であり、完全自由化しないのは,中国社会能力に適した政策選択でもあります。
こうして見ると中国は内政的にはレベル相応の適正な政治(経済政策)をしているのですから,矛盾があるのは対外的に実態以上に威張り過ぎる矛盾だけ修正すれば済むことになります。
評論家の多くは完全自由化こそが経済発展に必要であるから,自由化を半端にしたままで政府がところどころつまみ食い的介入しているから,無理・限界が来ている・・完全自由化=共産主義経済統制経済の矛盾を認めるしかない→共産党一党支配の終焉しかないだろう式のニュアンスの主張が普通です。
いわゆる神の手・市場が決める方が優れている意見自体に私も反対しませんが、社会の中でもいろんな組織がある・家族で言えば「優先順位が弱い者順」になるなど市場の自由競争原理とは違った原理があるように・・構成要素の違う部分社会ごとに違った決定仕組みの方が良いこともある・・小学1年生に「何でも自分らで決めなさい」と言っても学級運営はうまく行かない・レベルに応じた自治が必要なように・・これがうまく行く社会とそうはいかない社会があることも事実として受入れるしかないでしょう。
国家単位で見ても小学生レベルから働き盛り〜老成したクニまで発展段階の違うクニがあります。
1直線に伸びて来た中国経済には無理が来ているのはそのとおりですが,だからと言って(ソ連崩壊後のように)無防備(抵抗力もないのに)に完全自由化さえすれば解決するものではありません。
私の考えでは完全自由化しないから中国がダメになりかけているのではなく,1直線の成長路線が曲がり角に来た・・修正が必要と言うだけであって,ここで大幅な自由化したもっと無茶苦茶になる・・先進国の餌食になるだけだから半自由化でも良いから,自己能力が低いこと認めて,[この程度で勘弁して下さい」とやる方が合理的です。
ハンデイをつけてもらって堂々と悪びれずやる方がなんぼか気持ちが良いでしょうし、周辺も協力してあげようとなる筈ですが、謙虚姿勢に転じるには沽券を重んじる意識が邪魔になります。
中韓共に国際社会で生き難さを助長している原因・謙虚さの逆張り・沽券意識が邪魔している点では共通です。
沽券や格式にこだわるならば相応の公徳心・礼儀があればバランスが取れますが,格式に見合う道義心が皆無・道路で痰を吐き,技術その他盗み放題・・道義心が最低のままで沽券・・大国意識だけ振り回す・・文字どおり形式だけで威張る沽券意識ですから世界で嫌われているのに気が付かないのです。
GDPその他指標をかさ上げして,威張り散らすのは百害あって一利無し・・・「今のところこれしか出来ない」ので教えて下さいと言えば済むことです。
数字で言えば実態以上のGDPや外貨準備等の自慢〜SDR採用成功などが端的に背伸びし過ぎを現わしていますが,「かさ高さ」をやめて低姿勢で教えを乞うように修正すれば廻りとうまく行き、実利もあって何の問題もありません。
個人もクニも原理は同じ・・実力相応に自己表現出来るようになれば良いだけのことであって、これが出来ないで実力不相応に空威張りしていると世界・友人との軋轢が絶えません。
これが洋の東西を問わない礼儀作法と言うものです。
若い頃には自信喪失と過剰の振幅が大きいと言われますが,クニや社会にとっても同じことが言えます。
民族、先祖の誇りを持ち自信を持って生きるのは(植民地支配で失った民族の誇りを取り戻し再起するエネルギー源は必要で)良いことですが、それを振りかざして近隣をバカにするようになると行き過ぎです。
何ごとも行き過ぎを押さえるのは余程の智恵がないと難しいものです。

重商主義政策と植民地争奪戦3(フランス革命2)

中世の農業+キリスト教ミックス秩序からルネッサンスを経てスペイン〜オランダ・新教の発展・宗教戦争の世紀を経て、宗教と切り離した合理主義・重商主義を基本にする世界秩序再編成の動きが,いわゆる英仏第二次百年戦争であったと思われます。
宗教からの切り離し・合理主義精神の進展度合いで見ると,イギリスがキリスト教の影響が薄かったことから,徹底化できたのに対し,フランスが半端であったところが,勝敗を分けたと言えます。
結果から見ると,合理主義と味覚音痴・・芸術・文化能力と反比例する・・仕方がないのかも知れません。
以下英仏第二次百年戦争と言う長期スパンで見直してみましょう。
http://www.y-history.net/appendix/wh1002-032.htmlによると英仏第二次百年戦争は,1815年のナポレオン戦争終結時までとされています。
「17世紀に主権国家を形成させたイギリスとフランスは、イギリスは立憲王政、フランスは絶対王政の違いはあったが、いずれも重商主義経済政策をとって植民地獲得に乗り出した。17世紀中頃から両国の東インド会社は直接的に抗争を開始し、18世紀になるとアメリカ新大陸とインドにおいてたびたび戦闘を展開、さらにそれはヨーロッパでのスペイン継承戦争、オーストリア継承戦争、七年戦争などの戦争と連動していた。 インドにおいては、ムガル帝国の分裂と弱体化にともない地方政権の対立抗争に巻きこまれながら、1744年からのカーナティック戦争、1757年のプラッシーの戦いなどが戦われた。インドでの戦闘は最終的にはイギリスが勝利を占め、新大陸でもアン女王戦争、ジョージ王戦争、フレンチ=インディアン戦争の結果、やはりイギリスの優位のうちに終わった。」
「 第2次百年戦争とは、1689年のウィリアム戦争から始まった、イギリスとフランスの植民地(主にアメリカ大陸とインド)における勢力拡大の争いと、ヨーロッパにおける利害の対立が結びついた戦争で、ナポレオン戦争でイギリスが勝利した1815年までをいう。」
「1775年にアメリカ独立戦争が起こった。フランスは、アメリカ独立戦争が始まると、当初は情勢を見ていたが、アメリカ有利と判断した1778年に参戦し、海上でイギリスと戦い、戦後は西インド諸島トバゴ・セネガルを獲得した。しかし、長期にわたる英仏の抗争は、宮廷財政を困窮させ、それを機に貴族に課税をしようとしたブルボン王朝ルイ16世の統治に対して、貴族のみならず中産階級、農民が立ち上がってフランス革命の勃発となる。このように、英仏両国の植民地抗争は、両国に大きな影を落としている。」
英仏植民地争奪戦争とアメリカ独立戦争の関係,フランス革命については日本の学校教育ではそれぞれ別々の内政理由で自然発生的に起きたかのような羅列的説明をしています。
(私だけそのように誤解して来たのかも知れませんが・・)
植民地争奪では英仏7年戦争をクライマックスとしてあらかた勝敗がついたことも別の流れ教えられますが,これらは時間的に繋がっていて植民地争奪の勝敗があらかたついた直後にフランスによるアメリカ植民地人への不満たき付け・・内部不和の働きかけで宿敵イギリスの力を殺ぐ工作が行なわれ成功した結果アメリカの反乱・・独立運動が起きたと見るべきです。
上記記事では,フランスはアメリカ独立戦争に直ぐには参戦しないで情勢を見ていたとありますが,アメリカが対日宣戦布告しないで,裏で蒋介石や共産党軍を応援していてその後正面から日本叩きに転じたのとやり方は同じです。
人権などを煽った手前反乱軍側が勝ってもう一度「自分に支配させろ」とは言えずお祝いとして「女神の像」を送って終わりになりました。
独立戦争参加では膨大な戦費を使ったでしょうが、何の戦利品もなかったことになります。
この財政負担が次のフランス革命の直接の原因になります。
年末30日に書いたように産業革命で遅れていたフランスは国際競争力で劣っていたので,アメリカの独立に協力した「恩着せ」だけはアメリカ市場に食い込めません。
この辺は,ナポレオンの大陸大陸封鎖令が失敗した原因と同じです。
フランス革命はアメリカでのフランスの工作に対するイギリスの仕返し・・裏での撹乱工作があったと(私の独断推測です・素人は無責任で気楽です)見るべきでしょう。
今で言えばウクライナ危機の結果,仮に数年内にロシアで政変や内戦が起きて直ぐにアメリカ軍が介入した場合,アメリカの画策を疑うのが普通ですし,ロシアの政変だけ独立に勉強しても意味がないことが分るでしょう。
フランスの本当の敵はイギリスなので,革命の混乱後ナポレオンは大陸を制圧すると大陸封鎖令(イギリスのアメリカ大陸へのフランス製品輸入禁止の仕返し?)を何回か発してイギリス封じをするのですが,最後はナポレオンの敗退で終わります。
ウイキペデイアによると以下のとおりです。
「大陸封鎖令(たいりくふうされい)は、フランス帝国とその同盟国の支配者になった「ナポレオン1世が、その当時産業革命中のイギリスを封じ込めてフランスと通商させてヨーロッパ大陸の経済を支配しようとして1806年に発令した経済封鎖命令である。ベルリンで発令されたのでベルリン勅令(le décret de Berlin)とも呼ぶ。」
大陸諸国は豊かな経済力をもつイギリスと通商ができなくなったため、経済的困窮を招くことになってしまった。この封鎖はある程度の成功を見たが、その同盟国は恩恵を受けることができず、不満や不平がのし掛かっていくこととなった。」
ブルボン王家は,30年戦争で大金を使ったのに何の得るところもなくおわって植民地を失い,その後更にアメリカ独立運動を画策し参戦したのですが、独立を助けたものの経済的に得るものが皆無だったので却って財政逼迫してしまいました。
フランス革命は,財政赤字穴埋め・・増税のために1788年7月の三部会招集に始まりますから,一見アメリカ独立戦争(1775年4月19日から1783年9月3日)終結後5年もたっているようですが,フランスは30年戦争による財政赤字穴埋めのためにアメリカの独立戦争開始の前年74年には財政改革に乗り出しています。
この改革がうまく行かないで30年戦争だけでも大変な状態になっていた・戦争に事実上負けたのでイギリス以上の財政逼迫であった・・「自分のアタマの蠅も追えない」のに同時に独立戦争に肩入れ(援助)して独立させる成果を上げたのが命取りになったと見るべきでしょう。
プーチンが,原油・資源安による財政難を誤摩化すために、クリミヤやシリアで果敢な行動をして国民や世間の不満をそらしていますが,苦しいときの逆張り財政負担が中期的には彼の足を引っ張ることになると思われます。
基礎状態の改善は社会構造変革が必要で難しいのですが,地域大国が周辺の弱い国相手の恫喝外交は圧倒的戦力投入すれば間違いなく短期的成果が出ます。
ただ,赤ちゃんお腹が痛くて泣いているときにガラガラっと音を出して気を引いても一時的でしかないと同じで,基礎体力・経済に無理があって国民が苦しいままであるときには,(国民は熱しやすく冷めやすい・・)次々と冒険行為を続ける必要があります。
今は超大国アメリカがいるので,ナチスのように際限ない侵略・膨張を続けることは出来ないでしょうから、トランプ氏登場によってプーチンの対外勇ましい行動も終わりでしょうし,中国の海洋膨張も歯止めを掛けるしかないでしょう。
中ロ共に手詰まりになって誤摩化しがきかなくなって・・いつかは経済状態ありのママになるしかない・・国民不満が再自覚される・赤ちゃんがまた泣き出すのと同じで胡麻かしていた分だけエネルギーが高まります。
ウイキペデイアによると以下のとおりです。
「1780年代、フランスでは45億リーブルにもおよぶ財政赤字が大きな問題になっていた。赤字が膨らんだ主な原因は、ルイ14世時代以来続いた対外戦争の出費と宮廷の浪費、ルイ15世時代の財務総監ジョン・ローの開発バブル崩壊など、先代、先々代からの累積債務がかさんでいたことで、それに加えて新王ルイ16世が後述の財政改革の途中にアメリカ独立戦争への援助などを行い、放漫財政を踏襲したことで破産に近づいた。当時の国家財政の歳入は5億リーブルほどであり、実に歳入の9倍の赤字を抱えていた事になる。
そこで国王ルイ16世は1774年ジャック・テュルゴーを財務長官に任命し、財政改革を行おうとした。第三身分からはすでにこれ以上増税しようがないほどの税を徴収していたので、テュルゴーは聖職層と貴族階級の特権を制限して財政改革を行おうとした。しかし貴族達は猛反発し、テュルゴーは十分な改革を行えないまま1776年に財務長官を辞任する。
ルイ16世は次に銀行家ネッケルを財務長官に任命した。ネッケルは反対の大きい税制改革よりも構造改革によるリストラと募債によって財務の改善をめざしたが、失敗して赤字幅を逆に増やし、続いて免税特権の廃止によって税務の改善を図ったが、特権身分の反対にあってやはり挫折し、1781年に罷免された」

免責事項:

私は弁護士ですが、このコラムは帰宅後ちょっとした時間にニュース等に触発されて思いつくまま随想的に書いているだけで、「弁護士としての専門的見地からの意見」ではありません。

私がその時に知っている曖昧な知識を下に書いているだけで、それぞれのテーマについて裏付け的調査・判例や政省令〜規則ガイドライン等を調べる時間もないので、うろ覚えのまま書いていることがほとんどです。

引用データ等もネット検索で出たものを安易に引用することが多く、吟味検証されたものでないために一方の立場に偏っている場合もあり、記憶だけで書いたものはデータや指導的判例学説等と違っている場合もあります。

一言でいえば、ここで書いた意見は「仕事」として書いているのではありませんので、『責任』を持てません。

また、個別の法律相談の回答ではありませんので、具体的事件処理にあたってはこのコラムの意見がそのまま通用しませんので、必ず別の弁護士等に依頼してその弁護士の意見に従って処理されるようにしてください。

このコラムは法律家ではあるが私の主観的関心・印象をそのまま書いている程度・客観的裏付けに基づかない雑感に過ぎないレベルと理解してお読みください。