左翼系は戦前戦後の民族国家内部に浸透して民族国家を内部崩壊させるコミンテルン思想系統を継承している関係で(国共合作を利用して国民党内部浸透に成功しルーズベルト政権位に深く食い込んだように)内部浸透作戦は巧妙で板についているように見えます。
野党がコミンテルン本家の共産党との共闘を警戒するのは主に(内部浸透されて乗っ取られる心配)この理由によります。
http://www.y-history.net/appendix/wh1501-108.htmlによれば以下の通りです。
コミンテルン/第三インターナショナル/共産主義インターナショナル
「1919年結成の国際的な共産主義運動を指導する共産主義インターナショナル。第三インターナショナルともいう。1920~30年代の国際政治にも大きな影響力をもっていた。当初は革命を指導する機関として動いたがドイツ革命の失敗などから、次第に支援機関という性格に変化し、また1935年から人民戦線戦術に転換した。
コミンテルン Comintern は、共産主義インターナショナル(Communist International)の略。第3インターナショナルともいう。帝国主義と闘う国際的な共産主義運動を志向したレーニンによって提案され、1919年3月に結成された。第一次世界大戦勃発に伴い、各国の社会主義政党が自国の防衛戦争を優先して第2インターナショナルが崩壊したことの反省にたち、労働運動や社会主義運動の国際連帯にとどまらず、各国の共産主義政党が明確に革命を志向するための世界共産党として組織された。その設立を呼びかけたロシア共産党のレーニンの指導権が圧倒的に強い組織となった。1921年7月にはその下部組織として、モスクワでプロフィンテルン(赤色労働組合インターナショナル Profintern )が社会民主主義的な国際労働組合連合(アムステルダム)に対抗して結成された。 → 国際労働運動 第1インターナショナル 三つのインターナショナルの違い」
日本では昨日歴博展示に対する抗議行動で紹介したように声が大きい方が勝ち・・論理の正当性を冷静に主張するのではなく・・現場で抗議を繰り返して現場を混乱・困惑させるなどによって、主催者が困って結果的応じる・・主張を通して来た日常がうかがわれます。
窓口で騒いで公務員などが辟易させられるパターン・・生活保護あるいはエセ同和などが知られていますが、わずか10数人規模でも全国いたるところで順次行動すれば、日本中が彼らの思う方向へ強制誘導させられます。
結果的にどこへ行っても彼らの主張が出ていて一見世論を制したかのように見えても、実は上滑りで「足が地についた支持」を受けていないので、長期的にはその咎めが出てきます。
慰安婦騒動が顕在化した時の韓国主張要旨は、「すでに世界で勝負がついている今さら何を言っているのだ!」とバカにした意見(放射能半減期研究で書きましたが不都合なことは徹底してバカにする運動)で、議論自体を受け付けないものでした。
彼はシコシコと内部浸透しておいて、何回も(民主「的」)機関決定を経ているから、今更そんな議論をすること自体許されないという手法です。
弁護士界内部も重要テーマについて「会員から直接アンケートをとるべし」という遠慮がちな!意見すら抹殺されてしまう現状をみると)この種の「民主的」汚染が支配しているように見えます。
世界的に言えば安倍政権成立当初盛んに歴史修正主義者というレッテル貼りに精出していました。
自己主張に合わないと抗議の繰り返しで修正させていく先々で表向き思想統制が出来上がりますが、嘘で塗り固めた宣伝.苦情をいくら流布していても、「王様は裸」という子供の一声で虚構性が亜ガラガラっと崩れるようにいざとなれば真実の強さには勝てません。
「侵略の事実を直視してより良い日本になり沖縄と親密になるべき」という意見でしょうから反日思想によるのではないのでしょうが、島津家による沖縄侵略を強調し、沖縄でそういう教育を繰り返すことが、民族融和に資すると思う人が少ないのではないでしょうか?
我々法律家の世界では、例えば首や胸など枢要部を刺して置いて死ぬとは思わなかったと言い張っても裁判実務は殺意を認定するルールです。
政治の世界では、声の大きい方が勝ちみたいな変なルールがあって合理的判定不能ですが、彼らの主張が「強弁」に過ぎないのかどうかは、小選挙区では沖縄でしか当選できない社民党支持率が2%ギリギリで長期低迷し消滅しそうになっている事実が証明しています。
同じく韓国でこんなにひどい「植民地支配」をしていたという反省?のためのシンポジュームを開いたり韓国でそのような教育を繰り返すことが日韓との融和に役立つのでしょうか?
(日本が資金投入して教育や産業振興や身分制度廃止などのプラス面・日本が資金的には搾取どころか持ち出しでした・この辺は北海道や沖縄に関しても同じですが、これに一切触れずにうまくいかなかったた点を針小棒大に教育してもその1部事実があったことに関してはまちがっていません。
親子でも百に一つは思い出せば、あの時こうしておけばよかったと反省する場面がありますが、そこだけ取り出してひどい親だったということはないでしょう。
歴史というものは、自己の都合に合うものを探せば一つや2ついくらでも探せます。
どんなに理想的社会を目指しても、植民地でなくともどこ国でも粗暴警官もたまにいるでしょうし、不祥事もあるし地位を利用した不当行為が皆無ではないでしょう。
政治も百%完全な政治はあり得ないので、部分的不祥事だけを取り出すはなく、トータルでどちらの政治家がより良いかで選択して行くものですから、アラ探しで失脚させるのはスターリン得意の粛清政治を「民主的?」メデイア利用による焼き直し版です。
今中国で盛んな党中央の方針に反したとか汚職摘発名目の粛清も同じです。
野党の政治スタイルが本来の政治論が一切なく(せいぜい「日本死ね!」というばかりで民進党ならどうするという政策がなく)アラ探しばかりなのは、スターリンの粛清政治を理想としているからでしょうか?
歴博で問題になった沖縄で「軍による自決指示」があったかどうかですが、暦亜h区の展示までいちゃもんつけてこれに抗議しているグループは多分「米軍に殺されたのではなく日本軍に殺された」というイメージ刷り込み効果を期待しているのでしょうか。
http://www.peace-museum.pref.okinawa.jp/heiwagakusyu/kyozai/qa/q2.htm
沖縄戦Q&A
Q2 沖縄戦による死亡者数は?
A2 200,656人〔沖縄県援護課発表 1976年(昭和51)年3月〕
日本 188,136人(沖縄県出身者122,228人(一般人94,000人、軍人・軍属28,228人)
(他都道府県出身兵 65,908人)
米 12,520人
https://matome.naver.jp/odai/2134042141300132201
1944年10月10日、沖縄戦の前哨戦 として10.10空襲があった。 この空襲で旧那覇市街の90%が焼失する。旧那覇市内の養蚕試験場にあった司令部も焼け 、首里城の地下に司令部壕が掘られる事になる。その壕を掘ったのが学徒達であった。
米軍の上陸地点からこの首里城の司令部までの首里以北を中部戦線と呼び、司令部が首里陥落を目前に 南部に撤退したため、多くの住民が戦闘に巻き込まれてしまった、首里以南の戦いを南部戦線と呼んでいる。 ひめゆりの悲劇もこの南部地域で起きた。 ひめゆり学徒は何度も映画化され有名なためこの南部地域こそが沖縄戦の主戦場であったと思われている ことが多い。しかし南部戦線は米軍にとっては敗残兵狩りに等しい戦いであり、 米軍の上陸地点から首里城までの中部地域こそが日米が死力を尽くして戦った沖縄戦の主戦場である。
米軍は上陸地点である北谷から首里城までの10キロを進むのに50日間かかっている。沖縄守備軍は この間10万人の内7万4千人(主戦力のほぼ7割)の兵力を失っている。日本兵の死者は1日あたり千人以上にもなる、太平洋戦争もっとも激しい戦いといわれるゆえんである。
米軍兵士により強姦された女性数を10000人
収容所および米軍の占領地域では、米軍兵士による住民への暴行や強盗行為が多発した。無抵抗の住民を背後より射殺するなどの蛮行が報告されており、住民女性への拉致・暴行・強姦も多数証言されている[52]。戦争の終結後も暴行は続き、たとえば、「南部戦線の戦闘が終結してからはとくに米兵たちは横暴になり、昼夜を分かたず強姦事件が頻発していた。収容所では米兵がおそってくると、酸素ボンベの鐘をたたいて女性たちを避難させるさわぎが続いた。」とも[57]、「戦時中も戦局が追い詰められた状態になると、アメリカの軍隊そのものが集団で村の女性たちを襲ったといいます。なかには夫の目の前で犯された女性もいます。」ともいわれる[58]。米軍兵士により強姦された女性数を10000人と推定」
数日前に日経新聞で連載中の「私の履歴書」で湯川れい子氏が敗戦時に母から懐剣をわたされ米軍に辱めを受けたら自決するようにとその作法を教えられたと書いています。
軍の指示あるいは教唆の有無ではなく基礎にある深い愛情を「ひどい親、ひどい軍だった」という評価を押しつける方がおかしいのです・沖縄人に対する差別や、軍が非道な強制をしたのではなくこういう教育が本土内で普通にされていたのです。