ロシアの脅威6(多国間交渉のメリット)

日本軍が南方方面へ支配拡大していった現地でも末端兵士にいたるまで無法なことしなかった・・自分が飢えて死のうとも現地食料調達や個人的略奪を一切しなかったのは日本の支配者が民の福利優先政治を実践していたからです。
兵の末端に至るまでみんなが自律的にルールを守っていたのは、日頃から上に大事にされていたので自分が上・支配者に立てばどんな野蛮なことでもできるという夢・・そのような理不尽な被害を普段受けていないからです。
(インパール作戦の失敗・糧食の補給準備がなかったことによると言われていて・・その結果死屍累々・・その多くが餓死者です・・が現地食料調達しなかったのです)
庶民に対する過酷な支配をしている社会では、戦争に勝てば権力層は支配地を増やせるし日頃圧迫されている人民・戦士には恩賞の分配として捕虜や敗者の女性に対して日ごろ自分が受けている非人道的扱いの何倍もの非人道的行為を奨励し鬱憤晴らしに利用する仕組みになります。
ローマでは、戦争に勝てば負けた方の民族を家畜並みの境遇に落とすやり方が普通であったのは、それだけ民族内の上下支配が過酷であったことを表しています。
具体的イメージはアメリカ映画で有名なベンハーの物語でしか知りませんが、アメリカ映画ですからローマ支配のマイナスを強調するために作ったものではないでしょう。
権力さえあればどのようなひどいこともできるという価値観・・国内過酷支配のガス抜きを兼ねた領土拡張戦争の場合には、侵略した場合に人権蹂躙が激しければ激しいほどその目的を満たせます。
中国の歴史では、戦いに勝つと相手武将をトコトンいたぶるのが常態化しているのは、勝てば・権力を握ればどのような非道・残虐なこともできることを配下武将に誇示する意味もあったのでしょう。
日本では天皇制が象徴するように権力を握り権力に近づけば近づくほど「空」に近づくのを理想とする社会ですから根本が違っています。
民間企業でもトップに近づけば近づくほど腰が低くならないとやっていけません。
スポーツであれ戦争であれ、出世競争であれ勝てば勝つ程「上に立つべきものの徳」を示さねばならないのが我が社会です。
ソ連や中国の敗者に対する想像を絶する暴虐の歴史は、日頃理不尽な不利益を受けている弱者には、支配と被支配の入れ替わり願望・貧者に宝くじ願望が強いのが普通ですから、日頃から末端兵士や少数民族の鬱屈支配を前提にして、その解消策に利用していたと見るべきでしょう。
ソ連軍の満州 侵入時で言えば、戦争相手を支配下におけば暴虐行為を出来ることを餌にして下層階級や少数民族を使い捨て要員として戦争に駆り出しているのですから、当たり前の恩賞だったのでしょう。
このように見ていくと大災害や戦乱で警察力のなくなったときの略奪行為の多さやレベルによって、(立派な人権保障制度があるかどうかではなく)その国の下層階層の置かれている社会的地位・・支配層のしている政治レベルが反映されていることが分かります。
ところで、トランプ氏に限らずアメリカが基本的に多角交渉を嫌がることをトランプ氏の取引外交のテーマで書いたことがありますが、多角交渉では複雑な思考力が必要というだけではなく、強者の論理を通しにくくなるからです。
この20年ばかり多国間交渉時代に入って、アメリカがせっかく世界一強なのに強者の論理を貫徹できないことが続いたことに不満を出し始めたと見るべきでしょう。
ロシアの対馬上陸事件で解決をみたのはイギリスのお陰でしたが、江戸幕府は多角交渉の有利さを引き出そう(列強間の条件競争を引き出す)とした・・その成功例と解釈すべきです。
我が国の教育では、江戸幕府の失敗を言いたてたい明治政府の影響で不平等条約ばかりに焦点を当てていますが、その時点では早く条約(領土支配範囲の確定)を結ばないとロシアのように実力占拠のリスクに迫られていた点を重視すべきです。
今のTPP協定の賛否同様で何事も有利な面とマイナス面があるのが当然で、その一部不利な面だけ取り出して批判するのは間違いです・条約や契約は一方にだけ有利な条件はありえない・・相互関係です。
幕末に西欧列強との条約交渉中に内容に一部不満があっても当面西欧列強が押し寄せている中でもロシアの強引な実力行動を日本は独力で制御する方法もない状態でした。
対馬でさえ上陸阻止が事実上無理であったのですから、もっと遠隔地で和人のほとんどいない北海道への事実上の侵入・移住を阻止するのは不可能であったでしょう。
日本は白村江敗戦後の北九州への防人動員や中世の元寇防衛戦でもすべて外敵は九州方面からくる前提でした。
日米戦争最後の決戦も5月の沖縄防衛戦から始まっています。
九州には古代から地元武士団が集積していて地元武士団を主力として各地から応援に入る仕組みですし、幕末でも西欧列強が進出してくる正面進路には、薩摩や長州などの強力地元武士団があったなど、歴史的に西南方面での防備経験が豊富です。
しかし、北海道方面からの敵攻撃を古来から全く想定していなかったので防備は手薄どころか、北海道北辺の地理さえまともに理解出来ていない状態(これがのちの間宮林蔵らの活躍になるのです)でまるで備えのない状態でした。
地元で主力になって戦ってくれる勢力のない(当時北海道は農耕地に適さない状態でアイヌ人と言うより人ががまばらにしか住めなかったので知行として石高表示しなかったと言われ、〇〇石待遇という扱いでした。
松前藩の主たる収入はアイヌの漁猟や毛皮等の交易管理による収入だったようです。
ウィキペディアによると以下の通りです。
「江戸時代初期の領地は、現在の北海道南西部。渡島半島の和人地に限られた。残る北海道にあたる蝦夷地は、しだいに松前藩が支配を強めて藩領化した。藩と藩士の財政基盤は蝦夷地のアイヌとの交易独占にあり、農業を基盤にした幕藩体制の統治原則にあてはまらない例外的な存在であった[1]。江戸時代後期からはしばしば幕府に蝦夷地支配をとりあげられた。」
結果的に・・本土の武士・・農地確保に命をかける一所懸命の精神とはおもむきが違っていたのは当然です。
松前藩の業務は交易管理業務中心である結果?松前藩の武力は貧弱で・明治維新後新政権側についたために旧幕府軍・五稜郭軍の攻撃を受けて籠城した兵はわずか60名ですし、松前付近に集中しているので遠隔地の知床方面で、ロシアと戦う主力戦力には到底なりません。
知床周辺に居住するアイヌ人自身が(九州地元民と違い)戦闘的気質の弱い職業集団ですから、(だから松前藩の保護下にあったのです)戦闘要員供給源になり得ません。
幕府としては多国間交渉に持ち込まないでロシアと1対1の領土交渉ではどんどん北海道に上陸して住み着かれるのを実力阻止できないのでどうにもならない・・当時の日本は押しまくられてしまうのは目に見えていました。
そこで先行的にアメリカとの基本的取り決めを原則としてその他諸国がその例に倣う方式を選んだのは、国際情勢を冷静に睨んだ賢明な選択でした。
ちょっとした不平等な取り決めはその後次々と条約改正交渉が成立していきましたが、領土を割譲するような条約を結んでしまってから、平和な交渉で取り返すのほぼ不可能になります。
これが国際関係のゆるがない大原則ですから、税率などは後でどうにでもなるものですから、譲って良いものと譲ってはならないものとは大きな違いがありました。
その時点ごとの優先順位を決めることが肝要です。
関税や裁判権などの修正交渉は一定の期間かかるとしても、国際交易力の実力アップ次第であとででどうにも変更できる項目です、
そもそも・・・交易条件を条約で決めても貿易品は生き物で交易品の優劣がすぐに変わっていくのでこの変化に合わせて修正交渉を行うのが原則です。
その意味では領土保全の緊急性の前に交易条件や一定範囲の治外法権を譲ったことを、あたかも大失敗のように宣伝教育する明治政府系統の学者はフェアーではありません。
この数十年で見ても、毎年のようにWTO交渉〜FTA、EUとのEPA交渉、TPPその他年中行事のように関税(交易条件)交渉をしているのを見れば明らかです。

ロシアの脅威6(シベリア連行の地獄)

ソ連による満州侵入・シベリア連行に関するウイキペディア等の解説です。
いきなりの侵入による混乱時にどれだけ殺され、どの程度連行されたのか、シベリアで何十万あるいは百万以上殺されたのかすら日本では未だに分かっていない・・満州で家族が襲われた時に抵抗して殺された人が何人いたのかすらわからない・・日本側の悲惨な実態がわかります。
中国残留孤児の多くは満州での孤児ですが、逃避行で親とはぐれたというニュースしか出ませんが、(大火災水害等の急激な惨事の場合、外出していたなどで親子連絡が取れなくなることありますが、戦争が終わってからの命がけの日本引き上げ時にkどもや乳児を手放して迷子にしてしまうなどは考えられない・・大量の乳幼児が親とはぐれることなどありえません)そんなのはあっても万に一つもあるかないかで、どちらかと言えばソ連の悪行を表面化したくないマスメデイアの勝手な造語の疑いがあります。
中国残留孤児問題はソ連軍が両親を殺したり拉致していったあとで残された乳幼児を現地中国人が面倒を見たのが99%だっと思われます。
本格的に戦った日米・日中戦争の戦死者よりも、不可侵条約を締結していて戦う相手として想定していなかったソ連軍に殺されたり家財を強奪されたり強姦等の被害を受けた方が多いとは言えないまでも、アメリカに降伏した状態に乗じて戦国時代の野盗のように敗者・民族に襲いかかってきた状態です。
ソ連の恐るべき点は、軍人だけでなく一般人まで略奪強姦殺人連行等の対象になった点です。
シベリア収容所の状況は悲惨過酷さを極めたことがいろんな書物に出ていますが、9月16日(昨日の)日経新聞・毎週土曜日連載の「かたわらにいた人」の中に、収容所の過酷な状態を自分を動物のように「「生きる」という1点に純粋化するしか生き残れなかった精神状況がそれとなく紹介されています。
このような残虐非道なことがなぜ臆面もなく行い得たかの背景から見て行きましょう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%99%E3%83%AA%E3%82%A2%E6%8A%91%E7%95%99#.E7.8A.A0.E7.89.B2.E8.80.85.E6.95.B0
背景
ソビエト連邦では1920年後半頃から政治犯などの囚人に過酷な強制労働が課せられたが、これは労働力不足を補う側面もあった[3]。スターリン体制下の1930年代以降は強制収容所(ラーゲリ)の数が爆発的に増加し、強制労働の対象となる囚人も増加した。初期の労働環境は非常に劣悪であり、白海・バルト海運河建設などに動員された白海・バルト海強制労働収容所では1932年から1941年にかけての10年間で3万人近い死亡者を出し、死亡率が最も高い1934年には囚人の10.56%が死亡した[4]。
スターリンの捕虜観をあらわすエピソードとして、ポツダム会談でウィンストン・チャーチルが炭鉱労働者不足を嘆いた際に「ドイツの捕虜を使えばいい。わが国ではそうしている」と答え、4万人のドイツ人捕虜を本国に移送することをすすめた[5][6]。ヤルタ会談ではかつてドイツが賠償支払いのための外貨を市場で調達したため、世界的な貿易不均衡を生み出した問題(トランスファー問題)を回避するため、賠償は外貨や正貨支払いではなく、役務や現物による支払いで行われることが合意された[7]。この役務賠償の考え方は、捕虜の強制労働を正当化する理由ともなった。ソ連は1929年のジュネーヴ条約に加わっていなかったため、1931年以降独自規定として戦時捕虜の人道的な扱いを定めていたが、実際にはほとんど守られなかった。ポーランド侵攻以降獲得した各国人捕虜は389万9397人におよび、1949年1月1日の段階で56万9115人が死亡し、54万2576人が未帰還のまま抑留されている[8]。これらの捕虜の多くは内務人民委員部等の各省庁に貸し出され、その監督下で使役された。特にドイツ人の死亡率は高く、スターリングラード攻防戦での捕虜6万人のうち、帰還できたのはわずか5千人であった[9]。
抑留の決定
スターリンは8月16日には日本人を捕虜として用いないという命令を内務人民委員ラヴレンチー・ベリヤに下していたが、8月23日にはこれを翻し、「国家防衛委員会決定 No.9898」に基づき、日本軍捕虜50万人のソ連内の捕虜収容所へ移送し、強制労働を行わせる命令を下した[12]。8月16日にスターリンは、ヤルタ協定で約束されていた千島列島・南樺太の占領のみならず、日本敗戦直後に米大統領ハリー・S・トルーマンに連絡し、北海道の分割占領(留萌町(当時)から釧路市を結ぶ線の北東側と両市町を占領)を申し入れた。理由は、「日本によるシベリア出兵によってソ連は占領されたため、ソ連も日本の領土を占領しなければ、国民の怒りが収まらない」というものであった。しかし、トルーマンはこれを一蹴した返書を8月18日に送った。
占領地域の日本軍はソ連軍によって8月下旬までに武装解除された。この際多数の死傷者が出たという。また、このとき、日本人捕虜は内地への帰還を望んだが、ソ連軍は復員を認めず、すでに離隊していた男性も強引に連行した。
日本人捕虜は、まず満州の産業施設の工作機械を撤去しソ連に搬出するための労働に使役され、のちにソ連領内に移送された。9月5日の山田ら関東軍首脳を手始めに、日本軍将兵、在満州民間人・満蒙開拓移民団の男性が続々とハバロフスクに集められた。彼らは日本に帰れることを期待していたが、ソ連は捕虜を1000名程度の作業大隊に編成した後、貨車に詰め込んだ。行き先は告げられなかったが、日没の方向から西へ向かっていることが貨車の中からでも分かり絶望したことが伝えられる。また、この時抑留された捕虜の証言によると、ソ連兵はダモイ(帰れるぞ)と叫び捕虜を貨車に乗せたという。抑留された捕虜の総数は、作業大隊が570あったため、当初は総数57万5千名が連行されたと考えられたが、65万人というのが定説である。
一説には70万人近くが移送されたと言われ、最高数としては200万人以上との説がある[17]。モスクワのロシア国立軍事公文書館には約76万人分に相当する量の資料が収蔵されている[18]。
シベリアの連行による犠牲者数
ソ連側(現ロシア政府)はこれまでに約4万1千人分の死者名簿を作成し、日本側に引き渡している[36]。アメリカの研究者ウイリアム・ニンモによれば、確認済みの死者は25万4千人、行方不明・推定死亡者は9万3千名で、事実上、約34万人の日本人が死亡したという[37]。
日本の厚生労働省は2017年現在でも、ロシア連邦などから提供された資料を基に、旧ソ連や満州で死亡して新たに判明した日本人の氏名などの名簿更新を続けている[38]。
まともに戦った挙句のドイツ人捕虜6万人の内生き残ったのはわずか5000人というのですから、日露戦争で負けた屈辱感のある日本人に対する残酷な仕打ち・・生存率も推して知るべきでしょう。
ドイツの場合正規軍捕虜だったので数字がはっきりしているのですが、日本の場合満州にいた開拓団その他企業社員含めての大混乱中の連行なので母数の数字自体が分かっていないのが難点・・それほどのひどい状態であったとも言えます。
ただ占守島守備隊の軍人は戦いに勝っていたのに本国からの停戦命令で降伏したに過ぎない状態で捕虜となったので(戦いで死んだのか捕虜になってから殺されたのか分からないような混乱がない)軍人数がきっちり分かっているはずです。
占守島の戦いを9月12日のコラムで紹介したとおり屈強の若者2万5000名が捕虜として引き渡され、シベリア収容所到着時には五千人しか生き残っていなかった例を類推すれば大方の比率がわかります。
貨車に載せれられて移動しただけで途中2万人も死ぬだろうか?
地獄のような暴行殺戮行為がしょっちゅう行われていたと見るべきでしょう。
まして満州から連行されたのは屈強な青年ばかりではありません。
15日に日書いた通り、ロシアの進出/膨張欲は領土プラス異民族支配欲が基本原理ですから、侵略に成功すれば日頃ひどい圧迫している人民にも新たな敗者に対する一時的支配者の地位・・「どのような過酷な支配もできる夢」を分け与えることで戦意向上の原動力にして来たのでしょう。
少数民族や移民排斥運動が激しいのは、どこの国でも最下層に多い・あるいは家庭内暴力に怯えている子がいじめっ子になり易いのはこの原理を物語っています。

ロシアの脅威5(人民圧迫の反動としての残虐性1)

幕末の危機感として西欧列強の脅威ばかりを我々世代は教育されてあるいはメデイア報道で育ちましたが、幕末日本にとってはロシアが最大の危険な国であり、その抑制勢力として西欧列強との多角的交渉があった・・「同じルールでやってくれ」とロシアに言えるメリットを利用していたと見るのが正しいような気がします。
黒船来航ばかり教えられますが、西欧流儀の作法から見れば新興国のアメリカは(今も同じですが・・)少し乱暴な程度であって、基本的にはルールのギリギリまでやる程度でロシアのように問答無用式の実力行使まではしていません。
西欧諸国とその亜流・少し乱暴な米国とロシアの弱小国に対する交渉流儀の違いは、前者の来航は領土欲にあるのではなく、通商の利益を求めて来た立場である結果、交易開始後の商取引・・人間関係の重要さを前提にしているので無茶はしません。
商取引の場合、相手の好感度を獲得するのが重要・・だからこそどこの国・民族でも、他の職業の人に比べて商人は腰が低く愛想がいいし、その分相手の気持ちを汲むのに長けています。
ロシアの進出・膨張の場合は、支配欲の(金の亡者同様で「足るを知らない」)権化になっていることによるもので、商取引に主たる関心がない点が大きな違いです。
今でもロシアの主たる収入源は原油その他の資源しかないことから見て生活様式や価値観が変っていないと思われますが、資源獲得→まず領土・支配欲が先に来ている点が粗暴な言動に走る原因と見えます。
ロシアの場合、人民に対する過酷な支配・・帝政ロシアでは農民といっても「農奴」という表現で知られるように、世界の農民の中で最も最悪の環境下で隷従させられてきた社会です。
前近代においては人口の大多数が農民の社会ですから、農民の待遇が世界最悪ということは支配層と被支配層の関係・・人民大多数は世界最悪の過酷支配を受けていた社会だったことになります。
ロシアの場合、後進国特有の頭でっかちな運動による結果、まだ新政権を担うべき人材不足・・円滑に話し合い解決し運営する能力がない不幸で、政治関係者間では粛清に次ぐ粛清の恐怖政治をスターリン死亡後の1956年のフルシチョフによるスターリン批判まで続けてきました。
恐怖政治の内容は「穏やかな」表現による演説だったとはいえ、以下の通りです。
ソ連では、1956年2月、ソ連共産党第一書記フルシチョフがソ連共産党第二〇回大会においてスターリン批判の演説を行い、世界を驚かせた。公開の一般演説ではスターリン(53年死去)の名を挙げなかったものの、それまでのソ連共産党の公式見解である戦争不可避論(資本主義陣営との戦争は避けられないとする考え)を批判して、西側との平和共存路線への転換をはかり、また暴力的手段によるのではなく議会制度を通して平和的に社会主義への移行することが可能であることを呼びかけた。これは従来のスターリン体制からの大きな転換を意味していた。ただし、共産党一党支配を否定するものではなかった。
http://www.y-history.net/appendix/wh1602-035.htmlからの引用です。
スターリン批判
 それ自体が画期的な方向転換であったが、さらに大会最終日の2月24日から25日にかけて開かれた非公開の会議で、再び演壇に上がって『秘密報告』と呼ばれる報告を行い、スターリンを名指しで批判した。この秘密報告は、正式にいうと『ソ連共産党第二〇回大会非公開会議における演説』ということになっており、その表題も『個人崇拝とその諸結果について』というごく穏やかな名前になっている。この非公開の会議には、1355名の決議権をもつ代議員と、81名の審議権だけを持つ代表、計1436名が出席した。内外の記者、外国代表は退席を求められた。代議員もノートをとることを禁じられた。しかし、その内容が海外に漏れ、アメリカなどの新聞が報道し、世界に衝撃を与えた。スターリン批判の内容は以下の点であった。
スターリンが1934年の第17回党大会以降、自らに対する個人崇拝を「わがまま勝手に」押し進めた。彼はレーニンの「集団指導」を無視し、党大会や中央委員会を開催しなかった。
社会主義体制達成後も階級闘争は続くという誤った理論から、反対派を「人民の敵」として捕らえ、銃殺するという大量テロル(粛清)を行った。
その手先となったのはベリヤらであった。その下でテロルを実行した人びとはそれが社会主義圏説に必要だと単純化していた。(取調官ロドスの例)
スターリンは軍事的天才ではなかった。ドイツとの戦争ではその侵入を予測できず大きな損害をこうむる原因をつくった。地球儀で作戦会議を開く有様だった。また、軍隊の有能な指揮官に対しても粛清をもって当たった。
民族大虐殺にたいしても責任がある。
スターリンは国内をほとんどあるくことなく、農村の実情を知らなかった。
『スターリン小伝』『全ソ共産党小史』などで自画自賛した。
中国ではまだ毛沢東批判はタブーですが・・。
このおそるべき恐怖政治を世界に及ぼそうとしていたのが、コミンテルンの民族国家よりも世界共産化思想という名目でのソ連による世界支配の野望でした。
国内では、民族同胞親兄弟よりもソ連共産党思想への忠誠を上位に置き、内部にスパイ網を張り巡らせて親兄弟をも密告させて粛清していく・これを国際的に拡大したのコミンテルン思想です。
ソ連に本部を置きその指導のもとに、世界に民族や同胞よりも共産主義というなのソ連政府に忠誠を誓う「細胞」浸透させていく仕組みでゾルゲ事件で知られる日本や米国(ルーズベルト政権)も世界中の支配層や軍部内に汚染がひろがっていきました。
ソ連支配は国民に過酷な分、少数民族にはなお過酷でした・・支配下に入った少数民族に対しては、文字通りの過酷支配・・気にいらない少数民族をそっくりリシベリア送りにするなど過酷悲惨な支配の連続でした。
例えば14年のロシアによるクリミア併合以来関心の高いクリミア半島の住民構成の変化をウィキペデイアで見ると以下の通りです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%9F%E3%82%A2%E5%8D%8A%E5%B3%B6
「クリミア・タタール人は、2001年の国勢調査ではクリミア自治共和国の12.1%、クリミア半島全域の10.2%を占めるに過ぎないが[32]、クリミア・ハン国が成立した中世後期以降にクリミア半島内でキプチャク系のノガイ族の遊牧民とオグズ系のトルコ民族、南部の山岳地帯や海岸部に住む元キリスト教徒の諸民族の子孫が混交して形成された土着の民族である[33]:74。1944年にヨシフ・スターリンの政策で中央アジアに強制移住させられ、ソ連末期の1980年代末からクリミア半島に帰還し始めた[34]
以上のように原住民・土着民族(100%近いのが本来でしょう)が今では帰還が進んでも10、2%を占めるに過ぎない状態です。
ソ連支配下でシベリアに何かの嫌疑?を理由に民族丸ごと強制移住させられてしまった歴史があって最近帰還が進んでいるというのですがそれもやっと1割しかいません。
帰還できるようになったのは、スターリン批判後徐々に民主化が進んだ結果でしょうが、多分ソ連崩壊後ウクライナ領になって大幅に進んでからのことでしょうから、・・再びロシアに併合されるとこの先どうなるか・・多分ロシア人の人口比が大幅に上がるのか?・・分かりません。
北海道が仮にソ連領になっていた場合、ほとんどの日本人がシベリアに送られてその7〜8割が過酷な強制労働による病死等でなくなっていた可能性が大でしょう・・そして北海道にはロシア人の人口が多数派になっていたかもしれません。
日本のように日露戦争報復意識のない単純併合されただけのバルト3国やカフカスなどでも、ロシア人比率が上がっています。
以下ウィキペデイアによると
ラトビアの例
▼民族構成
ラトビア人が62%。(バルト人)
ロシア人が27%。(東スラブ人)
リトアニアの例
人口の83.1% がリトアニア人である。少数派としてポーランド人(6.0%)、ロシア人(4.8 %)、ベラルーシ人(1.1%)、ウクライナ人(0.6%)などがいる[51]。

ロシアの脅威(幕末対馬・不法侵入事件)4

幕末の欧米が通商を求めて次々とやってくる中で、ロシアの海軍が対馬に実力上陸して居座る事件が発生しました。
ウィキペデイアによると以下の通りです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E8%BB%8D%E8%89%A6%E5%AF%BE%E9%A6%AC%E5%8D%A0%E9%A0%98%E4%BA%8B%E4%BB%B6ロシア軍艦の進出
ニコライ・ビリリョフ
文久元年2月3日(1861年3月14日)、ロシア帝国海軍中尉ニコライ・ビリリョフは軍艦ポサドニック号で対馬に来航し、尾崎浦に投錨し測量、その後浅茅湾内に進航した。
対馬藩内では対応を巡って、武力での排撃を主張する攘夷派と紛争を避けようとする穏健派で論争が起こり藩内は混乱した。宗義和は事を荒立てず穏便に解決しようと接しながらも、問状使をポサドニック号に派遣し、その不法を何度か詰問した。しかしロシア側は無回答を貫き、優勢な武力をもって日本側を脅かしたり、住民を懐柔したりし、木材・牛馬・食糧・薪炭を強奪または買収して滞留の準備を整えた。またロシア水兵は短艇を操って沿岸を測量し、山野を歩き回って野獣を捕獲したり、中には婦女を追跡して脅かす水兵もいたため、住民は激昂し、しばしば紛争が起こった。
ビリリョフ艦長は対馬藩に対し藩主への面会を再三要求し、3月23日には芋崎の租借を求めて来た。ロシア側としては強引に対馬藩に租借を承諾させ、これを既成事実として幕府に認めさせる思惑であった。対馬藩では対応に苦慮し、面会要求を拒否しつつ、長崎と江戸に急使を派遣して幕府の指示を仰いだ。
江戸に戻った小栗は、老中に、対馬を直轄領とすること、今回の事件の折衝は正式の外交形式で行うこと、国際世論に訴えることなどを提言。しかし老中はこの意見を受け入れず、小栗は7月に外国奉行を辞任することになる。
5月26日、交渉に行き詰まった対馬藩では藩主謁見を実現せざるを得なくなり、ビリリョフは軍艦を府中に回航し、部下を従えて藩主宗義和に謁し、短銃、望遠鏡、火薬および家禽数種を献じ、長日滞留の恩を謝した。しかしロシア側は芋崎の永久租借を要求し、見返りとして大砲50門の進献、警備協力などを提案した。対馬藩側では幕府に直接交渉して欲しいと回答して要求をかわした。沿道警備にあたった藩内士民はロシア兵の傲岸な態度に激怒したが、辛うじて事なきを得た。
イギリスの介入
7月9日、イギリス公使ラザフォード・オールコックとイギリス海軍中将ジェームズ・ホープが幕府に対し、イギリス艦隊の圧力によるロシア軍艦退去を提案、老中・安藤信正らと協議する。
7月23日、イギリス東洋艦隊の軍艦2隻(エンカウンター、リンドーブ)が対馬に回航し示威行動を行い、ホープ中将はロシア側に対して厳重抗議した。しかし実はこの時点においてオールコックも、イギリスによる対馬占領を本国政府に提案していた(8月2日付・坂本藤良『小栗上野介の生涯』講談社)。
また老中・安藤信正は再度、箱館奉行・村垣範正に命じてロシア領事に抗議を行わせた。これまでビリリョフの行動をそのままにさせていたロシア領事ゴシケーヴィチは、イギリスの干渉を見て形勢不利と察し、軍艦ヲフルチニックを対馬に急派し、ビリリョフを説得。文久元年8月15日(1861年9月19日)、ポサドニック号は対馬から退去した。
3月から9月までの6ヶ月間も他国に侵入して居座って、何ら根拠もなく租借の要求をしていたのですから、いわば強盗行為です。
強盗に押し入った者が、「家屋敷の一部を寄越せそこに住み着くから・・」と要求しているような事件でした。
上記ロシア軍艦の幕末対馬への実力上陸は、日露の外交交渉が成立して函館を開港場として、ロシアは函館に領事を置いて平穏な付き合いがはじまってからのことですから、対米戦争敗戦時の不可侵条約破っての満州侵入同様の酷い話です。
日露通商条約は以下の通り安政2年1855年締結であり、対馬上陸事件は1861年ですからこんなことが白昼公然と行われるのでは何のための和親条約締結か分かりません。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%9C%B2%E5%92%8C%E8%A6%AA%E6%9D%A1%E7%B4%84
日露和親条約(にちろわしんじょうやく、露: Симодский трактат)は、安政2年12月21日(1855年2月7日)に伊豆の下田(現・静岡県下田市)長楽寺において、日本とロシア帝国の間で締結された条約。日本(江戸幕府)側全権は大目付格筒井政憲と勘定奉行川路聖謨、ロシア側全権は提督プチャーチン。
本条約によって、千島列島の択捉島と得撫島の間に国境線が引かれた。樺太においては国境を設けず、これまでどおり両国民の混住の地とすると決められた[1]。この条約は1895年(明治28年)に締結された日露通商航海条約によって領事裁判権をはじめ全て無効となった。
以下は函館日ロ交流史研究会の記事からです。
http://hakodate-russia.com/main/web/hakodate-russia/
箱館開港
 ロシアは樺太・千島・蝦夷地に早くから開港を求めていたが、ロシアに先立ちアメリカがペリー提督を日本に遣わし、幕府は1854年(安政元)日米和親条約を結び、箱館・横浜・長崎を開港しアメリカ船に薪炭給水食料の補給を許した。
 1854年(安政元)日露和親条約が締結され、箱館にロシア領事館が置かれることになった。」
上記函館日ロ交流史研究会の記事では安政元年となっていて、1年早くなっています・・どちらが本当か今のところ私には不明ですが、何れにせよ日ロ間では正式に外交条約が結ばれているのに、条約無視で実力行使してくる始末です。
幕府は無断上陸したロシア艦隊・条約無視の違法行為を自力で追い出す軍事力がないので困っていたところでイギリスが動いてくれて追い出してもらったのでことなきを得ました。
この時イギリスの仲介解決がなかったら(その分イギリスに借りができましたが・・)大変でした。
対馬は海路遠く離れている関係で援軍を送って戦端を開いても、当時日本には洋式軍艦ひとつない・・海軍力のない我が国が防衛しきれたか不明の状況でしたから、その内ロシアの要求に妥協するしかなかった可能性がありました。
そうなるとその他列強も「遅れてはならじ」とばかりに我先に各地で占拠〜租借地要求事件が起きたでしょうから、幕府も手がつけられなくなり、清朝末期の中国のように国内は租借地だらけになっていた可能性があり、重大な事件に発展するところでした。
こうしてみると1904年の日露戦争前からの日英同盟の下地・日本の英国頼りの信頼感は、この頃から準備されていたことになります。
最近EU離脱の影響からか英国の日本接近が急ですが、日英同盟復活?気運が出ていることに、(経済面の結びつき・対欧州の経済・貿易関係も日本企業の多くが英国を足場にしてEUへの輸出していることが知られているとおりです)多くの日本人はそれほど悪い気がしないのはこうした歴史があります。
幕末の乱暴な行動を見てもロシアという国は、(韓国もいくら国際合意しても自己都合によって簡単に破る国ですが)せっかく平和条約を締結しても相手が抵抗できないとなれば、何のトラブルもなくとも条約破棄してすぐに侵略してくる国であることは、対米敗戦の時の日ソ不可侵条約破棄の前から分かりきっていたことです。
その上ロシアは未だに北海道全土に対する領土意欲を隠していないし、これに呼応するかのように「もともと日本の領土ではないアイヌの土地だ」という運動体が国内で着々と育成されているのですから、平和条約締結さえすれば済む簡単な話ではありません。
以上がロシア軍による6ヶ月間に及ぶ対馬実力占領行為に対する顛末ですが、ロシアの条約無視・武力万能・・強盗的体質は日本敗戦時の満州侵入の時だけのことでないことを肝に命じておく必要があるでしょう。

中国ロシアの脅威3(自衛力の必要性)

「私は暴力を振るいません」と言うだけで安全ならば、女子や子供が夜道を一人でむやみに歩きまわらないと言う常識・不文律が世界中である訳がありません。
非武装平和論の女性が、深夜人通りのない道を一人でそぞろ歩きをしたり自分の娘や子供に安全だからと独り歩きを勧めているのでしょうか?
都会地の場合、大して強くない男でも同行していると相応の自衛力があるので、襲った方も相応のダメージを受ける・・その上時間がかかると警察などが来る・逃げても傷を負っているとアシがつき易いなどのことから、むやみに襲ってこないのです。
このように自衛力は襲ってきた相手に勝つほどの力がなくとも一定の抵抗力さえあれば、そのうち誰かが駆けつけて応援してくれる仕組み・・治安力整備・市街地であればこれがなりたちます。
これが成り立つ社会を治安の良い社会というのです。
日本のように婦女子が一人で夜道を歩いていて、しかもすぐに警察が駆けつけることのない場所でも被害にあわない社会は、超安全社会というべきでしょう。
誰も見ていなくとも悪いことをしない・・これが大災害で治安力が弱っても略奪が起きず逆に助け合いが活発化する日本社会の現状です。
クリミヤ併合や中国による南シナ海での埋めて強行→軍事基地化の現実を見ると、国際社会ではまだ一定の自衛力を持つことで身を守るしかないのが現実ですので、この仕組みを国際的に応用しているのが相互防衛条約〜集団自衛権と称するものです。
戦後我が国の非武装論は世界で突出した武力と経済力を有していたアメリカが平和を保障してくれている限り意味がありました。
言わば強力な護衛兵に守られている場合に、政治家や貴婦人が自分で拳銃や刀を持っている必要がないのと同じです。
護衛兵役のアメリカが守りきれないので、お客(日本)の方もある程度の武器を持って一緒に戦って頂けませんか?あるいは補給程度は協力していただけませんかと言われるようになったのが最近の国際情勢です。
海賊対策として護衛艦5隻あれば万全だが、2〜3隻しか一緒に行けない場合、不足分を商船隊の方も一定の商戦に大砲の一門くらいを備えて一緒に戦ってくださいとなるのが普通です。
砂漠の隊商などはこの方法・商人自身武器を取って戦う外護衛武人の食料供給をするのが昔から普通でしょう。
話題がそれてしまいましたが、裸の暴力ではなく道義攻撃から守るには、日米安保はもともと役立ちません。
アメリカは、対日戦開始に向けた謀略〜戦争犯罪その他に後ろめたい面が多々ある結果、将来的に日本から報復を受けないように半永久支配の道具として軍の駐留を続ける名目に日米安保条約を押し付けたに過ぎないので、もともと(敵対国占領支配の継続意識で)日本を真の同盟国と認めていませんでした。
本来の同盟であれば同盟国が強く信用がある方がいいのですが、日米安保は日本を弱くしておくために縛りをかけるための同盟関係でした。
だから表向きの同盟国でありながら日本の足を引っ張ることがあれば内心歓迎・・アメリカの意図を汲んだ国々が、率先して慰安婦問題や南京虐殺その他のでっち上げ批判に走ったのです。
いじめっ子がいると、そのお先棒担ぎをする子がいるような関係です。
裏から見るとアメリカの意図を汲んで行動する韓国を見れば、アメリカの真意やユダヤ系の巧妙に隠された価値観を読みやすい便利な面がありました。
アメリカが今後日本を頼りにすることが増えていくとアメリカのお先棒担ぎ的な露骨な日本批判は今後へっていくと思いますが、今後はアメリカの威信に挑戦する中露の動きが活発化するとそのお先棒担ぎ・国内呼応勢力が増えていきます。
この数十年は次第に日本寄りになっていくアメリカのご機嫌とり的お先棒担ぎとこれから日本を敵視していく中露の先棒担ぎが競合していた時代でした。
韓国は両天秤で少し中国寄りに傾斜しすぎて失敗したのです。
アイヌ先住民論や沖縄先住民論は・・「日本だってやっているじゃないか」・・いう欧米の道義的反撃材料に使えるだけではなく、ロシアの北海道侵略意欲・中国の沖縄侵略意欲が背景になっているとすれば、従来型欧米の日本叩きの意図が背景にはないものの新興勢力?ロシアや中国が背景にいるので、アイヌや沖縄先住民論の応援団がなお世界規模で強力です。
中国の南京大虐殺運動・反日教育も、チベットやウイグル族の弾圧に対する欧米の批判に対する目くらまし効果を狙っているだけではなく尖閣諸島侵攻→その先の沖縄切り離しを狙っている意図を中国は隠していません。
隠すどころかこの意図を明らかにすることによって、日本に対して「尖閣諸島を手放さないと沖縄まで取ってしまうぞ!」と言わんばかりの脅迫です。
幕末〜明治にかけて西欧諸国が中国のあちこちを虫食い的に租借できたのは、その程度の妥協に応じないと本体が潰れてしまう恐怖心に訴えた結果でした。
明日以降紹介するロシアの対馬上陸事件は対馬藩が租借に応じないと対馬全島を占領、または荒らし回るゾ!という無言の恫喝が背景にあってのことです。
欧米にとっても大市場に育った中国市場で最大競争相手の日本が中国といがみ合う関係がいくら激しくなっても構わないどころか願ってもないチャンスです・・ドイツはこの隙に大々的中国進出成功していますし、サード配備決定前の韓国も同様でした。
慰安婦騒動も日本国内でこれに呼応して捏造文書を書く人(いわゆる吉田調書発表)がいて、一方でこれを大々的なニュースに仕上げるメデイアと合体で問題が大きくなったものですが、内部結束さえ強ければ外の敵はそれほど大きな問題になりません。
慰安婦騒動は米国が策源地ではなく韓国による自主的お先ぼう担ぎによるとしても、アメリカが日本敵視・日本弱体化政策をやめて真の同盟国として必要となる・・日本との協力関係が今後ますます必要になることから、自然に収束に向かうしかないでしょう。
韓国としては慰安婦問題を激しくやってもアメリカのご機嫌が良くなるどころか、逆に大事な同盟関係を壊すのか!とアメリカに疎まれマイナスに作用し始めたからです。
アメリカの逆鱗に触れて驚いた朴槿恵大統領は、やむなく180度方向転換して日韓合意になったのですが、「不可逆的」という前代未聞の恥ずかしい前提条件をつけられた上に内容的にもわずかに10億円での決着ですから、100%の完敗でした。
日本の要求でアメリカの高官が立ち会った上での国際合意形式自体が、韓国を一人前の国と認めない異例の形式でした。
続けてアメリカの強い要求に応じてサード配備を決めたことで、中国が激怒して今の韓国が中国から嫌がらせを受ける関係になっていることは周知の通りです。
要するに韓国は強いもののお先棒担ぎをしていた結果、却って二進も三進もいかなくなってしまった哀れな国です。
アイヌと沖縄の先住民族運動に戻します。
中国の沖縄侵略意欲は多くの人が知っていますが、日本敗戦時に火事場泥棒的に北海道占拠に失敗したソ連〜ロシアは北方4島を日本に返すどころか、今でもチャンスさえあれば北海道自体の占拠支配の野望を捨てていない可能性に留意しておく必要があります。
ソ連〜ロシアはもともと相手が弱いとなれば、なんの恥ずかしげもなく問答無用で露骨に実力行使してくる・強盗みたいな国です。
数年前のクリミヤ併合や敗戦時の満州侵入〜何十万将兵が強制連行されたのは突然行われたのではなく、昔からそういう体質の国です。
例えば幕末にロシア軍が一時対馬に無断上陸して駐留を始めたことがあります。
ロシア軍の対馬での実力行使事件について明日以降紹介します。

免責事項:

私は弁護士ですが、このコラムは帰宅後ちょっとした時間にニュース等に触発されて思いつくまま随想的に書いているだけで、「弁護士としての専門的見地からの意見」ではありません。

私がその時に知っている曖昧な知識を下に書いているだけで、それぞれのテーマについて裏付け的調査・判例や政省令〜規則ガイドライン等を調べる時間もないので、うろ覚えのまま書いていることがほとんどです。

引用データ等もネット検索で出たものを安易に引用することが多く、吟味検証されたものでないために一方の立場に偏っている場合もあり、記憶だけで書いたものはデータや指導的判例学説等と違っている場合もあります。

一言でいえば、ここで書いた意見は「仕事」として書いているのではありませんので、『責任』を持てません。

また、個別の法律相談の回答ではありませんので、具体的事件処理にあたってはこのコラムの意見がそのまま通用しませんので、必ず別の弁護士等に依頼してその弁護士の意見に従って処理されるようにしてください。

このコラムは法律家ではあるが私の主観的関心・印象をそのまま書いている程度・客観的裏付けに基づかない雑感に過ぎないレベルと理解してお読みください。