ロシアの脅威11(北方防備と幕府財政逼迫)

松前藩の上知は寛政11年(1799年)とのことですから、寛政の改革(1787年から1793年)で知られる松平定信失脚後のことになります。
その後を継いで(昇格して)老中首座になった松平信明は、(寛政の改革の)遺老と言われ定信の改革踏襲者として引退後の定信の意向に従ってやっていたので、いわばバックいる定信の英断によっていたことになります。
信明に関するウィキペデアの記述です。
「寛政5年(1793年)に定信が老中を辞職すると、老中首座として幕政を主導し、寛政の遺老と呼ばれた。幕政主導の間は定信の改革方針を基本的に受け継ぎ[1]、蝦夷地開拓などの北方問題を積極的に対処した。寛政11年(1799年)に東蝦夷地を松前藩から仮上知し、蝦夷地御用掛を置いて蝦夷地の開発を進めたが、財政負担が大きく享和2年(1802年)に非開発の方針に転換し、蝦夷地奉行(後の箱館奉行)を設置した[2]。しかし信明は自らの老中権力を強化しようとしたため、将軍の家斉やその実父の徳川治済と軋轢が生じ、享和3年(1803年)12月22日に病気を理由に老中を辞職した[2]。
信明辞職後、後任の老中首座には戸田氏教がなったが[2]、文化3年(1806年)4月26日に死去したため、新たな老中首座には老中次席の牧野忠精がなった[3]。しかし牧野や土井利厚、青山忠裕らは対外政策の経験が乏しく、戸田が首座の時に発生したニコライ・レザノフ来航における対外問題と緊張からこの難局を乗り切れるか疑問視され[3]、文化3年(1806年)5月25日に信明は家斉から老中首座として復帰を許された。これは対外的な危機感を強めていた松平定信が縁戚に当たる牧野を説得し、また林述斎が家斉を説得して異例の復職がなされたとされている[3]。ただし家斉は信明の権力集中を恐れて、勝手掛は牧野が担っている[3]。
文化4年(1807年)に西蝦夷地を幕府直轄地として永久上知した[2]。また幕府の対応に憤激したレザノフの指示を受けた部下のニコライ・フヴォストフ(ロシア語版)が単独で文化3年(1806年)9月に樺太の松前藩の番所、文化4年(1807年)4月に択捉港ほか各所を襲撃する事件も起こり、信明は東北諸藩に派兵させて警戒に当たらせた(フヴォストフ事件、文化露寇)[4]。またこのような対外的緊張から11月からは江戸湾防備の強化に乗り出し、砲台設置場所の選定なども行なっている[5]。
経済・財政政策で信明は緊縮財政により健全財政を目指す松平定信時代の方針を継承していた。しかし蝦夷地開発など対外問題から支出が増大して赤字財政に転落し、文化12年(1815年)頃に幕府財政は危機的状況となった。このため、有力町人からの御用金、農民に対する国役金、諸大名に対する御手伝普請の賦課により何とか乗り切っていたが、このため諸大名の幕府や信明に対する不満が高まったという[7]。
評価
松平定信にその才能を認められた知恵者で、定信失脚後は老中首座としてその改革精神を継承し、将軍・家斉の奢侈を戒め、その側近らの規律を正した逸話が伝わる[8]。ただ松平定信は信明について「発生した事柄には対処できる。しかし、長期的視野に欠けて消極的であるばかりか、決断力が乏しかったので、補佐する者がいればよかった。とはいえ、才能があって重厚でもあるので、今彼に勝る人はいない」と自らの日記に記している。一方で対外政策が30年も手遅れになったのは信明の責任であると評している[7]。
定信の近習番を務めた水野為長が市中から集めた噂を記録した『よしの冊子』によると、信明が老中を務めていた当時の政治は定信と信明、それに若年寄の本多忠籌の3人で行われており、老中の牧野貞長や鳥居忠意はお飾りに過ぎないというのが市中の評判であった。」
幕府は松前藩支配地を松前城の周辺付近を除いた蝦夷地を全面的に上知・・取り上げて直轄支配地にしていた様子を昨日紹介しましたが、今日は幕府側の動きの紹介です。
中学高校の日本史ではこの種の教育を全く受けませんでしたが(今では変わっているのかな?)古代の防人のように幕府は北方警備のため東北諸藩に出兵を命じていたことが分かります。
このため出兵しないその他の藩にも資金拠出を命じたこと(・・幕府財政赤字)が幕末諸大名の不満の下地になって行ったようです。
この辺は日本史の授業では出てきませんし、幕末西欧接近の危機感ばかり・薩長の活躍ばかりですが、ロシア対策によって財政支出・ひいては諸藩への負担協力を求めたことに対する不満が蓄積していたことが分かります。
将軍家の奢侈を戒める松平信明を将軍家斉は疎んでいたのですが、彼が病死すると好き勝手な奢侈に走り、いわゆる「化成」文化が花開きます。
財政危機のためにロシアに対する危機対応が不十分になっていたのに、家斉は逆ばり政治・奢侈に精出したことになります。
日本が世界に誇る浮世絵その他多様な文化爛熟期でしたが、背後から「怖いものが迫っているのを見ないことにしていた」時代であった・・これが幕府財政崩壊を早めたことになります。
西欧ではギロチンのつゆと消えたフランスのルイ16世や中国北宋最後の徽宗皇帝、わが国では室町幕府・政治を投げ出していた足利義政の東山文化を連想させられる動きです。
家斉政治に関するウィキペデア記述です。
「文化14年(1817年)に信明は病死する。他の寛政の遺老達も老齢等の理由で辞職を申し出る者が出てきた。このため文政元年(1818年)から家斉は側用人の水野忠成を勝手掛・老中首座に任命し、牧野忠精ら残る寛政の遺老達を幕政の中枢部から遠ざけた。忠成は定信や信明が禁止した贈賄を自ら公認して収賄を奨励した。さらに家斉自身も、宿老達がいなくなったのをいいことに奢侈な生活を送るようになり、さらに異国船打払令を発するなど度重なる外国船対策として海防費支出が増大したため、幕府財政の破綻・幕政の腐敗・綱紀の乱れなどが横行した。忠成は財政再建のために文政期から天保期にかけて8回に及ぶ貨幣改鋳・大量発行を行なっているが、これがかえって物価の騰貴などを招くことになった。」
「怖いものを見ない」ことにしても北から南から迫ってくる世界情勢・日本を取り巻く危機は変わりませんし、貨幣改鋳しても幕府財政赤字は変わりません。
たまたま9月10日と16日の2回千葉市美術館で開催中のボストン美術館所蔵の浮世絵・・鈴木春信(享保10年〈1725年〉 ?- 明和7年6月15日〈1770年7月7日〉)展を見てきましたが、可愛い子供や娘を大事にする江戸市民の気風が当時の流行絵画になっている・・鈴木春信の錦絵が最盛期を迎えたのは明和年間(1760年代末)のようです。
この錦絵によって庶民は江戸開府以来約百五十年以上に及ぶ平和の恩恵を享受している様子・・その後の浮世絵の本格 発展の萌芽を目にすることができましたが、その裏(一般市民はそんな物騒なことが遠くでおきているとは知る由もなく)で同時進行的に太平の世を脅かすロシアによる侵略の危機が遠くからヒタヒタと迫っていたことになります。
国防の基礎は自国の実態把握です。
まずは最上徳内から見ておきましょう。
以下アフィキペデアの記述です。
「実家は貧しい普通の農家であったが、学問を志して長男であるにもかかわらず家を弟たちに任せて奉公の身の上となり、奉公先で学問を積んだ後に師の代理として下人扱いで幕府の蝦夷地(北海道)調査に随行、後に商家の婿となり、さらに幕府政争と蝦夷地情勢の不安定から、一旦は罪人として受牢しながら後に同地の専門家として幕府に取り立てられて武士になるという、身分制度に厳しい江戸時代には珍しい立身出世を果たした(身分の上下動を経験した)人物でもある。」
「幕府ではロシアの北方進出(南下)に対する備えや、蝦夷地交易などを目的に老中の田沼意次らが蝦夷地(北海道)開発を企画し、北方探索が行われていた。天明5年(1785年)には師の本多利明が蝦夷地調査団の東蝦夷地検分隊への随行を許されるが、利明は病のため徳内を代役に推薦し、山口鉄五郎隊に人夫として属する。蝦夷地では青島俊蔵らとともに釧路から厚岸、根室まで探索、地理やアイヌの生活や風俗などを調査する。千島、樺太あたりまで探検、アイヌに案内されてクナシリへも渡る。徳内は蝦夷地での活躍を認められ、越冬して翌・天明6年(1786年)には単身で再びクナシリへ渡り、エトロフ、ウルップへも渡る。択捉島では交易のため滞在していたロシア人とも接触、ロシア人のエトロフ在住を確認し、アイヌを仲介に彼らと交友してロシア事情を学ぶ。北方探索の功労者として賞賛される一方、場所請負制などを行っていた松前藩には危険人物として警戒される。」
同年に江戸城では10代将軍・徳川家治が死去、反田沼派が台頭して田沼意次は失脚、田沼派は排斥される。松平定信が老中となり寛政の改革をはじめ、蝦夷地開発は中止となる。徳内と青島は江戸へ帰還。徳内は天明7年(1787年)に再び蝦夷へ渡り、松前藩菩提寺の法憧寺に住み込みで入門するが、正体が発覚して蝦夷地を追放される。徳内は野辺地で知り合った船頭の新七を頼り再び渡海を試みるが失敗、新七に招かれて野辺地に住み、天明8年(1788年)には酒造や廻船業を営む商家の島谷屋の婿となる。

ロシアの脅威10(ロシアの東進政策と水路)

21日紹介したピョートル大帝の記事で分かるように、和人の知らない間にロシアではすでに1600年代から黄金の国として知られる日本との通商を目的に(とは言っても勇猛なコサック騎兵を先頭にした武力による露払いで)東進を進めていたことがわかります。
スペインがアフリカ廻りあるいは中東経由でのアジアとの交易ルート以外・・逆張りの着想での大西洋廻りでインド到達を目指したように、ロシアは海路では遠すぎて英仏蘭などの海洋先進国家にはとてもかなわないので陸路を利用して日本への直接到達を目指していたことになるのでしょうか?
日本にとっても裏(背後)からいきなりやってきたロシアの脅威(9月18日に書いたように日本列島の防衛政策は伝統的対馬と琉球諸島方面からの脅威対処が中心でした)は想定外のことだったでしょう。
・・アイヌ人にとってはロシア人が普通の善良な通商相手であれば、交易相手が新たに出てきただけのことだったでしょうが、善良な交易相手ではなかったから警戒して保護者である松前藩に通報したのではないでしょうか。
北海道北辺に出没するようになったロシア人(といっても勇猛な戦闘集団コサック人を先頭に未知の大地を切り開く目的でやってきたものです)は元々通商に適した民族ではないことから、今風に言えば凶暴な熊のようで脅威だったでしょうから、1700年初頭ころには松前藩には・・・こういう人たちが来るようになって「怖い」という苦情が通報されていたのでしょうか?
ロシアのシベリア進出に関しては、http://www001.upp.so-net.ne.jp/dewaruss/on_russia/siberia.htmに詳しく紹介されています。
ロシ贔屓的紹介文ですが事実を詳しく知ることができます。
これによるとコサックの東進がスムースに進んだのは、現地はまだ毛皮交易に頼る(農耕民のような定住性のない)住民しかいなかった・・自給自足できなかった結果、現地人はロシアの領土野心を全くに気にしなかった・・交易保障の対価・さえ低ければ誰でもよかった・イメージが伝わってきます。
たまたまモンゴル解体後の中央アジア諸国・ジュンガル汗国・これを滅ぼした清朝支配の方が苛烈であったというか、後出しジャンケンみたいで、それより有利な条件をだせばいいので有利でした。
実際最重要交易品であった毛皮の最終需要地は当時西欧諸国でしたから、清朝や他の中央アジア諸部族よりは、ロシアは西欧に直結していて取引上の情報その他有利な位置にありました。
コサックは武装集団であっても戦争で勝って支配を広げるための大軍ではなく、水路沿いに少しずつ橋頭堡を築いて行った・・古代の商人のように水路沿いに下って行きそこで交易しては市のような集積地を確保していくやり方で軍事力は防衛に徹して軍事支配を顕在化しなかった関係で軍事力で現地人が寄り付きやすくしたのが成功の秘訣のようです。
上記紹介文を読んで驚くのは、コサックの隊長が遠征したという程度の知識しかない時には、ロシアの戦車隊のイメージと合わせて陸路の遠征とばかり想像していましたが、上記によるとシベリアの大河は下流では千キロ単位で離れていても源流に遡ると両川の距離はわずか10キロ程度しか離れていないと書いているのには驚きました。
高低差のほとんどないシベリアでは、源流に遡るといってもさしたる苦労がないし、しかも源流に着いてからでも、日本の源流と源流の間のように間に峻険な山(分水嶺)があるわけではないというのです。
コサッックのイメージ=騎馬民族による征服?イメージと違い水路利用による移動であったというのです。
ナポレオン戦争やナチスとの攻防戦あるいはノモンハン事件等を通してみるとソ連=陸軍国のイメージがすり込まれますが、海洋では外洋に面していない分、英仏蘭に遅れを取っていましたがシベリアを水路移動していった点で同じだったのです。
このように平和裡に進出して行ったので、せっかく武力でジュンガル支配を奪った清朝の支配を次第に崩していき最後は黒竜江の両岸で支配地を分けるネルチンスク条約になっていくようです。
上記によるとロシアの東進政策は無理しない・・穏健な浸透方式・・「こちらの水は甘いぞ!」と地元民の支持を得て行くやり方ですが、なぜアイヌの人たちはこれを脅威として松前藩に庇護を求めたのでしょうか?
一つには、エミシ〜エゾの歴史で分かるように、エゾ地の人たちは本州から鉄・食料衣類その他の必需品の供給を受けて代わりに河川での獲物・北海でしか取れない漁獲物(ニシンや昆布など)や毛皮の交換で成り立っていた(和人との交換品を入手するために山丹交易をしていたに過ぎない)ので、ロシア人に西欧へ交易仲介をしてもらうメリットがなかったことが大きかったのかもしれません。
大河の源流・分水嶺を上記に書きましたが、山丹交易圏に入ると最終消費市場が西欧ではなく清朝や日本列島にあったからロシアの出番がなかったからでないかと思われます。
山丹貿易に関するウィキペデアの記述です。
「山丹人は、清朝に貂皮を上納する代わりに下賜された官服や布地、鷲の羽、青玉などを持参して樺太に来航し、アイヌは猟で得た毛皮や、和人よりもたらされた鉄製品、米、酒等を、山丹人が持ち込んだ品と交換した。また、アイヌの中には山丹交易をするばかりではなく、清朝に直接朝貢していたものもいた。
アイヌと松前藩との交易は、もともとは松前城下において行われていた(城下交易制)。1680年代に商場知行制に移り、松前藩の交易船が行き着く蝦夷地最奥の宗谷(現在の北海道宗谷支庁)において樺太アイヌを介して行われていた。宝暦年間(1751年 – 1763年)になると樺太南端の集落・白主(しらぬし)会所に交易船を派遣し、寛政3年(1791年)より交易の場所は宗谷から白主に移った。」
出番がないと鷹揚に構えていられない・強制的に今でいう関税などを徴収しようとなりますので、原住民は何で鞘抜きされるのかと不満が出ます。
不満が出ると武力が前面に出るので、松前藩に対する通報になっていったのでしょう。
山丹貿易関係者にとって、ロシアの進出が歓迎されていなかった・ロシアの方が条件がよければ松前藩の方が外されるようになったでしょう。
松前藩に関するウィキペデイアによる記事では以下の通りです。
もう一度一部引用しておきましょう。
「18世紀半ばには、ロシア人が千島を南下してアイヌと接触し、日本との通交を求めた。松前藩はロシア人の存在を秘密にしたものの、・・・」
「秘密にしたものの」とは、都合の悪い事実があったことを前提にした書き方です。
都合が悪いのは武断外交・・強引に押してくるロシアの圧力を押し返せない不甲斐ない実態を幕府に知られたくない心理があったからでしょう。
上記の通り松前藩は幕府に報告しなかったものの(商品流通がある以上隠しきれません)幕府に知るところとなり、幕府直接調査の結果強面で押してくるロシアとの交渉を武力の裏付けのない・・1所懸命に裏打ちされた武士ではない・戦国時代の経験のない松前藩に委ねるのは無理と判断したのでしょう。
松前城下周辺・渡島半島のうち松前半島南部?以外を全部(領域の9割以上?)取り上げるとはかなり思い切った政策ですが、こんな大胆な政策を実行した為政者の豪胆さ・・思い切りの良さに驚きます。
松前藩は内地のその交易支配権でしかなく、没収といっても役職取り上げに似ていて、先祖伝来の大名の領地没収とは意味が違いますが、先祖伝来の既得権取り上げですから、それだけの切迫した危機があったからでしょう。
今でも漁村に不法上陸して来た場合、漁村だけでは対応出来ない・・一般人の不法上陸なら警察対応ですが、軍艦の侵入の場合にはもっと上位機関の対応が必要になるように、これを大規模にした関係です。
幕末ロシアの対馬侵攻時に幕府直轄事業にしないと地方の弱小藩任せではまともな対応が出来ないという外国奉行小栗の意見はこの例によったのでしょう。

ロシアの脅威9(幕府の認知と海国兵談)

林子平の海国兵談がいつ書かれたかに関するウイキペデイアの記事です。 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E5%9B%BD%E5%85%B5%E8%AB%87
1738年に生まれた林は洋学者との交流を通じて海外事情について研究を行い、ロシアの南下政策に危機感を抱き、海防の充実を唱えるために本書を記した。江戸幕府の軍事体制の不備を批判する内容であったために出版に応じる書店がなかった。このため、天明7年(1787年)に自ら版木を作成して第1巻を刊行し、寛政3年(1791年)に全巻刊行を終えた。直後の寛政の改革によって版木を没収されてしまったものの、自写による副本を秘かに所持していたため、後世に伝わることとなった。」
林子平の海国兵談は1787年の自費出版ですから、思いついていきなり高度な本を書けませんし、先ずそのような関心・意欲を抱くには、そのだいぶ前からロシアに対する危機感を抱いていた人がかなりいてその影響を受けていた(洋学を通じて西欧系のロシアに対する危機意識の影響を受けていた可能性もあります)・・本を書かないまでも、相応の先達がいた可能性があります。
北海道網走根室宗谷方面は、当時の徳川政権にとって滅多に情報のない遠方ですから(林子平は仙台藩藩医であった兄の居候でした)本土にいる学者(当時学者という職業がありません)が危機感を抱くには、その前に相当の情報が広がっていたことになります。
ウィキペデイアの松前藩によれば以下の通りです。
「当時の北海道では稲作が不可能だったため、松前藩は無高の大名であり、1万石とは後に定められた格に過ぎなかった。慶長9年(1604年)に家康から松前慶広に発給された黒印状は、松前藩に蝦夷(アイヌ)に対する交易独占権を認めていた。蝦夷地には藩主自ら交易船を送り、家臣に対する知行も、蝦夷地に商場(あきないば)を割り当てて、そこに交易船を送る権利を認めるという形でなされた。松前藩は、渡島半島の南部を和人地、それ以外を蝦夷地として、蝦夷地と和人地の間の通交を制限する政策をとった。江戸時代のはじめまでは、アイヌが和人地や本州に出かけて交易することが普通に行なわれていたが、次第に取り締まりが厳しくなった。」
「18世紀半ばには、ロシア人が千島を南下してアイヌと接触し、日本との通交を求めた。松前藩はロシア人の存在を秘密にしたものの、ロシアの南下を知った幕府は、天明5年(1785年)から調査の人員をしばしば派遣し、寛政11年(1799年)に藩主松前章広から蝦夷地の大半を取り上げた。すなわち1月16日に東蝦夷地の浦川(現在の浦河町)から知床半島までを7年間上知することを決め、8月12日には箱館から浦川までを取り上げて、これらの上知の代わりとして武蔵国埼玉郡に5千石を与え、各年に若干の金を給付することとした。」
文政4年(1821年)12月7日に、幕府の政策転換により蝦夷地一円の支配を戻され、松前に復帰した。これと同時に松前藩は北方警備の役割を担わされることにもなった。嘉永2年(1849年)に幕府の命令で松前福山城の築城に着手し、安政元年(1854年)10月に完成させた。日米和親条約によって箱館が開港されると、安政2年(1855年)2月22日に乙部村以北、木古内村以東の蝦夷地をふたたび召し上げられ、渡島半島南西部だけを領地とするようになった。代わりに陸奥国梁川と出羽国村山郡東根に合わせて3万石が与えられ、出羽国村山郡尾花沢1万4千石を込高として預かり地になった。
松前藩がアイヌからのロシア情報を幕府に報告しなかったものの、幕府の知るところとなって調査団が派遣されたのは1785年からであり、上知を命じられたのは1799年のことですから、海国兵談発行(1785)は幕府の調査開始とほぼ同時です。
彼の著書発行計画が契機となって幕府の調査が遅れて(慌てて)始まった可能性もあります。
松前藩が隠していても幕府にバレたのは、北前船または東廻船の普及・・松前藩を窓口とする交易の活発化にあると思われます。
ウィキペデイア記載の北前船の始まりと寄港地は北海道に限定すると以下の通りです。
「例年70,000石以上の米を大阪で換金していた加賀藩が、寛永16年(1639年)に兵庫の北風家の助けを得て、西廻り航路で100石の米を大坂へ送ることに成功した」
これが北前船の走りだそうです。
その後んどんどん発達して一大動脈になります。
北海道では箱館、松前、江差、熊石、上ノ国(以上渡島国)、紗那、泊(以上千島国)、根室(以上根室国)、厚岸、釧路(以上釧路国)、様似、門別(以上日高国)、苫小牧、室蘭(以上胆振国)、小樽、余市、寿都(以上後志国)、久春古丹(以上樺太)
ただし、上記は明治30年頃まで盛んであったころの完成形の寄港地であって、いつ頃から千島や根室,樺太まで行くようになっていたのか私にはわかりません。
各地の郷土史関係のホームページに入れば分かるのかもしれませんが今日はこのくらいにしておきます。
冒頭に紹介したように松前藩は本州の大名のように農業収入によらずに蝦夷地と和人との交易仲介で藩財政が成り立っていたのですから、上記のような本格的航路開設の前から通商窓口になっていたので、おのずから各種情報が内地に漏れ出る関係にあったでしょう。
「ロシア人が根室にきて暴れた」などの新聞や文献情報があったとは思えない・・林子平の著書が最初とすれば・知識階層では新たに出現して粗暴な行動に走る傾向のあるロシアに対する口コミ?情報が集積され関心が高まっていたのでしょう。
彼が仙台にいて北海道更にその先の千島列島との境付近の情報を得てから、危機感を持ち、さらにそれを著作にするまでには、10〜20年単位の時間差があったように思われます。
(松前に行ったのは、物見遊山に行って偶然知ったのではなく、危機情報に触発されて現地を実地に見るべく行ったと見るべき・・危機情報の具体的収集目的で行ったものと思われます)
林子平の人となリは以下の通りです。
https://docs.google.com/document/d/1B_k-2lcstvNhZWWRqkWpEo0Evf1mJlU7NLjlDEZOEak/edit
子平はみずからの教育政策や経済政策を進言するが聞き入れられず、禄を返上して藩医であった兄友諒の部屋住みとなり、北は松前から南は長崎まで全国を行脚する。長崎や江戸で学び、大槻玄沢、宇田川玄随、桂川甫周、工藤平助らと交友する。ロシアの脅威を説き、『三国通覧図説』『海国兵談』などの著作を著し「およそ日本橋よりして欧羅巴に至る、その間一水路のみ」と喝破して当時の人びとを驚かせた。」
上記の通り1787年出版の仮に10〜20年以上も前から現地人が怖がっている情報を得た可能性があります。
1738年生まれの林子平が成人した頃の1760〜70年ころには、以下のピョートル大帝の時代から約7〜80年も経過していることを見れば、すでにロシア人が武力を背景に樺太〜北海道付近に頻繁に出没してアイヌの人がかなり困っていたから松前藩に通報があったのでしょう。
アイヌ人はもともと日本列島を根拠地としながら北方系・・千島列島やシベリア〜満州北部〜今の沿海州方面との交易を行なってきた平和的種族です。
・・・この辺の事情は15年ほど前に函館市内の美術館を見学して知った知識をこのコラムで書いたことがあります。
アイヌはシベリア方面の異民族との接触に慣れているはずですが、そこに従来型暗黙のルールでの交易無視の暴力主体のロシア系集団が現われたので松前藩に相談するようになったのでしょう。
ロシア史から見れば以下の通りです。
http://www.y-history.net/appendix/wh1303-004.html
「ロシアはシベリアを東進、17世紀中ごろピョートル大帝の時、黒竜江(アムール川)を下って沿岸に城塞を築いた。その頃、康煕帝のもとで全盛期を迎えていた清王朝は、ロシアの南下に反撃し、1689年両国はネルチンスク条約を締結した。清がヨーロッパの諸国と結んだ最初の条約である。この条約で清は外興安嶺までの黒竜江左岸を確保した。
 ついで雍正帝の時、1727年のキャフタ条約で、中央アジア方面のロシアと清の国境を確定した。 → ロシアの南下」
ピョートル大帝については以下の通りです。
http://www.y-history.net/appendix/wh1001-148.html
「また東方ではシベリア進出を推し進め、清の康煕帝との間で1689年にネルチンスク条約を締結し、国境を確定した。また1697~99年、コサックの隊長ウラジーミル=アトラーソフにカムチャツカ探検を命じ、日本との通商路を探った。晩年にはベーリングを派遣してカムチャツカ、アラスカ方面を探検させ、ベーリングはアラスカに到達した。」
以上によると、1600年代末から、太平洋に到達していたこと・進出を果たしていたことが分かります。

ロシアの脅威8(アイヌとは?)

昨日日露和親条約を紹介しましたが、交渉時の経緯を見るとアイヌとは言うものの彼らを日本は異民族とせずに日本人の仲間であるが、せいぜい職業・居住地(会津人と言うように)が違う程度として日露双方が扱って来たし、アイヌもそれを当然と受けとってきたようにみえます。
アイヌ人は元々漁労狩猟等を生業とする生活者で戦闘要員的素質がありません・これが稲作その他農業生産の北上につれて生活圏が縮小していった・・あるは稲作その他農耕生活を取り入れないであくまで狩猟をやめなかった職業人をアイヌというようになったのかも知れません。
今の列島内でも「またぎ」等の狩猟に頼る職業人がなくなっていき、漁民その他居職人関係者が減って行くのと同じす。
私は「アイヌ人」別人種というものはない・狩猟や川魚を取るだけの職業を営む生活圏が関東地方から順次縮小していったただけの日本人の仲間でないかという素人的感想を抱いています。
日本列島がこの地域まで東西に延びているのが、関東から急速に北向きに折れ曲がっているので、縄文・弥生の混在とは言うものの農耕文化の拡大がこの辺の緯度で長年足踏みしていたことがわかります。
元々農耕向きの気候でなかったので遅くまで縄文式生活が残っていたのですが、これが気候変動と品種改良によって徐々に北上するにつれて縄文式生活圏が縮小・徐々に農耕に転職して行く人が増えてきた・旧来縄文式職業人がへってきたということでしょう。
明治以降で言えば、農漁業従事者が徐々に減ってきたのと同じです。
農民や漁民を小数民族という人は誰もいないでしょう。
雑貨屋やホカホカ弁当屋がコンビニに負けて無くなっても先住民保護という人はいません。
日本列島内で昔あった職業がなくなって行く事例はいくらでもあります・それら職業人等を〇〇人ということがいくらでもありますが、それは〇〇地域の住民とか職業集団をいうに過ぎないのであって民族集団ではありません。
ロシア人が知床に来た時に、現地アイヌ人が「大変だ」とまず支配者である松前藩に通報したのは和人と言う異民族に支配されている人たちというよりは、自分を守ってくれるありがたい関係・・例えば本州内の戦国時代に領国沿いの山奥で狩猟採集している職業集団が山向こうの領主が密かに山越えを準備していると知って大急ぎで平野部にいる領主様に通報するような関係に似ています。
北海道防衛に戻しますと北海道の知床〜根室あたりの防衛のために、寒さの経験のない本州の武士団をいきなり送り込んでも・・大勢の戦力を北海道縦断で陸路送り込むのは後続兵士投入路〜食料補給に窮しそれだけでもどうにもならなかったでしょう。
この経験から明治維新後北辺の防備にはまず地元勢力の育成が必須ということで、急速に北海道への屯田兵入植政策が進見ました。
この防衛基本戦略は満州への開拓団送り込み政策にも影響を与えたでしょう。
対ソ満州防衛では日本が、アメリカに降伏した後だったのと対米軍との最前線であった占守等防衛と違い、ソ連とは不可侵条約があったので安心して?精鋭を南方へ転出させていたので、ソ連軍の侵入に対して戦わずして降伏した結果開拓団がいても兵力供給源として貢献できず却って、開拓団の存在が敗戦時に被害を大きくしてしまった・・千島列島のようのスムースに民間人避難ができなかったことになります・・。
対馬上陸事件に戻ります。
ロシアは日露和親条約締結でお互いの国境線確定が終わっていた(樺太に関しては未定のままの条約)のに対馬に無断上陸・侵入したことになります。
そこで日本はロシアの行為は国際ルール違反であると列強に協力要請できた法的根拠があり、当時の覇権国=ルール担保権者である英国が黙っていられなくなったのでしょう。
ロシアの対馬上陸事件に対するイギリスの介入はイギリスの威信を示すチャンスでもあり、日本のためにここで動いておいた方が後々メリットがあると考えて動いてくれたと思われます。
日本では、ソ連発のコミンテルンの影響を受けた思想界支配の結果か?何故かアヘン戦争による西欧列強への危機感の覚醒ばかり強調されています。
本当の日本の危機は、江戸時代中期から幕末にかけて北辺に出没するようになっていたロシアの対日進出意欲でした。
日本では百年ほど早くから恐れられていたロシアの動きを報道したり教育したりあるいはこれを描く文芸作品は滅多に出てきません。
西欧諸国と接触の歴史はロシアよりも早く戦国時代頃から徐々に始まっていましたが、それは東南アジア諸国〜ルソン〜台湾や沖縄の海上ルートあるいは中国を経由しているので事前情報が豊富でした。
仮に戦争になっても相手は海路何万里の彼方からくる関係で、砲撃戦で一時的に負けても持久戦で追い払らえる自信がありました。
これが気楽に薩英戦争や長州の4国連合艦隊との戦争をできた原因ですし、負けても全く何も譲る気持ちがないと頑張りきれた背景です。
西洋列強も上陸敢行しても日本得意の夜襲につぐ夜襲を受ければ橋頭堡を維持できないリスクがあるので、結局なにも得ないで引き下がるしかなかったのです。
対ロシアでは知床付近どころか北海道全域に地元武士団がゼロですから、持久戦・夜襲に持ち込む下地がありません。
ロシアは本拠地から遠いとは言っても地続きですぐ近くまで来ている強み・地続きなので飛び地確保ではなくじわじわと侵食してくる脅威です。
ここが、飛び地確保に頼る西欧列強の脅威とは本質的に違っていました。
日米戦も最後には、この伝統的手法の有効性を沖縄防衛戦で立証した結果、(艦砲射撃の届かない内陸戦になると火力優位の威力がなくなる・・幕末ころにはなおさらでした)米軍が本土上陸作戦実行をためらうことになり、ポツダム宣言受諾を強要するために原爆投下したというのがアメリカの主張です。
対ロシアでは日本の伝統的国土防衛手法が成立しないことを知っていた幕府の対ロシアの脅威は半端ではなかったでしょう。
このマイナスを防ぐには国防面では日本が優勢な相手である欧米との交渉によって、(領土では一切譲らない代わりに貿易で譲る基本・・小笠原その他帰属のはっきりしない島々もアメリカに認めさせてしまいました)ルールを決めてロシアをこれに従わせるしかなかったことにとになります。
私は幕末の日本側の基本戦略は大成功であったと思います。
今後さらに数十年以上かかって明治政府系統の流れが終わり、一方でコミンテルン支配が残る思想界が正常化すれば、日本の近現代史が書き換えられて行くのでしょう。
以下、ロシアの脅威がいつ頃から始まったかについて私なりに見ていきます。
幕末というよりも江戸時代中期以降対ロシアの脅威を前提に海防の必要性が盛んに議論されるようになっていたことは、林子平の海国兵談などの書物が発行されるようになったり、間宮林蔵の樺太探検がおこなわれた事跡により明らかです。
海国兵談や間宮林蔵の樺太探検程度のことは学校でも教えますが、そこから約80年も後のアヘン戦争に何故か歴史教育が直結誘導していくのですが、彼ら国防を憂える人々の活躍は全てロシアの脅威に対するものであって西欧列強の脅威の始まるずっと前・・80年近くも前からだったのです。
80年前と言えば、日本敗戦からまだ70年過ぎたばかりですから、今よりも寿命のずっと短い時代における80年の差の意味が分かるでしょう
江戸時代の人たちは、もっと早くから西欧の動きを知っていましたが、それほど脅威に感じていなかった・・本当はどちらの方が怖いか早くから良く知っていたのです。

ロシアの脅威7(日露和親条約)

関税と違って主権にかかわるので重要性が違うという人がいるかも知れませんが、治外法権制度も領土さえ失わなければ実際に不都合な事件が起きれば・・例えば沖縄でちょっとした?事件が起きる都度米軍地位協定の見直しが行われてきたのを見ればわかるように、不都合な事態が起きればそれに合わせた修正可能です。
また治外法権でなくとも、幕末に異人の殺傷事件が起きると幕府は放置できず幕府は厳罰に処してきました。
米軍関係の治外法権を残すのが嫌・米軍基地も出ていかないなら返してもらう必要がない・・・ということはこういうものが残るならば主権回復不要論となりますが、この種のバカげた主張がメデイアと旧社会党意見でした。
このメデイア攻勢のために、早期円満返還を求める政府としては何もかも反対では返還交渉ができないので基地を原則現状維持とする外密約が残ったことになります。
今でも基地が残ったことに対して沖縄にだけ「負」を押し付けているというのですが、押しつけているのではなく、基地付きでも返還された方が良いから返還を求め沖縄県民も一刻も早い日本復帰を求めた結果を無視した意見です。
基地付きでないと返還が無理であった現実を前提にその後出来るだけの基地縮小交渉や地位協定等を少しずつ改正しながら現在に至っているのですから、沖縄県だけに日本全体が押し付けているのではありません。
国際情勢の変化で三沢基地等の比重が下がったのに対し、中国の台頭により沖縄の戦略的比重が上がった結果沖縄基地の重要性が低下しないのであって特に沖縄に対して意図的に犠牲を強いているものではありません。
沖縄の基地反対の論理は基地付きでもいいからと返還してもらった後で、主権国家に米国基地があるのが許せないという無茶を言っていることになります。
韓国の徴用工問題などの蒸し返しに似た思考法ですから、どこの国がバックにいるのかと疑問に思うのは仕方のないことです
基地問題は、これを受け入れて平和裡に返還された以上は、価値的に相容れない反対運動ではなく、地位協定の条件改定運動同様に文字通り対話によって粘り強く米国と交渉していくしかない分野です。
ソ連の側から見れば、アメリカによる戦利品・・占領地である沖縄の返還=日本主権回復は困る・・北方領土返還運動に発展するから無条件返還という米国が飲めるわけのない完全条件要求運動を応援したい・沖縄返還交渉を決裂させたいのは分かりますが、日本人の立場からすれば、不完全でもまず主権回復の方が良かったのです。
サンフランシスコ講和条約の時も革新系政党はソ連を含めた全面講和以外絶対反対・何十年先にあるかすらわからない半永久的・・米ソ冷戦が終わるまでは日本は独立する必要がない・・米軍による日本占領支配が続いた方が良いというのが革新系政党とメデイアの主張でした。
米ソ冷戦が終わっても今なお米露が争っているように、完全平和などあり得ない条件をつけていると日本は本日現在も主権回復していなかった・・結果的に今なおアメリカの占領支配下にあれば、米国産業を脅かすことなど許される余地がない・・高度成長などできなかったし、現在の繁栄もあり得ない・・今の北朝鮮のように食うや食わずのままで独りよがりを言っていた可能性があったでしょう。
講和条約で言えば、完全無欠でなくとも一刻も早く独立国家になることが先決であるのと同様に、沖縄返還も国益を総合すればかなりの部分で譲歩しても領土主権をまず確保することが先決です。
領土主権さえ確保すればあとは時間をかければ、細かな条件は円満な関係が続けば何とかなっていくものです。
背後の中ソ応援を受けていると円満な付き合いよりは対立を選ぶでしょうから、余計こじれるのです。
現在も中国さえ日本を威嚇しなければもっとスムースに基地縮小が進むはずです。
一方で威嚇して基地縮小が進まないように仕掛けながら、もう一方で背後で基地反対運動をけしかける・・それに乗るグループがいるから複雑化します。
幕末の不平等条約締結のメリットに戻ります。
問答無用のロシアの圧力・危機緩和のためにはさしあたり英米を中心とする西欧勢と条約を結び領域確保するしかない・・その結果ロシアもその例に倣うことにならざるを得ないように仕向けたメリットがあったのです。
1854年3月に日米和親条約が締結されるとこれがその他西欧諸国の基本例規になり、ロシアもこれに従って55年2月の日露和親条約となり、函館に領事館をおくようになったことを9月15日に紹介しました。
この点は江華島沖事件の紹介で少し書いたと思いますが、簡単でないものの大まかにいうと条約締結していない国との間では(領土範囲が決まっていない以上?)どこ国の船が湾内に入ろうが自由であるというのが不文律の国際ルールになっていたようです。
ロシアは和親条約を締結した以上は、勝手な湾内侵入権がなかったし、ましてや勝手な上陸権などある筈がありません。
日露和親条約で国境線確定に至らなかったカラフトについては、アイヌ人の居住区域で分ける基本線を前提にしていたのですが、アイヌ人の居住区域がはっきりしない面があって、将来の成り行きで決めようと言う現実的交渉の結果国境線確定が先送りになったようです。
また以下によると領土以外は変更が簡単・片務契約の点は双務にすぐに変更されています。
日露和親条約に関するウィキペデイアの記事からです
主な内容
千島列島における、日本とロシアとの国境を択捉島と得撫島の間とする
樺太においては国境を画定せず、これまでの慣習のままとする
ロシア船の補給のため箱館(函館)、下田、長崎の開港(条約港の設定)
ロシア領事を日本に駐在させる
裁判権は双務に規定する
片務的最恵国待遇
本条約では最恵国待遇条項は片務的であったため、3年後の安政5年(1858年)に締結された日露修好通商条約で双務的なものに改められた。
樺太国境交渉
条約交渉開始時点では樺太の国境を画定する予定だったが、両国の主張が対立したため国境を画定できなかった。
長崎での交渉の中でロシア側は、樺太最南部のアニワ湾周辺を日本の領土とし、それ以外をロシア領とすることを提案した。日本側はそれに対して、北緯50度の線で日露の国境とすることを主張した。
安政2年12月14日(1855年1月31日)、樺太に国境を設けず、附録で、日本人並に蝦夷アイヌ居住地は日本領とすることで一旦は合意した。このとき、川路は蝦夷アイヌ、なにアイヌと明確に分かれているので混乱の恐れはないと説明した。2月2日の交渉で、ロシア側は附録の部分の蝦夷アイヌを蝦夷島アイヌとすることを提案した。翌日、日本側は、蝦夷島同種のアイヌとすることを提案したが、ロシア側の反対が強く決まらなかった。4日、ロシア側から、附録は無しにして、本文に是迄通りと書けば十分ではないかと提案があり、5日にはロシア側提案通りに決定した
その後、樺太国境問題は、慶応3年(1867年)の日露間樺太島仮規則を経て、明治維新後の1875年(明治8年)5月7日の樺太・千島交換条約によって一応の決着を見ることになる。」

免責事項:

私は弁護士ですが、このコラムは帰宅後ちょっとした時間にニュース等に触発されて思いつくまま随想的に書いているだけで、「弁護士としての専門的見地からの意見」ではありません。

私がその時に知っている曖昧な知識を下に書いているだけで、それぞれのテーマについて裏付け的調査・判例や政省令〜規則ガイドライン等を調べる時間もないので、うろ覚えのまま書いていることがほとんどです。

引用データ等もネット検索で出たものを安易に引用することが多く、吟味検証されたものでないために一方の立場に偏っている場合もあり、記憶だけで書いたものはデータや指導的判例学説等と違っている場合もあります。

一言でいえば、ここで書いた意見は「仕事」として書いているのではありませんので、『責任』を持てません。

また、個別の法律相談の回答ではありませんので、具体的事件処理にあたってはこのコラムの意見がそのまま通用しませんので、必ず別の弁護士等に依頼してその弁護士の意見に従って処理されるようにしてください。

このコラムは法律家ではあるが私の主観的関心・印象をそのまま書いている程度・客観的裏付けに基づかない雑感に過ぎないレベルと理解してお読みください。