中国の脅威(羅津港租借)1

北朝鮮リスクはまだ遠い先のことですが、当面の危機では中国リスクが第一です。
日本は伝統的に九州から西南諸島方面への防衛線が厚いと17〜18日頃に書きましたが、今も中国による日本侵攻の道筋は最先端に位置する尖閣諸島への攻撃から始まっています。
中国は日本の重厚・縦深防御線をいわば槍の穂先を突ついているような関係でこれを突破するには大変なので、日本の戦力を散らす・・日本海等で陽動作戦をしたい状況です。
昔から、防衛の要諦・・砦への侵入路が少ないほど良い・3〜5人しか通れない一本の細い道しかなければ百人で千人の攻撃を支えるのに有利ですが、10箇所の進入路があると守る方は百人の兵を10箇所に分散する必要がありすぐに陥落します。
中国が日本の10倍の兵力があっても尖閣諸島集中では有効に使えないので、日本の防衛力を分散させる目的になるのは当然です。
日本の防衛戦を2正面作戦に直面させようとする長期戦略が動いています。
上海や福建省から漁船や公船出動では、遠すぎてコスト・時間がかかりすぎて日本に対するいやがらせより自分の方が持たない難点があります。
そこで、満州(今の吉林省)から直接日本海への出入り口確保(通商路)という名目で、北朝鮮の羅津港の租借に2005年に成功しています。
https://ameblo.jp/risingshiningsun/entry-11206253808.htmlによれば以下の通りです。
金正日政権は05年9月には朝鮮半島最北端の不凍港、羅津港の50年間の租借権を中国に渡した。
この港は1932年に日本が満州国と日本本土を結ぶ最短交易港として開港したもので、戦略的に非常に重要な意味を持つ。
65年には旧ソ連が同港を租借してベトナム戦争の軍事物資の輸送拠点とした。
その戦略的拠点の使用権を中国は50年間の長期にわたって確保したのだ。
しかも使用形態は、中国が北朝鮮の国土を借り上げ、そこで中国が行政権を執行するというもので、紛れも無い租借である。
※地図を逆さにすると、羅津港の戦略的重要性がよりよく分かります。
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情報元:ひめのブログ 

以上の地図を見るとわかるように、この港湾稼働後に(細々と稼働しているようですが、今後大規模基地化して)日本の背後をつく陽動作戦基地化に成功(・・北朝鮮が応じればの話です)すると大変です。
ここを航空母艦の寄港地にできると、補給改修のため青島大連あたりまで毎回帰らなくとも良いので、日常的に日本近海をうろつけるようになります。
その上黄海・東シナ海に出るには水深が浅いのが難点で潜水艦が外洋に出る前に日米に逐一探知される弱点があると言われていますが、羅津港を潜水艦基地にできると自由度が飛躍的に増します。
・・日本のワキ腹に位置するここを根拠地にしょっちゅう日本海に出没してあちこちの領海侵犯を繰り返すようになると、日本はこの方面での対応に兵力資源を分散させる必要が生じます。
今は上海や福建省あたりから漁船団が尖閣諸島に出てくるのでコスト的に沖縄周辺が限界ですが、羅津港を基地にすると日本列島の何処へでも簡単に行けるので、好きなところで経済水域侵犯などが簡単にできるようになります。
羅津港は船の港であって空軍基地ではないですが、空母の寄港地にできれば、空母発進機によって新潟近く・・日本海側への示威飛行を繰り返しても大してコストがかからないので今後毎日多数回やれます。
日本は日本海沿岸でも、スクランブル用の自衛隊機や違法操業対応の巡視船の数(乗務員等の兵士数)を増やすコストが今の数倍増になります。
近年中国が執念を燃やしている航空母艦製造〜就役は、将来的に多方面からの接近作戦展開の布石でしょう。
航空母艦発着ならば紛争地の近海からの発着なので現地滞空時間が何倍も長くなります。
上海付近あるいは青島付近から発着戦闘機等が対馬や九州付近を往復飛行するには、九州付近での滞空時間がほんの短時間しかありませんが、近くに待機する航空母艦からの発着ならば少ない飛行機で何倍もの往復可能です。
中国は、この1ヶ月ほど東京空爆用の爆撃訓練を印象付けながら、(公海上限定ではありますが)頻繁に紀伊半島沖まで来ては引き返す爆撃機の飛行訓練実施中ですが、西南諸島方面から北上するパターンの場合航続距離の限界だけではなく、東京までの長距離移動がある結果、途中の長距離区間の制空権を確保してからでないと横から迎撃されるリスクが高くなり現実的ではありません。
これが航空母艦発着になると、開戦前に東京付近に出向いておけば(開戦前に領海外に停泊している限り日本の近くに来ているのはけしからんというだけでは日本は先制攻撃できません)いきなりの東京奇襲攻撃が可能になります。
領土と公海までの距離(領海は昔艦砲射撃の射程距離・3海里の限度で決めた歴史があって)はほんの12海里しかありませんから、領海外にいる母艦から戦闘機や爆撃機が発進すれば1分以内に東京上空に達するでしょう。
ウィキペデアによると以下の通りです。
「領海(りょうかい、英語:territorial sea)とは、基線から最大12海里(約22.2km)までの範囲で国家が設定した帯状の水域であり、沿岸国の主権が及ぶ水域である(右図参照)[1][2][3]。沿岸海(えんがんかい)といわれることもある[1]。領海、領海の上空、領海の海底とその地下には沿岸国の主権が及ぶ」
以上のように中国はできるだけ戦線拡大をはかり、日本の対応力の限界を目指す展開です。
一方で内部工作として沖縄の先住民運動を仕掛け、内部から呼応する勢力を育成するなど多角的戦線拡大を目指していると見るべきです。
対中領土争いは、単なる物的支配欲にとどまらず中国の報復怨念に基づいていることから、尖閣だけを譲れば次は沖縄が元から中国のものだと言い出すなど次々と因縁をつけてきて次は九州占領と際限がない・・最後は満州でのソ連の蛮行・・以上の悲惨な占領結果が待っていると見るべきです。
経済力に関しては日米安保が機能する限り日米合体の経済力になりますが、内部工作防衛はアメリカ頼みでは防げません。

ロシアから中国の脅威へ(中ソ対立)

日本にとってロシアが最大の脅威であった構図が変わったのは、日露戦争後の日本の台頭〜日本が第一次世界大戦後米国の人種差別批判を始めたこと・その他中国での利権争いその他総合的対立激化によって、対日オレンジ計画開始〜アメリカ国内での反日・排日気運の たかまりに乗じコミンテルンの日米離間工作にルーズベルトがまんまとハマって日本攻撃を目ざしたために守るべき相手が米国に臨時的に変わっていたにすぎません。
クリミヤ戦争で敗退後のロシアにとって残された出口としては東方・・草刈場である満州〜中国方面しかなかったのですが、そこに頑張っていた日本が目先の邪魔でしたし、当時の列強では最も孤立させやすい敵でした。
コミンテルンの浸透標的が中国内部呼応・共産党勢力の育成と目先の覇者である日本弱体化をはかるには、日米離間が最有効・・優先テーマだったでしょう。
日本敗戦後再び日米共に主たる敵がソ連に戻って「国防」といえば、北方から攻めてくるソ連が対象で三沢基地をバックにした北海道防衛中心でした。
ソ連崩壊後、この20年あまりロシアは領土拡張どころではなくなったはずなので、(とは言え、ロシアはこの後で紹介しますが、今なお対GDP比で見ると分不相応な軍事費をかけて軍事強国を維持しています・・)この隙をついて今度は中国の対日挑戦が始まりました。
中国は独立以来国内権力確立〜国内生産力近代化に忙しく日本侵略どころではなかった上にようやくある程度落ち着いたところで中ソ対立が始まったので、応援してもらっていたソ連からの脅威に悩まされていました。
当時モンゴル国境から北京までわずか60キロしかないので、ソ連得意の戦車隊が約1〜2時間で北京を蹂躙されるとメデイアでは報道していました。
中ソ対立についてはhttp://www.y-history.net/appendix/wh1603-048.htmlによれば以下の通りです。
「同じ社会主義(マルクス=レーニン主義)を掲げて共産国家建設を目指していたソ連と中国は中ソ友好同盟相互援助条約(1950年締結、1979年消滅)で結ばれた同盟国であったが、1950年代後半から革命観の違い、戦略論の違い、国際政治上の意見の対立などが目立ち始めた。きっかけは1956年のソ連のスターリン批判であり、平和共存路線をとるようになったことであった。中国共産党の毛沢東はスターリン路線の継承する立場からフルシチョフらソ連共産党の転身を修正主義であるとし、また平和共存路線は帝国主義への屈服であるとして受け入れないと姿勢をとった。」
「はじめは理論的な面での論争が主であったが、1958年の中国軍の金門・馬祖島砲撃事件や59年のチベット反乱と中印国境紛争など緊張が高まる中、1960年代からは公然とした非難を互いにぶつけあう対立となった。ソ連は59年、核兵器開発への協力を中止、さらに中ソ技術協定を破棄し技術者の引揚げを通告、対立は決定的となった。
 毛沢東は独自の社会主義建設を目指して「大躍進」運動を開始し、第2次五カ年計画ではソ連の援助なしの工業化をめざした。また1962年のキューバ危機を回避した米ソ両国が、63年に部分的核実験停止条約に合意すると、それに反発して自前の核兵器開発を始め、64年に中国の核実験を成功させた。同年のフルシチョフ失脚後も対立は続き、65年ごろから本格化した文化大革命でも毛沢東はソ連を修正主義として激しく非難した。」
「文化大革命の国内闘争が激しくなり、ソ連の社会主義も硬直した指導部の下で経済の停滞を招き、70年代には米中が接近するという状況となった。76年には毛沢東が死去し、情勢は変化の兆しが見え始めた。79年2月には中越戦争が起き、ソ連はベトナムを支援、再び関係は悪化した。しかし、中国の華国鋒指導部はベトナムから撤退を余儀なくされて指導力を低下させた。同年、50年に締結された中ソ友好同盟相互援助条約も期限切れになり、延長されずに廃棄された。あらたな中ソ関係の模索が始まったが、同年12月、ソ連のアフガニスタン侵攻が起きると、中国はソ連の覇権主義を非難して、翌年のモスクワ=オリンピックをボイコットした。」
これがキッシンジャー訪問による米中和解でソ連の圧力が縮小〜ソ連崩壊ですから、中ソ対立の勝者は米国を味方につけたスターリン主義に固執する中国であったことになります。
ソ連を継承したロシアは今でも軍事力は大きいものの中国にとってはさしたる脅威に感じなくなっている・・中国は文字通り後顧の憂いをなくして安心して南進膨張出来る好機となった上に、中国の改革解放以来国力が飛躍的に大きくなった結果、中国が自信をつけて米国の抑えが効かなくなって来ました。
今回の一連の北朝鮮に対するトランプ氏の脅しが全く効き目がないことを見れば、中ロは実験段階どころか実用化されたもっと大量の核兵器・運搬手段を保っているのですから、今後アメリカの脅しに対してなんの恐れも抱かないでしょう。
強制力を背景にした脅しには、自己の道義に反した要求貫徹のための違法な脅しと定着している国際ルールを守らせるための脅しの二種類があります。
法治国家による裁判を経た執行力の確保と暴力団の実力行使の違いです。
アメリカがイラク侵攻を初めとして違法な実力行使をし過ぎたから・・という道義的分析も可能ですが・・欧米秩序である法の支配が色あせて島田っと見えますし、結果として合法違法を問わずにパックスアメリカーナの強制能力が縮小に向かっていることが明らかです。
核兵器保有国同士では相手の行為が違法であろうとなかろうと互いに手を出せない関係ですから、アメリカが南シナ海で自由航行作戦と言って軍艦を航行させても中国は手を出せない・その代わり今度は中国がアメリカ近海でデモンストレーションをしてもアメリカも手を出せない・お互い嫌がらせ自由の関係になって行きます。
そのうち近海どころか、お互いが相手領海内〜国内に自国軍を無断侵入させ〜上陸させて兵が暴れても、相手国は手出しできなくなる・・無法状態が始まるのでしょうか?
お互い無法状態では困るので一応のルール・・外交官だけは治外法権という節度を設けていますが・・。
個人間で言えば、リヴァイアサンの時代から徐々に強制的な法がなくともお互いを尊重して道を譲りあうようなルールが定着して来たのです。
ライオンその他動物界でも自分の方が相手よりも何割か強いとしても、むやみに闘争していると勝った方の受傷が致命傷ではないまでも、(一部の怪我でもそのウチに化膿するし、骨折でも)走力が落ちて餌を追いかけられないと結果的にすぐ飢え死にしてしまいます。
こういう知恵の結果むやみな争いが起きないように文字のない動物界でも、お互い道を譲り餌の取り合いや水場で狩をしないなどのルールが自然発生的?に生まれています。
北朝鮮が望んでいる核保有国になった場合には、この初歩的・動物界的ルールさえ成立しない状態に戻るのでしょうか?
過去のルールに何でも反対する・日本に北朝鮮の軍人が不法上陸してこれを逮捕すると釈放しないと核兵器をぶち込むと威嚇する・・釈放すると白昼公然と日本人技術者を拉致して北朝鮮に連れて行く・・市場相場の10倍の代金を要求する・・文句を言うならば核爆弾をお見舞いするという脅迫が横行するようになると・・リバイアサンの時代に戻ります。
アメリカは、これを言い立てて・・無秩序状態化阻止のために制裁が必要と主張しているのですが、本当にそうなるかどうかはわかりません。
どうしょうもないライオンもいるでしょうが、それでも全てのライオンに爪や牙を持たせているのが自然界です。
爪や牙があるからといって、ライオン同士でしょっちゅう喧嘩してはいません。
北朝鮮は、今は誰も認めてくれないのでヤケになっているが、核保有国になって一人前扱いしてくれれば自信が出て普通の国になるのでしょうか?
世界中が核兵器保有国になったらどうなるかの実験をしてみるしかないのかもしれません。
バカな人がたまにいて刀を振り回し銃乱射する程度ならば、周囲の被害も局地的でその人個人が自滅するだけでしたが、相手の横暴があまりひどい場合、怒った国が受けて立つ・・間違って核兵器の応酬になれば、全人類がほぼ滅びます。
原発問題で放射能の半減期縮小の研究が進んでいることを紹介したように、核兵器無力化あるいは防御システム化が進む可能性があるでしょうが、ここ30〜40年程度では核兵器から身を守れる人は全体から見れば微々たるものでしょう。
ノアの洪水のような人類の試練が来るのでしょうか?

ロシアの脅威13(道義無用2)

昨日紹介した通りロシア経済の原油依存度は半分ですが、残り半分もその他資源輸出と兵器輸出が主力ですから、資源相場が下がると経済は大変です。
同じく日経の記事からです。
ロシア株、戻り鈍く 伸び悩む原油価格 重荷 世界株番付
2017/8/21付
ロシア株の戻りが鈍い。ロシア経済の稼ぎ頭である原油の価格が停滞し、先行きに不透明感が強いためだ。ウクライナ問題を巡り米国でロシアへの経済制裁強化法が成立したのも株価の上値を重くしている。
ロシアの主要株価指数であるRTSは6月21日に年初来安値を付けた。その後も反発力は弱い。原油価格の伸び悩みが重荷だ。原油価格は経済への影響が大きく、株価との連動性が高い。北海ブレントの先物価格は6月に1バレル45ドル前後まで下落した。
その後は反発したものの、現在でも50ドル前後と昨年末を1割程度下回っている。石油輸出国機構(OPEC)による協調減産が思うように進まず、需給が引き締まらないとの懸念がくすぶっている。」
ロシアとって資源しか売りがない?→資源が下がれば軍事力の誇示しかない?
http://ecodb.net/exec/trans_image.php?type=TS&d=OILE&c1=RU
ロシアの貿易
1995   1996   1997    1998   1999   2000   2001   2002    2003    2004
19.85   22.51   22.70    13.67  18.90   34.52  32.87   38.95   50.97    74.39 
2005    2006   2007    2008   2009   2010   2011    2012    2013    2014
113.60   141.13  166.39  230.61  140.82  197.71  263.79  285.32  283.98   270.56   
2015
157.86
単位: 10億USドル
上記の通りロシアは、1900年代に比べてこの10年間ほどは、約10倍以上の輸出代金を得ていたことがわかります。
世界ネタ帳によれば以下の通り輸出品奥のうちエネルギーと金属で約80%を占めています。
http://ecodb.net/country/RU/trade/
基本情報
輸出品目
燃料・エネルギー製品 70.6%、金属および同製品 7.7%、化学品 5.8%
輸出相手国
オランダ 13.3%、イタリア 7.5%、ドイツ 7.0%
輸入品目
機械・設備・輸送機器 48.5%、化学品 15.9%、食料品・農産品 13.7%
輸入相手国
中国 16.9%、ドイツ 12.0%、アメリカ 5.2%
出典: JETRO (%)は金額の構成比を表す。
上記の通りロシア経済は原油その他資源にたよっているので、原油価格が100ドル以下では苦しいと言われていました。
今年春頃漸く成立した産油国協調減産によっても50ドル台を回復・維持するのがやっとですから、ロシア経済の深刻さは推して知るべき状態です。
ここ数年ロシアのコワモテ行動が派手になってきた原因は、経済不振の裏返しと見るべきでしょう。
ロシアが北朝鮮核開発開発に秘密裏に協力し国際制裁に反対し裏から石油など供給する姿勢を見せる意図が露骨ですが、ロシアが原油等の資源価格値下がりで困りきっている弱みが対外強硬路線・逆張りになっている点では北朝鮮と同じです。
ウクライナ侵攻で経済制裁されて余計イキリ立っている点も北朝鮮と状況が似ています。
ロシアや中国〜朝鮮系は困れば困るほどと居丈高になるので、豊かにしてやれば少しは紳士的になるかと期待して応援してやって経済が良くなると、自信過剰?傲慢になって権利以上のものを要求する・・どちらになっても手のつけようのない困った民族です。
ロシアは困窮状態では相手の要求・北方領土返還に応じるどころではないし、豊かになればなお日本の主張を聞く必要がないということで、どちらに転んでも平和裡の交渉解決不能な相手です。
韓国の慰安婦その他の要求も同じで困っている政権は引き下がることができないし、国が好調にならば自身過剰になって自分の方が強い以上は、弱い相手をいたぶればいいのであって、妥協する必要がないとなるので、この種のメンタリティの国と100年〜1000年たっても交渉解決は不能です。
ロシアのウクライナ侵攻に戻します。
鉄面皮な覆面部隊の侵攻はもともと朝鮮戦争での中国義勇軍参加も同様の手法でしたし、もっと遡ればルーズベルトの日中戦争介入行為もアメリカ国籍を塗り消した飛行機を供与し操縦もアメリカ軍人が行っていたものでした。
尖閣諸島への連日の公船と称する武装船舶や漁船と称する実力行使もこの一環です。
18〜9日に書いた北海道防備力不足については、明治以降の北海道への開拓団入植政策による和人定着と牧畜やじゃがいもその他の農業系の定着によって、(最近では地球温暖化のせいか?稲作地帯になっています)安定的な領土に変貌しました。
明治以降も国土防衛の第一目標は城で言えば「もっとも防御力の弱い搦め手から攻めてくるソ連」であることは変わっていませんでした。
これが日露戦争の主原因であり、幕末にロシアが対馬に上陸して居座ったときに英米等西欧諸国が日本を応援したのと同じ構図でした。

ロシアの脅威12(道義無用1)

ところで19世紀の西欧列強の外交を砲艦外交とは言うものの、ロシアのように裸の武力行使による侵略ではありませんでした。
ペリー来航時の交渉も砲艦は背後にあっとしても、現在のアメリカ軍背景の威力による国際交渉同様に一応西欧の作った価値観による法原理・道理による交渉が可能な相手でした。
※ただし、一方的情報しか知りませんが、これまで日本で教育・報道されている限りでは、アヘン戦争は密輸禁圧に対する攻撃によるものですから、文字どおり仁義なき戦いと言う教育を受けてきました。
密輸であったとすれば、密輸を取り締まるのは、清朝の専権事項ですから・・。
林則徐は密輸入した中国人を処罰するだけではなく、イギリス商人の保管するアヘンを没収処分したことが戦争のきっかけです。
当時の条約では国内取り締まり権の範囲をどう定めていたのかが重要です・・外国人保有資産まで没収する権利があったかどうか不明です。
国内でせっかくアヘンを禁止してもイギリス人が中国国内で持っているものを処罰没収できないのでは国内流通を防げません。
それを決めるのが、いわゆる治外法権制度の問題ですが、イギリスと中国がどのような条約をしていたかによって結論が変わってきます。
日本の江戸時代では、薩長の家臣が違法行為をしても町奉行が捜査検挙する権利はありませんでした。
この不満が嵩じて幕末庄内藩の薩摩屋敷の焼き討ちに発展したのです
坂本龍馬が薩摩屋敷に逃げ込む話があるのは、この権利によります。
米軍基地内の拳銃や武器類が横流しされると国内治安に大きな影響が出るのと同じですし、軍人の犯罪捜査権や裁判権がないのが不都合となっています。
でもそういう場合、外交ルートで解決していくのが国際政治の筋であって、(地位協定の見直しが進んで一定の犯罪について早期に捜査権や裁判権を日本に移すなど・・)国民が納得しないからといっていきなり実力で米軍基地に警察・軍事力行使で踏み込むのは、戦争開始と同じ扱いを受けます。
当時の英中間の条約・ルール関係がどうなっていたかについては、日本では教えられていません。
欧米の法治主義と言っても西欧が勝手に作ったものであっても(今も各種ルールは欧米が事実上主導しています)・・ロシアを除けば一応道義・ルールに基づく交渉可能な相手でした。
世界の覇者であった西欧の都合で国際間ルールをつくって来たとはいえ、作った以上は強者もそれを守らねばなりません・・支配者は支配貫徹のためにはルールが必須ですが今度は自分がそのルールを率先してままらないと示しがつきません。
平和が続き多角交渉時代に入ると、道理の通る割合が増えるので強国の割に思うように振る舞えないことにアメリカのトランプ氏は業を煮やしている・・1対1の取引外交に戻りたいのでしょう。
だいぶ前に書きましたが、アメリカも格好つけていられなくなって、ロシアや中国のように無茶をやりたいという地金が出て来たのです。
これに対して中国やロシアの文化(まだ文化までいかない未開社会?)・・支配のルールは、自分の方が強いか否かの基準しかありません。
強ければ賄賂でも非人道行為でも何をしても良いという実力剥きだしの社会です。
サイバーテロでも知財剽窃でも実際にやれるかどうかが基準で正義の基準・やっていいことかどうかの基準はありません。
サイバーテロが現実化していることについては、某国によるウクライナ攻撃が常態化していて電力施設まで麻痺する事態が起きていることを24日日経新聞朝刊第1面大きな紙面で出ています。
日本で言えば、原発施設その他がサイバーテロによって電源喪失になると大事故に発展します。
自分の方が強いとなれば問答無用で強盗同様の侵略・強奪をためらわないし、知財で言えば今や強い立場を利用してコソコソと剽窃する必要がないと開き直りになってきました。
情報統制に関しては、10年ほど前に情報協力だったかを要求されてグーグルは中国か潔く撤退しましたが、今度はフェイスブックが中国の言いなりの規制情報遮断に協力することで中国に進出したことがだいぶ前から問題になっています。
つい最近ではケンブリッジ大学の出版局が中国に都合の悪い出版しない・検閲協力をしていることが話題になっています。
この辺はケンブリッジ大学やフェイスブックが表現の自由侵害に手を貸しても中国内で協力するだけで世界中の表現を検閲するわけではないのであれば、中国人民が事実を知ることができず損をするだけのことですが、技術移転や知財提供の強制になると意味が違ってきます。
この10年程度では、技術移転・知財提供しないと中国市場参入させないという公然たる国家強制が始まっています。
自分が相手に強要できる力があるかどうかだけ?が基準ですから、違法かどうかどころか、侵略成功すればどんな暴虐行為を平然と行う歴史になっています。
もともと行動基準に道理・人道の基準がないのでどんな非道な行為・「非道」かどうかの基準概念さえも発達していないのでしょう。
ソ連の場合には、スターリン批判後はさすがに恥ずかしい?国際道義を気にするようになったのか?ロシアになってからの2014年のウクライナ侵攻では覆面した兵士の展開が報道されていました。
クリミア併合はウクライナ政府軍を追い出した後での住民投票によるものでしたが、その白々しさに驚きます。
ウクライナ東部侵攻も公式にはロシア軍ではないという鉄面皮な主張ですし、ウクライナに対する大規模なサイバーテロについてもロシアは知らんぷりです。
ロシアがどうしてそんなにまでして国際孤立を恐れずに領土拡張に熱意を燃やしているかの疑問ですが、ここ数年の原油価格下落に象徴される資源価格の全般的下落が、ロシア経済のボディにじわじわと効いてきたことによると思われます。
一般的には体力が弱ればおとなしくなるものですが、ロシアの場合には国力不相応の軍事力維持に執心しています。
北朝鮮や中国、ロシア(韓国も含めて)の場合には国力が劣ると大人しくなるのではなく、体面を保ち国民に対する締め付け強化(地位保全)のために対外要求がより一層激しくなる傾向があります。
こういう国相手では経済制裁は逆効果でしょう。
プーチン政権になってから、ロシア経済が好調になったので勢いが良かったのですが、その内実は生産性が上がったからではなく、資源価格高騰によるところが大きかったに過ぎません。
原油その他資源価格が下がるとロシア経済にとっては強力なダメージでプーチン政権にとっては必死でしょう。
日経新聞によるとロシアの原油依存度は以下のとおりです。
4〜5年前までは1バレル百ドル以上もしていたのですが、この数年で20ドル台に下がってしまいました。
ロシアの原油依存度は以下の通りです。
https://www.nikkei.com/article/DGXKZO08485840Y6A011C1ENK001/
ロシアルーブル、下落傾向が一服 原油価格上昇を反映
2016/10/18 14:03
「ロシアは石油に輸出や歳入の半分程度を依存しており、油価は為替や株式相場に大きな影響を与えている。原油価格の国際指標である北海ブレント先物相場は年初に一時、1バレル20ドル台後半に下落したが、4月には同40ドル台に上昇。10月に入って50ドル台に戻した。」

北方探索(間宮林蔵)

最上徳内は特定の好奇心あるいは民族的使命感による探検家でしたが、精密な北海道地図作成としては、1800年の伊能忠敬の測量があります。
彼は天文学の興味を満たすための測量でしたので、その後北海道に特別な関心を抱かずに全国地図作成に精出していた点では民族意識を基礎に身を捨ててでも頑張った最上徳内や間宮林蔵とは違います。
彼の日本全国の地図が有名ですが天文学を学んでいた彼が最初に測量したのは、蝦夷地でした。
伊能忠敬に関するウィキペデイアの記述からです。
第一次測量(蝦夷地)
測量の許可
忠敬と至時が地球の大きさについて思いを巡らせていたころ、蝦夷地では帝政ロシアの圧力が強まってきていた。寛政4年(1792年)にロシアの特使アダム・ラクスマンは根室に入港して通商を求め、その後もロシア人による択捉島上陸などの事件が起こった。日本側も最上徳内、近藤重蔵らによって蝦夷地の調査を行った。また、堀田仁助は蝦夷地の地図を作成した[104]。
至時はこうした北方の緊張を踏まえた上で、蝦夷地の正確な地図をつくる計画を立て、幕府に願い出た。蝦夷地を測量することで、地図を作成するかたわら、子午線一度の距離も求めてしまおうという狙いである[105]。そしてこの事業の担当として忠敬があてられた。忠敬は高齢な点が懸念されたが[106]、測量技術や指導力、財力などの点で、この事業にはふさわしい人材であった。
忠敬一行は寛政12年(1800年)閏4月19日、自宅から蝦夷へ向けて出発した。忠敬は当時55歳で、内弟子3人(息子の秀蔵を含む)、下男2人を連れての測量となった[114]。
9月22日に山丹貿易で書いたように、アイヌの交易拠点は樺太南端の集落・白主(しらぬし)会所に移っていました。
日本支配地確定には樺太測量が必須でした。
樺太といえば間宮林蔵です。
間宮林蔵の活躍は(上記伊能忠敬の蝦夷地測量時に現地で出会ったと言われるように)だいぶ時代が下りますが、それでも1840年のアヘン戦争よりはかなり前です。
以下間宮林蔵に関するウイキペデイアの記事を紹介します。
これによるとすでに文化4年・1807年に間宮林蔵が択捉島駐在時にロシア軍の襲撃を受けた記事が出ています。 
こうした事件記録から見ても択捉島がいわゆる北方領土が幕府支配下にあったことが分かります。
有名人の関与した事件であるから、こういう幕府の記録が歴史家の目に留まり引用され残っているのでしょうが、交渉ごとがうまく行かないとすぐ武力を振るう・・この種のロシアとの揉め事がしょっちゅうあったような印象です。
当時からロシアは、平和な話し合いがなりたたないクマを相手にしているような物騒な民族だった一端が記録になっているのです。
その翌年の樺太探検・間宮海峡の発見に繋がります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%93%E5%AE%AE%E6%9E%97%E8%94%B5
常陸国筑波郡上平柳村(後の茨城県つくばみらい市)の小貝川のほとりに、農民の子として生まれる。戦国時代に後北条氏に仕えた宇多源氏佐々木氏分流間宮氏の篠箇城主の間宮康俊の子孫で間宮清右衛門系統の末裔である。
当時幕府は利根川東遷事業を行っており、林蔵の生まれた近くで堰(関東三大堰のひとつ、岡堰)の普請を行っていた。この作業に加わった林蔵は幕臣・村上島之丞に地理や算術の才能を見込まれ、後に幕府の下役人となった。寛政11年(1799年)、国後場所(当時の範囲は国後島、択捉島、得撫島)に派遣され同地に来ていた伊能忠敬に測量技術を学び享和3年(1803年)、西蝦夷地(日本海岸およびオホーツク海岸)を測量し、ウルップ島までの地図を作製した。
文化4年4月25日(1807年6月1日)、択捉場所(寛政12年(1800年)クナシリ場所から分立。択捉島)の紗那会所元に勤務していた際、幕府から通商の要求を断られたニコライ・レザノフが復讐のため部下のニコライ・フヴォストフ(ロシア語版)たちに行わせた同島襲撃(文化露寇)に巻き込まれた。この際、林蔵は徹底抗戦を主張するが受け入れられず、撤退。後に他の幕吏らが撤退の責任を追及され処罰される中、林蔵は抗戦を主張したことが認められて不問に付された。
文化5年(1808年)、幕府の命により松田伝十郎に従って樺太を探索することとなり、樺太南端のシラヌシ(本斗郡好仁村白主)でアイヌの従者を雇い、松田は西岸から、林蔵は東岸から樺太の探索を進めた。林蔵は多来加湾岸のシャクコタン(散江郡散江村)まで北上するが、それ以上進む事が困難であった為、再び南下し、最狭部であるマーヌイ(栄浜郡白縫村真縫)から樺太を横断して、西岸クシュンナイ(久春内郡久春内村)に出て海岸を北上、北樺太西岸ノテトで松田と合流した。
「林蔵はアイヌ語もかなり解したが、樺太北部にはアイヌ語が通じないオロッコと呼ばれる民族がいることを発見、その生活の様子を記録に残した。松田と共に北樺太西岸ラッカに至り、樺太が島であるという推測を得てそこに「大日本国国境」の標柱を建て、文化6年6月(1809年7月)、宗谷に帰着した。調査の報告書を提出した林蔵は翌月、更に奥地への探索を願い出てこれが許されると、単身樺太へ向かった。
林蔵は、現地でアイヌの従者を雇い、再度樺太西岸を北上し、第一回の探索で到達した地よりも更に北に進んで黒竜江河口の対岸に位置する北樺太西岸ナニオーまで到達し、樺太が半島ではなく島である事を確認した。更に林蔵は、樺太北部に居住するギリヤーク人(ニヴフ)から聞いた、清国の役所が存在するという黒竜江(アムール川)下流の町「デレン[2]」の存在、およびロシア帝国の動向を確認すべく、鎖国を破ることは死罪に相当することを知りながらも、ギリヤーク人らと共に海峡を渡ってアムール川下流を調査した。その記録は『東韃地方紀行』として残されており、ロシア帝国が極東地域を必ずしも十分に支配しておらず、清国人が多くいる状況が報告されている。なお、現在ロシア領となっているアムール川流域の外満州はネルチンスク条約により当時は清領であった。
間宮林蔵は樺太が島であることを確認した人物として認められ、シーボルトは後に作成した日本地図で樺太・大陸間の海峡最狭部を「マミアノセト」と命名した。海峡自体は「タタール海峡」と記載している」
一般的に幕末の危機感の盛り上がりはアヘン戦争による清朝の香港割譲に日本がショックを受けたことに始まるような教育が普通ですが、アヘン戦争は1840年ですからそのおよそ7〜80年ほども前から・・西欧の侵略脅威よりもロシアの脅威対応のために幕府財政危機が先に起きていたことが、これまで見て来たことで分かるでしょう。
ロシアのことを江戸時代には「オロシア」という(語源的には中国で「オロス」と言っていたことに由来するらしいですが・・コジツケっぽい感じです)こと自体がロシアに対する恐怖心・・恐ろしや・・に引っ掛けた江戸人の洒落・俗語と見るべきでしょうか。
日本の思想界〜教育界、メデイアでは、ロシアの脅威が幕末危機を引き起こした直接の原因であった事実をできるだけ伏せて置こうとする偏頗な姿勢が顕著です。
これはコミンテルンによる思想界支配(メディアはソ連軍の満州侵入による言語に絶する人道被害をほとんど報道しません・・アメリカによる原爆投下その他空襲攻撃ばかりです)プラス薩長土肥・明治政府に都合が良い歴史教育の合作によるのかもしれません。
西南諸大名は西欧列強対策では身近だったので対応が進みましたが、対ロシア政策では何の功績もないから、明治以降の歴史教育は西欧列強対策に西南雄藩が優れていたか(蒙古襲来の教育もその一種です)ばかりにシフトして来たのです。

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