天皇観は根本変化したか?5(GHQ草案)

以下新憲法制定に至るGHQとのやりとりとその前の基本方針に関する国会図書館の記録からです。
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/064shoshi.html

資料と解説・第3章 GHQ草案と日本政府の対応
3-3 マッカーサー、アイゼンハワー陸軍参謀総長宛書簡(天皇の戦犯除外に関して) 1946年1月25日
1945(昭和20)年11月29日、米統合参謀本部はマッカーサーに対し、天皇の戦争犯罪行為の有無につき情報収集するよう命じた。これを受けマッカーサーは、1946年1月25日付けのこの電報で、天皇の犯罪行為の証拠なしと報告した。さらに、マッカーサーは、仮に天皇を起訴すれば日本の情勢に混乱をきたし、占領軍の増員や民間人スタッフの大量派遣が長期間必要となるだろうと述べ、アメリカの負担の面からも天皇の起訴は避けるべきだとの立場を表明している。」

民間憲法改正案要綱に関するhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%86%B2%E6%B3%95%E8%8D%89%E6%A1%88%E8%A6%81%E7%B6%B11946年2月3日、によれば、

46年2月3日のマッカーサー3原則(「マッカーサー・ノート」)には、「天皇は国家の元首の地位にある」”Emperor is at the head of the state.” と書かれる。

とあります。
上記の通り、GHQは天皇の戦争責任を一切出さなかったし、GHQの憲法草案も天皇制を基礎にしたものでした。
天皇の権威・国民の尊崇を利用する戦略は、とりもなおさず天皇を尊崇する国民意思尊重ということでしょう。
以下交渉経過は国会図書館資料からです。
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/076shoshi.html

2 日本側の検討
憲法問題調査委員会(松本委員会)は、松本烝治の「憲法改正四原則」に示されるように、当初から、天皇が統治権を総覧するという明治憲法の基本原則を変更する意思はなかった。ただし、松本委員会の中にも天皇制を廃止し、米国型の大統領制を採用すべきだとする大胆な意見もあった(野村淳治「憲法改正に関する意見書」)。しかし、それは、委員会審議には影響を与えず、委員会が作成した大幅改正と小改正の2案は、いずれも天皇の地位に根本的な変更を加える内容とはならなかった(「憲法改正要綱(甲案)」、「憲法改正案」(乙案))。

乙案とは1月6日に紹介した宮沢案でしょう。
日本政府は国務大臣が提出した政府案に対する回答をもらえると思って、2月13日にホイットニーと会談したところ全く違うGHQ案をもらってタマゲタところから始まります。
原文は2ページ目しかコピペしませんが、3ページ目には、重大すぎて即答できないと回答して会談を終えたとあります。
以下は松本国務大臣がホイットニーとの会談時のメモの一部です。
このコラムではコピーではっきり読めませんが、国会図書館の上記にアクセスすればはっきり読めますし1ページ目も3ページ目も読めます。
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/076shoshi.html

3-16 GHQ草案手交時の記録
これらの資料は、1946(昭和21)年2月13日、GHQ草案が日本政府側に示された際の会談に関するGHQ側と日本側(松本)の記録である。会談の内容について、双方の記録に大きな違いはないが、GHQ側の記録からは、「松本案」に対する返答を期待していた日本政府側が、「松本案」の拒否、GHQ草案の提示という予想外の事態に直面し、衝撃を受けている様子をうかがい知ることができる。

料名 二月十三日會見記略
年月日 [1946年2月13日]
資料番号
所蔵 東京大学法学部法制史資料室松本文書

私の読み違いかもしれませんが、前ページ末の文章は「マッカーサー元帥はかねてより、天皇の保持について深甚の考慮を巡らしつつあり」としてこの1行目の「たるが、日本政府がこの提案のごとき」につながるので、「この提案」とは日本政府案に対して司令部が当日手交した(1ページ目に「先方提案数部交付し・・」と書いています)司令部草案をいうものと解すれば、文意が通ります。
5行目の「吾人はこの提案のごとき改正案の提示を命ずるものに非ず」も6行目の「この提案」も同じGHQ草案のことでで「原則さえ守ってくれれば・・そのとおりでなくともよい」という「押し付け批判」を意識した主張も全部理解可能です。
この「根本形態に基づいた改正案を速やかに提示」されたいと要求をされたのです。
2行目終わりの「これなくして」(GHQ案によらずして政府提出案のごとき改正案では)「天皇の身体(パーソンオブジエンペラー)の保障をなすこと能わず」とまで言われたとメモに残っています。
GHQは「民意による」制度という点で背後の連合国に対する天皇の生命保障・天皇制存続の保障説得を成功させようとしていたように演出していたのです・・この一点がないと「天皇の身体を保障できない」意味を私はこのように解釈しています・・。
本当に極東委員会が天皇制廃止を要求していたと言うのではなく脅しに使ったのでしょうか?
のちに極東委員会との関連で紹介しますが、GHQに対する連合国お目付役の極東委員会が設置され実動開始前にまとめてしまおうとGHQは極東委員会を蚊帳の外にしてこの交渉を進め、外部に出た時にはすでにこの案を歓迎する日本国内世論の盛り上がりを利用して、極東委員会の介入を阻止してしまいました  ・・善意悪意を別として鮮やかな手際です。
以下紹介しますが、これが徹夜交渉までして急がせた理由だと私は想像しています。

天皇観が根本変化したか4(人間宣言と民族の心)

天皇周辺にどういう人物がいて起案したか(私には)不明ですが、仁徳天皇の「民の竈」の故事にもあるように、皇室の伝統的精神でしょうか・戦火による国民の艱難辛苦をいたわる気持ちが敗戦の詔勅にも多く書かれていますが、国民の安否を気遣う精神に貫かれた名文ですので、この機会に全文を紹介しておきます。
この詔勅を読むとこの詔勅が示した基本方針が昭和天皇以来平成天皇へと国民から敬愛されてきた全国巡行・慰霊の旅や災害に対する共感の表明などの行動規範の基礎になっていると思われますし、戦後70年の国民の精神・行動規範となってきた・・・これこそが実質的意味の憲法精神になっていたように思われます。
この詔勅は明治維新の当初に新政権の心意気として公布された「五箇条の御誓文」の引用から始まっているように、新たな戦後精神は「かくあるべし」という宣言でもあったでしょう。

(「五箇条の御誓文)は「叡旨公明正大、又何ヲカ加ヘン。朕ハ茲ニ誓ヲ新ニシテ国運ヲ開カント欲ス。」

と冒頭に記し

「一年ノ計ハ年頭ニ在リ、朕ハ朕ノ信頼スル国民ガ朕ト其ノ心ヲ一ニシテ、自ラ奮ヒ自ラ励マシ、以テ此ノ大業ヲ成就センコトヲ庶幾フ。(こいねがう」

と最後に結んでいます。
そして日本民族は天皇陛下を筆頭にして一致団結して戦後70年かけて汚名を雪ぎ現在の栄誉ある地位を築く努力をしてきました。
韓国や中国の慰安婦や南京大虐殺の主張はこの努力を無にし、事実無根のフィクションによって汚名を世界に広げようとするものであり、国内でこれに呼応して文学作品の自由・報道の自由と称して(日本を貶める国に迎合して)民族の汚名を広げようとする勢力があるのは誠に遺憾です。
同じく国会図書館資料からです。
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/056shoshi.html

3-1 天皇「人間宣言」
1946(昭和21)年1月1日に発せられた詔書。このなかで昭和天皇は、天皇を現御神(アキツミカミ)とするのは架空の観念であると述べ、自らの神性を否定した。これは、後に、天皇の地位に根本的な変更がもたらされる布石ともなった。同日、マッカーサーはこの詔書に対する声明を発表し、天皇が日本国民の民主化に指導的役割を果たしたと高く評価した。
詔書
茲ニ新年ヲ迎フ。顧ミレバ明治天皇明治ノ初国是トシテ五箇条ノ御誓文ヲ下シ給ヘリ。曰ク、
一、広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ
一、上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ
一、官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメンコトヲ要ス
一、旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ
一、智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ
叡旨公明正大、又何ヲカ加ヘン。朕ハ茲ニ誓ヲ新ニシテ国運ヲ開カント欲ス。須ラク此ノ御趣旨ニ則リ、旧来ノ陋習ヲ去リ、民意ヲ暢達シ、官民拳ゲテ平和主義ニ徹シ、教養豊カニ文化ヲ築キ、以テ民生ノ向上ヲ図リ、新日本ヲ建設スベシ。
大小都市ノ蒙リタル戦禍、罹災者ノ艱苦、産業ノ停頓、食糧ノ不足、失業者増加ノ趨勢等ハ真ニ心ヲ痛マシムルモノアリ。然リト雖モ、我国民ガ現在ノ試煉ニ直面シ、且徹頭徹尾文明ヲ平和ニ求ムルノ決意固ク、克ク其ノ結束ヲ全ウセバ、独リ我国ノミナラズ全人類ノ為ニ、輝カシキ前途ノ展開セラルルコトヲ疑ハズ。
夫レ家ヲ愛スル心ト国ヲ愛スル心トハ我国ニ於テ特ニ熱烈ナルヲ見ル。今ヤ実ニ此ノ心ヲ拡充シ、人類愛ノ完成ニ向ヒ、献身的努カヲ効スベキノ秋ナリ。
惟フニ長キニ亘レル戦争ノ敗北ニ終リタル結果、我国民ハ動モスレバ焦躁ニ流レ、失意ノ淵ニ沈淪セントスルノ傾キアリ。詭激ノ風漸ク長ジテ道義ノ念頗ル衰へ、為ニ思想混乱ノ兆アルハ洵ニ深憂ニ堪ヘズ。
然レドモ朕ハ爾等国民ト共ニ在リ、常ニ利害ヲ同ジウシ休戚ヲ分タント欲ス。朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神(アキツミカミ)トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ。
朕ノ政府ハ国民ノ試煉ト苦難トヲ緩和センガ為、アラユル施策ト経営トニ万全ノ方途ヲ講ズベシ。同時ニ朕ハ我国民ガ時艱ニ蹶起シ、当面ノ困苦克服ノ為ニ、又産業及文運振興ノ為ニ勇往センコトヲ希念ス。我国民ガ其ノ公民生活ニ於テ団結シ、相倚リ相扶ケ、寛容相許スノ気風ヲ作興スルニ於テハ、能ク我至高ノ伝統ニ恥ヂザル真価ヲ発揮スルニ至ラン。斯ノ如キハ実ニ我国民ガ人類ノ福祉ト向上トノ為、絶大ナル貢献ヲ為ス所以ナルヲ疑ハザルナリ。
一年ノ計ハ年頭ニ在リ、朕ハ朕ノ信頼スル国民ガ朕ト其ノ心ヲ一ニシテ、自ラ奮ヒ自ラ励マシ、以テ此ノ大業ヲ成就センコトヲ庶幾フ。
御名 御璽
昭和二十一年一月一日
以下省略

この詔勅は五箇条の御誓文から説き起こし、「叡旨公明正大、又何ヲカ加ヘン。朕ハ茲ニ誓ヲ新ニシテ国運ヲ開カント欲ス。」
「旧来ノ陋習ヲ去リ、民意ヲ暢達シ、官民拳ゲテ平和主義ニ徹シ、教養豊カニ文化ヲ築キ、以テ民生ノ向上ヲ図リ、新日本ヲ建設スベシ。」としてこの時点ですで平和主義の宣言をしています。

「蒙リタル戦禍、罹災者ノ艱苦・・真ニ心ヲ痛マシムルモノアリ。然リト雖モ、我国民ガ現在ノ試煉ニ直面シ、且徹頭徹尾文明ヲ平和ニ求ムルノ決意固ク、克ク其ノ結束ヲ全ウセバ、独リ我国ノミナラズ全人類ノ為ニ、輝カシキ前途ノ展開セラルルコトヲ疑ハズ。」

と国民をいたわりながら鼓舞し、

「朕ハ爾等国民ト共ニ在リ、常ニ利害ヲ同ジウシ休戚(よろこびと悲しみ・稲垣注)ヲ分タント欲ス。朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神(アキツミカミ)トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ。」
これが有名な人間宣言部分ですが、ここにも天皇の存立基盤は「朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、」と国民の信頼の上にあることを天皇自身が宣言しているのです。

なぜ、政府・政府に重用されている学者が「爾臣民其レ克ク朕カ(が)意ヲ体(たい)セヨ」・・意を体した憲法改正案を作れなかったのでしょうか?
終戦の詔勅の一部引用です。
国民を思い案ずる心は一貫しています。
これがマッカーサーとの会談でそのまま吐露されて彼の心を打ったのでしょう。
http://ironna.jp/article/1855

朕(ちん)深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑(かんが)ミ 非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ 茲(ここ)ニ忠良ナル爾(なんじ)臣民(しんみん)ニ告ク(ぐ)
・・・・
朕ハ帝国ト共ニ終始東亜ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ対し遺憾ノ意ヲ表セサ(ざ)ルヲ得ス(ず) 帝国臣民ニシテ戦陣ニ死シ職域ニ殉シ(じ)非命ニ斃(たお)レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ(ば)五(ご)内(ない)為(ため)ニ裂ク 且(かつ)戦傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙(こうむ)リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ 朕ノ深ク軫(しん)念(ねん)スル所ナリ 惟(おも)フニ今後帝国ノ受クヘキ苦難ハ固(もと)ヨリ尋常ニアラス 爾臣民ノ衷情(ちゆうじよう)モ朕善ク之ヲ知ル 然レト(ど)モ朕ハ時運ノ趨(おもむ)ク所堪(た)ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ(び)難キヲ忍ヒ(び) 以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス
・・・朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ 忠良ナル爾臣民ノ赤誠(せきせい)ニ信倚(しんい)シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ 若(も)シ夫(そ)レ情ノ激スル所濫(みだり)ニ事端(じたん)ヲ滋(しげ)クシ或ハ同胞排擠(はいせい)互ニ時局ヲ乱(みだ)リ 為ニ大道(だいどう)ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ(が)如キハ朕最モ之ヲ戒ム 宜(よろ)シク挙国一家子孫相伝へ 確(かた)ク神州ノ不滅ヲ信シ(じ) 任(にん)重クシテ道遠キヲ念(おも)ヒ 総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ 道義ヲ篤(あつ)クシ志操ヲ鞏(かた)クシ 誓テ国体ノ精華ヲ発揚シ世界ノ進運(しんうん)ニ後(おく)レサ(ざ)ラムコトヲ期スヘ(べ)シ 爾臣民其レ克ク朕カ(が)意ヲ体(たい)セヨ

御名 御璽
昭和二十年八月十四日

耐え難きを耐え忍び難きを耐え・・「我国民ガ其ノ公民生活ニ於テ団結シ、相倚リ相扶ケ、寛容相許スノ気風ヲ作興スルニ於テハ、能ク我至高ノ伝統ニ恥ヂザル真価ヲ発揮スルニ至ラン。」
「朕ハ朕ノ信頼スル国民ガ朕ト其ノ心ヲ一ニシテ、自ラ奮ヒ自ラ励マシ、以テ此ノ大業ヲ成就センコトヲ庶幾フ。」
終戦と年頭の詔勅を合わせて読むと、概ね結束(心を一にして)して石油危機〜円高危機〜大震災その他難局に当たってきました。
これが鮮やかに出たのが東北大震災で発揮された「絆」でした。
戦後70年に及ぶ雌伏のときを経て、今まさに世界の尊敬を受けられる民族になり、昭和天皇陛下の御期待に応えられるようになったことを誇りに思う国民が多いでしょう。
国連等で日本民族が道義的に如何に劣っているかを訴えるための活動をしているかのように誤解を受けそうな組織もあります。
もちろん完全無欠の人や民族はないので、海外の良い点を取り入れる謙虚な姿勢は常に必要ですし、成績トップクラスでもなお努力して高みを目指すために「この点まだまだ改良の余地があると言う意見や努力も必要です。
しかし、それは国内で主張し自分で努力すればいいことです。
海外活動家の真意は誰にもわかりませんしわかる方法もありません。
絆で結ばれているはずの日本民族にも、もちろん一定の例外がいます。
規格外の人が生き易くするのも民族の発展のために必要なことですが、それと自民族を国外で中傷するのを目的に行動して良いかは別問題です。

天皇観が根本変化したか3(憲法草案要綱・民間案)

憲法草案要綱に関する
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%86%B2%E6%B3%95%E8%8D%89%E6%A1%88%E8%A6%81%E7%B6%B1の記事からです。

戦前からマルクス主義者の立場から自由民権運動を中心に憲法史研究を続けていた鈴木安蔵が起草し、それに対して憲法研究会で出された意見等により修正を重ねて3案まで作られたもので、全58条からなる[1]。小西豊治によれば、憲法研究会の中心人物は鈴木であり、第三次案を執筆したのも鈴木である[2]。
「要綱」は、
「日本国の統治権は、日本国民より発する」
「天皇は、国民の委任により専ら国家的儀礼を司る」
「国民の言論・学術・芸術・宗教の自由を妨げる如何なる法令をも発布することはできない」
「国民は、健康にして文化的水準の生活を営む権利を有する」
「男女は、公的並びに私的に完全に平等の権利を享有する」
など現行日本国憲法と少なからぬ点で共通する部分を有している。
このほか、詳細については以下の通りである。
議会については、二院制を採用しており(GHQ草案は一院制)、全国1区による大選挙区制による一院と職能代表による二院とで構成するかたちをとっている。また内閣については、議会に対して責任を負う議院内閣制を採用している。
司法については、大審院院長・行政裁判所長・検事総長を公選とし、冤罪に対する刑事補償規定がある。
憲法公布後10年以内に国民投票による新憲法の制定をおこなうことが規定されており、憲法の位置づけを暫定的なものとしている。
鈴木安蔵は、発表後の12月29日、毎日新聞記者の質問に対し、起草の際の参考資料に関して次のように述べている。
「明治15年に草案された植木枝盛の「東洋大日本国国憲按」や土佐立志社の「日本憲法見込案」など、日本最初の民主主義的結社自由党の母体たる人々の書いたものを初めとして、私擬憲法時代といわれる明治初期、真に大弾圧に抗して情熱を傾けて書かれた廿余の草案を参考にした。また外国資料としては1791年のフランス憲法、アメリカ合衆国憲法、ソ連憲法、ワイマール憲法、プロイセン憲法である。」

国民主権の宣言の歴史と「要綱」の作成経緯
1945年11月21日、憲法研究会第三回会合が開かれる。第一次案として国民主権と立憲君主国の規定を含む案が鈴木から示される[18]。 会合において、室伏は「…天皇は…儀礼的代表としてのみ残る。…」と発言し、森戸は「天皇は…君臨すれども統治せずの原則により…国家の元首として国家を代表し…」と発言する[1
1945年11月29日、鈴木が第二次案をまとめる。天皇が元首と宣言されている[1
1945年12月11日、鈴木が第三次案を作成する。元首の規定は含まれず、天皇は国家的儀礼を司る、とされる
1945年12月16日、近衛文麿が自決する[22]。
1945年12月26日、憲法草案要綱が首相秘書官に渡され、GHQにも渡された[
1946年1月11日、ラウエルはGHQに「私的グループによる憲法改正草案に対する所見」を提出する。その中で、国民主権を評価し、一方で修正する点として、憲法改正には国民投票が必要である等を挙げる[30]。
1946年2月3日、マッカーサー3原則(「マッカーサー・ノート」)には、「天皇は国家の元首の地位にある」”Emperor is at the head of the state.” と書かれる。
1946年2月12日、マッカーサー草案が作成される。
1946年 春から夏、GHQと日本政府の駆け引きにおいて、GHQは、天皇が儀礼的形式的機能をもつような表現とするように要求する。
小西によれば、GHQの要求はこの草案に基づく
小西によれば、国民主権の規定は、アメリカが見逃していた、日本国憲法の核心部分である

上記は小西氏の自画自賛的でにわかに賛同できません
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/02/052shoshi.htmlの資料からです。

1-12 SWNCC極東小委員会「日本の統治体制の改革」 1945年10月8日
1945(昭和20)年10月8日付けで国務・陸・海軍三省調整委員会(SWNCC)の下部組織である極東小委員会がまとめた資料。これをもとに翌年1月7日付けの日本の憲法改正に関する米国政府の公式方針「日本の統治体制の改革」(SWNCC228)が作成される。本文書は、日本に統治体制を変革する十分な機会を与えるべきだが、自主的に変革し得なかった場合には、最高司令官が日本側に憲法を改正するよう示唆すべきだとしている。具体的には、日本国民が天皇制を維持すると決めた場合に天皇は一切の重要事項につき内閣の助言に基づいてのみ行うことや、日本国民及び日本の管轄権のもとにあるすべての人に基本的市民権を保障すること等の9項目の原則を盛り込んだ憲法の制定が必要であるとしている。

上記のとおり占領政策の基本はもともと国民が決めればそれで良いという「民意重視」でしたので、国民主権論は憲法要綱案作成者の手柄でも何でもありません・・。
研究会草案は、在野の気楽さでアメリカの本音をその通り成案にしてお先某担ぎ出来ただけかもしれません。
戦後すべての分野で、(昨日憲法学者を紹介しましたが)アメリカの動向先取り発表がエリートへの道でした。
商工業医薬等の実務すべての分野でアメリカが進んでいて、これを実習して帰ると日本では10数年には日本の商工業・証券や金融取引その他のルールになるのですから、やむを得ないでしょう。
上記民間発表だけではなく、46年元旦には(敗戦の詔勅につぐ初めてのお言葉でしょう。)いわゆる天皇の人間宣言が出ています。
これによれば天皇自身が天皇の地位は
「朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、・・」
とあって、民意によることを自ら表明しているのです。
人間宣言が歴史的に重要なのでそればかり取り上げられますが、この時点で天皇自身が自分の地位は民意による点をすでに打ち出していた点を重視すべきでしょう。
ここまで天皇が踏み込んでいるのに、周辺はそこに触れられなかったのです。
この辺は、マッカーサーとこ会談で天皇自身が「自分の命でどうでもなるならば国民の困窮を救って欲しい」と述べた肝心の部分をあまりにもおそれ多いということで公式記録から削除されてしまった経緯と同じです。

天皇観が根本変化したか2

GHQ憲法草案(・・ここでは天皇制限定)が、そのまま憲法になりえたのは強制によるのではなく、日本人の抱く歴史的・実際的天皇観にもあっていたので国民支持を受けたことによると思われます。
美濃部達吉一人がGHQ案に反対したのは、もともと天皇機関説批判論は学問でない・・実態に合わない妄想でしかないから、君側の奸である軍部狂信主義者の妄想さえとり除けばいいというのが彼の信念だったからでしょう。
この点では、戦後の憲法改正作業に関して宮沢教授が当初述べていた部分改正で良いという意見にも繋がっています。
(この辺はどこかの学説を読んでの意見ではなく私個人の思いつき意見です)
憲法改正に対する美濃部説や宮沢説を理解するには、両者がどの部分をどのように改正すれば良いとする案であったかを見ないと正確には言えませんが、そこまで読み見込んでいませんし引用して比較しているとくどくなり過ぎます。
正確に知りたい方は、以下に引用している国会図書館の資料に入ってご自分で読みくらべてください。
以下に紹介する通り憲法改正の流れでは、結果的にGHQに押し切られて言いなりになるしかなかったのは事実ですから、この外形だけを見れば、外国の強制によって憲法が制定された上に、明治憲法では前文と第一条に

「朕祖宗ノ遺烈ヲ承ケ万世一系ノ帝位ヲ践ミ・・・国家統治ノ大権ハ朕カ之ヲ祖宗ニ承ケテ之ヲ子孫ニ伝フル所ナリ・・」
「第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」

とあったのが、日本国憲法では

「第一条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」

その他内閣の輔弼が助言承認となり、国会が天皇の協賛機関ではなくなるなど関連改正があった以上は、国体変更になったという解釈が確かに可能です。
宮沢教授その他当時憲法改正に関与したエリート学者の多くは、自己の主張が46年2月13日にGHQに真っ向から否定されて格好がつかなくなったことから、自己の理論は正しかったがGHQの強制要素・・8月革命説を主張したい心理もわかります。
しかし、昨日紹介した通り連合国が日本降伏前から、天皇制廃止を考えていなかったし、実際の占領政策でもマッカーサー自身が天皇制利用の占領政策を基本としていました。
その方が占領支配が円滑に行くからです・・・このような国民の天皇に対する尊崇精神利用は、現実政治としてはいつの世でもどこの世界(植民地支配でも土着権力を利用する方法)でもありうることです。
蘇我氏であれ摂関政治〜清盛であれ、尊氏〜信長であれ家康であれ、明治維新の薩長土肥政権であれ、武力背景に朝廷を圧迫しながらも天皇の権威利用価値があったので適当に妥協して利用していた点は同じです。
だからと言ってその都度天皇制の根本が変わったという歴史家はいないでしょう。
美濃部説とGHQ草案の違いは、形式上でも天皇大権が憲法上にあると、これを悪用する組織が台頭するのを防げない・錦旗を握った方が何でも出来てしまえるリスクをどう見るかにあったのではないでしょうか?
軍部がまた政権を握るリスクを連合国が非常に恐れていた実態があります。
実際にこれを防げずに美濃部氏は貴族院議員を辞めざるを得なくなりました・・を危惧していたこと・・権力(錦旗)を握れるのは民選議員の多数派=投票による確かな民意だけに限定するという方法の違いでしょう。
アメリカ型民主主義を「投票箱民主主義」と揶揄されますが、民意を知る方法を神威によるとすれば権力を握った者の恣意的操作(政敵・道鏡失脚の宇佐八幡のご神託など史上いくらでもその例があります。)に陥りやすい欠点があります。
今ではメデイアの世論調査次第・・自説に誘導すべくニュースの取捨選択で民意を操作しようとするリスクが問題になり始めました。
国内政敵どころか、仮想敵国が相手国の世論操作に絡むようになってきたのでその危険性が表面化してきたのです。
トランプ氏登場以来マスメデイア操作による民意創出が問題になっていますし、私自身も昨秋の総選挙直前ころに行われていた大手メデイア世論調査結果と、実際の選挙結果との乖離(ニコ動だけがほぼ一致)について疑問を呈してきました。
ロシア等のメデイア介入があったか、フェイクで操作されたかどうかは別として投票結果は、少なくともその時点での民意であることは間違いのない事実でしょう。
日本側政府案を作った学者は私など足元にも及ばない秀才揃いでしょうが、摂関政治の頃から変わらぬ天皇制の本質・象徴であり民の尊崇の対象であり続けてきた本質をみずに、天皇の名で(天皇大権や統帥権を利用して)統治する形式を重く見すぎていたようです。
・・だから、そこに手をつけないことが国体を守ることになる考え、姑息な改正案しか発案できなかったのに対して、連合国やGHQは第三者・岡目八目の優位性で古代から続く天皇制の実態・本質をよく見ていた違いではないでしょうか。
実は権力に気兼ねのない民間の憲法改正案では、45年12月には現憲法同様の民意による象徴天皇制に基づく改正案が発表されていたようですから、民間(といっても相応の学者ですから、要は政府に重く用いられていない・束縛のないフリー?学者)・国民の方が実態に即していたことになり・エリート学者の完敗です。
エリートもわかっていたが立場上そこまで言えなかったとすれば・・天皇を利用する「君側の奸」勢力に気を使う御用学者の方がおかしいのです。
宮澤教授の時の権力に合わせた変節ぶりを昨日紹介したばかりです。
次の芦部教授も結局は世界権力者であるアメリカの判例動向(二重の基準)をいち早く取り入れて、憲法学会の1人者になったように見えます。
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/02/052shoshi.htmlの資料からです。

2-16 憲法研究会「憲法草案要綱」 1945年12月26日
憲法研究会は、1945(昭和20)年10月29日、日本文化人連盟創立準備会の折に、高野岩三郎の提案により、民間での憲法制定の準備・研究を目的として結成された。事務局を憲法史研究者の鈴木安蔵が担当し、他に杉森孝次郎、森戸辰男、岩淵辰雄等が参加した。
12月26日に「憲法草案要綱」として、同会から内閣へ届け、記者団に発表した。また、GHQには英語の話せる杉森が持参した。同要綱の冒頭の根本原則では、「統治権ハ国民ヨリ発ス」として天皇の統治権を否定、国民主権の原則を採用する一方、天皇は「国家的儀礼ヲ司ル」として天皇制の存続を認めた。また人権規定においては、留保が付されることはなく、具体的な社会権、生存権が規定されている。
なお、この要綱には、GHQが強い関心を示し、通訳・翻訳部(ATIS)がこれを翻訳するとともに、民政局のラウエル中佐から参謀長あてに、その内容につき詳細な検討を加えた文書が提出されている。また、政治顧問部のアチソンから国務長官へも報告されている。

憲法研究会のメンバーや憲法草案要綱を明日紹介します。

皇室典範は憲法か?1(天皇観根本変化の有無1)

年末から関心の続き・今日から17年12月30日の続きに入っていきます。
我が国の実質的意味の憲法とは何でしょうか?
12月30日に紹介したhttps://ameblo.jp/tribunusplebis/entry-10977674757.htmlによると以下の通りです。

*日本国憲法は、それ自体形式的意味の憲法であるとともに、憲法附属法も含めて実質的意味の憲法をも成している。
*学者さんによっては、ここで実質的意味の憲法として説明したものを、固有の意味の憲法とよび、固有の意味の憲法と「憲法 第2回」で触れる立憲的意味の憲法とを合わせて、実質的意味の憲法とされます。

http://houritu-info.com/constitution/souron/bunrui.htmlによると実質的意味の憲法の例として明治憲法下の皇室典範が入っています。

実質的意味の憲法とは、憲法の存在形式は問わず、内容に着目した場合の概念です。
実質的意味の憲法には、さらに「固有の意味の憲法」と「立憲的意味の憲法」に分類されます。
明治憲法下の皇室典範は実質的意味の憲法には当たりますが、形式的には憲法ではないため、上記の形式的意味の憲法には当たりません。

上記意見では「明治憲法下」と限定していますが、では現憲法下での皇室典範の位置付けはどうなるでしょうか?
実質的意味の憲法にも「固有の意味の憲法」と、「立憲的意味の憲法」があるようです。
「立憲的意味の憲法」論では権力抑止機能重視ですから、明治憲法下でも実質的意味の憲法に入っていなかったことになるのでしょうか?
皇室典範は現憲法下では形式上法律の格付けに入っていますが、実質的憲法か否かを論じるには法形式は本来関係のないことです。
日本国憲法

第二条 皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。

憲法自体に皇位の世襲制を書いてあって、憲法全体の平等主義に反する他「両性の平等原則」に反する男系承継の原則も皇室典範には明記されています。
国会の議決によるとしても皇室典範という特別名称を指定しているなど、憲法上別格扱いであることは明らかです。
もしも現憲法成立あるいはポツダム宣言受諾によって、実質的意味の憲法から除外されたか否かについては、天皇制のあり方が敗戦を期に国家・民族の基本骨格に関わらなくなったか否かでしょう。
ポツダム宣言受諾が長引いたのは、いわゆる国体の護持条件が受け入れられるか?であったのですが、結果的に「無条件降伏」になったと言われています。
ただし正確には国会図書館資料では以下の通りの経緯です。
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/01/033shoshi.html

日本政府は、ポツダム宣言を受諾するにあたり、「万世一系」の天皇を中心とする国家統治体制である「国体」を維持するため、「天皇ノ国家統治ノ大権ヲ変更スルノ要求ヲ包含シ居ラザルコトノ了解ノ下ニ受諾」すると申し入れた。これに対し、連合国側は、天皇の権限は、連合国最高司令官の制限の下に置かれ、日本の究極的な政治形態は、日本国民が自由に表明した意思に従い決定されると回答した(「ポツダム宣言受諾に関する交渉記録」)。1945(昭和20)年8月14日の御前会議で、ポツダム宣言受諾が決定され、天皇は、終戦の詔書の中で、「国体ヲ護持シ得」たとした。
1946(昭和21)年1月、米国政府からマッカーサーに対して「情報」として伝えられた「日本の統治体制の改革(SWNCC228)」には、憲法改正問題に関する米国政府の方針が直接かつ具体的に示されていた。この文書は、天皇制の廃止またはその民主主義的な改革が奨励されなければならないとし、日本国民が天皇制の維持を決定する場合には、天皇が一切の重要事項につき内閣の助言に基づいて行動すること等の民主主義的な改革を保障する条項が必要であるとしていた。マッカーサーは、その頃までに、占領政策の円滑な実施を図るため、天皇制を存続させることをほぼ決めていた(「マッカーサー、アイゼンハワー陸軍参謀総長宛書簡」)。

形式的な天皇大権と象徴の違い・・あるいは「天皇の地位は国民の総意に基づく」となったのをどう見るかです。
私は摂関政治以来天皇の地位は名誉職・今風に言えば、象徴天皇である実態は何も変わらなかった・明治憲法で統治権・大権があるとしていても実態は同じであったし、その地位は神代の昔から国民の総意による支持が裏付けであったと言う立ち場(私個人の素人意見)でこのシリーズを書いています。
「神の意思とは今の民意の表現である」とたまたま1月2日に書いてきたところです。
ただし、改正された現憲法体制では、「国体が変更された」と見るべきというのが宮澤俊義教授・多分憲法学会の通説的意見でした。
(私は宮沢憲法の中の人権分野しかを基本書にしていなかったので、統治機構分野での宮沢説を直接読んだことがなくわかっていません。)
上記同資料によると以下の通りです。

憲法改正問題を検討するため、1945(昭和20)年9月28日、外務省が招へいして意見を聴取した宮沢俊義東大教授による講演の大意。宮沢は、美濃部達吉門下のなかでも屈指の憲法学者であった。ここでは、明治憲法のもとでも、十分、民主主義的傾向を助成しうると論じ、明治憲法の手直しで、ポツダム宣言の精神を実現して行くことが可能だとの見解を示した。このときの宮沢の見解は、のちに自身が主要メンバーとなる憲法問題調査委員会の審議や「憲法改正案」(乙案)に反映されている。

上記意見が通らずに後記の通りGHQの強硬意見に押されて全面改正になったから、理屈でもなんでもない力によって変わった以上は「国体は変わった」と言う意見になったのでしょうか?
天皇制は神代からの神の意によるものではなく、「国民総意にもとずく」ようになった点を捉えたもののようですが、天下の碩学が塾慮の末の意見でしょう。
このシリーズでは、天皇の地位はもともと古来から、象徴権能を核とするものであり、国民総意の支持があってこそ信長も家康もマッカーサーも無視できなかったし神代の時代から天皇への尊崇が永続してきたのではないか?とすれば天皇観は全く変わっていないという私固有の視点で書いています。
宮澤教授に関する1月5日現在のウイキペデアイアによれば以下の通りです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E6%BE%A4%E4%BF%8A%E7%BE%A9

日本国憲法の制定時に学術面から寄与し、後の憲法学界に多大な影響を残した。司法試験などの受験界では「宮沢説」[1]は通説とされ、弟子の芦部信喜以下東大の教授陣に引き継がれている。
学説は時期とともに変節を繰り返した。

以下は上記変節の説明文を要約するために番号を付し→で示しました。

① 天皇機関説事件→「国体国憲に対する無学無信の反逆思想家が帝大憲法教授たることは学術的にも法律的にも断じて許さるべきではない」(1番弟子が恩師を批判・・稲垣)
② ファシズムの理論に基づいて結成された大政翼賛会の一党支配方式→大賛成
③ 終戦直後は、帝国憲法の立憲主義的要素を一転して擁護、「日本国憲法の制定は日本国民が自発的自主的に行ったものではない」「大日本帝国憲法の部分的改正で十分ポツダム宣言に対応可能」という今でいう押し付け憲法論の立場に立っていた[要出典]。外務省に対して、憲法草案については、当初は新憲法は必要なしとアドバイスした。
④ その後、大日本帝国憲法から日本国憲法への移行を法的に解釈した八月革命説を提唱する。八月革命説とは、大日本帝国憲法から日本国憲法への移行を、1945年8月におけるポツダム宣言の受諾により、主権原理が天皇主権から国民主権へと革命的に変動したとすることにより、説明する議論である。
⑤ 天皇の立場については、1947年の時点では「日本国憲法の下の天皇も『君主』だと説く事が、むしろ通常の言葉の使い方に適合するだろうとおもう」と述べた。しかし、1955年には「君主の地位をもっていない」と君主制を否定した。さらに1967年の『憲法講話』(岩波新書)では、天皇はただの「公務員」と述べ、死去する1976年の『全訂日本国憲法』(日本評論者)では、「なんらの実質的な権力をもたず、ただ内閣の指示にしたがって機械的に『めくら判』をおすだけのロボット的存在」と解説し、その翌年死去した。

今では宮澤説を継承している芦部説が支配的らしいですから、上記思想が戦後学会〜現在に至る憲法学を支配していたことになります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%A6%E9%83%A8%E4%BF%A1%E5%96%9Cnによれば以下の通りです。

芦部 信喜(あしべ のぶよし、1923年9月17日 – 1999年6月12日)は、戦前通説的見解とされた師である宮沢の学説を承継した上で、アメリカ合衆国の憲法学説・判例を他に先駆けて導入し、戦後の憲法学会における議論をリードし、その発展に寄与した。
・・・日本国憲法の制定の過程には、歴史上様々政治的な要因が働いていることは否定できないが、結局のところ、国民自ら憲法制定権力を発動させて制定したものであるとみるほかないとして宮沢の八月革命説を支持し[3]、その結果、上掲の特質を全て備えた日本国憲法が制定されたとみる。

免責事項:

私は弁護士ですが、このコラムは帰宅後ちょっとした時間にニュース等に触発されて思いつくまま随想的に書いているだけで、「弁護士としての専門的見地からの意見」ではありません。

私がその時に知っている曖昧な知識を下に書いているだけで、それぞれのテーマについて裏付け的調査・判例や政省令〜規則ガイドライン等を調べる時間もないので、うろ覚えのまま書いていることがほとんどです。

引用データ等もネット検索で出たものを安易に引用することが多く、吟味検証されたものでないために一方の立場に偏っている場合もあり、記憶だけで書いたものはデータや指導的判例学説等と違っている場合もあります。

一言でいえば、ここで書いた意見は「仕事」として書いているのではありませんので、『責任』を持てません。

また、個別の法律相談の回答ではありませんので、具体的事件処理にあたってはこのコラムの意見がそのまま通用しませんので、必ず別の弁護士等に依頼してその弁護士の意見に従って処理されるようにしてください。

このコラムは法律家ではあるが私の主観的関心・印象をそのまま書いている程度・客観的裏付けに基づかない雑感に過ぎないレベルと理解してお読みください。