国(くに)とは?6

明治4年の岩倉使節団に対する明治天皇の署名御璽のある全権委任状(翌5年)を国立公文書館保管のヴィクトリア女王宛の国書委任状原本の写しをネットで見ると第1行目に

「天命に則り万世一系の帝祚を践みたる日本国天皇睦仁敬て・・・」

と書き進んでいます。
最後の睦仁の署名の下にある印璽は「大日本国璽」と読めそうです。
これによると明治5年には、「日本国」の表記が公式に行われていたことになります。
ついでに書きますと、明治21年の明治憲法の前文と第1条の骨格がすでにここに表れているのは興味深いものがあります。
参考までに一部引用します。
明治憲法前文

朕祖宗ノ遺烈ヲ承ケ万世一系ノ帝位ヲ践ミ朕カ親愛スル所ノ臣民ハ即チ朕カ祖宗ノ恵撫慈養シタマヒシ所ノ臣民ナルヲ念ヒ其ノ康福ヲ増進シ其ノ懿徳良能ヲ発達セシメムコトヲ願ヒ又其ノ翼賛ニ依リ与ニ倶ニ国家ノ進運ヲ扶持セムコトヲ望ミ乃チ明治十四年十月十二日ノ詔命ヲ履践シ茲ニ大憲ヲ制定シ朕カ率由スル所ヲ示シ朕カ後嗣及臣民及臣民ノ子孫タル者ヲシテ永遠ニ循行スル所ヲ知ラシム・・・・
御名御璽
明治二十二年二月十一日
第1条大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス

「万世一系の帝祚を践み・・」という表現は天武天皇に始まるようですが、天武天皇自体の出自に論争があることは周知の通りですが、いずれにせよ光仁天皇以降は天智天皇系に戻り万世一系で間違い無いようです。
歴史論争とは別にしても明治政府は、記紀記載の万世一系の天皇論でやって行くことに決めていたのでしょう。
倒幕運動の大義に義理のない一般人にとっては、日本列島に住む人を総称する用語として素直に考えると、民(たみ)のままで良いのですが、漢字表示するには2文字漢字にこだわる民族性に合わせる必要があります。
これまで見てきたように、大宝律令の頃から日本列島民族の支配する領域を「日本国」と認識していたとすれば、民を表現する2字熟語としては・・権力に敵対するイメージの強い人民というのは極論なので「国の民」として穏当な国民という用語が良識派によって使われるようになっていたのかも知れません。
日露講和条約反対の日比谷公園での集会はウイキペデイアによれば「国民集会」という名称だったらしいですから、当時の暴徒もロシアとの講和反対というだけで、政府打倒の集会ではないので人民大会とは表現しなかったようです。
このように国民とは「ある国にいる人」を表現する単語であり、人民とは支配される対象としての人間の表示ですから、対になる単語ではありません。
ですから明治政府は日本国民は「人民ではない臣民だ」と反語的に言い返したのでしょうか?
今なお人民を愛用しているのは、中華人民共和国と朝鮮人民民主主義共和国の二カ国のみです。
(ベトナムは共産主義政党の一党独裁国家で中朝とほぼ政体が同じですが、社会主義共和国であって、人民という名称がなぜか入っていませんが、軍は人民軍と称するようです。)
朝鮮人民共和国の人民はどういう扱いを受けているかを見れば、人民にこだわる体制の意味がよくわかります。
中国社会は、中東由来の商業都市国家から始まったことをこのコラムで書いてきましたが、その後の農業社会化の進展で城壁外の土民も支配・搾取対象になってきたので、支配対象として定義づけてきた歴史しかありません。
もともと日本のように同胞から始まっていないので、国民という単語に馴染めなかったようです。
今でも国名を中華人民共和国といい人民日報、人民軍、人民元などあくまで「人民」にこだわっています。
中国では、言語表現は別としても、同胞意識など全くないし、国民を支配対象としてしか見ていませんので、支配に必要ならいくらでも非人道的弾圧可能社会でやってきた歴史です。
国民?の方も、「上に政策あれば下に対策あり」と言うように、国益など問題にしない私益追求第一の生き方です。
https://docs.google.com/document/d/1B_k-2lcstvNhZWWRqkWpEo0Evf1mJlU7NLjlDEZOEak/edit引用の続きです。

「上に政策あり、下に対策あり」がみられる原因は主に以下の4点と考えられる。

引用省略しますが、私の個人解釈ですが、中国人には公の精神が育っていない・・私益追求欲が公益に勝る印象です。
これは政府の人民に対する態度が態度・・政府に敵対する勢力→敵視政策だから、人民も政府敵視の人民のまま・・国益や公益を考える気がしないというと相関関係があるのではないでしょうか?
権力者の方もいざとなれば生身の人間を戦車で踏み潰して弾圧するのに躊躇しない歴史であり、その延長で行なった天安門事件で世界を震撼させました。
世界の反応に中国政府自体が驚いたようですが、今回の香港騒動で中国が天安門事件以来隠してきた本性を表すか忍耐できるかのギリギリの攻防が続いています。
香港の人命を守るために香港人が自国民保護こそが最大使命とするべき自国?政府に頼るのでなく、外国政府・・米国を代表とする欧米の牽制に期待するしかない滑稽な状態です。

国(くに)とは?5

聖徳太子以前から日本列島人が朝鮮半島には任那という拠点・領域を確保していたし、新羅と百済の攻防に関与していることも以前から知られていたのですから、その時の日本列島の諸集団を束ねるトップ集団があったとすればどこの誰だったかの特定が必要ですが、こういう議論が全く聞こえて来ないのが不思議と気がつきました。
私が知らないだけですが・・。
当時も日本列島の集団やその代表者は自分の集団をどのように表現していたか?でしょう。
例えば漢倭奴国王・前漢時代・・紀元前の金印が知られているように、聖徳太子より約600年以上前にも時代に応じた交流があり、多分列島まとめて倭の人たち・・倭国と言われていたことは後漢の記録で明らかです。

漢書』地理志(著者:班固)
夫れ(それ)楽浪(らくろう)海中(かいちゅう)に 倭人(わじん)有り。 分れて(わかれて)百余国(ひゃくよこく)と 為る(なる)。 歳時(さいじ)を 以て(もって)来り(きたり)献見す(けんけんす)と云ふ(いう)。
(原漢文)

漢書は後漢時代に執筆されたものですが、前漢時代を書いた史書です。
要するに紀元前1世紀の日本列島の状況で、列島百余国の代表が訪問してきている様子を書いています。
代表が訪問するということは、代表を送るべき集団がその頃あったということでしょう。
日本がどう思おうと米英では日本をジャパンと呼ぶ事実があり、日本列島人も当時地域最大国の前漢から倭人の国と言われていたので周辺国も倭の国と言ったでしょうし、日本列島人も自国を名乗る時に倭の国からきたと名乗ったことでしょう。
これがある時・・白村江の大敗(663​年10月)以降、多分大和政権が日本列島を代表するようになった時点から、日本国と自称するようになったのでしょう。
冊封体制を前提にすると国というのは如何にも属国になったようなイメージですが、そんな序列意識以前に集団間の交流があったはずです。
秦始皇帝以来の冊封体制を前提にすると、自分の地域集団を「国」というのは隷属前提になりますが、その前の周の時代には支配下の地域豪族を当初諸侯・公と言っていたのが後(春秋戦国)に国となり王となって行ったように変化を経ています。
冊封体制はいわば秦の天下統一以来始まった新しい秩序名称に過ぎません。
秦始皇帝による統一以前→冊封体制成立以前の日本列島では自分の先祖からの地域集団を「くに」と表現していたとしてもおかしくないでしょう。
先祖伝来の表示「くに」に漢字の国を当てただけとすれば、縄文の昔・・数千年以上前からの言語かもしれません。
クニとサトに関するネット検索の結果、以下の通りの意見が見つかりました。
http://k-amc.kokugakuin.ac.jp/DM/detail.do?class_name=col_dsg&data_id=68516

くに

Kuni
区切られた領域・行政的な単位。人間が住む生活領域を指すことばとしてはクニ(国)・ムラ(村)・サト(里)・コホリ(郡)等があるが、万葉集の歌にはムラ・コホリは見られない。これらはともに朝鮮語とみられており、在来の和語としてはクニ・サトが生活領域をあらわす語彙であった。クニは77例、サトは76例、用例もほぼ同数であるが、意味的には顕著な違いがみられる。すなわち、クニの用例中、40例ほどは「知らすクニ」「食すクニ」「まつろはぬクニ」等々、地方的レベルと国家的レベルの別にかかわらず、統治すべきものとしての行政的、政治的な領域を示す語として用いられる。クニは治めるべき場所であり、「国占め」という語に見られるように占めるべき領域であった。これに対してサトは「我が住むサトに」(15-3783)、「サト見ればサトも住み良し」(6-1047)などに典型的に示されるように、住むべき場所というニュアンスが強い。語源的には、サト(sato)のトはミナト(minato)、セト(seto)等のト(to)で、特定の場所を示す語、サは神聖さをあらわす接頭語であろう。人の住む場所を讃美する語である。一方、クニは境界をあらわすクネ(方言)と関連があると思われる。クニの本義が区切られた空間であるとすれば、この語が行政的な領域を示す語として定着する理由は理解しやすくなる。漢字は「邦」(9-1800)、「本郷」(19-4144)が各1例、他はすべて「国」が当てられている。「邦」は「封」に同じく、天子から領有を認められた封土の意であるが、「国(國)」は境界線で囲まれた土地のことをいう。和語のクニと漢字の國は、互いに相通ずる意味をもつ語であった。「天の下に クニはしも さはにあれども」(1-36)のようなアメ/クニの対は天下思想に基づくもので、天の下界である地上のすべてを一つの領域として観念できるようになってからの表現である。

西條勉

和語としてのクニに関する前半部分はど素人である私の直感とピッタリの論説です。
後半「一方」以下の漢字の「国」に当てはめる意見は、冊封体制が始まってからの意見としては、国=冊封された区域という意見があっているでしょうが、私の関心はもっと以前・・三内丸山紀元前5900〜4200年・・まだ中国の周王朝すら誕生前から三内丸山遺跡時代にも交易をしていた以上は、自分たちの居住地域を表す言語があったはずです。
それを国というか地方というか別として最初の言語を知りたいものです。「くに」に邦を当てたり国を当てたりする前の文字到来前の和語としての「くに」とは何かです。

国(くに)とは?4(日米和親条約)

現在人はいわゆる華夷秩序が意識の前提にあるので、自分の支配地域を国というと中国王朝の属国・・半独立国のイメージになるような固定観念が邪魔するのですが、華夷秩序は超古代から存在するものではなく国の上に君臨する秩序を宣言したのは秦の始皇帝が最初です。
それ以前には他地域支配者相互に国と表現していたのではないでしょうか?
相手が帝国というなら帝国でもいいし合衆国というならそれでもいいという日本の態度であり、華夷秩序外の欧米同様の態度ではないでしょうか?
実際に日米和親条約時の米国の態度はそういういうものでした。
日米和親条約をウイキペデイアで見てみました。

英文における正式名称は「Convention of Peace and Amity between the United States of America and the Empire of Japan(アメリカ合衆国と日本帝国間の平和および修好の条約)」であり、前述のように「Treaty of Kanagawa」と通称される。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Ratification_of_the_Japan_USA_Treaty_of_Peace_and_Amity_21_February_1855.jpg?uselang=ja
これによると第一条に
「日本と合衆国とは、其の人民は永世不朽の和親を取結び・・・」

「安政3年(1854年)の日米和親条約では条約を締結する日本の代表、すなわち徳川将軍を指す言葉として「the August Sovereign of Japan」としている。これは大清帝国皇帝を指す「the August Sovereign of Ta-Tsing Empire」と同じ用法であり、アメリカ側は将軍を中華皇帝と同様のものと認識していた[31]。しかし日本の政治体制が知られるようになった安政5年(1858年)以降、徳川将軍が称していた外交上の称号「日本国大君」から「タイクン(Tycoon)」と表記するようになった[32][33]。一方で天皇は「ミカド(Mikado)」「ダイリ(Dairi)」[34]、「テンノー(Tenno)」などと表記されていた[35]」

国際社会では、誰が日本を代表するのかを気にしていますが、日本が帝国か、皇帝か国王かなど気にしていないのです。
双方署名欄部分のコピーが見られないので日本をどのように表現して署名していたか不明ですが、日本は第一条ではアメリカを国と表現しています。
ステートを国と習いますので、United States というのはまさに日本が三河国や尾張国などいくつかの国等で成り立っているという表現と同じです。
岩倉使節団のビクトリア女王宛の全権大使委任状を見ると大日本帝国と書かずに日本国天皇としています。
http://www.archives.go.jp/exhibition/digital/modean_state/contents/Iwakura-mission/photo/ininjou/index.html
公文附属の図・国書御委任状・第五号 大不列顛愛倫皇帝ウィクトリア陛下
請求番号:附A00302106 国立公文書館所蔵

日本の朝廷が大王(おおきみ)から天子、天皇の称号を唱えるようになるのは、聖徳太子の頃のようですが、正式公文書で決められたのは大宝律令(701年)以降のようです。
皇帝に関するウイキペデイアの説明によると以下の通りです。

「天皇」号の使用は、607年聖徳太子が隋の煬帝に送った手紙において、隋との対等を表明するため「日出づる処の天子」や「東の天皇」と記したことに由来し、663年の白村江の戦いにおいて唐・新羅連合軍に敗れたことで、明確に唐と対等の独立国家であることを主張するためにとられた方策であったと考えられる。
701年の大宝律令の儀制令と公式令において、「天子」および「天皇」の称号とともに、「華夷」に対する称号として「皇帝」という称号も規定されている[27]。

以上によると聖徳太子の頃から中国の王朝に冊封された王とは違うという意味で強がって天子と名乗ったことがわかりますが、だからといって帝「国」と主張した訳ではありません。
自国は帝国ではないので「国」であるが、華夷秩序に入って属国として「冊封された国ではない」という意味で天子と名乗ったのでしょう。
日本は中国歴代王朝に冊封されず、独立国の立場でやってきたというのが一般的理解ですが、聖徳太子以前の紀元前からの歴史がよくわからない教育をされ、それを鵜呑みにして迂闊にも私はその前時代を考えたことがありませんでした。
しかし近年考古学の大発見が続き日本の古代史が大きく変わってきました。
三内丸山遺跡発掘でわかってきたように、実は紀元前の縄文時代から大規模な集落を営み、かつ広域の交易をしてきたことがわかってきました。
聖徳太子から始める歴史(上記ウイキペでイア説明を含め)は無理が出て来ました。

三内丸山遺跡とは

三内丸山遺跡は、今から約5900年前~4200年前の縄文時代の集落跡で、長期間にわたって定住生活が営まれていました。

しかも、これだけの規模の集落が営まれてきたことから大規模な交易が行われてきたことも分かってきています。
ここから分かることは、聖徳太子以前の4〜5千年も前から日本列島外の諸集団と国際交流が行われていたことになります。

国(くに)とは?3(帝国)

日本の律令体制は、郡県制でも郡国制でもなく、地方を全て国にしたのは、直轄化するには力不足だったからではないでしょうか?
「こおり」の漢字表記として郡の漢字を当てていたことにより、旧国地域より小さいはずの郡を旧来の国を数カ国集めた大きさの郡にできなかったからと思われます。
郡に戻しますと、大和朝廷成立前・・前漢時代の倭国100余国というのは、まさに山脈に隔てられた流域を基本とした地域勢力・豪族勢力範囲と一致したでしょうから、中央集権制の中国の真似をして豪族4〜5部族の領域をまとめて国にすることにして、皆喧嘩しないように朝廷からその地域のまとめ役として「国司」を派遣するから・・・「みんな仲良く補佐してね!ということで中世の国人層(武士団)に当たる地方豪族を郡司を任命したのでしょうか。
実証研究に基づかない私のことば遊びの範疇ですが、ちなみに国司や郡司の司とは相撲の行司の「司」であって、アンパイヤーの役割であって下知する支配者ではなかったともいえます。
現在用語で言えば司会者でもあります。
国司はよそ者ですし、サラリーマンですので身の回りに仕える供のものが少しいるだけで自前の兵力もない・・ので地元豪族間の利害調整機能しか果たせません。
平将門の乱が起きたのは、古代豪族が荘園領主に入れ替わっていく過程で武士が勃興し中央から派遣される国司の調整能力が衰えたということでしょう。
鎌倉時代に朝廷任命の国司(守)の他に地元武士代表の守護が設置されたのは、この最終的解決策でした。
律令体制によって各地の・・現在の郡程度の小規模な支配をしている豪族支配地を60豫州の国に編成替えしたことによって、中国の冊封体制を日本列島に当て嵌めて、聖徳太子が「日出処の天子」と名乗った天子の地位を制度的に確立したことになりそうです。
列島内の全域・諸国を天下として、これを束ねる朝廷が中国の皇帝に当たる、中国皇帝が冊封する諸侯にあたる国に当たるのが列島内の邪馬台国や狗奴国等々の国々という縮小版です。
日本はまだ台湾島の植民地を持たない段階の明治憲法が「大日本帝国」憲法と称したのは理にかなっています。
明治維新・王政復古当時、封建体制に決別し中央集権化した明治政体は、広大な中国の縮小版として考えれば、被支配国を抱える帝国といい、天皇(皇帝)と称するのは一貫しているようですが、その後廃藩に止まらず地方制度から国をなくし各地に県令を配置するようになると、朝廷の支配下諸国がなくなります。
(列島内の諸国のトップを皇帝(天皇)が冊封する場合、皇帝は諸国の王に君臨するだけで、地方政治を国主・守に委ねる仕組みですが、県制度=地方の独立性を否定して、県令・中央派遣の官僚が中央政府の下部機関として治める仕組みへの変更ですから、この時点で(全部直轄地)天皇は皇帝でなくなっているはずです。
日清戦争後の台湾領有までの間は、天皇家は統一国家の王であって君臨すべき冊封国・地域がなかったのに明治憲法では大日本帝国と言っていたのが不思議です。
もしかして、王と皇帝の違いや帝国と國の違いは、明治維新当時は異民族支配しているかどうかではなく独立国かどうかの指標として「帝国」「皇帝」という名称を利用していたように思われます。
異民族を支配下に置く場合を帝国といい、その支配者を(王政の場合)皇帝というようになったのは、レーニンの帝国主義論以降のことではないでしょうか?
日清戦争後の下関条約第1条で清朝からの独立を果たした李氏朝鮮政府は、直ちに大韓帝国を自称しているのもこの傍証でしょう。
下関条約は以下の通りです。
https://ja.wikisource.org/wiki/

通称: 日清講和条約、下関条約、馬関条約

調印: 1895年(明治28年)4月17日
場所: 下関
日本側全権: 伊藤博文、陸奥宗光
清側全権: 李鴻章、李経方
第一條[編集]
淸國ハ朝鮮國ノ完全無缺ナル獨立自主ノ國タルコトヲ確認ス因テ右獨立自主ヲ損害スヘキ朝鮮國ヨリ淸國ニ對スル貢獻典禮等ハ將來全ク之ヲ廢止スヘシ

大韓帝国に関するウイキペデイアの記述です。

冊封体制からの離脱[編集]
朝鮮国王高宗は1896年(明治29年)2月11日から1897年(明治30年)2月20日までロシア公使館に逃れていた(露館播遷)が慶運宮へ戻った。1897年(明治30年)にもはや清の藩属国でなくなった以上、国王号を使用することは望ましくないという儒者の建言に従い以下の改革が実施された。
国号を「朝鮮」から「大韓」と改め、元号も前年のグレゴリオ暦への改暦にともなって定めた「建陽」から「光武」に改元した。高宗は、圜丘壇を新たに設けて10月12日に祭天の儀式を行い、翌13日に詔を出して皇帝に即位した。大韓帝国の皇帝位は明朝の皇統を継承したことにより得たものとされた。その後、清の冊封の象徴であった迎恩門や「恥辱碑」といわれる大清皇帝功徳碑を倒して独立門を立て独立を記念した。大韓帝国の皇帝位はかつて宗主国であった明朝皇帝の位を継承したものとされた。

上記の通り、李氏朝鮮は独立と同時に帝国自称ですから「帝国」とは属国の有無ではなく独立國と言う程度の意味だったと解釈すべきでしょう。

「さと」(郷と里)4

法人実在説論争に深入りしましたが、地方単位・・20年2月19日「江戸時代までのムラと明治の村制度の違い(入会地)2」の続きです。
「おさとが知れる」という時は(家風の文化水準)同族集団的古代集落単位を指し、「おさとはどちら?」という時・・故郷・・どちらかといえば江戸時代までの旧国名を主に指します。
お上から強制的な漢字の当てはめが通達されるとみな従うので文献上一挙に借り物の漢字「評」は完全抹殺されますが、発音としての和語がいわゆるオーバーラップして残るので、元の「こおり」と新たな郡とは少し範囲がズレるのでそっくり同じではありません。
国の造(みやつこ)に関するウイキペデイアによれば、国造が廃止されて国になったときの国と評の関係が表になって出ています。
大和の国に元3名の国造、山城国に元2名などの表が出ていますが、制度変更には領域や権限に変更を伴うことが多いことがわかります。
名称が変わるにはそれなりの理由があります。
我々の仕事分野・法の改正・禁治産制度が被後見制度に変わっても一見元の後見業務と似ていますが、制度目的が変わったので、運用の方向性が変わった・・資産保護の目的から被後見人の人間保護(資産保護はその1部)に変わったのと同じです。
郷里制に戻しますと、自己紹介で長野県出身というより木曽ですという方がイメージが伝わりやすいでしょう。
都道府県単位になってまだ約100年あまりでしかないので、民族的な一体性・特徴の紹介では旧国名の方がわかり良いからです。
今は大都市住民の多くが地方から出てきた2〜3世の時代ですので、東京ですというより多くの人が親の出身地をいうのも聞いている方の気持ちに応じる結果でしょう。
日本の「むら」がいくつか集まった「さと」やこれがさらに大きな単位になった「こおり」を朝鮮半島では評というらしいのでこれにするか!となって日本では「評の」漢字をあてていた可能性があります。
そもそも、朝鮮では原始集落に「評」の漢字を何故当てていたか不明ですが、ネット上でその原義まで書いたものが見当たりません。
朝鮮語の発音が漢字の「評」の発音と似ていたから?というの普通の推測ですが、私の素人憶測です。
「こおり」と言い習わしていたものを漢字導入初期に朝鮮では「評」と表記されていたものを借用していたものの、大宝律令制定を機に郡に変わったのではないでしょうか。
もともと借り物の漢字表記なので中央の命令で「今後こおりの表記を郡とする」と指示があればこれに従うのに何の抵抗もなかったでしょう。
律令制導入時に各地のいくつかの「こおり」=権力単位を集めて一つの国に編成し直したときに地域実力者数人が?郡司に任命され、中央から派遣国司との両立体制になったのだと思われます。
ちなみに日本では明治維新まで中国の地方制度・郡県制を導入しながら、県だけ採用しなかったのは、中国のような末端まで行き渡る中央集権体制・・社会が明治まで成立しなかったからです。
千年以上にわたって地方体制がいろいろ変わっても、もしかして縄文の昔・・紀元前何千年前から庶民は雑草のごとく踏まれても踏まれても、庶民・原始集落はその場にしがみついて縄文時あぢのDNAのまま変わることなく生き抜いてきたように見えます。
戦国時代から見れば、足腰になる地元国人層が(古代豪族から武家層に入れ替わって)戦国時代に信長や秀吉〜家康に攻められて支配トップが追い払われても、地元民はしぶとく生き残りますし、地元武士団.国人層の多くも本領安堵が原則でした。
武田家が滅んでも配下武将・・真田昌幸はその機に自立しましたし・叡山焼き討ちや根来攻めがあったと習っても、現在まで延暦寺や根来寺が残っています。
古くは、各地の神々(氏神様)がそのまま残っているのもその一態様です。
中国古代の郡県制はウイキペデイアによれば以下の通りです。

先秦の郡県制[編集]
春秋時代末期から戦国時代に、晋や秦・楚で施行された。初めは直轄地を県、辺境地域を郡としたようであり、中央から王の任命する官吏を派遣して統治した。
秦代の郡県制
秦の国内では、紀元前4世紀の孝公の時代に郡県制が実施されていた。始皇帝は全国を36郡(のち48郡)に分け、郡の下に県を置き、皇帝任命の官吏を派遣した。郡の長官は郡守と呼ばれ、警察担当として郡尉、監察担当として郡監が置かれた。県の長官は大県は令、小県は長と呼ばれた。県の警察担当として県尉、県令の補佐役として県丞が置かれた。
漢代以降[編集]
前漢は郡国制を採用したが、中央直轄の郡県においては、秦の制度を踏襲した。紀元前148年に郡守を郡太守、郡尉を郡都尉と改称した。紀元前106年、武帝は全国を13州(11州と2郡)に分け、各州に刺史を設置した。これにより郡県は州・郡・県3段階の地方制度に改まった。
魏晋南北朝時代を通じて、州・郡・県の数は増大しつづけ、南北朝末期には1州に1郡しかない地方も現れて、行政上の非効率も問題化してきた。
583年に隋が郡を廃止し、州・県2段階の地方制度に改められた(州県制)。607年(大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、郡県制が復活した。
618年に唐が隋を滅ぼすと、郡を州に改め、再び州県制が採用された。627年に全国が10道に分けられると、道・州・県3段階の地方制度となる。742年に州が郡に改められて、一時的に郡県が復活したが、758年に郡が州に改められて、郡は姿を消した。

中国での郡県制の内容はしょっちゅう変わっていますが、共通項は中央政府の官僚が派遣されて地方を直接統治する仕組みだったことになります。
明治維新以降日本の歴史始まって以来の郡県制採用ですが、日本の場合県が上位で郡がその下部機構になっています。
現在の県域は、大方の場合旧国名を数カ国(千葉の場合下総、上総、安房の3国)まとめた大きさになっていますが、律令体制下での国は、その前にあった国造を数名集めて1カ国にしていたことを冒頭紹介しました。
国造の支配地域と「こおり」の範囲の関係がはっきりしませんが、もしかするとほぼ同一だった可能性があります。
古代の地域単位としての「こおり」をいくつか合わせて律令制下の旧国名となっていたのですが、前漢の郡国制を見ると直轄地は秦同様の郡県制であり、遠隔地で直接支配困難地域を国として王として半独立的支配をさせていました。
郡国制に関するウイキペデイアの記事です。

帝都長安の周辺は中央直轄地として郡県制を、地方には一族・功臣を諸侯王、諸侯として封じる封建制を併用したためこれを郡国制と称した。

免責事項:

私は弁護士ですが、このコラムは帰宅後ちょっとした時間にニュース等に触発されて思いつくまま随想的に書いているだけで、「弁護士としての専門的見地からの意見」ではありません。

私がその時に知っている曖昧な知識を下に書いているだけで、それぞれのテーマについて裏付け的調査・判例や政省令〜規則ガイドライン等を調べる時間もないので、うろ覚えのまま書いていることがほとんどです。

引用データ等もネット検索で出たものを安易に引用することが多く、吟味検証されたものでないために一方の立場に偏っている場合もあり、記憶だけで書いたものはデータや指導的判例学説等と違っている場合もあります。

一言でいえば、ここで書いた意見は「仕事」として書いているのではありませんので、『責任』を持てません。

また、個別の法律相談の回答ではありませんので、具体的事件処理にあたってはこのコラムの意見がそのまま通用しませんので、必ず別の弁護士等に依頼してその弁護士の意見に従って処理されるようにしてください。

このコラムは法律家ではあるが私の主観的関心・印象をそのまま書いている程度・客観的裏付けに基づかない雑感に過ぎないレベルと理解してお読みください。