報道自由度ランキング2(「公権力とは距離を保つ」1)

ここで、2018/06/13「報道の自由度ランキング1」〜2018/06/29「(フェイク?)報道と信用失墜3(国連特別報告2)」の続き・・日本の言論自由度ランキングが政府批判的意見を言う書店主が政府によって拉致されてしまう香港などよりも低いという国連報告に戻ります。
言論に関しては本当の自由市場があれば、国民の意向に合わない言論は売れないし、メデイアの場合視聴率も下がり自然に出番が減ります。
流行作家や流行商品が売れなくなるのと同じですが、それを言論の自由がなくなったと転嫁批判していないかの疑問があります。
実験らしい実験もしない研究発表が自由に出来なくなった場合に、研究発表の自由度が下がったと嘆くようなものです。
日本をより良くしたいと思うならば、国内の言論市場で先ずは勝負すべきです。
外国に向かって日本の批判ばかりする習癖(自虐史観)は、「自分だけは別」という優越思想発露の一環でしょうか?
数年〜4〜5年前に「そこまで言って委員会?」の議論を見ていたら、慰安婦事件に関連して日本兵の蛮行批判をしていたある有名女性の(父職業軍人であった?か忘れました)「ではあなたのお父様もその一人ですか?」という趣旨の質問をされて「私の父はそんな人ではありません」と「憤然」と言い切って会場の失笑を買っていましたが・・・。
日本人の多くが「自分の父さまはそんな人ではなかった」と思いたい人ばかり・・国民心情と切り離して日本批判する人は「自分または自分の父だけは違う」と問題の圏外・高みにいる思想の人が多い印象です。
社会派と称する映画を見ると、日本の最底辺層をアップして「日本はいかに貧しく汚い街か!」というイメージを海外に宣伝するものが多いのですが、そういう画像ばかり見て日本へ来てみると実態とは大違いなのに驚く人が多いようです。
社会が発展し景気が良くても、苦しい人や犯罪を少しでも減らせると言うだけであってゼロにはできません・・高成長や発展から取り残される人がいるのは当然です。
そういう人々・・日本の0、00何%!の人に焦点を当てる・・自分の収入が増えて成功者になっても、いつもそういう人へ想いを馳せることは重要ですし、他人に対しては、謙遜する姿勢が必要です。
しかし、それは個々人の内省や国内政治のあり方を国内で発信する問題であって、日本の暗部を対外宣伝する必要性とは関係のないことです。
日本の欠点とも言えない・強い絆で結ばれ一体感が強く過疎地の隅々まで貧窮に苦しむ人の少ない・世界一格差の少ない社会から暗部を探し出して国際社会に訴えたい人が多い・・そのような逆境でも健気に?頑張っている人を描くのが表向きのメッセージですが・・視覚的に圧倒的影響力がある(ことこそ映画の最大の強みです)のは汚い空間表現です。
・・映画界ではそんな最底辺に焦点を当てる監督ばかりが「社会派」と称して幅を利かしてきたのが不思議です。
どんなに頑張っても貧困率や犯罪率をゼロにできないが、その比率を下げることに政治は努力すべきですし、しているのです。
あばら家やゴミも不良も犯罪もゼロにはできないが、比率を下げる努力が重要です。
犯罪等をゼロにはできないが、日本をよくしようと頑張っている人や政府を嘲笑うために特別汚い場所を選んで報道する・・自分だけが偉くなったよう気になる人がいるようです。
最近カンヌ映画際で「万引き家族」という日本で現実にありえないような題名の映画ですが・・受賞した是枝監督が、政府のお祝いの招きを断った記事が新聞に出ていました。
私は例によって「見出し」しか見ていませんので読んだ時に「不思議なことをいう人がいるものだ」と印象だけ残っていたのですが、今回のテーマに関係ありそうなので以下検索して見ました。
https://www.asahi.com/articles/ASL68677QL68UCVL025.html

是枝監督、文科相の祝意を辞退 「公権力とは距離保つ」
2018年6月8日20時39
是枝監督は同日付で「『祝意』に関して」とする文章をサイトに掲載。
受賞を顕彰したいとする団体や自治体からの申し出を全て断っていると明記し、「映画がかつて、『国益』や『国策』と一体化し、大きな不幸を招いた過去の反省に立つならば、大げさなようですがこのような『平時』においても公権力(それが保守でもリベラルでも)とは潔く距離を保つというのが正しい振る舞いなのではないかと考えています」

「公権力とは潔く距離を保つ」とはどういう意味でしょうか?
公権力の主体は政府であり、民主国家においては政府は国民代表ですから、言い換えれば日本人代表と距離を保ちたいということでしょうか?
是枝監督は、「政府は国民を代表していない」というのでしょうか?
こう言う根拠のない言い切りを喝采して売れっ子?の虚像を作り上げてきたのが、情報独占にあぐらをかいてきたメデイア界でした。
もしかして、フランス政府主催の映画祭で受賞すれば、(フランス政府に公認されれば)日本国民代表になったつもりでしょうか?
上記論法によれば日本人代表が日本人の選挙によらずに、フランス政府によって選ばれるイメージです。
革新系運動家の政府批判はほぼ毎回、「国民大多数の声を無視して・・」という合唱ですが、根拠なく「国民大多数」を僭称しているのと共通です。
メデイア界にいると日本批判「自分は日本人一般とは違う人間・・高みにいる」と思い込んでしまうのでしょうか?
彼は戦前権力に抵抗した実績があるのでしょうか?
一見したところ戦後だいぶ経ってからの生まれで戦前政治と関係がなさそうな世代のようですから、いわば自分を安全地帯において格好つけているだけのようにみえます。
では現在の権力と戦ったことがあるのでしょうか?
メデイアという第4権力に身を置いて、その中の多数派の意見を代弁しているだけではないでしょうか?
是枝監督の公権力・・主張は、june 6, 2018,「慰安婦=性奴隷論の説明責任1(言葉のすり替え1)」以降書いてきた戸塚弁護士が「私」の主観を媒介に「売春婦を性奴隷」とすり替えたように「公権力」概念の巧妙なすり換えが行われています。
今彼が指す公権力は現在の公権力なのに、なぜか戦前の公権力のイメージに切り替えて距離を保つ必要があるのでしょうか?
いかにも現政府も国民を代表していない・・国民抑圧者のようなイメージすり替えが行われています。
その上で、「映画がかつて、『国益』や『国策』と一体化し、大きな不幸を招いた過去の反省に立つ・・」というのですが、彼の脳裏では戦前の国民抑圧者的公権力が今も続いているような論理です。
いわば戦後の民主化と70年の結果を見ないことにしている・・現実無視の態度です。
そもそも戦前政治が権力による抑圧社会であったか?メデイアの誘導に抵抗できなかったか否か自体検証されていません。
メデイア界こそ敗戦時にきっちりした自己批判・総括してこなかったことが、未だに尾を引き我が国を変な方向へ引っ張っているのです。

本田鑑定3の検証必要性

第三者委員会〜検察審査会に話題が逸れましたが、7月2日まで書いてきた袴田事件再審手続きでの本田鑑定に戻ります。
本田教授が訴訟中にも関わらず鑑定データ廃棄してしまった行為が事実とすれば、学問の自由を守るために学者のモラルとして問題がないか学会の信用維持のために、相応の調査報告があってしかるべきでしょう。
当該学会や大学で判断→処分する能力がないならば、第三者委員会の出番ではないでしょうか?
袴田再審事件で鑑定意見を書いた本田教授の場合、小保方氏とは違い論文発表経験豊富な教授=若手の論文書き方指導の立場?である上に、刑事訴訟の正規鑑定・・たぶん鑑定証言もしているでしょう・・で実験記録や資料保存しないで鑑定書を提出しているとすれば(ミスか実験自体が虚偽か不明ですが)軽視できないモラル違反ではないでしょうか。いずれにせよ、彼がこれまで発表してきた研究実績の信用がどうなるか?彼の所属する学会で検証しないで放置・・知らぬ顔の半兵衛を決め込めるのでしょうか?
(小保方氏の場合博士論文では遡ってデータ捏造がないかの検証がされていました)
早稲田大学のようにせっかく不正を検証したのに、学位剥奪しない処分もありえますが、少なくとも本田教授の過去の論文が実際の実験に基づくかの検証をする必要があるように思いますが?
鑑定の見方は人によって違うでしょうが、訴訟の帰趨・・有罪か無罪か・本件は死刑事件ですから、生死の分かれ目が鑑定成果の信用性次第になっている重要資料であり、その信用性の有無が論点になっているのに、DNA検査記録や資料をその訴訟進行中に「廃棄して保存していない」とすれば致命的欠陥ですから、本田教授は本当に実験成果が得られたかの証明を出来るのか?どういう釈明をするのでしょうか?
高裁では本田教授が「係争中の鑑定資料を保存せず、かつ検査経過記録を廃棄した」かの説明をしない・説明責任を果たさなかったとすれば「鑑定を信用できないとされても仕方ない」という開き直りに徹したことになるのでしょうか?
発明発見の場合と違い、鑑定資料が微量すぎて一回の実験で使い切ることがありますが、その場合には実験結果を保障するためには相応の工夫があるべきでしょうしその旨の説明責任があります。
訴訟確定後何年も経過して書類整理の過程で破棄したならば別ですが、訴訟進行中・しかもその実験ではそういう鑑定結果が出るはずがないと別の鑑定人から批判されている最中に、資料や経過記録さえ廃棄しているとすれば何ために廃棄したのか?の疑いが生じるのが普通です。
それで(高裁で問題になる前の)「地裁決定前に廃棄していた」と言わざるを得なかったのでしょうか。
高裁が本田鑑定を信用しない・採用しない理由は小保方氏論文同様の捏造ではないかと言わんばかりの認定ですが、高裁認定が正しいかどうかは、最高裁で決着がつきます。
これまで、もしも東京高裁の鑑定に対する評価が正しいとした場合の意見を書いてきましたが、大手メデイアの報道があてにならないだけでなく・・理研の小保方氏に始まり大学教授という肩書きによる科学論文の信用性も(ほとんど誰も検証作業がされないと良いことに?)地に堕ちてきました。
企業連携の研究発表の場合には、続いて実用化実験が待っているので、実験をしていないのに実験したような架空論文発表して(一時的に株価急騰して)もすぐにバレてしまいますが、企業製品と関係ない分野・それが何の役に立つか不明の基礎実験発表では誰かが論文発表しても多くの科学者が「そうなの?」という程度で皆読み飛ばしていくだけでしょう。
論文の市場評価として引用数ランキングがよく言われますが、論文の前提になっている「こういう実験をしたら、こういう結果が出た」という実験そのものを再現実験しないで、本当ならば「すごい」と引用しているだけのことです。
本当に実験した結果かどうかは数十年たってから誰かが、その成果を利用しようとしたときにならないと分かりません。
数十年後に何かを研究開発する段階で、数十年前の先人の論文が検索に引っかかって、これを発展させれば自分の考えている新製品の開発に使えるかも?と「その論文で書いている実験してみたがどうもうまく行かない」・・自分の再現実験の仕方が悪いのかな??で挫折して発表者に問い合わせて論文に書いていないちょっとした触媒の必要性を教えてもらってもうまくいかないときも、「ありがとう」とお礼を言って終わりにして、(本当は怪しい発表?と胸に収めて)別の方法を考えるのがふつうでしょう。
自分の構想する新技術開発実現するのが先決ですから、正義感に燃えて?(例えばカナダや中南米の無名人の論文の場合・発表者が生きているかどうかも不明)「その論文捏造でないか?」と社会問題にする暇のある人は滅多にいないでしょう。
このようにすぐには再現実験をする人がいないのをいいことに学位論文に限らずその道の有名教授であっても・・実用に遠い論文の場合、発覚リスクが滅多にないので嘘八百の論文発表がまかり通っているということでしょうか?
小保方氏の場合には「実用性のない学者の論文ってそんなもんだ」という達観した低評価定着した方が・それが実態であれば社会全体にとって合理的なのか?もしれませんが、本田鑑定の場合には学者の信用性ばかりではなく、司法の信用性・人の生死決定に関わる実用に直結することです。
袴田再審開始手続きの鑑定は実用分野ですから、即時に検証手続きが始まることが予想されているにも拘わらず(検証妨害のために?)あらかじめ実験記録意一式を廃棄していたとすればその図太さに驚くばかりです。
実用に裏打ちされている企業製品の場合、画期的性能開発の虚偽宣伝しても(株式相場が一時急騰しても)その部品を組み込めばすぐバレる点で市場評価が確かです。
メデイアの信用低下は消費者(ネット発達によって独自に情報収集できるようになって)のレベルアップによって、すぐに批判される・市場評価にさらされるようになって始まったように、学問発表の評価も「どうせ一般人には分からない」という閉鎖性に守られてきたのが、民度アップによって批判に晒される・・文字通り「思想表現の自由市場」が始まったように見えます。
「実用に結びつく企業発表でない学者の独自発表など誰も検証しないので結局眉唾もので、ほとんど信用できない」という風潮が広がる方が健全かもしれません・(学問世界では常識になっているのか?)これが小保方氏擁護論・中部大学の武田教授主張の核です。
小中高校・一般ホワイトカラーに優越する地位を失って久しいように全入時代に入った大学の地盤沈下が進む一方だから、その現実を受け入れるか、地位低下を阻止したいならば、それぞれの分野で、何か問題が起きた時に(権限がはっきりしませんが)アメリカの特別検察官のような臨時任命の調査官・・第三者委員会の調査発表を必要とする時代が来ているように思われます。
大学は地位低下を阻止する気概さえないと言うべきなのでしょうか?
ただ日本人は、日本の裁判や検察のイメージ・清廉潔白で「神のお告げ」のように穢れのないもの・・彼らは局外中立で「絶対的に正しいことをする」と信じ込む傾向がありますが、国連特別調査官でもアメリカの特別検察官でも皆政治任用であって、(官僚も政権交代で多くが入れ替わる社会です)政治的に動く本質を持っていることに注意する必要があります。
国連特別報告者が特定の立場で不満分子の意見だけ選んで聞いて歩けば、日本の言論の自由度ランキングでは、中国批判をしていた書店主がたちまち拉致されてしまう香港以下の評価になるのは当然でしょうか?

特別検察官2(大統領・総理の犯罪)

昨日引用した宮家氏の解説を読むと、「米国の特別検察官」には、特別な権限や身分保障があるわけではなく、なんでもやれる多目的捜査官と違い、せいぜい特命事項だけしか担当しない専従捜査官という程度でしょうか?
そうとすれば、特命捜査官(検察官という翻訳自体どこかずれています・現在のモラー氏が検察官資格があるかすらあやしい感じがします)翻訳するのが本来だったでしょうが、「特別検察官」というメデイアの造語報道は、いかにも特別強力な権限があるかのようなメージを植え付けるもので、ピントがずれている(フェイク一種?)ように思われます。
私の勝手な思い込みとは思いますが、「特別検察官」と仰々しく報道されると、鬼平犯科帳の鬼平のように、既存の細かいルールを無視して、「正義のためにビシバシやって」くれそうなイメージ・・現在でいえばフィリッピンのドウテルテ大統領の言うように「手当たり次第射殺しても良い」というような特別権限を持つようなイメージを抱く人が多いのではないでしょうか?
実際には、司法長官が特定事項だけ切り込んでいく「専従組織・プロジェクトチームを作ってもよい」と言うだけのようですが、専従組織に抜擢された以上は成果を出すために頑張る・・やる気があるという期待感をいうのでしょうか?
昨日引用した朝日新聞の解説は「特別検察官とは」と言う制度解説のようでいて、実は制度について何の説明もなく過去の特別検察官の担当した過去の事例を説明するのみで、宮家氏の解説に比べれば解説能力の低さに驚きます。
大統領制の国民に「日本の総理大臣とは?」と言う解説記事で、議院内閣制と大統領制の違いを説明せずに、東條英機とか、小泉総理や福田赳夫の名前と彼らの実績紹介しているようなものです。
制度説明であれば制度の違いを説明した上で、大統領制のためにこう言う思い切ったことができたが、議院内閣制のためにこう言うことしかできなかったと言う違いのわかる事例、あるいは、議院内閣制だからこう言う抑制が効いて暴走しなかったなどと言う違いの事例を上げるべきです。
「特別検察官」に関する朝日の説明は「特別検察官が一般検察官とどこががどう違うか」の説明をしないでだらだらと事例を羅列しているような記事です。
朝日の得意とするイメージ報道と言うか、事実をきちっと解説できないムード記事が多いのがもの足りなくて昭和61年に私が朝日から日経新聞に乗り換えたと6月20日に書いた原因の一例です。
「特別検察官」と大統領権限から切り離されたかのようなイメージ報道されると、三権分立とは言え大統領権限が強すぎて検察の独立性が弱い点を考慮した補完性を考えた制度のようにイメージされますが、実は(政治影響力をどう見るか・弾劾決議に影響する政治上の判断が必要ですが・・)政権の存亡に切り込んでくればいつでも罷免できる点で、日本の普通の検察官ほどの地位保障すらありません。
その点で企業の第三者委員会は渦中にある企業幹部から選任されるものの、選任してしまえばその後罷免権が事実上ない点で第三者委員会よりも権限が弱いことがわかります。
政権の存亡に関わる点に及べば、(逮捕されて失職し刑務所に入るくらいならば、「特別検察官」を強引に罷免して世論の批判をうけても弾劾決議で負けて元々ですから、)法的には罷免してしまえる点で、結論としてはその直前・首の皮1枚のところで、「司法取引」が成立する余地があります。
ただし世論に押されて(与党の意向を受けて)弾劾を避けるために仕方なしに「特別検察官」を任命したのにこの捜査が進んで(政権に都合が悪くなったからと)解任強行したのでは、弾劾決議に(与党の多くが見放すので)直結するリスクが高まります。
過去の事例ではニクソンのウオーターゲート事件が世論の批判が厳しくなり弾劾決議の可能性も出てきたので「辞任と引き換えに訴追しない」暗黙の合意で終わっている・・実際には、辞任直後の次期大統領(ニクソン氏の副大統領のカーター氏昇格)がすぐに恩赦して終わっています。
特別検察官は最後の最後に「大統領辞任と引き換えに訴追しない取引・辞任に追い込めれば」大成功という制度設計のように見えます。
国民世論も、(不正を働いた大統領が刑務所にまで入らなくとも、)「政治責任を取るならばそれでいいか!」という大人の知恵でもあるでしょう。
この程度の落としどころを無視してトコトンやり抜くのが朝鮮族で、今回のパク大統領弾劾→刑事訴追→実刑判決のやり方です。
田中角栄氏に手錠をはめてしまった三木政権の日本も似たようなものですが・・。
たまたま上告審中に病死したので顕在化しませんでしたが・・・。
ウイキペデイアによると

1987年(昭和62年)7月29日 – ロッキード事件の控訴審判決。東京高等裁判所は一審判決を支持し、田中の控訴を棄却。田中側は即日上告
1993年(平成5年) 12月16日 – 慶應義塾大学病院にて75歳で死去。戒名は政覚院殿越山徳栄大居士。墓所は新潟県柏崎市(旧西山町)田中邸内。ロッキード事件は上告審の審理途中で公訴棄却となる

と言うのですから、上告審が長すぎる・・最高裁は病死を待ったのでしょうか?
私は当時から今になっても論理的説明できませんが、当時から「総理に対する訴追が必要な時でも一般人に対するのと違ったルールがあっても良いのでないか」と言う違和感を持っていて今も変わりません。
法の下の平等に反するのでルール化は無理でも、実際の運用で知恵をしぼる必要があるように思われます。
日本の総理や法務大臣には、アメリカのように検察官に対する政治的罷免権はありません。
内閣総理大臣は閣議決定を主導できるだけで法務大臣に個別に命令できませんし、法務大臣も検事総長に対して一般的指揮権発動はできても(自由党幹事長佐藤栄作氏に対する造船疑獄事件に関する犬養法相の指揮権発動は歴史に残る大事件ですし、政治的大事件に発展する覚悟が要ります)、個別検事に対する指揮権はありません。
個々の検事は検察官一体の原則によって検事総長の指揮命令下に入りますが、あくまで内部命令に過ぎず、個別事件処理に関しては独任官庁といって、検事の名で行った処理は内部権限制限に反していても、独立官庁権限を持っています。
しかも、日本の場合には、政治配慮によって警察検察が不当に立件しない場合には民間から告訴告発できて、告訴告発事件を検察が不起訴にしてしまえば、不満な方は検察審査会に審査請求できるしくみです。
検察審査会委員は選挙人名簿から選ばれる短期資格ですから、前もって誰がなるか不明・政治的圧力を受けたり癒着できない仕組みです。
検察審査会が起訴相当とした場合には、検察の動きが鈍い可能性があるので、(裁判所の選任ルールは弁護士会に推薦依頼があって刑事弁護に精通したその道のプロ)弁護士が検察官役になって事件処理〜公判維持する制度が完備しています。
もちろんこうした指定弁護士は裁判所が選任するので、政府が関与する余地が全くありません。
論理的にはこれで一貫していますが、アメリカのような司法取引成立のような・苟も一国の総理に関する事件では、事実究明をきっちりすることは重要としても、その先・・処罰まで必要かどうか・政治宣言効果・・失職程度でいいのではないでしょうか?
責任を取って辞任した後さらに追求するのは行きすぎのような気がしますが・・。
ただし田中氏は金脈事件の責任をとって辞任しても、隠然たる勢力を張って国政を事実上仕切っていた点が問題でしたが・・。
田中氏にすればトコトンの追及を避けるために辞任後も政治勢力維持に必死にならざるを得なかったと言えます・司法取引する仕組みがないからです。
落ち着かせるところで落ちつかせる知恵がないから、闇将軍といわれる状態が長く続き、国政が怨念の政治とも言われ長年ドロドロしてしまった原因です。
安保条約に関する統治行為理論や、選挙制の違憲問題でも最高裁判所が選挙無効まで判決しないで違憲状態宣言で終わらせているような、知恵がいるのではないでしょうか?

第三者委員会とは?2(特別検察官1)

弁護士会に限らず職能団体では、いわゆる第三者委員会委員のように特定事件が起きている最中に事態打開のために渦中の経営陣から声がかかるのと違い、(たとえば加盟企業社長が業界内役職など大して重要視していないのと同様)現執行部に迎合する余地がもともと低いと思われます。
プロゴルファーの事例を昨日紹介しましたが、我々弁護士会の場合も、組織維持が目的の懲戒制度ですから、問題を起こした個々の弁護士・身内に甘い処分では組織・弁護士に対する社会の信用を維持出来ませんので、勢い身内に厳しい処分になりガチです。
権力の介入による懲戒事件の場合には、権力に屈するわけにはいきません(そのための自治制度です)が、権力闘争と関係のない弁護士業務のあり方が顧客〜消費者から訴えられている場合、(正式統計数字を知りませんが、体感的にこれが懲戒事例の99、99%と思われます)身内をかばうための運用では何のための懲戒制度か分かりません。
各種組織内の懲戒委員は、自己組織を愛して自分の組織の信用・・一般構成員の地位を守る職務であって、個々の不祥事をした会員を守るための制度ではないことをしっかりわきまえて判断すべき立場です。
ただ、内部にいると社会が期待する水準変化に疎くなるリスクがあるので、懲戒・懲罰内部に第三者を抱え込むのは良いことです。
平成のはじめ頃に綱紀委員をしていた頃には、どちらかといえば外部委員の方が「このくらい許された行為ではないか」という意見が甘く弁護士委員の意見の方が厳しい意見でした。
・・(外部の人は「弁護士ってそんな程度じゃないの!」と低く見ているのかな?と危惧していましたが・・)
数十年経過して最近社会の弁護士に対する評価期待感が高まっているのか?懲戒委員会では外部委員も遠慮なく厳しい意見を言うようになっているような印象ですが、その方が社会の弁護士に対する見方が参考になってありがたいことです。
弁護士会の懲戒委員には、現職の裁判官検察官各1名のほか、大学教授などの学識経験者が2名入ることになっています。
判事検事の場合には出身官庁の推薦でそのまま選任される仕組みで、弁護士会に都合の良い人ばかり選ぶ仕組みではありません。
この点も企業が問題が起きてから、渦中にある現執行部が「気心の通じた?人」を選任する一般の第三者委員会とは質が違っています。
アメリカの特別検察官制度は、渦中の大統領が特別検察官選任に直接関与しない点では日本の第三者委員会とはまるで違うイメージで紹介されています。
https://kotobank.jp/word/%E7%B1%B3%E5%9B%BD%E3%81%AE%E7%89%B9%E5%88%A5%E6%A4%9C%E5%AF%9F%E5%AE%98-1817357

朝日新聞掲載「キーワード」の解説
米国の特別検察官
ニクソン元大統領が1974年に辞任に追い込まれた「ウォーターゲート事件」をきっかけに、大統領や政府高官を捜査、訴追するために設けられた。78年に施行された「特別検察官法」に基づいて裁判所が任命する制度だったが、「権限が強大だ」とする議会の批判で99年に失効。現行では司法省が任命するが、独立性の高い立場で捜査に当たる。 これまで中央情報局(CIA)工作員の身元情報漏洩(ろうえい)事件や、クリントン元大統領に関わる「ホワイトウォーター疑惑」、同氏の不倫疑惑などが捜査の対象となった。
(2017-05-18 朝日新聞 夕刊 1総合)

ちなみに司法省が一般検察官任命と特別に委嘱出来るというだけでは、何が「特別」か意味不明ですが、http://www.canon-igs.org/column/security/20170531_4352.htmlによれば以下の通りです。

2017.05.31
特別検察官、何が特別なのか
産経新聞【宮家邦彦のWorld Watch】(2017年5月25日)に掲載
「特別検察官は…大統領にも解任できない」。19日付某有力紙1面トップ記事の冒頭部分がこれだ。
「何だって?」、読んだ筆者はのけ反った。それだけではない。他紙には「米『政権VS司法』鮮明」「捜査の予算は無制限」なる解説もあった。
字数制限の中、急いで書いた記事なのだろう。武士の情けで実名は控えるが、それにしても、なぜこんな基本的事実誤認が生じるのか。
トランプ氏のロシアゲート報道は今後も続く。今回は「特別検察官」の論点を整理したい。
そもそもこの官職、英語名だけでも3種類ある。
(1)special prosecutor
(2)independent counsel
(3)special counsel
(1)は文字通り「特別検察官」。1875年にグラント大統領が某スキャンダル捜査のため任命したのが最初だ。この官職名は1983年まで使われたが、78年に議会が法制化するまでは司法省内部規則などに基づき任命されていた。
(2)は「検察官」なる用語をあえて避けた「独立顧問」だ。ウォーターゲート事件を踏まえ、78年にそれまでの特別検察官の地位を法律で定める「政府内倫理法」が時限立法で制定され、83~99年にはこう呼ばれていた。
(3)は現行の官職で司法省の「特別顧問」。99年の政府内倫理法失効後、連邦規則28章600条に基づき司法長官が米政府外から弁護士を任命して設置できる常勤職だ。
(4)これとは別に1924年、上下両院特別決議に基づき、クーリッジ大統領が「特別顧問」を任命した例がある。
日本語ではこれらをまとめて「特別検察官」と呼ぶが、いずれも利益相反等機微な事件を政治とは一定程度独立した立場から捜査・訴追する権限が付与される点は共通だ。
現在の「特別顧問」は司法省内の一ポストにすぎず、広義の行政機関の一部だ。他の連邦検事と同様の捜査・検察権限は保障されるが、任命権者はあくまで長官。その独立性に法的保障はないだろう。されば大統領が長官に罷免を命じることも可能。少なくとも現状は「政権VS司法」ではない。
「連邦規則」とは議会が作る法律の枠内で行政機関が定める規則集であり、日本の省令集に相当する。独立性を確保するため「特別顧問」には別途予算が付くが、当然その額は司法省予算の枠内だ。
日本では特別検察官を大統領弾劾と絡めて報じるケースが多い。しかし、米国では特別検察官制度と弾劾手続きは連動しない。「特別顧問」が任命されれば直ちに弾劾に進むというわけではないのだ。

司法副長官がその直接監督者であることから、司法副長官に対するトランプ大統領の(解任)圧力が時どき報道される所以です。

STAP細胞事件3と日大アメフト事件2(第三者委員会とは?1)

小保方事件での早稲田大学の処分は、判断基準がずれています。
日大は内部実力者に対する忖度でにっちもさっちもいかなくなって内部懲戒制度が機能しなくなっていたので、第三者委員会に頼ったのでしょう。
早稲田大学も内部で処理する能力がないならば、第三者委員会でも立ち上げる必要があったように思われます。
うやむやにできてホッとしているでしょうが、その代わり「早稲田大学の学位ってそんなものだったの!」という評価の定着の方が大学にとって長期的に大きなダメージです。
学位授与審査の現実は仕方がないとしても「不正がバレても学位授与を取り消さない」というのって理解不能です。
刑事処罰の場合、検察官や裁判官が被告人を個人的に知っていることは万に1の確率もないでしょうし大手企業の内部懲戒処分もほぼ同様でしょう。
しかし、学会や弁護士会の懲戒処分で言えば直接会ったことがなくとも、直接間接によく知っている仲間内の処罰ですから「泣いて馬謖を斬る」ような辛い面もありますが、個人を守るためではなく、組織を守るためにある制度ですから、ルール違反があれば穏便に済ます訳にはいきません。
この意味では朝日新聞の慰安婦報道事件、あるいは日大アメフット部の騒動では、第三者委員会が設けられていますが、第三者委員会設置発表自体・・自分たち内部自浄機能が作用していない・国民の信用がないことを潔く告白したようなものでしょう。
4〜5日前に日大第三者委員会の調査結果が発表されましたが、一見したところ想定外に?にきっちりした報告のようで、第三者委員会が、本来の面目を施したように見えます。
http://www.sanspo.com/sports/news/20180629/spo18062920470013-n1.html
「中間報告書に記載されているとおり、本学職員による反則行為の指示が存在したことは誠に遺憾であり、被害選手、保護者及び関西学院大学アメリカンフットボール部の関係者の皆様、並びに反則行為の指示を受けた本学の選手及び保護者に対し、深くお詫び申し上げます」と謝罪した。
第三者委員会は中間報告で内田前監督と井上前コーチを「指導者としての資質を著しく欠いている」とした上で、責任転嫁するような姿勢を「極めて悪質」と指摘。問題発生後の対応で、一部の日大関係者により当該選手に責任を押しつけ、監督やコーチの指示はなかったことにしようとする不当介入が行われ「事件のもみ消しを図ろうとした」と断じた。
https://www.asahi.com/articles/ASL6Y3VH3L6YUTQP01F.html
日大第三者委、内田前監督らの指示認定 悪質タックル
2018年6月29日15時25分

中間発表の骨子の主な内容
・ルールを逸脱した極めて危険なタックルは、(前監督の)内田正人氏と(前コーチの)井上奨氏の指示で行われた
・試合直後のミーティングや記者会見で、内田氏が自らの責任を認めるような発言をする一方、事情聴取では井上氏とともに不自然な弁解を繰り返し、自らの責任を免れ、(当該)選手に責任を押しつけようとしている
・事件発生後、一部の日大関係者より、(タックルをした)当該選手に責任を押しつけ、監督コーチの指示はなかったことにしようとする不当な介入が行われた

これまでの朝日新聞の第三者委員会報告などの例では、依頼者である朝日新聞の意向を忖度しながら、ある程度世論動向に合わせて批判的に書く・「この程度まで批判的に踏み込まないと世論が納得しない」だろうという政治思惑による調査報告・.時間稼ぎの印象が強かったのですが、今回はズバリ日大執行部の悪しき行動まで踏み込む切れ味の鋭い指摘です。
日大側としては、内田常務一人を悪者にして大学全体の生き残りをかける覚悟を決めていたものの、実力者内田氏の首に鈴をつけられないので第三者委員会にそこまで踏み込んでもらって「その認定事実を基礎に内部処分を決める」という図式を描いてこれに合わせて「結果ありき」の調査だったのかもしれませんが・・。
第三者委員会設置時点で内部の権力闘争が決まっていたというおどろおどろしい結果だったのかもしれません。
日本特有かどうか知りませんが、「第三者委員会」という代物ほどおかしな立ち位置はありません。
正式には第三者委員会ではなく、第三者「的」委員会というべきでしょう。
弁護士会の懲戒委員は総会で選任される仕組みですが、事実上執行部の推薦による点は事件後に設置される第三者委員会と外見上似ています。
しかし、単位弁護士会の場合には、執行部任期は1年限りであり懲戒委員の方は任期2年ですが、事実上本人が辞めるまで一定期間続ける慣習ですから、執行部に都合の悪そうな事件が起きた時の委員は9割方5〜6年以上前の執行部推薦委員ばかりで現執行部に何らの義理もない上に、委員は高齢者ばかりでこの先なんらかの役職につきたいような欲のある弁護士はいません。
そもそも弁護士会は職能団体組織であって、構成員の意向をまとめて表明することですから、上命下服的組織が普通の一般企業組織と違い、執行部の姿勢による不祥事・その進退を決めるような不祥事が社会問題になるようなことは想定できません。
この辺は経団連であれその他職能団体の多くは皆同じでしょう。
今朝の日経新聞2pでは、プロゴルフ協会がプロアマ大会で招待客に対してプロが働いた非礼な行為(というのでどんな行為かと思って読んでみると「招待したアマがプレー中にプロがウオーミングアップ用に自己練習をした」という点が失礼だったとされているようです・)「こんなぐらいいいじゃないか!」と言いたい人もいるでしょうが、これについて罰金30万の他に厳重注意処分」というのですが、業界としては身内をかばっているよりは、「スポンサーのご機嫌を損ねたらおしまい」というあたり前の価値基準の行動ですし、内部権力抗争と関係がありません。
慰安婦騒動に関する朝日新聞の場合には、特定人物の暴走ではなく組織挙げての体質のようですから、アサヒ関係者の誰も本気で反省していない・・スケープゴートを作り出すわけにもいかず、第三者員会を設けても時間稼ぎ程度の結論にしかなりようがなかったのでしょう。
国民の怒りが一過性のものならばそれで良い・スポンサー・顧客である国民に対して「襟を正す」必要がないので、成功となります・自社の報道姿勢は正しかったという姿勢堅持ですから、いわばどちらが正しいか?いまだに真っ向勝負勝負を社会に挑んでいるように見えます。
慰安婦騒動では国内的に陳謝していても海外版では一切の訂正がないと言われ(海外版を見る能力がないのでそういう噂があったという記憶だけです)ますし「江戸の仇を長崎で」と言わんばかりに安倍政権打倒に的を絞った「森かけ問題」に執念を燃やし「日本には言論の自由度が低い」と国連活動している(ただし、匿名者が特別調査者に説明しているだけで朝日がやっているとは限りません)のは、その一環で「最後の勝負にでている」ように見えます。
この勝負はどうなるか政治の世界は一寸先は闇ですが・・・開き直りに徹している以上は、朝日新聞の体質改善には結びつかないので、新聞購読数・発行部数のジリ貧傾向が続いているようです。
http://biz-journal.jp/2016/10/post_17001.html
2016.10.26
企業・業界 企業・業界
朝日新聞、4年間で発行部数105万減の衝撃…新聞業界、存亡の危機突入へ
内容を見ると残紙率の減少が進んだ結果もあるので、実購読者が減った分の実態はヤブの中です。
http://www.garbagenews.net/archives/2194431.htmlは最新である他にいろんな角度からのグラフがあってわかり良いので一部紹介しておきます。

新聞の販売部数などの推移をグラフ化してみる(2017年後半期まで)(最新)

↑ 主要全国紙の朝刊販売数(万部)

 

本文は16年の記事ですが、グラフの方だけ更新されているらしく18年まで出ています。
グラフでは100万部どころか200万部近く減っている様子で下げ止まっていないようです。

免責事項:

私は弁護士ですが、このコラムは帰宅後ちょっとした時間にニュース等に触発されて思いつくまま随想的に書いているだけで、「弁護士としての専門的見地からの意見」ではありません。

私がその時に知っている曖昧な知識を下に書いているだけで、それぞれのテーマについて裏付け的調査・判例や政省令〜規則ガイドライン等を調べる時間もないので、うろ覚えのまま書いていることがほとんどです。

引用データ等もネット検索で出たものを安易に引用することが多く、吟味検証されたものでないために一方の立場に偏っている場合もあり、記憶だけで書いたものはデータや指導的判例学説等と違っている場合もあります。

一言でいえば、ここで書いた意見は「仕事」として書いているのではありませんので、『責任』を持てません。

また、個別の法律相談の回答ではありませんので、具体的事件処理にあたってはこのコラムの意見がそのまま通用しませんので、必ず別の弁護士等に依頼してその弁護士の意見に従って処理されるようにしてください。

このコラムは法律家ではあるが私の主観的関心・印象をそのまま書いている程度・客観的裏付けに基づかない雑感に過ぎないレベルと理解してお読みください。