基本的人権と制約原理1

国連報告者は、このような関心・本当に自由市場になっているかの基準で調査すべきでしょう。
どのような政府規制があるかの後進国的調査であれば政府規制のデータさえ集めれば結論が出せるのでしょうが、法的規制がないが自由市場の結果(世論変化)によって、コメンテーターの政治スタンスが受け入れられなくなってお役御免になったのか、政府の間接規制がどのようにあって政府意向で出番が減ったのか?の調査となると腰を据えた実態調査が必要です。
日本の世論動向など数ヶ月〜半年間の腰を据えた実態調査をしないと根拠ある意見を言えないはずです。
1週間程度の短期間訪日してスケジュール通りの面会聞き取りをこなしていくだけ・・双方の言い分を公平に聞いてどちらを信用するかしないかだけ・双方主張の裏付け調査・長期滞在しての社会科学的調査など地道な調査しないで一方の言い分だけ採用するのでは日本に来る必要がありません。
児童売買春の実態調査に来た国連調査官?がNGOなどからの聞き取りだけで?少女の何%(数字を忘れました)が児童売買春経験という驚くべき数字を発表して大騒ぎになったことがありますが、わずか1〜2週間?程度の駆け足視察で何が分かるか・事前に関係団体を通して各地で招集(動員?)された関係者から事情聴取したのだろうというのが普通に想定されます。
いかにもその結果発表の記者会見が楽しみであるかのような印象で発信していた弁護士がネット非難されると、名誉毀損で訴えて勝訴したらしいですが、何を批判したことが名誉毀損か訴訟記録を見ていないので不明ですが、調査官?報告者が情報源を秘匿している限り、情報源秘匿している限り同弁護士が虚偽情報を伝えたことも立証できません。
だいぶ前に書いたので、コラム内検索してみたら以下の通り過去に書いていました。
「援助交際率発表の衝撃1」(海外告げ口活動2)のテーマで2015/11/03頃に連載して、その頃のネット発信記事を引用していますので参考にしてください。
ちなみに訴訟は以下の通りらしいですが、「ネタを売り込んでいる」ことなのか「何が事実に反して名誉毀損」なのか、具体的に書いていません。
https://www.bengo4.com/internet/n_6279/

児童買春などの調査で来日した国連の特別報告者、マオド・ド・ブーア・ブキッキオ氏が2015年10月、日本記者クラブでの記者会見で発言した内容だ。ブキッキオ氏の発言は「日本の女子学生の3割(30%)は現在、援交をやっている」と訳されたが、「13%」の誤訳だったとして、のちに訂正された。
伊藤氏が(1)ブキッキオ氏がNGO関係者から聞き取りをおこなっていたこと、(2)その会合に参加したことをツイッターで報告したところ、池田氏は「(伊藤氏が)『日本の女子学生の30%が援助交際』などのネタを売り込んでいる」などとツイッターやブログで批判した。
伊藤氏が2016年4月、損害賠償660万円と謝罪文の掲載を求めて提訴すると、池田氏は「法廷内外で協力して、害虫を駆除しよう」などとツイッターに投稿した。一審の東京地裁は、約57万円の損害賠償の支払いを命じる判決を言い渡したが、伊藤氏は謝罪広告の掲載が認められなかったことなどを不服として控訴していた。
東京高裁の阿部潤裁判長は、池田氏の発言について「社会通念上許される限度を超えて、(伊藤氏の)名誉感情を侵害した」と認めた。さらに、池田氏側が「真実であること」を証明しなかったため、名誉毀損による不法行為にあたるとして、一審の賠償額の2倍にあたる計約114万円の支払いを命じた。一方で、謝罪文の掲載については棄却した。

話題を元に戻しますと、似たような思想傾向でも掘り下げた解説ができず、いつまでもムード的解説や意見しか言えない人は市場評価が下がり用済みになって行くのは当然のことです。
思想的にも国民の傾向がありますので、傾向が変われば過去の売れっ子もお呼びがかからなくなります。
戦後一世を風靡した宮沢憲法・天賦不可譲の人権論でも、昨日紹介したように時代推移によって、「天賦不可譲の人権」とか国家以前の「自然権」というだけでは、素朴すぎない?となって「自己実現」とかの新たな言い方に入れ替わっていったのです。
特定思想・学説が理論が荒すぎて市場評価を受けなくなってくると、これに比例して思想の自由市場論が下火になるのって?なんとなく可笑しい・・過去の思想の自由市場論とは、特定立場が言論市場を牛耳っている時だけのご都合主義だったのか?「思想の自由市場論」って何だったの?という疑問が湧いてきます。
上記憲法論によれば、日本を特定民族の支配下に置くための政治活動を隠れて行う必要がない「権利」となりますが、自由市場で居場所がない・そこで児童売買春その他、自己主張が通らない分野で国連に訴え出て勧告を求める流れになったように私には感じられます。
憲法論・国家が意見発表を制約できるか?という視点で言えば、日本の国益を損なう結果になるかどうかにかかわらず憲法で保障された「自己実現」だというのですから、慰安婦騒動の場合もともと日本が嫌いだから運動していると言っても良いし、「潔く認めて陳謝した方が長期的に日本人の信頼性を高めるから・・」と言い訳する必要がありません。
また児童売買春騒動でいえば、何が名誉毀損になったのか不明ですが、仮に国連報告者に対して「10何%の数字を説明したのは私ではない」とする名誉毀損訴訟であるとすれば、もともとそういう主張してたのであれば「思った通りに言って何が悪い」といえば済むことです。
そもそも自分が信念に基づいて発信しているならば、その主張功績を拡散してくれてありがたいだけであって、なぜ名誉毀損になるのかが不思議です。
名誉毀損で訴訟提起するのは、「その事実があったとすれば自分の信用が害された」という主張ですから、国民がそんな主張を支持していないことを知っていることを自分で証明していることになりませんか?
あるいは、
「朝鮮民族に将来どのようなひどいことをされても一切文句を言えない境遇に陥れる長期的目的で主張し行動している」
と目的をはっきりさせても言論の自由の視点では、どういう意見だからといって国家が発言禁止したりすることは許されませんが、これを思想の自由市場で堂々と主張しても誰も聞いてくれない・自分の信用が落ちる一方でメデイアでの出番が減ったことを批判するのは憲法や人権論の枠外のこと・・行き過ぎではないでしょうか?
上記NGO代表弁護士は「国連報告書を良い結果と賞賛し」ていたのではなく大変なことだと国民に警世するだけであって、日本や民族を性道徳のない国と貶める目的はなかったという立場でしょうが、イメージ的には誘致活動の成果・勝利宣言的に受け止めた人が多いのではないでしょうか。

名誉毀損と政治効果2

政治活動家が一定方向へ誘導していた方向性について、メデイア等で第一人者・パイオニアなどと持ち上げられている時には、名誉毀損などと言わないのですが、世の中の受け取り方が変わってくると、その運動の主役と名指しされたことが「名誉毀損」として法的手続きする動きになるようなイメージです。
例えばこれまであちこちで辛淑玉氏の行動は肯定的報道されている時には、名誉毀損報道と問題視していなかったように思われます。
このシリーズで読んでいるうちに「のりこえねっと」いう団体の共同代表として出てきたのでどういう団体か検索すると以下の通りです。
例えば8月11日現在のりこえねっとで検索すると以下の通りです。
https://ja.wikipedia.org/wiki

のりこえねっとは、2013年に設立された日本の任意団体である[1]。正式名称は「ヘイトスピーチとレイシズムを乗り越える国際ネットワーク」[2]。「在日外国人・留学生、国際交流、行政への改策提言」を活動分野として公表する[1]。のりこえネットと表記されることもあるが、「ねっと」は正式にはひらがなである。パルシステム生協連合会専務理事の若森資朗を代表者として登録しており[3]、パルシステム生協連合会の助成団体として資金提供を受けている。
活動
沖縄への「市民特派員」へ5万円支給

カンパで募った資金をもとに、本土から沖縄への交通費にあたる5万円を支給し、沖縄の現地の様子をツイートする「市民特派員」を募集した。2016年9月から12月まで16人を派遣している[5]。チラシに「往復の飛行機代相当、5万円を支援します。あとは自力でがんばってください!」と書かれている[6]。
ガジェット通信によると、2016年ののりこえねっとの講演で、辛淑玉が、高江ヘリパッドの反対デモへの参加予定者に対し、「私は稼ぎます。若い者には死んでもらう。爺さん婆さん達は嫌がらせをして捕まってください。山城博治には『病気で死ぬな。米兵に殺されるな。日本の警察に殺されるな。私が殺してやるから』」などと講義している動画がアップされ、過激な内容ではないかとネットで話題になっているという[7]。
女性の性グッズ専門店のウェブサイト「Love Piece Club」上で、ライターの李信恵が、5万円の支給を受けたことを明かしている[8]。
ニューズウィーク日本版2014年6月24日号で「『反ヘイト』という名のヘイト」記事において、反ヘイトを掲げた団体が、「反差別」を「絶対的な大義」とした上で、「相手の言動に少しでも差別的な響きがあれば容赦なく身元や過去を暴き、徹底的な批判を加え、社会的生命を抹殺しようとする」活動であると批判し、反ヘイト団体が「暴力や権力」を利用することで「憎しみが消えるどころか、新たな憎悪の連鎖を生むだけだ」と報道がされた。
ニューズウィーク記者の深田は、在特会メンバーへの傷害容疑で執行猶予中の反ヘイト団体幹部運動員が、「逮捕上等」と発言し、「次回の暴力の可能性を示唆すると、会場が笑いと拍手に」包まれた会場に居合わせ、ヘイト団体ではなく反ヘイト団体の運動家らだったことで驚いたとし、反ヘイト団体の「正義の仮面」には「憎悪」が存在すると報じた[12]。この記事で「ヘイトデモ」参加者が「反ヘイト活動家」に殴られたと書かれ、また「ヘイトデモ参加者」が「反ヘイト団体からの暴力を恐れて」いる・・

ウイキペデイアの記事が正しいとは限らないとしても、ある程度の検討を経て書いているとした場合これを信用して意見発表した場合、「真実性証明をしたことにならない」として名誉毀損になるのでしょうか?
真実「性」証明とは真実証明まで要求せずに「信じるについて相当の根拠あるとき」のことです。
上記記事を見ると沖縄基地反対運動に交通費5万円を配るのを自分で自慢するのは良いが、誰かに批判的に言われると名誉毀損・・社会的評価低下行為という使い分けをしているように見えます。
しかし、MX事件では、交通費支払いではなく、「日当五千円を払っているという表現が問題になっているようですから、交通費と日当の違いがあるから、これが許せない重要事実なのでしょうか?
お金に色がつかないし、企業会計とは違うので、(交通費の領収書と引き換えに払うなら別ですが・・その場合でもらった方にとっては、5万円を日当・日々の生活費5000円に使っても交通費に使っても懐具合へ影響では同じです。
沖縄県外の人が沖縄基地反対運動に参加するために交通費込みで10万円予算の場合、交通費に関して5万円まで補助金が出る経済効果では同じでしょう。
これを県外の人参加の黒幕という意味で表現したことが名誉毀損になるかどうかです。
BPO決定について書き始めの頃に評論家や弁護士などは日当をもらいたい方で、日当を払うスポンサーになっているというのは、もともと無理っぽい筋だと書いたことがありましたが、上記の通り検索対象を広げていく過程で、パルシステム生協連が「のりこえねっと」への資金提供者になっているとも書いていることが分かったので、辛氏がその運用責任者になるという意味では実質的なスポンサーになれない話ではなさそうです。
またBPOの決定概要では「違法行為の黒幕」と表現したことが重要視されていますが、上記紹介記事では、

「私は稼ぎます。若い者には死んでもらう。爺さん婆さん達は嫌がらせをして捕まってください。」

と発言していることが記録されていますから、「捕まって下さい」とは違法行為を唆しているか前提にしていると普通は読むべきですから、まるっきり根拠のないことをMX・ニュース女子が報道したのではなさそうです。
この程度の違いだけで、BPOが「真実性の証明がない」として勧告したのか否かは「決定概要」だけでなく決定書本体(全文)を見ないと断定的には言えません。
「ニュース女子」製作会社のDHCの関連会社がBPOの勧告を全く受けつけない対応をしている・BPO勧告対応したいMXをDHCが逆に切ったことになっているらしいこともわかってきました。
下請け?納入業者が元請けを切るというのは一見不思議な感じをしていましたが、実はDHC(またはその親会社?)はMXの広告収入の11〜12%占める大口客(で、力関係が逆転している?)あるネット記事もありました。
先にあげた資金力の疑問など、一見不思議なことが起きるには合理的な例外事情が裏にあるということに一例を加えることになります。
私のこのコラムは、事件の詳細事情を知らないで報道だけにまず反応して書いているので、その時点で「この報道は不合理だ」と思って書いた私の批判意見は後日例外事情がわかって修正されることがありますのでご理解ください。
たとえば慰安婦騒動も韓国や日本文化人?主張が虚偽と思うから腹がたつ人が多いのであって、本当であったとすれば日本人は反省する必要があるでしょう。
商品品質であれ、あらゆる分野で虚偽主張が嫌われるのは、公正な判断を妨げるからです。
児童売買春は人権問題で根絶すべきことですが、それと虚偽数字をあげて日本批判して良いかは別問題です。

表現の自由(自己実現・自己統治)とは2

表現の自由は、自己実現・自己統治のためにあると言うだけで、社会との折り合いをどうつけるかは、各自別に考えなさい・制約原理は別に考える・・ここは「権利だけ」考えていると言うことでしょうか。
しかし基本的人権といっても相手のあることが多いので、好きなように主張していると喧嘩が絶えません。
制約原理と合体して同時に考えるようにしないと間違って「自己実現の権利は憲法以前の基本的人権であって法律でも制限できない」から「何を言っても自由だ」と誤解する人も出てきます。
「腹ふくるるワザ」になるのは、相手があって「言いたいことも言えない」前提で兼好法師が書いているのです。
昔から、言いたいことを言う権利があったでしょうが、相手が嫌な顔をするようなことを言うと楽しくないし相応の返礼があるから、セーブして会話を楽しむようにしているのが生きる知恵です。
宮沢憲法のように「国家以前の自然権」「天賦不可譲の人権」というだけでも「戦前と違う」という戦後の大変革時のスローガン的にはインパクトがあったでしょうが、世相が落ち着いてくると素朴すぎるので次世代学者がもうちょっと捻ったようです。
憲法以前に存在する自然権というキャッチフレーズとしては敗戦時に「なんでも国家が悪い」という占領政策の宣伝と合わせて相応のインパクトがありましたが、敗戦ショックが終わり社会が落ち着いてくるとスローガン的学問では納得できない人が増えてきます。
「人権」・自然権という「権利」とは、国家社会が公認して初めて言える概念でないかというあたり前の批判(私の個人的思いつきですが、この程の批判は起きるでしょう)が起きてきたのではないでしょうか。
素人的思いつきですが、「人権」という概念自体が、国法で認められて初めて「権利」に昇格するのですから人「権」という点で国家社会成立前の自然「権」という言語自体に言語的矛盾をはらんでいます。
例えばベンサム(1748-1832)の理論がそうです。
https://plaza.umin.ac.jp/kodama/rights/kanrin_presentation.htmlによれば以下の通りです

ベンタムの自然権論批判
–法実証主義者としてのベンタム– 京都大学 児玉聡

具体的には自然権論のどのような点が誤りなのでしょうか。第一に、ベ ンタムの考えでは、「人はかくかくしかじかする自然権を持つ」という主張は、 事実命題として考えた場合、意味を持ちません。というのは、「ある人がかく かくしかじかする法的権利を持つ」と言われた場合は、政府がその権利を保護 する措置を事実とっているかどうかを確かめることによって真偽を判断するこ とができますが、「自然権と称されるものの場合、そうした事実は存在しない– また、そのような自然権が存在していないと仮定したときにも存在するであろう事実しか存在していない」(III, p. 218)からです。そこで、進んで、ベン タムは、法的な権利に先立ち、政府による立法を拘束するとされる自然権は、 空想の産物でしかないと主張します。フランス人権宣言第二条にある「あらゆ る政治的団結の目的は、人の消滅することのない自然権を保全することである」 という主張に対して、ベンタムは次のようにはっきりと述べています。「自然権などというものはない。政府の設立に先行する権利などというものはない。 法的権利と対立し、対比される自然権などというものはない」(p. 500)。
3.3 したがって、自然権は合理的な議論の基礎になりえない
今述べたように、「人はかくかくしかじかする自然権を持つ」という主張は法 的権利の場合と同じように事実命題として考えるならば、無意味な命題になり ます。そして、このような性格を持つ自然権を根拠にした現行の法を批判した り立法の是非を論じたりすると、合理的な議論ができなくなるとベンタムは考 えました。

そこで天賦不可譲論・自然権論に代えて 「自己実現」「自己統治」と言われるようになった(私個人的推測です)のでしょうが、一見何かありがたいような意味ですが、(いつも書きますが「近代法の法理を守れ」とか意味不明言語を用いて思考停止を求めるのが戦後学問の特徴です)単なる言い換えの宿命で?もうひとつピンときません。
自己実現とは本来芸術家が内面を表現する行為としては、最も適した熟語のようなイメージですが、これとても(数世紀後でもいつか)社会が受け入れてこそ、芸術として評価されるものですし、どちらかといえば心理学にその本籍があるものでしょう。
これを社会(人間と人間の)関係をどう律するべきかの学問である法律学者がなぜ使うようになったのか意味不明ですが、法律学は相手のある学問・・人間と人間の関係を規定する学問であって、周囲の迷惑お構いなしに自己実現するのをどうやって規制するのが合理的かを模索することこそが法学ではないでしょうか。
「法」とは社会の人間関係のあり方を規定するための道具ですから、芸術家のように自己実現さえできれば、相手がどう思おうとどうでも良い関係ではありません。
会議や友人との食事でも言いたいことを言う権利があるからと話題の流れと噛み合わない場違いなことを言うと話が噛み合わなかったり相手を不愉快にさせるので次第に会議や食事会等からはずされるようになります。
衣装アクセサリーだって自己実現するのは勝手とはいえ、制服以外にも、レジャー用と事務職用の別があるなど相応のドレスコードがあります。
自己実現は自由としても相手のあることである結果、自由市場で弾かれるのを容認するというのが自由市場論でしょう。
その社会のためになる意見でもその社会を悪くする意見でもどんな意見であっても、政治参加することによって「自己統治できる」?という変な論理(私にはわかったようで分からない熟語?)ですが、憲法学者に言わせれば結果がどうであれ、意見をいう自由が先ずは必要・結果的に社会のためになることが多い(社会や周囲の人の嫌がることを言う人はおのづから遠ざけられる)だけという評価のようです。
表現の自由は自己の幸福追求の権利である以上、「所属する社会・集団をよりよくしたい」か「悪くしたい」かの価値評価を含めてはならない・・・その意見の結果社会がどうなろうと、「個人が政治意見を言いたいなら自由に言わせるべき」だ。
その意見が「国家・社会のためにする意図」あるいは「利敵行為目的」であろうがなかろうが「言いたいことを言える権利」・・国家の介入を禁止したいことに重点があるようです。
人権問題は国家と個人との決まり事であり、国家は思想に価値介入できないが、個々人は自分と意見の合わない人と無理に付き合う必要がないのですから、個々人がノーと言えないことまで言いだすと行き過ぎです。
(利敵目的・勤務先や所属組織の損失目的を仮に明らかにしても)「それを理由にして言論が制限されない」・・・それが支持されるかどうかは、言論の自由市場論で解決する・・別次元で考えるようです。
国連特別報告は、国家が直接検閲し禁止しているのではなく番組から降ろされる事例を書いていましたが、(反日を言えば支持されないので)結果的に「言いたいことが言えない社会」は表現の自由度が低いとなるのでしょうか。
表現の自由は、思想の自由市場が機能していることが前提ですから、言論の自由市場が寡占支配になったり、国家が介入したのでは、市場で売れないのは自由競争の結果ではなくなりますから、寡占の弊害除去と国家権力の介入を厳重に監視する必要があります。
従来国家からの距離だけに関心があって、寡占支配に意図的に目をつぶってきた弊害が出てきたように思われます。

表現の自由(自己実現・自己統治)とは1

民意による公権力=社会秩序と「距離を保つ」価値観であれば、いわゆる吉田調書のような「反日フィクション創造」に喜びを見い出して大喜びで大々的報道したい人が多いのもわかります。
メデイア界でこのような主張を英雄視する風潮・空気を読んで「公権力とは距離を保つ」と言えば格好いいとして、発言したのでしょうか?
「公権力とは距離を保つ」というのですが、全ての権力と距離を保つのではなく「公権力とは」と限定して距離を保つとしている意味が不気味です。
公に対する対語は私ですから「私権力」には「距離を保たない」と言う反語的意思表示でしょうか?
「公権力」とは、民意による正当性を付与された権力とすれば、「私権力」とは、民意による正当性を付与されていない・・・山賊やギャングが、民家に押し入って事実支配している状態・・マフィア的アウトロー権力を言うのでしょうか?
中国の共産党政権は民意による洗礼を受けていない・山賊(共産党私兵・人民軍は国家の兵ではなく共産党の私兵です)が国家を乗っ取った状態と言われていますが、「民意による「日本の政府・公権力とは距離を保つ」が、中国共産党政権には近づきたいと言う意味を含むのでしょうか?
7月9日に
「日本をより良くしたいと思うならば、国内の言論市場で先ずは勝負すべきです。」
と書き、その後カンヌ映画際に話題がそれましたが、元に戻ります。
私はいわゆる宮沢憲法で勉強した世代ですが、蒙昧な私は、自分に都合の良いように
「言論の自由、思想表現の自由が結果的に「その」社会発展に貢献するから重要」
という意味で理解してきましたが、最近そういう意見が(なくなった訳ではなさそうですが)背景に退いているようです。
旧ソ連に限らず中国その他の(人権無視の)独裁社会では、自由主義社会に遅れてしまうはず・・とメデイアでも一般的に言われている大方の刷り込みは、上記理解のもとで語られてきたと思います。
今朝の日経朝刊24pにもフランスの元文化相ラング氏との対談記事で、文化を大事にすると結果的にその国社会の発展に資するという添え言葉がありました。
「文化に投資するのは窓から金を投げ捨てるのではありません。それは大変に還元性の高い「投資」であり、世界にはすでに多くの実証例があります。」
と書いています。
文化に力を入れているフランスの元文化相らしい意見です。
我々個人も同じで、18年7月7日に上野東博の縄文展を見てきて感動し(後期も見に行く予定)ましたが、何千年も前の古代に高度・・・現代的に見て最先端センスでしかも精巧な器や櫛、土器等々がすでに製作されていたのを見ると「日本人は古代から手の込んだ「ものづくり」の好きな民族なのだなあ」と感動せずにいられませんでしたが、その背景にあるのはわが列島人(今の民族)が、かくも素晴らしい「ものづくり」続けていたのか?という感動であり民族の誇りです。
我々一人一人が一人で育ったのではなく「海よりも深い山よりも高いちちははの恩」というと古臭すぎるかもしれませんが、物心つく前から周囲の風のそよぎに始まって一言で言えば、民族の中で生きているのではないでしょうか?
芸術こそ他者無視でも「自己実現」に最適の分野ですが、それだけでは庶民に訴えるものがないからでしょうが、フランス文化相が「社会のために良いのだと付け足す」必要を感じたのでしょう。
いろんな基本的人権の中でも表現の自由は、とりわけ「受け手」があるものですから、聞いたら意見相違・・不満な不愉快になる人の存在が避けられません。
これに対して「言いたいことを言うのは勝手でしょう」と言うだけでは現実社会の支持を受けられないからではないでしょうか?
言いたいこというのは必要だがそれは「時と場所を選らんで言うものだ」という程度は子供だって知っています。
ところがいつの間にか?学問の世界では、表現の自由は「自己実現」のためにあるという意味が中心化して、ひいては国家社会の発展に資するという意味合いは否定されないようですが、副次効果的扱いに変わっているようです・・。
この扱いは昔から同じだったのにレベルの低い私は副次効果ばかりに印象が強く残っていたのかも知れません。
現在の主流的学説・・表現の自由で検索すると以下の通りで、社会のためになるのは二の次で、先ずは個人人格の発展に資するという主張が前面に出ています。
http://kenpou-jp.norio-de.com/hyogen/

ひとつは自己実現の価値。
自己実現の価値とは、
表現活動を通じて個人の人格を発展させるという個人的な価値といわれていますが、人間的成長のために表現活動が大事であるという価値観であるといえます。
もうひとつは自己統治の価値。
表現活動によって国民が政治的意思決定に関与するという民主主義と密接不可分な、社会的な価値をいいます。
このような価値を支えるためには、
「思想・言論の自由市場」の形成が不可欠であるといわれています。

ネットに出ている憲法の解説では、表現の自由は個人の幸福追求權の一種?誰でもいいたいことを言えるのが(ストレスがなく?・・兼好法師流に言えば言いたいことも言えないのでは「腹ふくるるわざ」)であり、「自己統治」に必要で人間として生きていくための基本的権利であり、最重要だと言うようになっているようです。
政治参加権のことを「社会の一員として当然発言権がある」という私流の粗雑な理解?いわば社会参加論ではなく、「自己統治」と言うようです。
ちらっと説明を読むと、「政治参加するには、多様な情報を知る必要がある・だから表現の自由が必要」というような説明ですが、その程度の説明をするのに難解な「自己統治」というのか不明です。
要は、「表現の自由は社会発展に資する」とは言いたくない・・「何事も個人のためにある」という強調のために言い出してこれが格好いいということで定着してきたようです。
そう言いながらも社会のためになると憲法の解説者はつい口を滑らせるようです。
https://blog.goo.ne.jp/kodomogenki/e/7ddf217e3a7af1c482364e1eb34d335d

「自己統治ですが、これは、私たちの社会の大切な仕組みである、民主主義を支えるとても大切な価値です。
自己実現でも述べましたが、ひとりひとりが、社会に起きている事柄について、情報を集め、分析することで、社会がどうあるべきかについての意見を自己決定することができます。
政治家を選び、その政治家が、私たちの未来の社会を決めるのですから、その判断材料となる情報は、とても大切であることが分かりますよね。
表現の自由の中でも、この政治にかかわる情報は、一番手厚い保護を与えて行かねばならないと考えられています。」

「自己統治」とは、国家・民族のためになるからではなく、政治参加する個人の「権利」を尊重しようという側面強調のために考え出された・・いかに共同体利益を消し去るかの工夫のためにできた概念のようです。
何が何でも共同体・社会と個人は対立するべきものだという戦後の風潮がここに現れています。

「公権力とは距離を保つ」2(是枝監督)

日露講和条約時の7博士意見書以来書いてきたように、メデイアが対露強硬論を煽ってこれに共鳴した庶民による焼き討ち騒動を起こしましたが、その当時はまだ民意による政治の建前が弱かったので、政府は無視できたので無事講和条約成立しました。
April 10, 2018,「7博士意見書と学問の自由1」で詳細を書きましたが、空理空論に対して当時の政府は
「伊藤博文は「我々は諸先生の卓見ではなく、大砲の数と相談しているのだ」と冷淡だったという。」
と相手にしないで済んだのです。
その後普通選挙実施等による選挙制度拡充に伴いメデイアによる扇動効果が大きくなり、政治家はメデイアのあおりを無視できなくなっていきます。
アメリカは日露戦争で日本を極端に応援して、満州からロシアを追い出し、続く第一次世界大戦で日本に対して相応の権益取得を認めたのは、日本の応援をしておけばその後の満州進出にアメリカが一枚噛める思惑があってのことでした。
日本もその辺は知っていたのですが、「尊い血を流して獲得した満州死守」のメデイアの大合唱で、政治家はアメリカの逆鱗を買う「満州独占支配」しか選択肢がなくなったのです。
この辺はApril 15, 2018,「メデイアと学者の煽り8(軍国主義肥大化へ2)」にも書きました。
ここからアメリカの対日オレンジ作戦→日本の孤立が始まり、ひいては軍事突破戦略しか無くなっていきます。
国内政治ではメデイアは政府のあら探しばかりで、これに呼応する野党が国会審議妨害ばかりでまともな政策論争ができなくしてしまったことにより、国民が政治家に愛想をつかしてしまった・・これが純粋に国の将来を憂うる清廉イメージのある軍部(未熟な若手将校)への期待感を高めてしまった原因です。
天皇機関説事件に始まってメデイア界が根拠のないあら探しばかりをして、(今の森かけ問題集中・官僚のセクハラ暴露も「政治家や官僚に任せて置けない」という国民意識を醸成するのがメデイアの主目的である点は戦前同様です。
メデイア界は・・戦前政治に及ぼした自分らの悪行を棚上げして被害者イメージばかり広めて自己反省をしない結果、戦前のあら探し報道に回帰している流れです。
せっかく始まったばかりの議会政治を政策討論よりは揚げ足取りの不健全な方へメデイア界が引きずり込んでしまったことが日本の政治を窒息させていった反省がありません。
戦前の戦争責任論としては、上記のように、世論を戦争方向へ誘導していった(3・15〜2・26事件等では違法行為は許されないが、「政治のあり方を反省する必要がある」かのようなメデイアお得意の事実上の応援論調が大きかった)これに反する政治家や学者を葬るのに大きな役割を果たしてきました。
メデイア界は対外強硬論に協力させられた被害者のような主張ですが、むしろ帝大7博士による強硬論以来何かと言うと対外強硬論の煽り中心で、国際孤立を避けるために日米和平を模索していた政府を袋小路に追い込む役割を果たしてきたのが他ならぬメデイア界です。
戦前の政治家も今の政治家も、政治家はメデイアの煽る世論動向に左右される役者の立ち位置でしかなく、権力=政策決定の方向を決めてきたのが映画監督に当たるメデイア界であったという厳然たる事実認識・・反省こそがメデイア界には求められています。
「公権力と距離を保つ」是枝発言は、戦争方向へ誘導していた第四の権力とまで言われるメデイアの責任にほっかむりして、「権力」という意味不明の主体に責任転嫁して映画界が(権力に協力」させられた被害者のごとく責任転嫁して「事足れり」としているメデイア界の開き直り・すり替え姿勢そのままです。
無色透明の権力が勝手に方向を決めるのではなく、権力=政策方向づけに当たってメデイアが大きな役割を果たしてきた点の理解が足りないか、あえて知らんぷりしているのではないでしょうか?
戦前「抑圧」国家体制が出来上がって行った原因と戦後の変化をみない・・戦後70年以上の経過で社会が大きく変わっている現実を見る目がない・・・見たくない人が日本の(戦前でもありえない環境設定)暗部を「創作・(捏造して)?」映画にして海外で日本の暗部だと宣伝する。
これが格好いい文化人?の仕事だと信じているのでしょうか?
NHKテレビ小説「おしん」は戦前の貧しい農村部の生活を描いたもので現在日本社会の状況として描いていませんが、是枝監督は(映画を見ていないで不明ですが題名等から察するに)、現在日本という時代設定で映画を制作しているように見えます。
これが後世に残ると当時の日本はこんな社会ではこうだった例として利用されるモデルになっていくのでしょうか?
映画が本当に日本社会の現実を描写したものか?仮に、本当に存在する核心を描いたとしても日本の現実には滅多にない変な・醜悪な部分を拡大して描くと国を代表する監督として国外で表彰されるのでしょうか?
「万引き家族などあるわけがない」という批判が起きれば、慰安婦騒動の「吉田調書」同様に「フィクションで何が悪い?」となるのでしょう。
幕末から明治にかけて浮世絵などがジャポニズムとして西欧文化に大きな影響を与えましたが、日本の醜悪な部分(仮にあるとしても)を日本国民が国外宣伝する意味が日本のためにも国際的にもあるでしょうか?
国内で発表してみんな豊かになったわけではないから浮かれないで、こう言う人もいると警鐘を鳴らすのは意味がありますが、海外発表して国内に持ち込む意味があるのでしょうか?
中韓等で日本の悪口を言いふらして喝采を受けて表彰された場合、帰国して日本政府から「よくやった表彰する」と言われると居心地が悪い人が多いでしょう。
こう言う人が、日本政府の表彰を辞退したい気持ちになるとすれば潔いことです。
『国益』や『国策』と一体化し、大きな不幸を招いた過去の反省に・・」というのですが、国益や国策に反することが映画の使命であるかのように公言するとは驚くべき主張です。
国益とは国民の利益であるべきでしょうし、国益に資する政策を国策とすれば、民主国家における国益に資する方策決定=民意そのものです。
民意にも誤りがあるでしょうが、「民意と一体化すれば(常に)大きな不幸を招く」かのような言い回しには飛躍があります。
誤りが後に分かるコトがあるとしても民意で決まった政策→法律をみんなが守る義務があるし、法で強制されなくとも一定の方向が決まれば(お祭りその他の行事など)率先して協力するのが良き共同体員の生き方でしょう。
彼の論法によれば、是々非々ではなく常に「民意」・地域共同体や地方自治体=公権力との一体化を拒み「距離を保つ」べしと言うかのようです。
国策=政府方針と常に距離を置く=何でも否定的反応→反対しかないのでしょうが、こののちに紹介するように、カンヌ映画祭出品作品は政府補助金を得て製作していると言うネット批判が早速出ています。
国策の内容に関わらず常に距離を置くと言うからには、国の補助金だけ貰えるものは貰う/困った時には救急隊や警察の助けを借りるのって矛盾していませんか?
個別に救援されたり補助金をもらうから目立つだけで、個別の援助がなくとも一定の集団に属する場合には、その組織の運営による恩恵・・我々弁護士会でいえば、良い仕事をする弁護士のおかげでその他弁護士も信用されるが悪い弁護士がいると他の弁護士の評価が下がる関係.自治体や国でいえば、共用施設・・公的空間や街路樹や街灯ガス水道・医療施設その他治安の良さなど・・税で運営されている恩恵を受けて生きているのが普通です。
いわば属する組織や集団と関係がないことなどあり得ないのに、自分の都合の良いトキだけ「距離を置いたり縮めたり」が許されるか?という常識の問題です。

免責事項:

私は弁護士ですが、このコラムは帰宅後ちょっとした時間にニュース等に触発されて思いつくまま随想的に書いているだけで、「弁護士としての専門的見地からの意見」ではありません。

私がその時に知っている曖昧な知識を下に書いているだけで、それぞれのテーマについて裏付け的調査・判例や政省令〜規則ガイドライン等を調べる時間もないので、うろ覚えのまま書いていることがほとんどです。

引用データ等もネット検索で出たものを安易に引用することが多く、吟味検証されたものでないために一方の立場に偏っている場合もあり、記憶だけで書いたものはデータや指導的判例学説等と違っている場合もあります。

一言でいえば、ここで書いた意見は「仕事」として書いているのではありませんので、『責任』を持てません。

また、個別の法律相談の回答ではありませんので、具体的事件処理にあたってはこのコラムの意見がそのまま通用しませんので、必ず別の弁護士等に依頼してその弁護士の意見に従って処理されるようにしてください。

このコラムは法律家ではあるが私の主観的関心・印象をそのまま書いている程度・客観的裏付けに基づかない雑感に過ぎないレベルと理解してお読みください。