基本的人権制約原理6(兵役納税の義務2〜ヘイト規制)

外国国旗損壊罪も外国の気を悪くしないように刑事罰の対象になっていると言う解説を信用するとしても、国民の人権侵害がないのに集団利益を守るための刑罰が許される一例になります。
基本的人権は「人類普遍の原理」と宣言する以上は、世界中に通用する原理でなければならないはずですが、兵役拒否罪は人権と人権の衝突場面でないのに刑罰に処して人を拘束し苦役を強制するのですから、個人人権より優越する法原理を持つ国が多いことを示しています。
憲法学者こぞって?集団自衛権反対にこだわる背景は、戦後の天賦不可譲の基本的人権論の基礎が崩壊する点にあるのかもしれません。
韓国で今年の6月28日に良心的拒否を処罰するのは、憲法違反と言う最高裁判決が出たようです。
https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2018/07/post-1052

2018年7月3日(火)15時30分
エホバの証人」投獄は違憲と韓国憲法裁判所 良心的兵役拒否は基本的人権の一つ
Jehova’s Witnesses in South Korea Are Imprisoned
韓国の憲法裁判所は6月28日、良心的兵役拒否者を処罰することを定めた兵役法の条項を「違憲」とする判断を下した。
http://japanese.yonhapnews.co.kr/headline/2013/07/15/0200000000AJP20130715001100882.HTML
2018年 07月 09日(月)
「良心的兵役拒否」による収監の92%が韓国人
2013/07/15 11:29 KST
【ソウル聯合ニュース】全世界で宗教的信念を理由に軍入隊を拒み投獄された人のうち、9割以上が韓国人であることが分かった。
国連人権理事会(UNHRC)が先月3日に発刊した報告書によると、世界各国で宗教・信念などを理由に軍入隊を拒む「良心的兵役拒否者」として刑務所に収監されている人は723人に上った。
国籍別では、韓国が全体の92・5%に当たる669人で大部分を占めた。
次いでアルメニア人が31人、アフリカ・エリトリア人が15人、トルクメニスタン人が8人と続いた。
また報告書は、徴兵制と代替服務制を併用し2011年に徴兵を暫定的に中断したドイツでは、過去50年間に代替服務を通じ271万8360人の若者が約3万7000カ所の社会福祉施設や慈善団体で働き有益な活動をしてきたことを自国の人権委員会が評価したと強調した。
さらに、各国は代替服務機関を軍服務期間の1.5倍を超えないように定めたり、同じくするなど差別を撤廃する動きを見せており、ウクライナとグルジアでは代替服務者にも市民として同等の権利を保障していると紹介した。
上記の通り、徴兵拒否処罰禁止はエホバの証人という宗教信条との相克として諸外国では無罪になっているようです。

日本のようにそのような宗教のない国ではどうなるのでしょうか?
また、無罪運動はセットで服務制度を求めていることから分かるように、前提として国民には国防に参加する義務があることを前提にしています。
人権の衝突もなく、道徳にも反しないのに、なぜ犯罪者扱いされるのか?ということが私の疑問であり「特定宗教信者であれば【良心的拒否者】として例外的に許される」と言う信仰の自由次元の問題ではないはずです。
人権が天賦不可譲・・・憲法以前の普遍的権利だと言うように義務にも組織の一員である限り国防に参加するのも納税義務同様に「天賦不可譲」の義務と言うのでしょうか?
こうなってくると「天賦不可譲(国家社会成立前からある人類普遍の原理)の人権論」は世界で日本だけの特異な学説かもしれません。
昨日紹介した甲斐素直氏の説明で補完説として説明される「パターナリズム」(後見保護的機能?)でもカバーしきれません。
納税義務や国防の義務〜内乱罪や 兵役拒否罪やスパイ罪などは、人権の衝突や道徳律だけでは説明できません。
人権制約原理として、「組織維持に協力する義務」を認めるしかないのではないでしょうか?
ところで人格的利益説〜道徳論によれば、誹謗中傷は不道徳ですから人権の枠外となりますので、許されないとなっていますが、一方で名誉毀損ではなぜか、民事刑事ともに集団に対する誹謗は対象にならないと(我が国独自の学説のようですが、詳細不明です)学説上決まっています。
名誉毀損に関するウイキペデイアの記事からです。

対象の特定可能性
名誉毀損が成立するには特定人に対してなされたものであることを要し、「東京人」や「関西人」のように単に漠然と集団を対象としても名誉毀損は成立しない[32]。これは刑事名誉毀損の場合と同じである。
本人に直接言及しない場合だが名誉毀損が成立する場合がある[33]。

慰安婦騒動や南京虐殺などの主張が事実無根?とした場合でも、日本民族や国に対する名誉毀損にならないという論理がどういう根拠か「常識でしょう」という決めつけで決まっています。
だからやりたい放題言いたい放題(南京虐殺の被害数字がいくらでも膨らんでいくなど)になり、これを事実上支持するかのようなイメージ報道が広がるような印象です。
「じゃ倍返し」だと嫌韓運動が始まるといきなり「ヘイトスピーチを許さない」となるので不思議(ご都合的な印象)に思う人が多いでしょう。
少数者に対する攻撃だから、「反論できないから」可哀想でないか?というようですが、米国では日本人は少数者ですし韓国でも同じです。
韓国や米国で慰安婦像を設置して日本人に対して嫌がらせするのは、表現の自由で問題がないというのですが・・・。
ヘイトを理由に表現を制約する原理(があるとすれば)は新たに生じてきた難しい問題です。
ヘイト禁止の要件は国によって違うとしても、ヘイトというのは他民族に対する憎悪表現が基本ですから、韓国人の慰安婦問題提起は対日憎悪感情でやっているのではないが日本人は「兼韓」というように「憎悪感情でやるから違法なんだ」となるのでしょうか?
それならば日本でも、「憎悪感情をむき出しに」しないで韓国人の悪行を暴くだけならば(それが事実にあっていなくとも?)有る事無い事でっち上げて批判していても、表現の自由で構わないのでしょうか?
靖国神社に対するデモでは、天皇陛下の顔写真を引きのばしたプラカードに竹槍みたいなもの?を突き刺してデモしている様子が出ていましたが、(ちらっと見た記憶ですから正確ではありません・・総理大臣の顔もあったようですが)これが表現の自由で許されて日本人が韓国大統領の顔写真に竹槍を突き刺してデモするのはヘイトになるのか?の疑問です。
多数派/強者は自制すべきと言うことでしょうが、少数派・弱者だからとエスカレート始めると・・消費者は情報弱者→クレーマーのモンスター化同様で、いわゆる弱者ビジネスが許されるか?の疑問が起きてきます。

基本的人権と制約原理5(兵役納税の義務1)

国家転覆目的・内乱罪を頂点にしたスパイ罪〜兵役拒否罪〜租税納付義務違反罪などが世界中にありますが、これが諸外国でなぜ憲法違反でないのか・・人権衝突論や自己実現論/道徳論では蒙昧な私には理解できないからです。
共謀罪法の成立で具体的テロ行為の共謀だけでも共謀罪法で犯罪になりましたが、傷害等各種刑法犯該当のテロ行為ではなく、抽象的な日本の社会不安・相互不信を煽り、中国や韓国の支配下に入るべきという謀議はそれだけでは共謀罪法違反にはならないし、そういう集会に対して施設使用不許可するのは、憲法違反になるような解説です。
(これが問題になったのがクジラ博物館の事件でしょう)
古くは共産党員は自分の勤務先の会社を潰すのが目的だと非難され支持を失っていきましたが、そういう批判は時代遅れの間違った意見だったのでしょうか?
自民党でも自民党をぶっ潰せというスローガンで総理になった人もいますが、本音は自民党再生のための主張であって反自民ではありません。
自己実現論等の解釈によれば、日本を韓国や中国の支配下に置くべきだ・日本は昔中韓で悪いことをしたから今度は中韓の奴隷状態に入るべきと言う主張でも「自己実現」と称して自由にできるのが基本的人権なるようです。
是枝監督の言う「公権力とは距離を保つ」という主張は、反公権力=反政府 =反国益→反国民?のための言論の自由・・(新参の右翼発信者同様にメデイア界の婉曲的表現訓練をうけていないからか?)国益に反することを目的にしている実態をストレートに表現したことになるようです。
私の場合、千葉で生まれ育ったわけではないですが、千葉に住んでいる以上千葉市や千葉県(弁護士である以上弁護士会全般も)が良くなって欲しい気持ちがいっぱいですが、中には自分の住んでいる街や勤務先組織が嫌いな人もいるのでしょう。
普通に考えれば勤務先が嫌いならば転職すればいいような気がしますが、それが簡単にできないのでそこで楽しくやっている人を自分のように、不幸な状態に巻き込みたい捻れた感情が発達するのでしょうか?
住んでいる町や国が嫌いという場合、企業のように嫌な上司や同僚が身近にいる関係がないので(都会の場合近所づきあいがほぼ不要)その社会での主流から外れている疎外感がそうさせるのでしょうか?
他人のものを奪ってはいけないというルール→等価交換ルール=「私有財産権の絶対」思想も古代からありますし、殺人、傷害や弱いものいじめ、ひいては人命尊重も国家成立前からのことと言えますが、古代から所属集団のためには命も捨てる心構えが賞賛され、民族・集団のために命を賭して戦った人を讃える英雄像も古代からあります。
各地を旅行すると献身的に地元発展に尽くした人が、地元の偉人として顕彰されています。
特攻隊の自己犠牲精神をできるだけ矮小化する政策で戦後政治が行われて教育してきましたが、時間が経てばその尊い精神に感じる人が増えるようになるでしょう。
戦後政治=教育は占領軍の影響で、民族や集団のために尽くすのはよくない・「個人利益と対立すれば個人優越」という方向性が過ぎていたように思われます。
「国家・民族ひいては自分の家族を守るためには、自己犠牲を厭わない」というのも古代から尊ばれた古代亜kらの精神です。
生物は自己の生命を全うすることが最大の価値の筈ですが、子グマ連れの母熊が危険を顧みずに攻撃してくる本能を見えば、種の保存のために自己犠牲を厭わない本能があるのです。
人間は集団で力を合わせてこそ他の猛獣に負けずに生き残れたので、目の前の自分の子供だけではなく守るべき対象を集団にまで拡大してきたことになります。
ライオンだって狩をするときは集団戦法ですし、犬・狼・猿だけではなく多くは程度の差こそあれ、集団で生活しています。
このように考えると集団利益無視または卑しむ個人利益優先の思想教育は、集団で生きていく知恵を知らない程度のレベルです。
この辺で真面目に勉強する気になって、基本的人権に関する学説のお浚いを短時間にネット検索できる限度ですが・でしてみました。
以下の説明によると、基本的人権論は、戦前の美濃部説による公共の福祉による外在制約論から戦後の宮沢説・内在制約論〜人格的利益説・・佐藤幸治教授の道徳論〜さらにはパターナリズムによる補完・有用性?までを以下のネット記事では分かりよく説明されています。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~kaisunao/seminar/916restriction_of_Humanrights.htm(甲斐素直氏)
引用省略
ただ、人権の衝突による制約しか人権制約原理がないとすれば、納税の義務→脱税が犯罪になり徴兵制の国では徴兵拒否罪がなぜあるのか不明・・人格的利益説や道徳律と言い換えれば解決するのか私の能力では不明です。
内乱罪やスパイ法違反・・兵役の義務=所属組織を守る義務→違反に対して懲罰として各種の人権侵害行為ができる根拠を道徳律によるというのでは、戦前の美濃部説=外在制約論・公共の福祉論とどう違うのか不明です。
私の学んだ宮沢説は古いかもしれませんが、なんらかの人権制約原理がなければ、人を兵営に拘束し苦役を強制することは基本的人権違反で許されない→拒否しても犯罪にできないはずです。
基本的人権は人類普遍原理とは言うものの、「徴兵制のある先進国では普遍原理が認められていない」と言う説明になるのでしょうか?
それとも国ある限り国を守る義務があり、敵国と通謀し、引入れるのは「道徳に反するに決まっている」と言うのでしょうか?
こうなってくると基本的人権とは別にある道徳が基本的人権制約原理になってくるので、その範囲を誰がどのようにして決めるか?となります。
道徳とはそれぞれの集団・社会維持のための規範でしょうから、基本的人権は社会・国家成立以前からあると言う「自然権論」と対立関係にあるはずです。
内乱罪や兵役拒否罪あるいは租税強制徴収権・脱税罪の合憲性を認めるならば、結果的に戦前の美濃部説・外在的制約論とどう違うかになって来るのではないでしょうか。
素朴な感想では道徳という意味不明原理によるのではなく、国家に限らずどんな組織でもその集団所属者は、その「組織維持に協力する義務がある」(嫌なら会員脱退権・・国籍離脱の自由)という原理を立ててそこから納税(会費負担)義務、国家防衛(兵役)義務を導き出す方がスッキリします。
この点、弁護士会の強制加入主義(離脱の自由がない)は異例ですから、将来的に憲法違反の意見が出てくるでしょう。
相馬馬追いや博多や岸和田その他の夏祭りをユーチューブで見ていると、地域共同体の行事にこぞって参加することことこそが、共同体構成員になっている証のように見えます。
地元の人でこういう無駄な行事をやめようという声を上げられないのは、言論の自由がないからなのか、それとも共同体結束に必要な行事は地域にとって必須だと考える人の方が多いからではないでしょうか?
人権は無制限のものだが、個人人権の相克調整のためにだけ制約されるのではなく、もう一つの原理・・民族集団維持防衛のための義務も所属員にはあるという二本立てではないでしょうか?
この辺の議論は専門家同士で克服済みかもしれませんが、素人に分かり良く説明できない理論って、本当は裸の王様同様に「内部で傷を舐め合っている」だけの論ではないでしょうか?
わかりよい推理・素人の推量ですが、日本では幸い戦力不保持の憲法があるので、徴兵制の議論を避けて誰も問題にしないで今までごまかしてこられたのかもしれません。

基本的人権と制約原理4

池田氏が児童売買春の特別報告に関与した弁護士を批判したければ、イメージ効果を(ずるい!)と批判・・意見表明すべきであって、事実としては、「同弁護士がミーテングに参加したと表明していることから直ちに同弁護士が日本少女13%の報告をしたか否か不明であるが、この情報発信によれば同弁護士がこの報告を支持しているように見えるが、その点はカクカクの理由で問題だ」とか、「同弁護士が国連報告者に対してどのような情報提供したかの開示を求める」という程度から始めるべきだったでしょう。

刑法
(名誉毀損)
第二三〇条 公然と事実を摘示し、人の名誉を毀損した者は、その事実の有無にかかわらず、三年以下の懲役若しくは禁錮又は五十万円以下の罰金に処する。

上記の通り「事実摘示した」場合が名誉毀損罪の要件であり、民法の名誉毀損は事実適示だけが要件ではありませんが、事実適示のない論評が争点になると言論の自由との関係で難しくなります。
裁判所は意見表明については「主張内容がどんなにひどい意見」であろうとも「(自己実現は)憲法上の権利として判断理由にできない」ので、人格攻撃などの品位に関わる評価で勝負するのが多いようの思われます。
児童売買春に感s流名誉毀損訴訟では、事実適示が問題になったかどうか知りませんが、もしかして「13%の報告をしたのが同弁護士」とした点が、名誉毀損であるとした訴訟の場合、「そのような報告事実があるかどうか」の真実性の証明次第になっている点を気に留めないで、池田氏が気楽に決めつけ批判したことがテーマにされていた可能性があります。ていなかったことになります。
「左翼系の意見評論がフリーパスで、右翼系が名誉毀損でしょっちゅう負けるのっておかしい」という批判感情論→裁判所が偏っているかのようなイメージ主張がネットで多く見られますが、要は事実と意見・評論をうまく切り分ける論理能力が右翼系評論では身についていないからのように見えます。
感情論で満足していると発展性がありませんし、行き着くところこの後で書いていくヘイトスピーチの応酬・・嫌韓デモとこれに対抗する「しばき隊」のデモのように、社会分断の危険性につながります。
右翼系も訴訟で負けレバ裁判所を非難するのではなく、その原因分析によって合理的戦術を学ぶ必要があるでしょう。
池田氏に限らず植村記者名誉毀損問題も同じですが、事実適示を含む批判主張をする場合には「真実性」の立証可能かをチェックしてから行わないで無闇に「捏造」したなどと主張した場合に、相手が訴訟してきたら捏造の立証ができるのかを事前にチェックしてか主張すべきですが、そのような事前チェックなしに突撃してしまったところが無防備すぎる印象です。
以前から事務所相談で私の方は「事実を聞きたいのに相談者が意見を言いたがるので困る」事例をしょっちゅうこのコラムで書いていますが、世代交代がない(次世代以降ではレベルが上がっている印象も書いてきました)限り、まともな政治論争は無理かもしれません。
訴訟で繰り返し痛い目にあっても「裁判所が偏っている」という感情論で終わっていると進歩がありませんが、(依頼した弁護士レベルにもよりますが)負けた原因の究明・・弁護士指導で徐々に「事実と意見の違い」が身についていくのを期待したいところです。
池田氏は政治評論家かな?職業として意見発信しているにも関わらず、いかにも伊藤弁護士が特別報告に関与して報告内容に影響を与えたかのようなイメージ発信にまんまと引っかかって「同弁護士がそのような報告をした」かのように受け止めて?(伊藤弁護士支持者がイメージ宣伝通り受け止めるのは勝手ですし、発信者もそれを期待しているのでしょうが・・)それを前提の批判意見を公表したので、事実無根の批判として名誉毀損で訴えられてしまったように見えます。
(判決書自体見ていないので何が訴訟テーマか不明・・推測です)
訴訟では国連報告者が「情報源秘匿権」で誰から聞いたかを開示しないでしょうから、同弁護士が「私が13%の主張をして採用された」とホームページ等で書いていない限り、名誉毀損で訴えられると真実性を立証できる方法がなくあっさりと敗訴になるべき運命です。
反捕鯨運動家は日本国内支持を広げようという意欲がないから、カモフラージュする必要がなく、堂々と反捕鯨運動を名乗って、「主義主張を理由に入館制限するのは憲法違反」でないかと、正面突破を挑んで訴訟したものでしたが、裁判所の方が、逆にそこで勝負せずに数日前に写真撮影したことを理由に次に来た時に入館拒否するのは行き過ぎ等の次元・入館規則のあてハメミスとして違法を認定して肩すかしを食らわせたことになります。
流石に裁判所も「何を言おうとしようと自己実現は個人の勝手だ」と宣言する勇気がないというか、無駄な論争をしないのが裁判所の姿勢であり合理的です。
「〇〇総理や天皇を殺せ」というプラカードを掲げても、殺人行為の具体性がない意見の場合には殺人予備にもあたらない・・犯罪構成要件に当たらない限り今の憲法論によれば、「何を言おうと自由」となるのでしょうが?それを裁判所が「自由」だと認定できるかの疑問です。
日本人(例えば朝日新聞)の場合には、国内支持を完全無視できないから?書いてしまった事実を批判をされたときに、事実無根という入り口で訴訟できず、「どんな意見でも憲法で保障されている」と開き直るしかなくなるので、事実を書かないで巧妙な思わせぶり表現が多くなるのでしょう。
メデイアは、(反日意見を報道するのも憲法上の権利だと開き直らずに)市場評価を気にしてカモフラージュして(国際孤立するとか中国の発展が如何に素晴らしいか、反中国ではバスに乗り遅れて「しまうかのように」)宣伝する・・本音が伝わるように仕向けているのですが、それはイザとなれば、・・下手に感情論で攻撃してくれば名誉毀損で逆襲できるように仕組んで待ち構えているように見えます。
メデイアは何十年もの経験でこの手法に慣れているので、具体的事実を書かないで逃げ道を用意してイメージに訴える方法で発信するのが普通です。
素朴単純な?右翼系がメデイアや左翼系の主張したい本音にまともに反応して実際には表現していない「本音」が表現されているかのように誤解して池田氏のように批判記事を書くと「どこにそんなことを書いているか?」と名誉毀損で訴えられて敗退を繰り返すようになります。
左翼系が何かというと政府施策妨害?のために・・古くは成田空港反対訴訟に始まり、八ッ場ダム、諫早水門訴訟、沖縄基地訴訟、飛行機発着禁止や各種工場操業停止訴訟してきたのを右翼が真似て、この5〜6年前から訴訟戦術を始めたようですが、(それ自体論理的訓練の機会になって良いことですが)NHKの台湾報道事件を始め訴訟戦術としては、経験不足があって仕方ない(繰り返す過程で戦術論も磨かれていくでしょう)としても今のところ稚拙すぎる印象です。
ところで、憲法学者の基本的人権論によれば、仮に反日あるいは親中韓の本音がバレても・・堂々と日本国解体論・・・その先どうなるか→隣国の支配下に入る方が幸せと言うのも自己実現・自由な人権行為となるのでしょうか?
ここから憲法論における常識・「自己実現は、憲法以前の権利」と言う憲法学者間で論争済みの意見に対して私の勉強不足の非常識な?挑戦です。
憲法学者も大勢いるのでいろんな意見があるでしょうが、部外者に聞こえてくる意見では、表現の自由=自己実現論プラス自己統治論によれば、日本社会を不安に陥れたり互いに信頼関係をなくすように運動する(名誉毀損や何らかの法令違反があれば別です)のも基本的権利である以上、他の日本人がこの運動を支持するか否かはとも角、権利行使=違法ではないというようです。
「ようです」という意味は、「本当にそうなのか?」の私流の疑問があるからです。

基本的人権と制約原理3

右翼系のネット発信者の多くが名誉毀損訴訟で負けているように見える原因は、政治評論家=プロ発信者なのに、事実と意見の区別がついていない人が多い結果かもしれません。
慰安婦騒動の植村記者の名誉毀損訴訟事件も多分(訴訟内容が不明なので推測です)同様でしょう。
取材報告?が慰安婦騒動の火付け役になったことは事実としても、前提となる記事が取材通りの記事だった場合、記者は取材相手が虚偽または間違ったことを述べたことをそのまま報道した場合、直ちに貴者が「捏造」したことにはなりません。
挺身隊と慰安婦募集の違い?裏付け調査を仮に怠ったとしても、それは過失責任の問題であって、(過失が酷すぎて捏造と同視できるほどひどい場合もあるでしょうが原則論では)記者が捏造したことにはなりません。
要は植村記者批判論を概観すると「捏造」というためにはどのような事実が必要かの「言語理解の詰め」が欠けているように見えます。
「捏造」というのは、あるいくつかの事実に対する評価意見であって「事実」そのものではありませんが、物事には定義がありますので、一般的定義を離れた「独自の定義づけ」であればそれは「捏造」と評価することも許されるでしょう。
定義を勝手に変える場合、その旨の注釈・「説明責任がある」という意見でjune 6, 2018,「慰安婦=性奴隷論の説明責任1(言葉のすり替え1)」以降018/06/09/「慰安婦=性奴隷論の説明責任4(独仏の売春制度)」まで連載していましたが、その後横にそれていますが、このテーマが関係してきます。
例えば、泥棒したり時間の約束を破っただけの人を「人殺し」と表現した場合、「俺は泥棒や時間を守らないは人殺しより悪いと思っているから」というだけでは言い訳にならない・・名誉毀損罪になります。
捏造という熟語も自分勝手な定義づけは許されません。
一般的定義に従って「捏造」というには事実調査が必須ですが、(事実調査をしないまま感情的に)「捏造」の断定主張を公然として蓋を開けてみると取材対象が貴者の報告通りの発言をしていたとすれば、名誉毀損になる可能性が高まります。
我々が「捏造と言って良いか」について事前相談を受ければ、「捏造」というためには記者が取材対象から聞いたことと違う事実を本社に報告した事実を抑える必要があると助言することになります。
裁判になれば、虚偽報告(真実性証明」の立証責任はこちらにあるし、「相手は取材時の録音を出す可能性があるので、それを出されると一発で負けるリスクがある」録音テープを入手しているのか?少なくとも取材対象にあたって確認したのか?等を聞くのが私の場合でいえば普通です。
こういう場合相談者の中には「捏造に決まってるじゃないか!とか「みんなが言っている」と言い張って難渋することがありますが、多くの場合言葉の定義のなりたちを説明すると納得してくれます。
何かでもめている相談者のうちかなりの事件では、相談者または相手方が、言葉の定義を独自解釈して自己正当化して揉めている事件がほとんどです。
定義とその当てはめが一致している場合、例えば「借りた金を返せない」というだけの場合にはどのような手続きが必要というだけのことで本当の意味の正義の争いにはなりません。
この金曜日夕方帰り際にあった相談でいえば、「保証で困っている」と消え入りそうな声で言って「生活保護を受けている」ともいうので「それなら保証など心配しなくて良い「破産すればいい」と説明すると、電話ではっきり聞き取れないが、「家を出なくてはならない」ので困ってるというので自宅なのかと聞くと、「借りているが出なければならない」「生活保護ならなぜ出るの?何の保証なの」と聞くとようやくアパートを借りるときの保証を息子にしてもらっていたが息子が怪我して保証できなくなったので「保証がないと貸せない」と言われている問題に行き着きました。
相談者は月末には家を出なければならないと切羽詰まって相談の電話をしてきたのですが、実はそこに双方当事者の(市担当者も含めて)言葉の誤解というかすり替えがあります。
新規に貸す場面ではなく、「更新拒絶できるか」かの局面なのに、「新規に貸す場合」の条件でお互いに張り合ってるのがすぐにわかりました。
新規に借りる場合には、どういう人に貸すかの基準設定は大家の自由ですが、一旦貸した人に対して満期に更新拒絶するには正当事由が必要です。
市の方で更新料も払ってくれる予定というので、それなら出る必要がないから連休明けに市役所担当者に事務所に電話して貰うように説明して終わりにしました。
「貸す」のは新規の場合であって満期継続の場合には「貸す」のではなく、「更新」するかどうかなのに「貸す」華道家のようないい加減な言葉遣いの結果、新規同様に貸主が自由に決められるかのような連想作用・誤解が生じていたのです。
生活保護の場合、支払いに心配がないので本来保証不要でしょうから、更新拒絶の正当事由がなさそうです。
このように何気ない言葉遣いの違いによっても、法律効果が大きく変わってきます。
ネット上の政治/経済評論家たちの多くは、(大手のような内部チェック機関がないので)プロとしてのチェックなしに素人レベルの感情的意見をそのまま断定的に発信していることが多い印象です。
ネット発達の結果フェイクニュースの問題が大きくなってきたのは、企業と違い発信前の内部チェック機関がないことにもよるでしょう。
企業のように個々人には、そういう内部機関が無いし一々弁護士相談しているとコスト的に合理的でないし機動力に欠けるでしょうから、(私自身弁護士ですが、自分の娯楽的に書いているこのコラムでは、プロとしてのチェックをしていません)気楽にネットチェックできるサービスが必要になっているように思われます。
素人の場合大した吟味なしに言いたいことをあんちょこに発信しても影響力が少ないのであまり問題にされないでしょうが、プロ発信になると影響力が大きい分に比例して慎重さが求められます。
朝日新聞の特徴は事実としての報道ではなく、ムード的誘導報道が多いことを(を理由に昭和61年から日経に切り替えたこと)書いてきましたが、数十年以上前から企業広告も大手の場合、個別商品の具体的効能宣伝ではなく企業イメージアップの抽象的広告が主流になっています。
この種イメージ報道に対して反応したならば、ムード的批判だけにすればいいのですが、誤った事実のような批判主張すれば、評論家の意見としては行き過ぎになるリスクが高まります。
NHKの台湾原住民訴訟では編集に対する不満を「事実に合わない報道」として損害賠償請求したようですが、逆に事実をどのように編集するかは、編集権(表現の自由)の次元であるとして負けたように思われますが(判決書を見ていないので推測です)右翼系は事実と意見の切り分けができていない印象です。

基本的人権と制約原理2

自己実現論によれば「日本を滅ぼす目的の主張をする権利がある!」という行動も言論/表現の自由の1態様のように見えますので、自己の意見に自信があるならば堂々とその主張をしてくれればスッキリします。
日本の性道徳は国連勧告を受けるほど世界の低レベルだと世界宣伝したいならば、自己実現・言論の自由があるのですから、匂わせ発信しないで堂々とそう言えばいいことです。
あるいは、日本国を中国等の支配下に置くためには、どのような方策が必要かをテーマにしたシンポジューム開催の利用申し入れを日本の公的施設は(犯罪行為を伴う計画の場合には拒否できるでしょうが)利用拒否できないということでしょう。
反日とは言わないものの、反捕鯨の国際活動家が太地のクジラ博物館(名称を正確に知りません)へ入館拒否されて損害賠償請求した事件の顛末をユーチューブで見た記憶がありますが、一見すると「思想で差別するな!」という憲法違反の争いというイメージでした。
以下記憶喚起のために検索したところ、以下の通りです。
https://blog.goo.ne.jp/teramachi-t/e/5d843379b92e8c36792af6f53f6e52e0

建物や施設を設置し管理している側が、特定の人や団体の使用を拒否して社会問題になることが時々ある。
そんな時、「今の時代になっても、こんなことが起きるのか」と感じる。
先日は、クジラの捕獲問題で取り上げられることの多い和歌山県太地町の施設の入館拒否に関して、裁判所が町に「損害賠償を命令」した。
ウォール・ストリート・ジャーナル日本版/時事通信社 2016年3月25日
和歌山県太地町の「町立くじらの博物館」が捕鯨反対の外国人であることを理由に入館を拒否したのは憲法に違反するとして、イルカ保護団体のオーストラリア人女性が町を相手に約330万円の損害賠償を求めた訴訟の判決が25日、和歌山地裁であった。橋本真一裁判長は原告の精神的苦痛を認め、町に11万円の支払いを命じた。憲法違反は認めなかった。
反捕鯨理由に博物館入館拒否、太地町に賠償命令
読売 2016年03月25日
捕鯨に反対していることを理由に和歌山県太地町立くじらの博物館への入館を拒否され、精神的苦痛を受けたなどとして、オーストラリア人女性(31)が町に335万円の損害賠償を求めた訴訟の判決が25日、和歌山地裁であり、橋本真一裁判長は訴えの一部を認め、町に11万円を支払うよう命じた。
訴状などによると、自然保護団体メンバーの女性は2014年2月9日、同館の入場券を購入しようとして、職員から「捕鯨反対の方は博物館には入館できません」などと記載されたプラカードをみせられ、入館を拒否されたと主張。思想・信条の自由を保障した憲法に反するとして同年5月に提訴した。
これに対し、町は、女性らがこの数日前に、「観光目的」と偽って同館を訪れ、ビデオ撮影などの取材活動をしたとして、他の来館者の迷惑になるおそれがあったため、入館を拒否したと反論していた。
★≪思想・良心や表現の自由を保障した憲法の趣旨を踏まえ、女性は情報を得ようとする行為を妨げられたと判断≫(朝日)という。

(判決書自体のデータ不明なので)上記各報道の紹介を総合すると、裁判官は一足飛びの憲法判断に行かない・手堅いのが実務ですから、町の主張に対して、入館申請に対して数日前の行為を理由にして拒否する合理性(暴力や破壊行為などがあれば別ですが写真撮影程度では)があったかどうかの事実認定で判断したものと思われます。
そうとすれば、ウオールストリートジャーナルの報道が客観的です。
朝日は例によって憲法違反とは言わないが思わせぶりですし、このブログ作者も朝日の主張のまま本音で受け止めたのでしょう。
誤解のないようにきっちり書いている判決でさえ、このように多くのメデイアが種々の書き方になり、読者は思想差別に対する憲法裁判として受けとめ理解しているのですが、(私が数年前にユーチューブで見たときに受けた印象もそういう編集でしたが、書き方がどうであれ、ほとんどの人が本音で印象づけられるものです)名誉毀損訴訟になると「そんな(例えば反日文言は)ことは、どこにも書いていない」とする攻撃道具になり大方勝訴する巧妙な仕組みです。
裁判所は名誉訴訟では、全体の文意・宣伝者の伝えたい本音を読み取る必要があるのではないでしょうか?
ちょっと前に書きましたが消費者保護の前線では、美辞麗句をいっぱい書いていて能書きの端っこに小さな文字で例外を書いてあっても免責されない運用になっているのと同じように、名誉毀損訴訟でも全体として自分が国連特別報告に如何に貢献していたかを宣伝していたと認められる場合には、裁判になってから、特別報告者に対して、具体的に「何を告げ口?」したかを判断基準にするのではなく、全体印象として消費者の受け止め方を基準にすべきではないかの不満があるでしょう。
慰安婦報道に関する朝日新聞や朝日の記者に対する名誉毀損訴訟問題も、消費者である数百〜数千万国民に与えた影響度で判断すべきか、記者を批判する専門家としての節度基準で判断すべきかによって判決内容が変わってくるように思われます。
ここでなぜ消費者基準をいうかというと我々弁護士でも受任事件として目を皿にして縦横斜めに読み込むときと、出勤間際や電車内で瞬時にちらっとイメージ的にニュースその他の報道を流し読みしているときとでは判断基準がまるで違うから弁護士か、学者かどうかを基準にするのではなく、その都度の置かれた立場による基準が必要です。
昭和40年代のことですが、修習生時代に次席検事が、(当時私のいた地検本庁でも組織が小さく次席まで含めて正検事が4人くらいしかいない牧歌的時代でしたので、修習生を含めてしょっちゅう日常会話がありました)千葉県柏市(当時わたしは千葉県に縁もゆかりもなかったので千葉という地名しか知りませんでしたが)で不動産を買ったところ、被害に巻き込まれて弁護士相談中という話を聞いたことがあります。
「まさか検事さんを騙すなどできこっこないですよ!」という殺し文句にマンマと引っかかったということでした。
池田信夫氏の批判意見自体何かを知らないので断定的意見を書けませんが、NGO弁護士批判は他の本業の合間にちらっと読んだだけの個人意見なのか?政治社会現象の評論家としてのプロの仕事として読み、プロの意見として批判のタネにする場合とすれば、きちっと読むべきだったでしょう。
彼に限らず報道関係者が独立評論家に転身した場合、ムード報道での刷り込み成功で一人前になった人が多いと思われるので、経験上ムード報道自体に噛みつきたくなるのは理解できますが、法の世界では原則として「事実が何か?」で決まります。
法律家=法律論ばかりだと思っている人が多いでしょうが、裁判実務では「事実に法を当てはめる」作業ですから事実認定が先決的重要です。
ムード報道である以上ムードで国民を煽るのは国民を誤った方向へ誘導するから良くないと批判・意見表明するのは自由でしょうが、自分自身ムード方法しか経験がないとムード報道自体を事実かのように批判してしまう傾向がある・そういう批判を書いてしまったように見えます。
私のような素人が仕事の合間にムード的受け止めで反応していた場合に訴えられても、裁判所は消費者目線での判断基準で判断したかもしれませんが、彼は(池田氏の職業を知りませんが?)プロ評論家としての意見を発表している場合には、プロとしての慎重な読み込みが要求される・その基準で解釈されるのは仕方がないでしょう。

免責事項:

私は弁護士ですが、このコラムは帰宅後ちょっとした時間にニュース等に触発されて思いつくまま随想的に書いているだけで、「弁護士としての専門的見地からの意見」ではありません。

私がその時に知っている曖昧な知識を下に書いているだけで、それぞれのテーマについて裏付け的調査・判例や政省令〜規則ガイドライン等を調べる時間もないので、うろ覚えのまま書いていることがほとんどです。

引用データ等もネット検索で出たものを安易に引用することが多く、吟味検証されたものでないために一方の立場に偏っている場合もあり、記憶だけで書いたものはデータや指導的判例学説等と違っている場合もあります。

一言でいえば、ここで書いた意見は「仕事」として書いているのではありませんので、『責任』を持てません。

また、個別の法律相談の回答ではありませんので、具体的事件処理にあたってはこのコラムの意見がそのまま通用しませんので、必ず別の弁護士等に依頼してその弁護士の意見に従って処理されるようにしてください。

このコラムは法律家ではあるが私の主観的関心・印象をそのまま書いている程度・客観的裏付けに基づかない雑感に過ぎないレベルと理解してお読みください。