政党と別働隊2(中核派)

旧社会党に始まり社民党等の野党は都合が悪くなれば表向き自党と関係がない・・証拠がないと切り捨て、過去幾多の過激派を切り捨ててきました。
行き場をなくした彼らは連合赤軍その他のさらなる過激化に進み行き場のない苦しみから内部分裂を繰り返し凄惨な内ゲバを繰り返して浅間山荘事件その他を引き起こし、外に向かってはテルアビブ銃乱射事件やよど号ハイジャック事件を引き起こすなど、支離滅裂状態に陥りました。
今なお中核系や社青同解放系その他残党というか細々とした活動が続いているようです。
社青同についてはすでに簡単に見ましたので、中核派を見ておきます。
24日現在の中核派に関するウイキペデイアです。

革命的共産主義者同盟全国委員会(かくめいてききょうさんしゅぎしゃどうめいぜんこくいいんかい、通称、中核派、ちゅうかくは)は、革共同系の日本の新左翼党派の一つ。他称は、当初は本多派、前進派など。2007年の関西派(革共同再建協議会)との対立と離脱以降は、中央派、党中央、安田派などとも呼ばれる。
「反帝国主義・反スターリン主義プロレタリア世界革命」[1]を掲げる。公然拠点は前進社。機関紙は「前進」、機関誌は「共産主義者」。学生組織はマル学同中核派。警察白書では「極左暴力集団」[2]、マスコミは「過激派」と呼んでいる[3]。
概説
「反帝国主義・反スターリン主義の旗のもと万国の労働者団結せよ!」をメインスローガンに、世界共産主義革命の一環としての日本共産主義革命を掲げ、その革命は暴力革命で、樹立すべき政権はプロレタリア独裁であるとする。
この「反帝国主義・反スターリン主義」では、「真の共産主義の実現のため資本主義国家の転覆(反帝国主義)」とともに、ソビエト連邦や中華人民共和国などの既存の社会主義国を、世界革命を放棄し、帝国主義との平和共存政策を基調とするスターリン主義と規定し打倒対象とする。朝鮮労働党と日本共産党もスターリン主義と規定し打倒対象とする。
分裂した革マル派も同じ「反帝国主義・反スターリン主義」を掲げるが、革マル派の理論重視・組織重視・党建設重視に対して、中核派は大衆運動・武装闘争を重視し、共産主義者同盟(ブント)や社青同解放派など他党派との共闘も行った。
1960年代、権力に対する街頭武装闘争、大学闘争などで新左翼最大の規模・勢力を持つに至った。1966年の三回大会で「帝国主義の根底的動揺の開始」を表明。その後の1974-75年の世界同時不況・高度成長の終焉をもって資本主義の歴史的命脈は尽きたとする。これを元に情勢認識を「革命情勢は成熟している」と規定し続け、その情勢認識から急進的な路線を打出し、その時々で大学闘争、街頭闘争、三里塚や部落解放などの諸闘争、物理的な党派闘争(いわゆる「内ゲバ」、特に革マル派との内ゲバを「戦争」と規定)など、多数のテロ事件、ゲリラ闘争を行ってきた。
冷戦終結後、1991年5月の「5月テーゼ」以降は、武装闘争路線によって疲弊した党組織の立て直しを図り、労働運動路線へと転換。自派の労働運動を展開しつつ、労使協調路線の連合・全労連を「体制内労働運動」と規定して批判している。

以上のように現在では労働者への浸透を図っているようですが、私と同世代の元活動家は人生の終盤を迎え、どのように人生の総括をしているのでしょうか?
よど号ハイジャック事件の犯人の一部は、だいぶ前に帰国=検挙覚悟で帰国したと報道されていましたが、帰国せずに北朝鮮に残っている人たちの現状については以下の記事(写真付き)が出ています。
http://kodawarijournalist.blog.fc2.com/blog-entry-234.html

「現代ビジネス」(2020年3月28日配信)に執筆した記事を3回に分けて掲載する。その第2回目。

平壌日記 PYONGYANG DIARY
フォトジャーナリスト・伊藤孝司の朝鮮最新情報
実行犯が語る「よど号ハイジャック事件」50年目の新事実【中】

彼らは今、北朝鮮で何を思うのか

中核派に戻りますと今も新規加入者がいるようですが、社会から見ればすでに終わった政治集団というべきでしょうか。
直感的には困った人たちだというだけですが、若い純真な心を煽って後戻りできなくしてしまった大人に責任がないのでしょうか?
政党に都合が悪いとなれば、だんまりで(旧ソ連からの資金援助も無視です)ごまかせると思っているでしょうが、合理的話し合いの結果を認めない公式態度の先には、意を受けた非合法活動を期待する本音に若者が反応するので、責任が重いのです。
国民はその因果を肌で感じているのでその都度国民の信用を失っているのに気がつかないのでしょうか?
親の立場になれば息子や娘がいいように利用されて人生を棒にふってしまわないか?と心配し、恨みを持つのではないでしょうか?

社民党と別働隊(しばき隊・SEALDs)1

社民党党首福島瑞穂氏が連立与党内の合理的対話の結果を無視・党内意見以外認めないのは、民主主義・議論結果相手の意見も認めることを否定する党の唯我独尊体質を明らかにしたもので、中国共産党の一党独裁を彷彿させるものです。
現実がどうしょうもないことが分かっている・事態打開の合理的対案を出せないにも拘らず、現実を踏まえた内閣の決定を受け入れない宣言の意味を考えてみましょう。
反対だから反対だ・・解任するならしてみろ!→孤立しても結果を認めない態度→民主的に決まった政策を受け入れない意思表示というべきでしょう。
連立与党間の合理的対話を受け入れるくらいなら解任されても良いし連立離脱も受け入れるというのは消極抵抗でしかないのですが、この種の意思表示は積極抵抗の一歩手前の覚悟を示したことになります。
党首としては積極抵抗=違法行為実行の意思を示さずとも血気盛んな支持者は勇み足で積極抵抗に走ることが多いものです。
明治維新初期に下野した西郷隆盛にその意思がなくとも周辺にかつがれて西南の役になった故事を知るべきでしょう。
国策行為は法令の施行という形をとる以上・・これに対する積極抵抗は違法性を帯びる行動になりがちです。
これが沖縄での工事妨害に向けた違法行為誘発の原因でしょうか。
工事妨害の違法行為の現場で党の顔である福島瑞穂氏が実力排除された報道は、党自体が関与している印象を受けた国民が多かったでしょう。
そこで現場部隊化していたしばき隊やシールズなどの社民党との関係をウイキペデイアの記事から友好、関連団体紹介を中心に見ていきます。
まず、沖縄基地闘争に参加していた高橋直輝氏の属していたしばき隊です。

対レイシスト行動集団(Counter-Racist Action Collective、略称C.R.A.C.(クラック))は、「レイシストをしばき隊(レイシストをしばきたい。略称しばき隊)」を起源とする日本の市民活動団体。
友好団体[編集]
自由と民主主義のための学生緊急行動 (SEALDs)[88]
救援連絡センター 逮捕者の釈放支援を受ける[89]
のりこえねっと[1]

友好団体として出ている「自由と民主主義のための学生緊急行動 SEALDs)に関するウイキペデイアです。

自由と民主主義のための学生緊急行動[1][5](英語: Students Emergency Action for Liberal Democracy – s[注釈 1]、略称(アクロニム): SEALDs, シールズ[1][5])は、2015年5月から2016年8月まで活動していた日本の学生により結成された活動家団体[6][2]。2016年8月以後は「自由と民主主義のための琉球・沖縄緊急学生行動(SEALDs琉球)」のみ、名前を変えて活動を継続しており[7]、2017年3月17日に、元メンバーらが新団体未来のための公共を設立するが、2019年8月15日に活動終了を発表した。
関連団体[編集]
安保法制の廃止と立憲主義の回復を求める市民連合[100]
民進党
日本共産党
オール沖縄
沖縄平和運動センター(代表者:山城博治)

上記の友好団体「安保法制の廃止と立憲主義の回復を求める市民連合」に関するウイキペデイアです

2016年6月、旧民進党・日本共産党・社会民主党・生活の党の野党4党と市民連合が、国会内で会合を開き、市民連合の政策要望書に調印した。市民連合からは代表者として山口二郎が出席した[3]。第24回参議院議員選挙では、32の1人区全てで野党統一・市民連合推薦候補の擁立を実現し、うち11議席を、比例代表は、当時の野党4党で44の議席を獲得した[4]。
2019年の参院選でも野党共闘の取り組みを後押し、市民連合と4野党1会派との間で1人区での候補者一本化の基本合意と政策協定の調印を5月29日に行い(後述)、32の1人区で10議席を獲得した[5]。

以上の通り社民党や野党と安保法制の廃止と立憲主義の回復を求める市民連合やSEALDsを媒介につながりSEALDsはしばき隊とつながっていることが分かります。
ただ、これら新興組織は自発的に生まれたのか既存政党の別働隊として突然組織化されたのか不明ですが、安保法案国会通過直後に短期間に解散や消滅していった流れを見ると革新系野党共闘の基盤として国会対策目的の別働隊として俄かに組織化された印象を受けた国民が多いのではないでしょうか?
既存政党の短期目的別働隊(公党としてできない非合法暴力的活動体)として大手メデイアはスポットライトを当てたので、彼らは時代の寵児になったつもりで舞い上がったようです。
ところが過激暴力的活動に対する世間の目は冷ややかでしたので、あっという間に切り捨てられ、使い捨てにされて行く若者・・その後の人生がどうなる?が哀れです。

社民党の体質(鳩山内閣離脱)

学生運動に話題が逸れましたが、旧社会党は60年安保騒動が終わった後・国論(国民総意)として日米基軸体制の選択が確定した後においてもなお民主的国民選択に従わない行動が続いた・・このために旧社会党の政治目標が不明化して結果的に「なんでも反対」するしかなくなったと見るべきでしょう。
旧社会党の行動は自分の主張を勝手に市民の声と称して「国民大多数の気持ちを踏みにじる行為」などというスローガンで毎回選挙結果無視の運動を展開してきました。
この運動方式は「議論によって決まったことに従う」という民主主義理念放棄である以上、国会では牛歩戦術という民主主義手続きの乱用を衆人環視のもとで行い、国会で決まった政策実現には現場工事がほぼ伴うのを悪用して現場となる地方自治体での問題蒸し返し・・地元民反対運動の盛り上げや訴訟戦術の乱発で時間稼ぎして最後の工事段階では違法な実力行使での妨害=現場闘争部隊・・違法集団を養う方向にならざるを得なくなったように見えます。
その暴発手段として別働隊(これが一人歩きして内ゲバ過激化)との一体感イメージが一般人に定着してしまったのが、長期低落の主原因だったと総括できそうです。
今の社民党は事実上の顔である福島氏自身が違法行動に参加して排除されるなどを見ると、党自体は違法行為に関与しないという限度の自己抑制すらなくなったような印象を受けます。
いわゆる嫌韓運動に対抗組織として活躍していた「しばき隊隊長」が激しい暴力的活動で却って在日社会から危険視されるようになったからか?いつの間にか嫌韓運動の対抗組織としての活動をやめて沖縄辺野古基地反対闘争に参加し社民党と共闘していると報じられるようになりました。
共闘というと唯一の指揮命令系統に所属して参加する場合が基本形でしょうが、そこまで意思統一しなくとも特定街頭活動が行われている現場で、敵対的デモをする場合と協調的デモをする場合とがあり、一定闘争?現場で協調的デモを繰り返している場合外から見れば共闘関係に見えます。
一般人は闇の人間関係まで知る方法がないので、外部での協調行動から窺い知るしかありません。
ただし、しばき隊の名で沖縄基地反対運動に参加しているのではなく、しばき隊元?隊長が個人で参加しているようです。
旧社会党は安保騒動の頃に社青同という関連団体を育成しましたが、これが昭和40年代には過激派学生運動の一翼を担う組織の一つとなり過激派が国民支持から離れる過程で(私には)消息不明となっていましたが、その焼き直しかな?関係不明のしばき隊とかシールズなど新規活動集団に頼るようになったイメージです。
共産党が暴力革命路線を放棄・修正後、全学連の跳ねっ返り街頭活動を批判し続けてきたのに対し社会党系は共産党の穴を埋めるかのように学生の過激な活動を期待するかのような傾向を続けてきました。
過激な学生運動とこれを背後で煽る社会党が世論支持を失って来た歴史があるにも拘らず、社民党は今なお新たな別働隊期待を続ける時代錯誤性は抜けないようです。
一旦出来上がった強固なDNA(教条主義=過激活動主義は変えようがないので、)旧社会党から大部分の議員が先を競って逃げ出して新党結成に参加したのは正しかったことになりそうです。
旧社会党に居残って社民党と改名した後を継承している福島氏が、民主党連立政権参加時に、沖縄の辺野古基地移設に断固反対して当時の鳩山首相から解任されて閣外に出た・連立政権離脱を選択したのは、政権に参加した場合でも(従来は責任のない野党だったので・・という理解可能でしたが)従来型・・結果無視・筋を通しさえすれば良いとする硬直政党の体質を示した事件でした。
現実政策能力の無さというか、原理論に凝り固まった(選挙の洗礼を受けない頑迷な?)党員の意向に抗することのできない旧来体質を明らかにしたものでした。
福島瑞穂氏に関するウイキペデイアの記事です。

普天間基地移設問題では一貫して沖縄県外、日本国外への移設を主張。2010年5月28日に辺野古地区への移設で日米が合意したためこれに反発し、閣議了解の書類に署名しないと宣言する。鳩山の説得にも応じなかったため、同日中に罷免された[4]。日本国憲法下での閣僚罷免は5例目で、政党の党首職にある閣僚の罷免は初めてであった。
2010年5月30日に開いた社民党全国幹事長会議で、最終的に連立を解消することを決定した。

鳩山民主党は普天間基地移設先を「少なくとも県外へ」の選挙公約で政権獲得したものの政権担当後どこの都道府県への移設展望もない空論であったことが判明し、上記公約で政権獲得した鳩山内閣自身が恥を忍んで辺野古移設について日米合意するしかない状態に追い詰められた現実を内閣の一員として理解していながら、現実をみとめず「筋を通す・党内意見を優先する」しかない旧社会党の体質がそのままだったことを満天下に示した事件でした。
民主主義とは、議論の結果決まった国民意思に従うことであって民主主義国家の政党もこの原理に従うべきです。
現実政治に参加している与党の一員であり、有効な対案がないことを認めていながら要党内協議に従わず、合理的理由なく閣議で反対する・・日頃からのなんでも反対の本性が出た事件でした。
合理的対話の結果を無視・党内意見以外認めないのは、民主主義・議論結果相手の意見も認めることを否定する党の唯我独尊体質を明らかにしたもので、中国共産党の一党独裁のようです。
現実がどうしょうもないことが分かっている・合理的対案を出せないにも拘らず、現実を踏まえた内閣の決定を受け入れない宣言・・解任するならしてみろ!→社会孤立しても結果を認めない態度→民主的に決まった政策を受け入れない意思表示→受け入れるくらいなら解任されても良いし連立離脱も受け入れるというのは消極抵抗でしかないのですが、この種の意思表示は積極抵抗の一歩手前の覚悟を示したことになります。
党としては積極抵抗=違法行為実行の意思を示さずとも血気盛んな支持者は勇み足で積極抵抗に走ることが多いものです。
明治維新初期に下野した西郷隆盛にその意思がなくとも終焉いかつがれt西南の役になった故事を知るべきでしょう。
国策行為は法令の施行という形をとる以上・・これに対する積極抵抗は違法性を帯びる行動になりがちです。
これが沖縄での工事妨害に向けた違法行為誘発の原因でしょうか。

社会党(別働隊1・社青同〜解放派)

社民党が今なお教条主義的体質をそのまま持っているのは、社会党解体?後その事務局〜地方組織や一般党員という運動体を引き継いだ遺産というべきでしょうか?
社民党に関するウイキペデイアの記事です。
社会民主党(しゃかいみんしゅとう、英: Social Democratic Party、略称: SDP[17]、SDPJ[18])は、日本の政党[7][12]。1996年1月に日本社会党が改称して発足した[1]、社会民主主義を掲げる政党である

旧社会党時代には成田闘争には一坪地主として党幹部自身が関与しましたが、現場で機動隊と直接対峙するような実力行使に関与しませんでした。
反対闘争を煽るだけで実力行使は、革マル、中核、社青同3派とその後の分裂で3派10流もと言われる過激系全学連系や京浜安保共闘(労働系運動体)などの別働隊に頼っていたようです。
※ 当時千葉地裁管轄事件だったので、成田事件の弁護をいくつか担当しましたが、そのうちの一つは、成田事件闘争団体の内ゲバ事件であり、その被告人は・今も年賀状の往来がありますが・・労働系運動家でしたが、何系の内部抗争事件だったのか詳細記憶がありません。
メデイアでは過激派学生運動と言われているものの、現場では労働系戦闘員?がかなり関与しているのだな!という印象記憶しか残っていません。
社青同に関する本日現在ウイキペデイアの記事抜粋です。

日本社会主義青年同盟(にほんしゃかいしゅぎせいねんどうめい)とは、青年を構成員とする青年政治同盟である。以前は日本社会党と支持協力関係を持っていた。
歴史
前身は日本社会党青年部。1959年10月開催の社会党第16回大会決定を受け、1960年初頭には社会党青年部を中心に日本社会主義青年同盟結成準備会が作られ、機関紙『社青同』(現、『青年の声』)第1号が1960年3月10日付で発行された。正式結成は1960年10月15日の第1回全国大会で、西風勲が初代委員長に選出された。結成の準備期間はちょうど安保闘争と「三池闘争」との巨大な高揚の時期であり、各地の社青同準備会は正式結成以前から社青同の旗を掲げて闘争に参加した。そのため、社青同は「安保と三池から生れた」といわれる。
政党との関係
日本民主青年同盟が「日本共産党のみちびきをうけ」ると自己の性格を規定しているのに対して、社青同にとっては旧日本社会党との関係は支持・協力関係であり、青年同盟でありながら政党から理論面や行動面での指導を直接に受ける関係にはない(これは「元々社青同が社会党支持者・党員で固められ、支援を前提とする団体であり、改めて『指導』を明言する必要がないからである」という見解もある)。
日本社会党は、社青同の運動にとってはあくまで階級的強化の対象であった。現在においても、社会民主党や新社会党が「護憲」のスローガンを掲げているのに対して、社青同は「改憲阻止」という言葉を用いるなど、政治的な争点となっている憲法をめぐる運動・考え方についてもスタンス、理論の相違がある。
青年共闘運動
職場・産別を超えた青年の学習と交流の場は、青年共闘運動として位置付けられている。
学生運動
東洋大学、中央大学、神戸大学、淑徳大学などが拠点校で、これらの班には数十名の同盟員が在籍していた。都学協には20を超える学生班が結集し、70年代中期には学生運動で民青、中核、革マルに次ぐ動員力を持つに至った。社会主義協会系の各種運動では、現在もこの時期に学生運動から育った活動家の姿をみることが多い。
・・・・・・学生運動全般の停滞は社青同にもおよび、80年代以降社青同学生運動は急速に衰退していった。学生層の変化にみあった方針を出せなかったこと、日本共産党や新左翼は学生運動から生まれたり学生運動を主要な基盤としたため組織全体で学生対策を図ったのに対して、社青同には学生運動は労働運動の添え物という意識が学生運動出身者も含めて強くあり、学生班の衰退に組織として危機感がなかったことなどが理由としてあげられよう。このため、90年代後半以降は学協としての活動は行われなくなった。現在も少数の学生同盟員は存在するが、学内での学生運動や社青同における学習活動ではなく、政党の選挙運動に埋没する傾向があり、存在感を発揮する運動は作れていない。

上記の通り私の学生時代に聞きなれた一大勢力であった社青同がいつの間にか消息不明になっていた理由がわかります。
ただし以上は社会的意味がなくなったというだけで、その道のプロ同士にとっては社青同から派生した解放派(武闘系?)に関しては、分裂による内ゲバの激しさで知られているようです。
(具体的事件に感心のある方は、社青同解放派でネット検索してご覧ください)
結果から見ると社青同解放派に限らず全学連諸派(中核、革マルに限らず学生運動ではないですが、連合赤軍を含め過激活動する諸団体)は世論支持を失う→過激主張化→世論支持離れ加速→常識派の組織離れ→過激主張一色→武闘路線内の主導権争い・内ゲバ凄惨化(あさま山荘事件など)→対外武闘路線をさらに強める繰り返し(よど号ハイジャック事件やテルアビブ空港乱射事件など)→世論支持皆無→勢力衰退を招いて行ったような印象です。
この数十年では門外漢から見れば政治目標不明の「単なる違法集団かな?」と思う人が多いのではないでしょうか?

社会党の教条主義化4(日常活動軽視)

昨日紹介した論考に関する感想の続きですが、社会党凋落が決定的になった69年総選挙敗因を読むと日常活動による個人後援会が育っていなかったことが一因であるようにも読めます。
日常活動が充実していれば、これに比例して社会変化への適応力がつき、世話になった庶民の感謝の気持ちから活動資金も集まりやすいのですが、日常世話活動がほとんどなく観念論の演説に酔い痴れている状態では支持率低下に比例して資金源も細ります。
庶民との接点を重視しないメデイアの振り付けに頼る・・西洋的愚民思想・・庶民は愚かなので宣伝対象に過ぎないと思い込んでいる政党が庶民の代弁者を名乗る資格があるのでしょうか?
社会党がもう一歩で政権交代可能か?というチャンスに中ソの支援に頼るようになっていった結果日常感覚で遅れをとったのに対して共産党は逆に中ソからの独立路線に転じた点が大きな違いになりました。
(児童売買春に関して世間を騒がせたNGO関連で少し書きましたが、この数十年でいえば国内支持不足を国連等の応援?国際社会はこうだ!というグローバル論法にたよって国内批判をする現在のNGOの先駆者?になるのかな?)
共産主義政治の優位性を語る主義主張では国民支持を受けていませんが、外国の手先でないかという疑念を抱かれない点が独立路線に転じた共産党の強み・一定の岩盤支持が残っている違いではないでしょうか。
共産党が独自路線選択の結果、中ソの支援が期待できなくなったので国内での地盤が必要になってある程度日常活動が必須となり、生活者の基礎能力の高さを否定できなくなった結果、次第に庶民意思を汲み取る能力がついてきたと言えるのでしょうか?
日本社会の大変変革期が到来した鎌倉末期にこれを精神面で体系化するのに必須の新宗教が興った・・・浄土信仰と禅宗・日蓮の3宗教でした。
このうち他力本願系と自力系に分けると自力系では内向して行く禅宗系と外的行動を求める→過激主張・過激行動の日蓮宗の2系統に分かれましたが、ボトムアップ型民族の日本では生活人がじっくりした話し合いで決めて行けば良いという知恵・・過激主張と過激行動は好かれない民族性が明らかになったように思われます。
共産党が独自路線採用の結果、価値基準も日本回帰して見ると、ソ連流の「暴力革命」の標榜は社会内孤立するという見通しを持ち、価値観でも国内回帰・大転換したように見えます。
この頃大学内のいわゆるブントに対して「学生は街頭活動や闘争するものではなく、より一層勉学に励むべし」という中央指令を発したので全学連が混乱に陥る、党中央に従うものと、あくまで武闘路線に突っ走るグループ等に四分五裂していくようですが党は動揺せずに安保騒動やその後の全共闘運動等に対して一貫して「跳ねっかえり行動が権力による取締体制強化を誘発するマイナス行動」として厳しい批判を繰り返してきました。
学生の過激運動禁止で共産党の影響力低下の穴を埋めるチャンスとばかりに学生運動連携を強めた社会党は60年安保直前の砂川基地闘争、三池闘争等の学生運動と連携して以来、過激化する一方の学生運動と運命を共にする方向になっていったように見えます。
共産党は独自路線の結果、行き詰まりの反動で人民弾圧を始めたソ連や中国批判を遠慮なくやれたことも時宜にかなっていた面があります。
革新系野党が今でも指導層を高学歴者に頼り、運動方法としては学者声明にこだわる体質が変わらないのは、党は人民を教化する前衛・エリート集団であるという価値観・・DNAによるのでしょう。
韓国では名門大卒かどうか・・最近では超一流企業となったサムスン社員かどうかは昔のヤンパン階層かどうかによるとてつもない格差を示す道具になっているのと同じで思考法です。
共産党や公明党なども代議士、地方議員等は、党が指名して立候補できる仕組みのようなので、社会党の党員の強さに似ているように見えますが、地元民と接触する日常活動の活発さに比例して党員の現実感覚が磨かれるので社会党ほど教条主義者がはびこり難い・・日常サービス活動が残る限度で一定の支持を得て生き残れているのでしょう。
社会党の弱点は官公労等の巨大組織に頼り地元密着の日常活動をほとんどしてこなかったことだと思います。
もともと共産党の方が、共産主義革命そのものをめざす理想主義者?の集まりであり社会党の方が現実的政治センスある集団だったはずです。
昨日紹介した社会党研究論文の前提事実でも、元は現実政党であったのに次第に左傾化して行ったという意見です。
上記によれば、これは結果であって原因ではないという説明になるようです。
現実政党で政権交代可能性が予定されていた社会党が、何故観念論集団に堕して行ったのか?
私の素人意見ですが、選挙民の要望にこまめに対応する日常活動に力を入れたかどうかの差ではないでしょうか?
共産党は自民党顔負けのドブ板選挙に励んでいたので、中国の文化大革命の失政やソ連によるハンガリー動乱やプラハの春やポーランドに対する戦車蹂躙があり、ソ連崩壊等によって共産主義の輝きを失っても日常活動による下支えが現在も効いているように見えます。
社会党が足場を失っていった原因は日常活動ほぼ皆無でメデイア界や文化人等の支持・実態に合わないメデイアのヨイショ記事?あるいはメデイアが掘り起こした政権要路者批判先行によるムード盛り上げに便乗して国会で追及する・タレントが振り付けどおりにテレビで振る舞うような行動に頼ってきた点にあったと言えそうです。

免責事項:

私は弁護士ですが、このコラムは帰宅後ちょっとした時間にニュース等に触発されて思いつくまま随想的に書いているだけで、「弁護士としての専門的見地からの意見」ではありません。

私がその時に知っている曖昧な知識を下に書いているだけで、それぞれのテーマについて裏付け的調査・判例や政省令〜規則ガイドライン等を調べる時間もないので、うろ覚えのまま書いていることがほとんどです。

引用データ等もネット検索で出たものを安易に引用することが多く、吟味検証されたものでないために一方の立場に偏っている場合もあり、記憶だけで書いたものはデータや指導的判例学説等と違っている場合もあります。

一言でいえば、ここで書いた意見は「仕事」として書いているのではありませんので、『責任』を持てません。

また、個別の法律相談の回答ではありませんので、具体的事件処理にあたってはこのコラムの意見がそのまま通用しませんので、必ず別の弁護士等に依頼してその弁護士の意見に従って処理されるようにしてください。

このコラムは法律家ではあるが私の主観的関心・印象をそのまま書いている程度・客観的裏付けに基づかない雑感に過ぎないレベルと理解してお読みください。