ロヒンギャ問題と在日の類似性(済州島事件)1

ロヒンギャ問題にずれましたが、ロヒンギャの悲劇は「後からきたものは政治に関与してはいけない」のに、積極的に関与しすぎたことが大きな原因ではないでしょうか?
自分たちを守るために先手を取ってその地域の政治の動きに反対する政治活動して行くのは、一見利口そうに見えて、実は政治活動による成果を誇るのは、先住民の不満蓄積・何かのきっかけでの反動が大きくなります。
どこの世界でも新参者は「この土地の習慣がよくわからないので・・」とか言って、意見を聞かれてもなかなか口出ししないものです。
黙ってその地域の動きをじっと見ていて、それにどう適応して行くかの努力をすれば良いことです。
アメリカでは韓国中国系の政治活動が活発で、慰安婦像建設など成果を上げているのに対抗するために日本人の一部でカウンター運動をしていますが、よそものが表面で頑張って成果を上げるのは長期的にはマイナス作用がある・リスクを知らない意見です。
アメリカ国民多数の動きをじっと見ていれば良いことです。
世界中でも「戦略的?」に目だった動きをするのは長期的にはマイナスです。
アメリカは見え透いた「戦略的」口出しばかりするので、世界中で嫌われて、(人道あるいは反民主主義その他の理由で援助停止したりする・内政干渉するので)賄賂でも独裁でも何でも良い中国の援助になびき始めたのです。
これも、そのうち中国の強引な支配欲に世界の後進国が辟易する時代がすぐにきます。
個人の人間関係同様に特定のグループを敵視したりしないで普通にやっていれば良いことでしょう。
ロヒンギャ難民の具体的解決に戻りますと、困ったひとがいる場合我が国では古代から、人権とか民主主義とかの理屈抜きにしてともかく現実的解決をしてきた歴史です。
こうした国民価値観からすると紹介してきた日本政府の行動は国民意識にあっているように見えます。
在日の処遇に関しても済州島から逃れてきた人たちは、朝鮮戦争休戦後北朝鮮軍が南進した際に協力したという理由・疑いで殺戮が行われ、その殺戮の嵐から逃れるために逃げてきた朝鮮人を追い返すわけに行かないという現実処理の結果、特別永住権付与の配慮をしたことが・・在日特権と言われている原因でしょう。
9月6日時点のウイキペデイアの紹介です。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%88%E5%B7%9E%E5%B3%B6%E5%9B%9B%E3%83%BB%E4%B8%89%E4%BA%8B%E4%BB%B6

済州島四・三事件(チェジュドよんさんじけん)は、1948年4月3日に在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁支配下にある南朝鮮の済州島で起こった島民の蜂起に伴い、南朝鮮国防警備隊、韓国軍、韓国警察、朝鮮半島の李承晩支持者などが1954年9月21日までの期間に引き起こした一連の島民虐殺事件を指す[4]。
戦前から済州島に穏やかに暮らしていた人々が、親族を頼るなどして戦後の日本に密入国して在日韓国・朝鮮人になる原因になった[5]。
南朝鮮当局側は事件に南朝鮮労働党が関与しているとして、政府軍・警察による大粛清をおこない、島民の5人に1人にあたる6万人が虐殺された[6]。また、済州島の村々の70%が焼き尽くされた[6]。

今のロヒンギャ問題以上の大規模殺戮です。
これは李承晩政権が行ったものですが、米軍占領下で行われたのですから米軍の責任は本来重大です。
逃げてきた済州島の朝鮮人を追いかえさなかった・これが今の在日の多数のようですが、日本の配慮に感謝していれば円満解決なのに、「こう言えばああ言う」国民性?の結果、「強制連行された・・から当然の権利」と無茶な主張するから怒った日本人の一部が在日特権を言い出したのです。
8月29日に辛淑玉氏主張を紹介してきましたが、もう一度発言を引用しておきます。

「北朝鮮による日本人拉致について
「仮に北が日本人を拉致したとしても日本人は批判できるだろうか。戦争中、膨大な数の朝鮮人を国家の名の下に拉致した歴史的な事実がある。いまなぜ日本に多くの朝鮮人がいるか考えてみてほしい。自国の歴史を忘れた発言が多すぎる」

8月29日引用しましたが、徴用工で日本に残ったのは245人だけです。
「歴史捏造をやめろ」と言いたい日本人が我慢して聞いているのですが・・
現在の在日が連行されてきているかのように主張するから、「じゃ戦後混乱期の違法行為はどうなるんだ」とかのいろんな主張が噴出します。
ロヒンギャが英軍に協力したのと同様に日本が米軍に占領されると第三国人として威張り散らしたことが日本人には許しがたい記憶として残っているのに黙っている恩恵を悪用しているのです。
9月5日現在の第三国人に関するウイキペデイアの記事からです。

「在日朝鮮人に対する措置」文書(1949年)にて、当時の総理大臣である吉田茂は戦後の在日朝鮮人に対して以下の見解を出している[13]。
彼らは 総数100万にちかく、その半数は不法入国。
すべての朝鮮人がその母国たる半島に帰還するよう期待する。
その理由は次の通り。
現在および将来の食糧事情からみて、余分な人口の維持は不可能。
大多数の朝鮮人は、日本経済の復興に全く貢献していない。
さらに悪いことには、朝鮮人の中で 犯罪分子が大きな割合を占めている。
彼らは日本の経済法令の常習的違反者 であります。多くは共産主義者ならびにそのシンパで最も悪辣な政治犯罪を犯す傾向が強く、常時7000名以上が獄中にいるという状態である。
1981年8月には、『朝日新聞記者の証言5』(朝日ソノラマ)の「第三国人の独壇場」の章における
彼らの一部には、治外法権があるかのような優越感をいだかせ、社会の混乱に乗じて徒党を組み、統制物資のヤミ売買、売春、強・窃盗、土地建物の不法占拠などの不法行為をほしいままにし、戦後の混乱を拡大した。

日本が敗戦で打ちひしがれているとそこにつけ込む・・お世話になれば、気持ちよく感謝すればお互い幸せですが、何でも先ずは言い返したい、目先の自己正当化に暴走する国民性が、こういう不幸な関係を生むことになっしまったように思われます。
「日本が嫌いなら韓国に帰ればいいのに!」という意見のひとが増えるようになってきました。
8月31日に引用したように刑法では、不退去罪は住居侵入と同一条文に記載され、同一の法定刑になっているように、不法入国と不法滞在は同じ法律内で同一処罰になっています。
近隣の人が、しょっちゅう無免許で運転していたり信号無視・スピード違反しても「困っ人だ」
という程度の人でも、自宅への「不法侵入」あるいは押し売りなどが「帰れ」といっても帰らないで「居座る」となると「困った人だ」という程度では済まない・・警察に通報して強制力を求めるでしょう。
密入国は、自国領土へ不法侵入同様で、国家としては不法入国を見逃すわけに行かないナーバスな問題ですから、その表裏の関係である不法滞在も放置できない問題です。
犯罪発生の予防的な事前規制・・各種取締法違反とは意味がまるで違います。
済州島からの避難民は人道的に仕方ない面もあり、単なる密入国とは違うでしょうが、不法入国という点では、信号無視程度とは大違いです。

軍事政権批判論?(ミャンマーの場合)2

欧米の軍政批判〜人道主義論をうがった見方・悪意で見れば、英米はようやくトロイの馬のごとく仕立てたスーチー氏の政権獲得に成功したものの、したたかなビルマ人の能力が上回っていた・・・欧米の評価の高いスーチー政権に看板だけ与えて、経済制裁を免れた上で、直ちに欧米傀儡(獅子身中の虫)のロヒンギャ潰しに動いたと見るべきでしょう。
あるいは民族間紛争棚上げ目的で、ロヒンギャ駆逐に一致団結しているかのように見えます。
ロヒンギャだけなぜ、国民一致の標的になったかの疑問ですが彼らが英国の分断政策に乗ってしまったことが大きな原因のように見えます。
昨日見た「移民国家」という説明を読むと(全部引用していませんが)いろんな部族が次々とやって来た点ではロヒンギャも同じですが、最後にやって来た新参であるにもかかわらず・・逆に新参で最も弱い立場であるからこそ、挽回のために世界の強国英国の後ろ盾を利用して先住既得権益者を追い払う逆転を狙った点が嫌われたのでしょう。
どの部族も武装解除に応じないままの停戦協定というのですから、各部族はそれなりの怨恨の歴史があって相容れない関係でしょうが、それでもビルマ領域内・一種の世界内での土着民族内に争いという共通項を持っているのでしょう。
日本は古代から列島内を一つの「天下」と見て来たし・・列島外からの侵略には一致して戦ってきました。
ギリシャ都市国家は「いざとなれば一致団結して戦う」この精神の母体をヘレネス信仰?と言ったかな?特別なことのように高校歴史で習いましたが、今考えればどこの地域でも地域内紛争と外敵の関係は同じでしょう。
スーチー氏政権獲得(16年)とほぼ同時にロヒンギャ襲撃が過激化したのは偶然の一致ではないでしょう。
一橋慶喜が京都で総裁職だったかについていた時に、旗揚げした(というより地元水戸で主流派に追い落とされたので集団逃亡したような経緯ですが)水戸天狗党が彼を頼って各地転戦しながら京に向かったのですが、北陸に至った時に肝心の慶喜が討伐軍のトップについてしまい、結果的に天狗党の大方が処刑されたことがあります。
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/9201

2017年3月30日
スーチー政権発足から1年、早くも難局にさしかかる政権運営
藤川大樹 (東京新聞記者)

ミャンマーで昨年春、アウンサンスーチー率いる国民民主連盟(NLD)の新政権が誕生した。半世紀にわたり国軍の強い影響下にあった同国で、選挙による民主勢力への政権交代は歴史的な快挙だった。あれから、間もなく1年。国民の熱狂は次第に冷めつつある。国際社会も、西部ヤカイン(ラカイン)州の少数派イスラム教徒ロヒンギャに対する人権侵害疑惑に厳しい視線を向けている。実務能力を欠く新政権に、国軍は早くも見切りをつけたとみられ、アウンサンスーチーの政権運営は難局に差しかかっている

欧米はスーチー氏に、ロヒンギャ問題の解決を求めているもののスーチー氏もこれには応じられない状態です。
国連調査団さえ入国国拒否せざるを得ないのが、スーチー政権の現状です。
https://jp.reuters.com/article/myanmar-rohingya-nobelpeaceprize-idJPL3N1VL094

2018年8月30日 / 09:59
スー・チー氏のノーベル平和賞剥奪ない=委員会事務局長
スタバンゲル(ノルウェー) 29日 ロイター] – ノーベル平和賞の受賞者を選定するノルウェー・ノーベル委員会は29日、ミャンマー軍がロヒンギャ族に対して大量殺りくを行っているとの国連報告を踏まえても、政府を指導するアウン・サン・スー・チー国家顧問のノーベル平和賞剥奪はないと表明した。
アウン・サン・スー・チー氏は民主化運動により1991年にノーベル平和賞を受賞したが、ラカイン州における軍の弾圧に反論していないと批判されている。

鎌倉幕府が都から源氏の将軍を歴代迎え入れていたのと同じ構図です。
欧米諸国はアウンサンスーチーを鳴り物り入りで応援していた手前、どうして良いかわからないようです。

軍事政権批判論?(ミャンマーの場合)1

10数年以上前から、ミャンマーの軍政だけ欧米が目の敵にするのはおかしいという意見を書いてきましたが、アラカン族にとっては、ビルマに征服されてから、イギリスに支配されイギリス支配から免れるためにビルマ全体の日本軍に協力に参加し、日本敗退後はビルマのイギリスからの独立運動に協力してきた苦難の歴史(独立戦争は日本敗戦後のことですから、日本の戦後より短いのです)が、つい最近のことでしょう。
ビルマ全体がイギリスからの独立戦争を戦い抜いた歴史・軍事政権とはそういうことです。
欧米にとっては自分たちに歯向かったビルマの軍政が許せないでしょうが、国民にとっては軍こそは欧米支配から独立の旗印・象徴ですから軍の威信は絶大と思われます。
ビルマ独立直後の政治を見ると、中国の辛亥革命後の軍閥の乱立混乱状態の小型版の中から、平野部を抑えたネ・ウインがクー・デ・ターによって政権掌握したものですが、いわば蒋介石が軍閥の抗争から一頭地を抜いて南京の国民政府を仕切るようになったのと本質的違いがなさそうです。
フランス革命もジャコバン独裁からナポレオン帝政へ・ロシア革命も結局は選挙無視のクーデターによるものであり、韓国も混乱回避のために軍事政権が続いた結果の民主化ですし、戦乱を統一するには最終的に武力によるしかないのは、どこの国でも同じです。
乱世平定後民心が安定してから文治政治に移行するものであって、まだ国内が固まらないうちから文治政治では国が治りません。
イギリスに抵抗した腹いせのように、これを民主政治破壊の軍事政権と定義づけて国際批判・経済制裁するのは、(10年以上前にアメリカは中南米や韓国軍事政権を容認していたのに、ビルマだけ許せないのは独立戦争に対する欧米の腹いせ」だと書いたことがあります。)無理筋でしょう。
英米の支援を受けたアウンサンスーチー氏の反軍政・民主化運動に対抗するのは、ビルマ軍としては独立戦争の継続みたいに受け止めていたでしょう。
アラカン人は本音では、ビルマ中央からの独立を希望しているのかも知れませんが、(このために政府はアラカン人の対ロヒンギャ強硬論を無視出来ない関係です)内部不満/敵対勢力一掃の方が先という戦略で、ビルマとともに日本軍に協力し、ビルマ全体の独立戦争に協力してきたようです。
ロヒンギャは日英戦争では英軍側についていた関係もあり、日本敗戦後すぐに始まったビルマの対英独立戦争でも明白に英国側で戦わないまでも、積極的にビルマ独立に協力しなかったと思われます。
しかも何十年にもわたる英米主導の対ビルマ経済制裁下で、スーチー氏の運動を応援していたロヒンギャは、侵略軍の手先のように国民意識にすりこまれてしまったように見えます。
長年のスーチー氏の反政府運動をロヒンギャが支持してきたことにより、アラカン人のみならず、その他相争う少数民族全体(ミャンマーの少数民族はなんと百三十五もあると言うのですが、「ロヒンギャを許せない」と言う点では一致している様子)がロヒンギャだけは容認できない・・仇敵関係になってしまったように見えます。
ロヒンギャとしいては、頼みのスーチー氏がようやく政権を得たので、その庇護を期待したのでしょうが、ビルマ全体の敵としての位置づけが確立してしまったロヒンギャをスーチーが保護できません。
スーチー政権は(欧米の傀儡でなく)民主化運動の成果である以上、国民大方の意向を無視できないのは当然です。
民族和解の精神はその他部族との和解には、使えてもロヒンギャ問題解決には使えないのです。
民族和解に向けた会議で「ロヒンギャだけは別」という方向で会議が進んでいるのでしょう。
下記の通り、少数民族との停戦合意が成立したのですが、ロヒンギャだけは別扱いのようです。
https://thepage.jp/detail/20150603-00000013-wordleaf?page=2
によれば、ミャンマーは移民国家であり、部族間の戦争は移民同士の争いに集約されるようです。

ロヒンギャ漂流問題 ミャンマー少数民族の対立と迫害の歴史
2015.06.05 16:25
3月末にミャンマー政府と16の少数民族との間で停戦合意草案が調印されました。しかし、5月下旬に入り、イスラム系少数民族ロヒンギャの数千人規模の難民が同国沖を漂流したり、ロヒンギャらとみられる大量の遺体が見つかったりするなど、いまだ根強い少数民族問題が垣間見えます。
実は「移民による多民族国家」
ミャンマー(ビルマ)はアメリカ合衆国やカナダと同じく、「移民による多民族国家」です。
人口約5100万人の60~70%を占めるビルマ人のほか、シャン、カレン、アラカン(ラカイン)、モンなど130を超える少数民族で構成されています。少数民族の多くは、インド、バングラデシュ、中国、ラオス、タイとの国境付近に暮らしています。
人口2位のシャンは推定350~400万人、3位のカレンも推定300万人で、けっして「少数」ではありません。
この規模の独立国は世界にたくさんあります。世界の1/4の国(約50か国)が人口300万未満です。つまりミャンマーは、独立国家を持っていても不思議ではない複数の「少数民族」を抱える多民族国家なのです。
紀元前から住んでいたのは、モン人やピュー人と考えられています。現在、この地を支配しているビルマ人は先住民ではありません。
ビルマ人は、9~10世紀に大陸から南下してきた広義の移民(移住者)なのです。
11世紀、ビルマ人は最初の統一王朝(バガン王朝)を建国し、この地に仏教を根づかせました。少し遅れて、北方からシャンやカレンなどの民族も移住してきました。ほかの多くの少数民族も、中国から南下してきた移民です。
その後は、シャンが勢力を強めたり、モンがビルマ人の王朝を倒したりと、移民の対立・紛争の時代が続きました。
現在の領域にほぼ固まったのは、イギリスの植民地になった19世紀半ば以降です。ビルマは英国領インドの一部となり、南アジア系民族(ベンガル人ほか)が入植してきました。
肌色・容姿が日本人に近いビルマ人は、南アジア系の人々を「カラー」(外来者の意も含む)と呼び、快く思っていません。あまり声高に語られませんが、「ビルマ人vs.カラー」という火種も残っているようです。
イギリスの家芸の民族分断統治によって、「ビルマ人vs.少数民族」という対立構造もしっかり強化されました。
第二次大戦後の1948年、ビルマは連邦国家としてイギリスから独立しましたが、直後、南東部の少数民族カレンが武装蜂起したのです。
1962年にネ・ウィン政権が誕生し、ビルマは社会主義路線に進みました。1988年、民主化運動の激化で後任のサン・ユは退陣したものの、国軍がクーデタで全権を掌握。国際社会の批判を浴びながら、長らく軍政が続きました。
その間も、カレンだけでなく、カチン、シャン、カレンニー(カヤン)などの少数民族による独立・反政府運動は止まりませんでした。
国際社会の眼は、「軍事独裁政権vs.国民民主連盟(アウンサンスーチー率いるNLD)」という“ビルマ人内の民主化問題”にしか向けられませんでした。スーチーの軟禁状態がいつ解かれるのか。解放されると、いつ軍事政権と和解するのか、真の民主化は進むのか。ヤンゴンのビルマ人に聞くと、カレンやカチンなど少数民族の問題は「よそごと」という声が返ってくるようですが、国際社会にとっても同様だったのです。

私の推測ですが、もしかしてアラカン族支配地内の少数民族という位置付けで見れば、ビルマ国内の大手少数民族間の協調優先の為に各部族内のさらなる少数民族問題を他の部族はタブー視して口出ししない(アラカン族の独立運動を封じるために国軍がロヒンギャ迫害に協力するのもその一つです)「国際」協調路園があるのかもしれません。
15年3月の16部族間停戦合意後、ロヒンギャ迫害がいきなり激しくなったのはその流れとも読めます。
ミャンマー周辺国がこぞってロヒンギャに冷淡なのは、国家規模での協調に影響がある・・「お互い内政不干渉が大人の知恵」という立場でしょうか?
ミャンマーの部族一覧のウイキペデイアからです。

ミャンマーの民族の一覧である。
ミャンマーでは、大きく8つの部族、全体で135に及ぶ民族が存在する。そして、それぞれの部族は、それぞれの州そして文化を持っている。

上記の通り大手部族内にいくつものさらなる少数部族を抱えているのですが、大手部族内部の抗争に外部の部族が口を挟んでいたら収拾がつかないでしょう。

ロヒンギャ問題3(日英の恩讐2)

ウイキペデイアの続きです。

2016年10月からの掃討事件
2016年10月9日、ラカイン州で武装集団の襲撃があり、警察官9人が殺害された。当局は実行犯8人を殺害し、2人を逮捕した。当局は記者会見で、犯人はロヒンギャを名乗っていたと述べ、ラカイン州政府幹部は、ロヒンギャ連隊機構の犯行との見方を示した[68]。ミャンマー軍は過激派掃討作戦を口実としてロヒンギャを攻撃した。
2017年前半の展開
5月2日、アウンサンスーチーは欧州連合(EU)のモゲリーニ外交安全保障上級代表と会談し、国際調査団の受入拒否を表明した。外国メディアの取材制限についても、「私の村で(治安機関の)残虐行為はなかった」と取材に答えたロヒンギャが、武装勢力に当局の協力者とみなされ斬首された事件があったと述べ、理解を求めた[8
2017年8月からの「掃討作戦」
9月28日、国連安全保障理事会は、ロヒンギャ迫害について公開会合を開いた。グテーレス国連事務総長は、8月25日の武力衝突以来の難民が、少なくとも50万人に達したと述べ、さらに25万人が潜在的に家を追われる可能性があると指摘した。
10月16日、ミンアウンフライン最高司令官はフェルトマン国連事務次長(政治局長)との会談で、改めて「「ベンガル人」はミャンマーの民族ではない。1942年に(「ベンガル人」によって)2万人以上のラカイン人が殺されたこと[注釈 8]こそが真の歴史であり、隠すことはできない」と主張した。そして、ミャンマー軍は「ベンガル人」による不法占拠や「ベンガル人」テロリストに合法的に対処したまでとして、(「ベンガル人」では無い)地元民のために安全対策を取る必要があると主張した。
12月5日、国連人権理事会で、ミャンマーによるロヒンギャへの「組織的かつ大規模な人権侵害」を「強く非難」し、ミャンマーに独立調査団への協力を呼びかける内容の決議が賛成33、反対3、棄権9で採択された[127][128]。反対は中国、フィリピン、ブルンジ。棄権は日本、インド、コンゴ、エクアドル、エチオピア、ケニア、モンゴル、南アフリカ、ベネズエラであった[
12月24日、国連総会で、イスラム協力機構(OIC)の提出した、ミャンマー政府にロヒンギャ難民の全帰還や完全な市民権の付与、援助関係者の接触容認などを求める決議が賛成122、反対10、棄権24で採択された[141]。反対はミャンマー、中国、ロシア、ベラルーシ、カンボジア、ベトナム、ラオス、フィリピン、シリア、ジンバブエ。棄権は日本、インド、タイ、ネパール、ブータン、シンガポール、パプアニューギニア、カメルーン、南アフリカ、ドミニカ共和国、ベネズエラなどであった。
2016年10月より、新たに難民となりバングラデシュに逃れたロヒンギャは、2017年6月15日までに7万5千人に達した。さらに、8月25日の武力衝突から12月17日までの間だけで、65万5千人に達した。以前の難民を含めると、80万人以上が難民となっている[1
日本政府の対応
2017年8月4日、日本財団の招きで来日したミンアウンフライン軍司令官が、安倍晋三首相を表敬訪問した。日緬防衛協力などを会談し、「国民和解や少数民族支援」にも触れたが、ロヒンギャについて特段の言及は無かった[156]。
8月29日、外務報道官は武装勢力による治安部隊への襲撃を「強く非難」した。その一方、アナン委員長らによるラカイン州助言委員会の最終報告書の勧告履行へのミャンマー政府の取り組みを「支援」すると表明した[157]。
9月19日、河野太郎外相は、改めて武装勢力による襲撃を「強く非難」した。一方で人道状況や住民殺害の疑惑、この時点で40万人にのぼる難民流出に「深刻な懸念」を表明した[158]。
11月14日、安倍首相はアウンサンスーチーと会談し、「深刻な懸念」を伝え、治安回復や避難民帰還の実現を求めた[159]
12月14日、安倍首相は訪日したティン・チョウ・ミャンマー大統領と会談した。安倍首相の発言は以下の通りである。1.ユニバーサル・ヘルス・カバレッジ(UHC)支援を引き続き進める。2.「自由で開かれたインド太平洋戦略」の下、官民合わせて8千億円の資金投入、文化交流の推進などを行う。3.ラカイン州の人権・人道状況を「懸念」している。避難民帰還に関するミャンマー・バングラデシ合意を歓迎する[166]。

日本政府の対応は、第二次大戦で日英戦に協力してくれたミャンマー批判には応じられない・・しかし現実の人道援助には対応したいというスタンスで日本としては合理的対応です。
ミャンマーも日本の(事実上の)支持を取りつけるために戦時中・日英戦争でロヒンギャが英国についた被害を最近強調するようになったのでしょう。
全体の流れを見ると日本は英米が人道を強調するならば、原因を作った「英国が最終責任を持つべき」と言わんかのような立場で、一貫しているようです。
ただ出身地域?バングラをはじめとして周辺国が冷淡なのには驚きますが、ミャンマーは地域の軍事大国でもあり、関わりたくないからでしょうか?
ロヒンギャとは、民族集団ではなく商業活動活発化に伴い主にバングラ経由で徐々に流入してきたイスラム系商人の総称?であってどこの民族集団とは言い切れない点に特色がありそうです。
それまでのビルマ流入民族は民族としての纏まった入り込みであったのとの違いです。
バングラデシュにとってもベンガル地域経由で流入しただけのことであって、自国民ではないという認識なのでしょう。
イタリア、ギリシャ経由のアフリカ系移民をドイツ、フランス等から送り返されるのはイタリヤやギリシャ等にとって迷惑なのと同じです。
ロヒンギャ問題を人権問題と欧米諸国が騒ぐのは、将来イスラエルの地がアラブによって回復された時に、ユダヤ人の国籍剥奪.迫害などが起きるであろう人権問題の先取り構図・・欧米によるイスラエル建国を正当化するためにイスラエル支持をして来た欧米諸国の予行演習の印象を受けます。
イギリス・欧米植民国家はロヒンギャ問題を作り出した原因国ですから、欧米の人権主張には裏があるように思う人が多い・・そのまま乗るのは無理があるでしょう。
ビルマの中でもアラカン族にとっては、対英戦争の最前線となって痛めつけられた歴史があるので、ロヒンギャについては最強硬になっているし、ビルマ→ミャンマー全体では一部の問題ですが、沖縄問題同様に全ビルマとしても潜在的独立主張を持つアラカン族の主張を無視できません。
日本で言えば蒙古襲来の被害を受けた壱岐・対馬であり、対米戦被害の大きかった沖縄県民意識・米軍存在を許せない意識でもあるでしょう。
長年欧米諸国は、ミャンマーの軍事クーデターを理由に経済制裁を続けてきましたが、要はイギリスからの独立を武力でもぎ取ったことに対する嫌がらせのように疑われかねない微妙な関係です。
ミャンマーに関するウイキペデイアの記事からです。

2007年、アメリカとイギリスは軍事政権にアウンサンスーチーを始めとする全ての政治犯の即時釈放を求める非難決議を提出し、1月12日国際連合安全保障理事会で採決した。
しかし、中国とロシアが拒否権を発動し、否決された(賛成は米、英、フランスなど9カ国。反対は中、露、南アフリカの3カ国。棄権はインドネシア、カタール、コンゴの3カ国)。ASEAN諸国では、軍事政権への非難には慎重論が強い。
イギリス人を夫に持つ、アウンサンスーチー氏を最大限持ち上げる欧米メデイアを奇異に感じていた人が多いと思いますが、独立したばかりのビルマを民主化という大義名分利用で虐めていただけのように、受け止めていた人が多いでしょう。
日本とビルマの関係は敗戦後も日本に帰らずに、ビルマの独立を支援する人が多くいて、敗戦後も現地に残って独立戦争の軍事顧問訓練教官的役割を果たしてきたことが知られています。
ミャンマーに関するウイキペデイアの記事続きです。

ビルマは1954年11月の平和条約締結以来、日本と友好的な関係を築いてきた。特にネ・ウィンは親日的な政策をし、このことがBSPP時代の巨額の二国間援助に影響を及ぼしたともいわれる。
日本は欧米諸国とは対照的に、1988年の軍事クーデター後に成立した軍事政権をいち早く承認した他、軍事政権との要人往来や経済協力による援助を実施し続けてきた。
1981年4月、ミャンマー政府は独立に貢献した南機関の鈴木敬司ら旧日本軍人7人に、国家最高の栄誉「アウンサン・タゴン(=アウン・サンの旗)勲章」の授与をおこなっている[45

ヘイトスピーチ10(米国憲法論の推移2)

https://www.keiho-u.ac.jp/research/asia-pacific/pdf/review_2014-03.pdf
アメリカにおけるヘイトスピーチ規制論の歴史的文脈
昨日引用の続きです。

こうした中で、大学でのスピーチコードを支持する立場を明確にしていたのが、「批判的人種理論」と呼ばれる立場に立つ法学者たちである。
・・・・彼らの主張はアメリカの法学界ではあくまでも少数派であり、連邦あるいは州レベルの議論に目に見える影響を与えるには至らなかった・・
ローレンスの議論は、言論と行為の区分を安易に前提にすることの問題点を示すことで、ヘイトスピーチ規制を否定する一方でヘイトクライム法については認めるアメリカの法制度を批判するものである。

※「言論と行為の区別」批判論の前提とするヘイトクライム法は、既存の刑事罰行為をヘイトに基づく場合に刑を加重する仕組み・客観「行為」を必須要件とするものらしいです・・。
本日現在のヘイトクライムで検索するとでるウイキペデイアによると以下の通りです。
ヘイトクライム判決強化法(1994年)[34] — 1994年暴力犯罪制御法執行法の一部として成立しており、差別犯罪をした場合は通常の犯罪の刑罰より反則レベルを3段階厳しくし重い刑を適用するよう米国判決委員会の判決ガイドラインを修正するもの[35][36]。マシュー・シェパード法(英語版)

、殺人罪でいえば、アメリカの場合、1級殺人2級殺人が当てそのほか謀殺とか故殺など細かく分かれているので、これに殺人動機によって刑を重くするように足していくのは比較的簡単です。
ヘイト批判が起きるとヘイト自体を罰するかではなくヘイトに基づく犯罪の場合には、加重要件に加えるかどうかというだけのあんちょこな議論に収束していき易い制度と思われます。
日本の場合、例えば殺人で言えば死刑〜無期懲役〜有期懲役〜執行猶予までの範囲で裁判所が介護疲れなどの動機原因や行為態様や計画性〜被害感情などすべての事情を総合判断して量刑を決められます。
ですから議論としては、ヘイト犯罪の刑を何年にするかの議論よりは、そういう犯罪類型を認めるかの議論が先になりがちです。
ヘイト犯罪が認められれば、千差万別の態様に応じて裁判所が法定刑の範囲内で量刑をを決めれば良いことになります。
この結果ヘイトスピーチが犯罪にするかどうかが、先決的大きな議論になります。
法定刑の幅が広い日本では、日本で罰則を伴わないまでも「ヘイト取り組み法」(私の勝手な略称)ができたことによる価値観的影響・・国家意思としてヘイトを許さないことが公認される(予定でも先取り可)と、量刑に当たって裁判所が犯情に自動的に組み込む仕組みですので、その実務的影響は甚大なものがあります。
不法行為慰謝料も同様で、何をしたらいくらと言う機械的基準がなく裁判所の総合判断で決める仕組みですから、「ヘイトが許されない」という社会的合意が出来ると裁判所は自信を持って高額慰謝料を認定しやすくなります。
実際に京都朝鮮人学校事件ではまだ法制定前ですすが、世論の後押しがあって?1000万円以上だったか?巨額認定があったという報道があった記憶だけで正確ではありません。
川崎の公的施設使用不許可事件もそのような文脈で読み取るべきでしょう。

② 憲法学者のロバート・ポスト
「表現の自由」を擁護する観点から規制反対論を打ち出している。その際にポストが提示するのは、表現の自由の意義は民主主義の維持発展のために不可欠だという議論であり、表現の自由の規制は、仮にそれがヘイトスピーチに対するものであっても、民主主義にとって不可欠な自己決定の概念を掘り崩すものだと主張する(48)。

③ ACLU)(自由人権協会)前会長の(36)ナディーン・ストロッセン
(1)ヘイトスピーチを規制することはレイシズムの抑止にとって必ずしも効果的ではないこと、またさらに進んで、(2)ヘイトスピーチを規制することはレイシズムをむしろ悪化させうること、である。ストロッセンがこの2つのテーゼを示すに(1)についてはイギリスにはヘイトスピーチに対する法的規制があるにもかかわらず、それが効果を上げているという証拠が必ずしもないこと、(2)についてはイギリスで1965年に人種関係法がはじめて制定された後、最初にこれが適用されたのがブラック・パワーの指導者であり、その後も黒人や労働組合員、あるいは反原発の活動家に適用されていると述べている(49)
。また別の箇所では、先に触れたミシガン大のスピーチコードについて、白人が黒人を訴えたケースが20件以上あったこと、また実際に罰則が適用されたのは黒人の学生の2例だけであったことを指摘し、やはり規制がむしろレイシズムを悪化させうることを指摘している(50)

3-3 90年代アメリカにおける公民権運動の「継承」
表現の自由の原理は、公民権運動との文脈で強調されたにすぎないという視点の強調?
4 日本の文脈への含意──結びに代えて
・・・2章で言及した政治学者のエリック・ブライシュは、ヘイトスピーチ規制を考える際には、その国ごとの歴史的な文脈性を考慮することが重要になるとしている(57)。また日本の著名な憲法学者である奥平康弘も、アメリカの表現の自由の歴史をまとめた大著のむすびで、次のように書いている。
「ぼくが言いたいのは、従来の問題の局面、すなわち、人びとがそのために犠牲を払いながら挑戦し獲得してきた表現の自由の文脈とはかなり異なるところで、同じ表現の自由を主張するばあいには、それを念仏みたいに唱えるのではなく、その歴史的な正確に適切な形で再構成して語る工夫が必要だろう、ということである。」(58)
・・・日本においてヘイトスピーチをめぐる議論を成立させている歴史的な文脈とは、どのようなものなのだろうか。
日本には一方でアメリカと同様に規制に対してきわめて抵抗が強い土壌があるが、その背景にあるのは、やはり第二次世界大戦の経験ということになるだろう。
ドイツの場合は同様の経験からヘイトスピーチに対して他国よりも強い態度をとることになったわけだが、日本の場合はむしろ言論統制こそが戦争への道を開いたという意識から、逆に「表現の自由」が支持されることが多いように思われる

以上紹介した論文は、アメリカには公民権運動があってそれを保護するためのの表現の自由の強調であったが、(公民權運動が規制されない・昨日引用した通りユダヤ人知識層でも「集団誹謗規制は却って不利」と考えていたことが紹介されています)ためにはヘイト規制を求めると自分たちの運動にもその規制が及ぶマイナスを考慮したと言うようですが、日本にはそういう歴史がないと強調したいようです。
しかし、日本でも米国理論の「相手批判が自分たちにも及ぶ考慮→朝鮮人の過激な日本批判・・天皇や総理の顔写真に竹槍を突き刺すような過激な表現が許されるかの非難がブーメランのように起きてくるのを無視できないでしょう。
「双方ともに行儀良くしてください」というのが、今の国民世論ではないでしょうか?
怒声や罵声を浴びせるような下品な言動は嫌われる筈・放っておけば、市場原理で淘汰されるのではないでしょうか?
実際に在特会に対するカウンター的組織であったしばき隊も、粗暴イメージが浸透した結果、事実上消滅してしまったようにに見えます。
在特会も高額賠償命令に懲りて粗暴な言動を慎むようになったように見えます。

免責事項:

私は弁護士ですが、このコラムは帰宅後ちょっとした時間にニュース等に触発されて思いつくまま随想的に書いているだけで、「弁護士としての専門的見地からの意見」ではありません。

私がその時に知っている曖昧な知識を下に書いているだけで、それぞれのテーマについて裏付け的調査・判例や政省令〜規則ガイドライン等を調べる時間もないので、うろ覚えのまま書いていることがほとんどです。

引用データ等もネット検索で出たものを安易に引用することが多く、吟味検証されたものでないために一方の立場に偏っている場合もあり、記憶だけで書いたものはデータや指導的判例学説等と違っている場合もあります。

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また、個別の法律相談の回答ではありませんので、具体的事件処理にあたってはこのコラムの意見がそのまま通用しませんので、必ず別の弁護士等に依頼してその弁護士の意見に従って処理されるようにしてください。

このコラムは法律家ではあるが私の主観的関心・印象をそのまま書いている程度・客観的裏付けに基づかない雑感に過ぎないレベルと理解してお読みください。