「公権力とは距離を保つ」是枝監督4

是枝監督は、カンヌで受賞し天狗になってしまい、日本人など相手にする必要がないと思ったのか?・・民意を甘くみたら、あっと言う間にネットで反撃される時代です。
日本人と距離を保つために外国で活躍したら!というツッコミが入るのはすぐでしょう。
そのうち(発言には責任が伴うことを知り)彼もうっかり自由な発言できないと思うようになると、日本には言論の自由度が低いと主張する一人になるのでしょうか?
映画の題名を上記で初めてみましたが、例によって、「万引き家族」という(題名だけでストーリーや内容不明ですが)最底辺らしい風景を描いたものが国外受けするらしいです。
そういえば20年ほど前に受賞作「うなぎ」という映画を見たことがありますが、これも千葉県佐原市(2006年から合併で香取市になっています)の茫々たる水郷地帯の外れに社会から落ちこぼれて孤独に生きる人が主人公だったような記憶です。
この頃佐原書に逮捕されている刑事事件があって、何回か佐原警察署に接見に行く事が重なったのも偶然でしたが・・。
北野武監督の「花火」という映画もヤクザっぽい筋で現在日本社会にありえないような筋でしたが、こういう日本社会にありえないような(お前は知らないだけだと言われるでしょうが)暗部を描くと外国受けするようです。
京都の綺麗な庭園を写さずに裏のゴミ捨て場を写して日本は汚いぞ!と発信するような人たちです。
「子供を大事にし助け合い暖かい社会のイメージを誇る日本といっても、実態はこんなもの」と蔑みたい気持ちが外国(特に西欧先進国)にはあるから欧米受けするのでしょう。
カンヌ映画祭などで受賞しなくとも戦後一世を風靡した「青い山脈や「24の瞳」あるいは美空ひばりなどの明るい歌声が、敗戦で打ちひしがれ、住むところも焼かれ、食うに困っていた国民をどれだけ元気付けたかしれません。
三波春夫や三橋美智也の盆踊りの歌の数々・・・私が育った子供の頃を思い出すとカンヌ賞受賞など関係ありません。
日本の海外受賞映画って、国民意識とずれているのが多い・・市場評価を受けられない印象です。
ミスユニバースなど日本ではほとんど誰も問題にしないのと同じで、選考価値基準を疑う人が多いでしょう。
財政赤字を問題視したい勢力が国内で相手にされないと、外資・格付け会社に頼んで?何年か前に日本国債格付けを後進国並みに引き下げたことがありましたが、その直後から日本円が急騰したことがあります。
財政赤字はコップの中のバランスに過ぎず、本当に危機が来るかどうかは国全体の国際収支の長期トレンド・・対外債権債務の帳尻が重要であることは子供にもわかることです。
この4〜5ヶ月の南欧諸国や南米の通貨危機を見て財政赤字率は日本の方が高いので日本も「他人事とは言えない」と頻りにメデイアが主張しますが、財政赤字で国家の危機が来るのではありません。
自己主張が国内で相手にされない一定の困った人がいるのは確かですが、そういう人にとっては「国内言論状況が息苦しい」となり、海外評価に逃げる・自国の悪口を言って褒めてもらうしかないのでしょう。
言論市場を独占していた時には、「バカな事ばかりいって困った人たちだ」と国民の多くが思っても反論せずに黙ってくれていた過去が懐かしいことでしょう。
国民にとっては、メデイアの偏った不合理なことを言われっぱなしで、長いあいだ我慢してきたのです。

※本日9月30日現在、約20日間サーバーの不具合によるメンテナンス中で新規アップできず、日々生起するニュースに触発されて日々コラムを書く習慣が途切れていたので、ここ1週間ほどはウオーミングアップ期間で、9月13日あたりの分から過去に書いていたものをちょっと手直ししてアップする状態が続いています。
日々のニュースと関係なくなるので迫力がなくなりますが、しばらくの間ご容赦ください。
早く現実の日に追いついて、その日の話題に感じたことを書きたいと思っていますのでよろしくお願いします。

「公権力とは距離を保つ」是枝監督3

反日的行動というか自己集団帰属意識を否定するのに熱心な集団・・(たまたま今年7月6日頃と7月26日頃の2回に分けて全員一斉死刑執行されましたが・・)オーム真理教のように社会全体レベルから見れば高学歴の医師や科学者等が参加していましたが、個々人で見ればその職種の社会・東大卒や医師、学者弁護士その他の集団内では落ちこぼれの疎外感があったのかもしれません。
共産党その他革新系野党では高学歴者を揃えるのが基本志向ですが、(具体的に誰がどうというようには知りませんが・・・子供の頃によく見た映画で言えば、剣道や柔道で腕がいいが心根が悪くひねくれてしまった人物が悪役で出てきます)いずれもその分野では5〜6流ということではないでしょうか?
ついでに、ここで偶然のことですが、死刑について少しばかり考えが変わりましたので、ここまでのテーマと関係がないのですが、ここで少しだけ書いておきます。
たまたま送られてきて事務所の机上にあった中央ロージャーナルを7月20日頃に何気なく読んでいたら、貴族院での死刑廃止論の議事録が掲載紹介されていました。
今回の執行とは関係なく読んでみたら、明治時代の刑法改正に際してせっかく改正するならば、世界先端思想で行こうという意気込みがエネルギーになっている感じ・今でも、先進国で死刑が残っているのは少ししかないとか似たような議論が主流ですが・・)ですが、それだけではなく、結構論理的な議論が行われていて、現在の教条的決まり文句と違って、意外に説得力があったので驚いたばかりです。
死刑廃止論に対する認識を新たにしましたので、(「少しまともな議論を読んだな」というだけで今でも死刑廃止には賛同できません)取り敢えず報告です。
ここで是枝監督の「公権力とは潔く距離を保つ」(7月9〜10日に書き始めたシリーズの続きです)のテーマに戻ります。
ついでに→公権力=地域や所属社会と距離を保つ是枝発言に対するネット反応を見ておきましょう。
ネット反応は、今風の解釈下で育った年代らしく「自国公権力に距離を保つ」点を問題にしないで、世界の「公権力一般からの距離」を前提にフランス公権力の賞を受けたり日本政府から助成金をもらっている矛盾だけをついています。
http://freezzaa.com/archives/3248には以下の意見が出ているようです。

第一に、「公権力とは潔く距離を保つ」と言うが、カンヌ映画祭はフランス政府という公権力が主催するイベントではないのか。
第二に、『万引き家族』の制作に際して、文化庁の助成金を貰っているではないか。文化庁は文部科学省の外局であり、日本政府という公権力の一部ではないか。
第三に、それでいながら、ニュースにあるように、林芳正文科大臣の正式な祝意と招待を拒否するのは、もっと矛盾していないか。
要は、是枝監督は、公権力の日本政府から支援を受けて、公権力の外国政府の主催する賞を貰っているわけです。
よって、是枝監督は口では「潔く距離を保つ」と言うが、公権力とその政治的意図から独立や中立を保っていることを「行動」で示しているとは、とても言えない。
だいたい、助成は数千万円とも言われている(正確な額を監督自身の口から公表してほしい)。政府からそんな「掛け捨て金」を貰った人が言うセリフだろうか。
しかも、フランスの公権力の祝意は受けて、なんで日本政府の祝意は拒否するのか。
さらに、文科省から映画制作の資金を貰っておきながら、当の文科大臣からの正式な祝意と招待を拒否するとは、どういうことなのか。公権力に対する政治姿勢云々以前に、それが金をくれた――「借りた」ではない――相手に対してとる態度なのだろうか?
それだったら、最初から文化庁から金を貰うべきじゃない。

上記によれば「外国政府からの受賞は嬉しいが、日本政府からは受けたくないと宣言しているのがおかしい」と言うだけで反日性を非難していません・・・思想表現の自由は反日思想かどうかを問題にしない点を理解している?偉い!
是枝氏は、国益に協力したくない思想→自己中心主義・・共同体利益を無視したい精神でしょうか?
人は一人で生きられないから、何かの集団に属して生きるしかないものですから、自国公権力の目指すもの=国益とは距離を保つという意味は?どこの集団利益のために生きると言うのでしょうか?
日本国内のどの集団?もみな日本国の構成単位です。
どの集団も孤立しては存在し得ないので、どこかのさらに大きな集団に属しています。
日本国内にある集団は、日本国益に(補助金を得ていることが報道されていますが、直接的援助だけでなく間接的にも)依存している筈ですが、そう言う恩恵・・国益などなんとも思わない自己利益中心の集団があって、そこに属していると言うことでしょうか?
会社員が、会社の恩恵で生きていながら、いつも会社の不平不満ばかりを社外に言いふらしているようなものです。
結局はどこのため?→外国のための活動とすれば、日本政府からの勲章や栄誉はいらないが、外国政府からの勲章ならば喜んで受けるのは当然というか彼の言葉からいえば「潔い」ことです。
私は映画内容も助成金も知りませんでしたが、(ネット時代は便利です)親の援助で成功した人間が親とは距離を置くと言って格好つけている青い人間のように見えます。
社会を歪んで見る意見もひとつの立場ですが、国民多数の支持を受ける意見ではあり得ません。
反日的?発言は憲法で「自己実現」と保証されているし格好いい・・これがメデイア界の主流なのでしょう。
「自由な発想や発言は結果的に国益に資する」と習ってきた私のような古い世代から見れば、国益に役立たず敵国のため役立っても「自己実現すれば良い」という?「歪んだ?」見方は、わさびや香辛料程度の役割ですから、これを有難がる立憲民主党などの革新系が国民多くの支持を受けられない原因です。
こういう歪んだ考えでは、ネットの発達した国内ではすぐに批判されるので、言論の自由がないと思うのでしょう。

ヘイトスピーチ16(我が国の憲法論議3)

ウイキペデイア引用の続きです。

麗澤大学教授の八木秀次(法学)は、左派メディアが保守運動や保守政治家に対し、
「ヘイト団体」との関係をこじつけ「悪」のレッテル貼りをする行為は「欺瞞」であるとし、「ヘイト団体」の行為は日本人の美徳に反しており許すべきではないが、一方それを「正義面で保守批判に利用」し、「イカサマ」であると批判している[42]。
矢幡洋(臨床心理士)は、
ヘイトデモを行っている団体と、それに対抗して暴言を吐いている団体同士の感情的な対立について、「集団同士のこういった対立は、互いに自分は正しく相手は百パーセント悪いと思うようになり、攻撃性を強めることに力を注ぐ傾向にある。どちらも自己批判を伴う『悩む』という力を失う。世界には真っ白と真っ黒しかなく、自分たちは正しいと非現実的なとらえ方をしてしまう。
自己批判や自己吟味を回避できるため、非常に楽なのだが、現実が見えなくなってしまい危険だ。このスパイラルに入ると、なかなか和解の道は見つけられなくなる。
話し合う余地のある相手と見ていないから、さらに攻撃して絶滅させるべき相手でしかないという見方になる。自分たちの主張もするが、自己批判も同時にできる心理的強さをもった人がリーダーシップを取るのが唯一期待できる解決への道だ。
現実をちゃんと見られる現実主義者が団体の中でかじを取ってくれれば変わってくるのではないか」と分析した[151]。
2015年6月6日、兵庫県宝塚市に元朝日新聞記者の植村隆が招かれ、植村による講演が行われた。
講演会の告知チラシにはいわゆる従軍慰安婦の「強制連行」を否定する風潮が今日のヘイトスピーチを生み出しているといった主張が記されていた。
会場で植村の講演内容を聞いた宝塚市議の大河内茂太は
「植村氏の主張は『強制連行された慰安婦』の存在に疑問を抱くことは一切許されないというものに思えた」
と語った。
主催団体が求めるヘイトスピーチの法規制のとらえ方についても
「人種・民族差別に対する批判というよりも、むしろ、形を変えた〝反日闘争〟とすら言える」
と、違和を感じたという[257]。

道徳律を強制するために法制定によって強引な解決を目指すと、これが相互不信を助長し傷を深くするリスクを感じないのか?
保守派を刺激することに快感を覚えている国内人権グループやこれの過激化を求める応援団の政治能力に危惧を覚えます。

言論禁止政策は争いが内向化し却って過激化していくので、双方に救いがない・日本社会にとって不幸なことになるように思えますが・・「絆が自慢の日本社会」を亀裂社会化することを喜びとする政治勢力もあるのでしょう。
日本国内の相互不信激化、日本社会をどんなに困った状態にしてしまおうと、何を画策しようとも「自己実現」することは褒められこそすれ、「憲法上批判されない」という憲法学者の考えそうなことです。
後進国等でテロ等に発展するのは、不満があると妥協する高度な能力がないからですが、このような紛争形態を日本に持ち込みたい勢力もいるのでしょう。
双方合理的話し合いのテーブルにつくようにお膳立てするのが政治の役割であって、これを規制によって怒りを潜行させるのは政策的には愚の骨頂です。
上記引用の矢幡洋(臨床心理士)の見解

「・・世界には真っ白と真っ黒しかなく、自分たちは正しいと非現実的なとらえ方をしてしまう。自己批判や自己吟味を回避できるため、非常に楽なのだが、現実が見えなくなってしまい危険だ。このスパイラルに入ると、なかなか和解の道は見つけられなくなる。話し合う余地のある相手と見ていないから、さらに攻撃して絶滅させるべき相手でしかないという見方になる。」

上記意見は示唆に富むように思われますが・・・。
ヘイトスピーチ禁止で反韓言論を表面上撃退できても、それがどんな効果があるか?
個々人で言えば、近所でおかしな人がいれば相手にしませんが、一定限度を超えれば警察や精神病院に通報するのが普通です。
これをヘイトという方が言葉の濫用です。
韓国が反日感情をいくら煽っていても(個々の在日がなにか悪いことをしている訳はないので)在日に反韓感情をぶつけるのは相手が違いますが、相手が違うと非難する・・単純に言い切るだけで「ことが治まる」ものではありません。
成人の息子が近所の人を殺傷した場合、親には法的責任がないと澄ましていられないのと同様に、その違いや共通項についてきっちりした吟味が必要でしょう。
ヘイトスピーチ規取り組み法(通称)が成立しましたが、反日を煽る中韓の政策が修正されないまま反中韓感情表明だけ規制される(反中韓感情表明は自由だが関係のない在日批判は弱い者イジメだというのは確かに正論ですが、感情というのは理性だけで割りきれないから感情というのです)と反中韓感情が却って強く潜行していくだけで、本らいの解決にはなりません。
例えば精神病者や不良が大事件を起こすとその保護者もその地域にいたたまれなくなってどこかへ、転居する例が多いですが、それを人権侵害と言っても言わなくとも、結果は同じです。
自分の子供が隣人の子供に殺された場合、加害者の親に責任がないと言って隣にそのまま住み続けられる人がいるか?ということです。
大阪の池田中学だったかの大量殺傷事件の保護者・家族がどうなったか知りませんが、開き直るよりはどこへ転居するのが普通です。
宇宙や地球論では、理論では未解明部分が多すぎることを書いている途中ですが、親の責任をいうのは感情論というものの、将来的に理論的根拠があることがわかってくる可能性もあります。
庶民の根強い感情論は、実は今説明できないだけで後になると合理的根拠が分かることが多いので、感情論を無視すべきではありません。
実際革新系文化人.人道主義者自身の慰安婦騒動を例にとれば、彼らは慰安婦を性奴隷だったとした上で、我々の親世代の行為について孫世代の責任追及をしているのですが、パク大統領の言によれば、「千年間でもゆるせない→子々孫々まで責任をとるべき」という変な理屈です。
同じ「文化人」が、対中韓の日本民族の責任論になると先祖の責任を子々孫々まで負担すべきといい、中韓の日本攻撃(現在の日本人の行為が対象ではないので、事件に関与していないが、同一民族構成員ということによる攻撃に他なりません)に対する日本の対中韓民族に対する反感表明になると、民族間の争いと個人は別だとなるのですから、御都合主義(どこの国のための意見か?)の主張というしかありません。
自国や自分の民族のためになろうがなるまいが(自民族が他民族の支配下に入る方が良いと思えば)言いたいことを言える人が「自己実現]」していて「ご立派」となるのでしょうか?
そのような思考背景には、国家と人民の「二項対立」を推し進めた占領施策の影響下にまだ染まっているのではないかという疑い?を私は持っています。

ヘイトスピーチ15(我が国の憲法論議2)

昨日引用論文は司法書士連合会の機関紙?寄稿論文(普通は寄稿を頼まれてから執筆するものでしょう)だったのに、論文が完成し校正も終わった段階で引用データ削除を求められたが折り合いがつかず(これこそ執筆者にとっては学問自由の領域です)に、掲載拒否されたので、これを大学機関紙?での発表に切り替えたというのですから、このやり取りの方が驚きです。
弁護士会同様に司法書士会もまずはいろんな意見を聞いてから会員が会の方向性を決めるのではなく、会員に情報サービスする前に幹部間で一定方向の結論が決まっていてその方向への結論に資する論文を求めて、これを会員に周知する傾向が強まっているのでしょうか?
上記論者のいうとおり、特定思想立場で意見表明するかは組織の自由ですが、もともと特定政治立場に共鳴して参加している訳ではない弁護士会や司法書士会は・価値中立・どういう意見があるかを会員に広報した上で会員の意向によって行動指針を決めるべきではないでしょうか?
ヘイトに関する学会の意見状況の紹介を続けます。
http://maeda-akira.blogspot.com/2012/11/blog-post_8.html

前田朗Blog『統一評論』563号(2012年9月)
Thursday, November 08, 2012
差別表現の自由はあるか(4)
今回は、そうした理論状況の特徴を見るのに有益と思われる二つの文献を検討することにしたい。
一つは市川正人『表現の自由の法理』(日本評論社、二〇〇三年)であり、もう一つは内野正幸『表現・教育・宗教と人権』(弘文堂、二〇一〇年)である。

表現の自由に関してはこれ以外にも多くの重要な研究業績が存在するが、ここでは旧内野説から新内野説への転換を見て行くことが主たる関心事であり、そのためには上記二冊を見ることで足りると考えられる。
表現の自由に関する研究の第一人者である奥平康弘にも『表現の自由を求めて』(岩波書店、一九九九年)などの重要著作があるが、ヘイト・クライム処罰は主題とされていない。
二 市川説による到達点
市川はまず、「アメリカにおける差別的表現の規制」について、①アメリカ合州国最高裁のR.A.V.判決を検討し、②次に批判的人種理論の挑戦によって始まった差別的表現禁止をめぐる論争を検討する。そのうえで、市川は、③日本における差別表現規制をめぐる論争、すなわち旧内野説とそれへの批判を整理して、差別表現規制法の可否を論じ、人権擁護法案について検討を加えている。
① R.A.V.判決とその評価
「「差別的表現禁止法を人種などに関するけんか言葉の禁止として正当化する手法は、これまでの判例の流れからして最も自然な手法であるが、本判決はこの手法を否定したのである。また、本判決は、差別的表現の禁止を、少数者の人権擁護のためのやむにやまれざる政府目的を達成するために必要不可欠な規制と構成する手法をも否定した。/本判決が差別的表現禁止法に対してこのような厳しい姿勢をとったのは、差別的表現禁止法に対し、特定の争点につき非寛容の思想ないし偏見をもつ側にのみ負担を課す(見解差別的効果を有する)ものであるとの否定的な評価を加えているからであろう。・・」
市川の評価の前提、そしてアメリカ最高裁判例の前提には「思想の自由市場」の論理があることがよくわかる。あくまでも「思想」であり、「表現」であるという位置づけである。この思考と、表現の自由の優越的地位とがセットになることによって、ほとんど無制約の表現の自由論が構築されることになる。
② 批判的人種理論の挑戦
市川は、次に批判的人種理論の挑戦について検討している。批判的人種理論とは、一九八〇年代末頃からアメリカに登場した理論であり、この文脈では、差別表現禁止を唱える見解として位置づけられる。

日本のヘイトスピーチ・表現の自由の優越的地位と関連法理に関するウイキペデイアの記事からです。

韓国籍在日朝鮮人で政治活動家の李信恵は、自身のTwitterに「路上が国会に繋がった。ヘイトスピーチ対策法は、路上に立ってたみんなが作った法律だと思う。嬉しくて、涙が止まらない。」などと書き込み、ヘイトスピーチのデモに対する抗議行動など、差別反対の運動が法案整備につながったと評価した。
弁護士の堀内恭彦は、「外国人に対する差別的言動は許されないが日本人に対する差別的言動については問題にしないというおかしな法律である」と評している。また、このような理念法が成立すれば、その後の個別具体的な法律が作りやすくなるため、今後、必ず禁止や罰則が付き「ヘイトスピーチ審議会」に特定の人種、利害関係者を入れ込むという法律制定の動きが出てくると危惧している。
さらに、法律の成立過程を見る限り、自民党を初めとした多くの国会議員に「表現の自由」が侵害されることへの危機意識が感じられないと主張している[7]。
憲法学者の八木秀次は、具体的にどのような行為がヘイトスピーチに当たるのか不明確であり、自治体や教育現場が法律を拡大解釈し過激化する恐れがあると懸念を示している。
例えば、外国人参政権が無いのも、朝鮮人学校に補助金を出さないのも、戦時中の朝鮮人強制連行が歴史的事実として誤りだと主張するのも、在日韓国・朝鮮人に対する「侮辱」「差別」だと訴えられる可能性も否定できないとしている。
そのため、政府は「どこまでが不当な差別的言動で、どこまでが許される表現なのか」を示す具体的なガイドラインを作るべきであると述べている[8]。

ヘイト問題は、まだ途上的議論(の筈)ですから、自己流に纏めずに煩を厭わずいろんな意見を羅列的ですが引用しておきます。
ウイキペデイアの7月19日の記事からです。

岩田温(政治学)は「民族、宗教、性別、性的指向等によって区別されたある集団に属する全ての成員を同一視し、スティグマを押しつけ、偏見に基いた差別的な発言をすること」と定義している[148]。
九州大学准教授の施光恒(政治学)は「ヘイトスピーチ」という英語(カタカナ語)を使うのでなく、「何が不当なのか」という問題の本質に目を向けるためにも、日本語で正確に表現したほうがいいと主張している。[149]。
青山学院大学特任教授の猪木武徳(経済学)は、

「ヘイトスピーチは「人種、宗教、性などに関する「少数派」への差別的言説一般を指すと大ざっぱに理解されている」
とし、デモのような大勢の「匿名性は公的なメディアで発言する者への悪意ある批判を誘発する」が、逆に、
「少数の暴力的な集団が多数の普通の社会生活を送る人々を脅す例もある」
ため、
「国家による言論統制」や「感情の問題に感情的に対抗し、単純な極論だけが大手を振ること」だけは避けな

ければならないとしている[150]。

ヘイトスピーチ12(わが国憲法論議1)

この辺で感情応酬の現状紹介を離れて、以下わが国の憲法論を見ていきます。
立命館大学の市川教授の意見です。
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/law/lex/15-2/ichikawa.pdf
研究ノート ◇立命館法学 2015年2号(360号)

表現の自由とヘイトスピーチ
市川正人  立命館大学大学院法務研究科教授
1 日本国憲法における表現の自由の保障
2 ヘイトスピーチとその規制
3 ヘイトスピーチ規制と憲法

特定の民族や国籍を有する人々などに対する憎悪を表明し,憎悪を煽る表現であるヘイトスピーチ(hate speech)が深刻な社会問題となっている。
在特会(在日特権を許さない市民の会)などによる在日韓国・朝鮮人を口汚くののしる街宣活動が活発になされ,それが「ネット右翼」によって拡散されており,ヘイトスピーチが日本社会において跋扈している感がある。
「ヘイトスピーチ」が2013年の新語・流行語大賞のトップテンに選ばれたほどである。
こうした事態は国際的にも関心を呼び,昨年7月に自由権規約委員会が,8月には人種差別撤廃委員会が,それぞれヘイトスピーチに対する法的規制を求める勧告を行っている1)。
もっとも,京都朝鮮学校事件については,抗議活動に参加した者の刑事責任,民事責任が認定されている。
このことは,ヘイトピーチに対して現行法によって一定の規制がなされうることを示すものである。
しかし,現行法では不十分であるとして,また,ヘイトスピーチの禁止・処罰が国際的な人権条約の要請であり,既に100ケ国以上の国においてヘイトスピーチを禁止し処罰する法律が制定されているとして,わが国においてもヘイトスピーチを禁止し処罰する法律を制定すべきであるとする意見も強い。
そこで,以下では,ヘイトスピーチを禁止することには,日本国憲法による表現自由の保障との関係でどのような問題があるのか,あるいは,日本国憲法の下でヘイトスピーチの禁止がどこまで許されるのか,について論ずることとしたい。

以下論点ごとにまとまった論説・スッキリした論理展開と思われますが、引用するには長すぎますので、関心のある方は直接上記論文を参照してください。
私が読んだ印象では「思想自由市場に委ねるべきで性急な規制は禍根を残す懸念が強い」という論旨のようです。
以下、結論だけ引用しておきます。

終わりに

以上の私の立場からすれば,人種差別撤廃条約4条abが挙げているものをそのまま禁止・処罰するような法律は日本国憲法の下では認められないが,他方,ブランデンバー
グ判決の基準を満たすような人種集団に対する暴力行為の煽動や,侮辱を自己目的とするような特定の民族に対する特にひどい侮辱的表現を処罰するような,きわめて限定的なヘイトスピーチ処罰法ならば,規定の文言が明確であるかぎり,日本国憲法の下でも許容される可能性があることになる。
しかし,憲法上の許容性と立法することの政策的適否とはまた別の問題である。
後者についても,ヘイトスピーチ処罰法の差別解消にとっての効果23),表現の自由の保障に与える影響を考慮に入れて,慎重に検討すべきである。
こうした拙稿のような立場については,ヘイトスピーチがマイノリティの人々に対して与えている被害についての理解,想像力を欠いたものである,所詮,マジョリティの立場からの立論に過ぎないといった強い批判がある24)
確かに,ヘイトスピーチの問題を考えるにあたりマジョリティに属する者にはマイノリティの人々の被害についての想像力が求められる。
しかしまた,ヘイトスピーチを禁止し処罰する法律を制定した場合,それがわが国における表現の自由の保障に対してどのような影響を与える可能性があるかについての想像力も必要ではないだろうか。

[補足]
本稿は,日本司法書士会連合会(以下,連合会)の機関誌である「月報司法書士」201
5年5月号のために執筆したものであり,校正も終了していたが,ヘイトスピーチの実例が記述されているために不掲載となったものである。
以下中略
その結果,不掲載という結果となったわけである。
月報司法書士は連合会の機関誌であるから,依頼した論稿を掲載しないと連合会が判断したことは,表現の自由行使の結果であり,非難されるべきことではない。ただ,本稿をめぐるやりとりが,ヘイトスピーチの規制の可否を論ずることの難しさを示していることは確かである。

市川氏が「憲法上の許容性と立法することの政策的適否とはまた別の問題である。」と言うように仮に憲法論をクリアーしても規制が先行するとかえって民族間の亀裂を深くするマイナス面の考慮が必要でしょう。
この辺は同感です。
政治は国内分裂を広げるためにあるのではありません。
辛 淑玉氏のウィペディア記載の意見は以下の通りです。

「本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律(いわゆる反ヘイトスピーチ法)について
「保護の対象が限定されるなど十分ではない。ヘイトの被害は米軍基地に反対する沖縄の人々にまで及ぶ。」[2]。
「反ヘイト法ができました。一歩前進するかな、と期待したんですが、全く変わらない。罰則がない。増えたのは、これを作ったことへの逆ギレですよね」

彼女は罰則などを厳しくしていないのが不満なようですが、逆に民族間憎悪の過激化を煽る言動の方こそ問題ではないでしょうか?
ウイキペデイアによれば、以下の通り在日からも批判があるようです。

前田日明(元在日韓国人、1984年に帰化)は、「名前を出して悪いんだけど、辛淑玉さんなんか見てると、情けなくなってくる。差別されたとか、日本は加害者だとか言うだけで、それだけ叫び続けて一生を送るのかなと思うと、とてもおれは共感できない。」と批判した[29]。
鄭大均(在日外国人、韓国系日本人)は、金嬉老事件における辛の発言を引き合いに出して「メディアに登場する在日のなかで、姜尚中と辛淑玉ほど違和感を覚える人間はいない。辛淑玉に関して言えばその歯に衣着せぬ語り口はいいのだが、思いつきやデタラメが多すぎるのではないか」「在日コリアンの被害者性という現実的であるかもしれないが非現実的であるかもしれない状況に、自己を憑依してものを語る傾向がある」「辛淑玉の一見奔放な語り口が、驚くほど古風な被害者的立場や対抗主義的立場との見事な整合性を維持している」と批判した[30]。

過激なことを言ったりやりすぎると「自民族のためにならない」と危惧するまともな意見というべきでしょう。
ヘイト問題も厳しくすれば解決するものではありません。

免責事項:

私は弁護士ですが、このコラムは帰宅後ちょっとした時間にニュース等に触発されて思いつくまま随想的に書いているだけで、「弁護士としての専門的見地からの意見」ではありません。

私がその時に知っている曖昧な知識を下に書いているだけで、それぞれのテーマについて裏付け的調査・判例や政省令〜規則ガイドライン等を調べる時間もないので、うろ覚えのまま書いていることがほとんどです。

引用データ等もネット検索で出たものを安易に引用することが多く、吟味検証されたものでないために一方の立場に偏っている場合もあり、記憶だけで書いたものはデータや指導的判例学説等と違っている場合もあります。

一言でいえば、ここで書いた意見は「仕事」として書いているのではありませんので、『責任』を持てません。

また、個別の法律相談の回答ではありませんので、具体的事件処理にあたってはこのコラムの意見がそのまま通用しませんので、必ず別の弁護士等に依頼してその弁護士の意見に従って処理されるようにしてください。

このコラムは法律家ではあるが私の主観的関心・印象をそのまま書いている程度・客観的裏付けに基づかない雑感に過ぎないレベルと理解してお読みください。