スラップ訴訟と法原理4(議会と司法審査)

この機会に議会と司法の審査の関係を日本の判例の流れで見ておきます。
昨日苫米地事件を見ましたが、その前の米内山事件とその後・・現在の到達点を見ておくには、以下の論文が簡潔です。
https://www.westlawjapan.com/pdf/column_law/20180524.pdf

《W L J判例コラム臨時号》第133号
地方議会の内部規律と部分社会の法理~平成30年4月26日最高裁判決1~
文献番号2018WLJCC009桃山学院大学教授田中祥貴

以下要旨を紹介しますが、昨日書いたように、人権保障的分野の憲法問題を除いて議会の自主性が最大限尊重されるというのが大方の意見(学者の方は私がなんとなく理解していたのと詳細論拠は緻密ですが志向性はほぼ同じ)のように見えます。

1.判例の経緯
本判決で採用された判断枠組は、一般に、部分社会の法理と呼称される。すなわち、自律的な法規範をもつ社会ないし団体内部の紛争に関しては、その内部規律の問題にとどまる限りその自治的措置に任せ、それについては司法審査が及ばないという法理である。当該法理形成の嚆矢は、県議会での議員除名処分の取消しを争った昭和28年米内山事件最高裁決定で展開された田中耕太郎裁判官の少数意見に看取される4。すなわち、多元的社会の内部規律問題については、その社会の特殊的法秩序による自主的決定に委ね、司法権の埒外とする「法秩序の多元性」論である。
その後、かかる見解は、昭和35年村議会懲罰決議等取消請求事件最高裁判決で多数意見を形成する5。ここで最高裁は、「一切の法律上の争訟とはあらゆる法律上の係争という意味ではない」、「その中には事柄の特質上司法裁判権の対象の外におくを相当とするものがあ」り「自律的な法規範をもつ社会ないしは団体に在つては、当該規範の実現を内部規律の問題として自治的措置に任せ」るべきものとして、司法審査の対象を限界付けた。
さらに、昭和52年富山大学単位不認定等違法確認事件最高裁判決6では、昭和35年判決を踏襲しつつ、「一般市民社会の中にあつてこれとは別個に自律的な法規範を有する特殊な部分社会における法律上の係争ごときは、それが一般市民法秩序と直接の関係を有しない内部的な問題にとどまる限り、その自主的、自律的な解釈に委ねるのを適当とし、裁判所の司法審査の対象にはならない」と解し、部分社会の法理を判例理論として確立させた。
2.部分社会からの自由
従来、我が国の司法府が展開してきた当該法理は、重大な課題を抱えている。すなわち、部分社会の法理は、国民の裁判を受ける権利と高い緊張関係に立たざるを得ない。就中、裁判を受ける権利は「基本権を確保するための基本権7」であり、個人の人権保障という文脈において非常に重要な位置付けを有する。そして、裁判所はその権利を担保すべき憲法上の責務を負う。それにも拘わらず、特殊な部分社会内部の係争は司法的救済の外に放逐されるという論理は、最高裁が仮託する「法秩序の多元性」論のみで十分な理論的基礎を形成し得るものではない。
何より、部分社会の法理は、それが射程として内包する範囲及び外延の不明確性という致命的な問題に必然的に逢着する。この点、判例上、かかる境界の指標として「一般市民法秩序」との接点を手がかりに「除名処分」と「出席停止処分」の区別が提示されているが8、例えば、任期満了までの出席停止処分という可能性を想定すれば、判例のカテゴライズに基づいた峻別論は理論構成として十分ではないことは明らかである。
・・・結局、司法審査の可否は、団体自治の憲法的要請と裁判を受ける権利との調整をめぐる利益衡量に拠ることとなろう。
この点、昭和35年判決以来、我が国の司法では、部分社会の法理によって司法審査を回避する傾向が看取され、それは「部分社会の自由」に傾倒した感が否めなかった。しかし近年、かかる傾向をいわば「部分社会からの自由13」という視座から再考し、司法審査の対象の再構成を試みる下級審判例が注目される。
・・・従前の最高裁判例が指標とする「除名」等の身分喪失といった「重大事項」性で
はなく、一般市民法秩序において保障される権利への侵害状況が看取されるとき、一般市民法秩序との直接的関係性を認め、「法律上の争訟」性を肯定するのである。
・・・・「一般市民法秩序との直接的関係性」の内実を敷衍するに際して、「一般市民法秩序において保障されている権利利益を侵害する場合や明白な法令違反がある場合」を「法律上の争訟」に該当するとした高裁判決15等を挙げることができる。

3.本判決の妥当性
本判決は、明らかにかかる下級審判決とは異なるコンテクストを有する。
・・・かかる議員の発言が名誉毀損等の不法行為を構成する場合は別論であるが、そうではない場合に、少なくとも、憲法上の基本的人権に対する具体的侵害状況が看取されるにも拘わらず、地方議会の内部規律を優位させ、Xの請求に対して何らの司法審査すら行わず一蹴した本判決は、妥当性を有するとは言い難い。・・・

30年判決(県知事批判意見の議事録削除に対する司法審査拒否結論)の批判が結論されます。
たまたま私の価値観と同じ方向性のようです。
アメリカの判例法理の詳細を知りませんが、日本の法理で言ってもグレンデール市議会の決議内容の不当性を鳴らして訴訟することの無謀さ・非常識さが分かるでしょう。
アメリカでは、「猫を電子レンジで温めて死んだ」と損害賠償請求するなどなんでも訴訟する社会のように揶揄する報道が多いので日本では呆れている人が多い・・じゃ自分たちも訴訟してみようとするのは無謀です。
メデイアは一定の角度でアメリカ社会を揶揄しているだけで、(逆に「アメリカはすごい」と持ち上げる方向で特別な場合を一般化して報道する事例も多い)実はどこの国でも無茶なことはないのです・・アメリカはきちんとルールに基づいて訴訟していることを知るべきです。
グレンデール市の慰安婦像関連訴訟で完敗したのでアメリカでは韓国の主張が支持されているかのように誤解してがっかりしている人が多いでしょうが、司法審査に乗らないテーマで訴訟する方が間違っていたのです。
裁判するのは自由ですが、アメリカでもやりすぎると逆にスラップ訴訟として賠償金が課せられます。
自由には責任が伴うということでしょうか?

慰安婦像訴訟(スラップ訴訟と法原理3)

カリフォルニア州といえば、グレンデール市の慰安婦像設置→日系人の起こした訴訟がスラップ訴訟として排斥されたことが知られていますが、公園への設置許可と報道されていますから、文字通り市の権限・・「所有者としての機能」・私有財産管理権限行使という位置付けでしょうか?
この機会にグレンデール市の慰安婦像設置可否の議論を見直してみると、本日現在のウイキペデイアの記事によると人口は約20万人弱ですから、日本的レベルの自治権があるとすれば夕方ちょっと集まって議論するボランテイアで行える政治規模を超えています。
ウイキペデイアによれば以下の通りです。

政治
グレンデールの市議会は5名の議員からなり、5名全員が得票数順に選出される。議員の任期は4年である。市長は5名の議員が持ち回りで務める[4]。なお、グレンデールはシティー・マネージャー制を採っているため、市の行政を執行し、責任を負うのは市議会から選出されたシティー・マネージャーであり、市長は市議員としての通常の業務のほかには、市議会の議長や各種の儀礼的な職務を遂行するにとどまる。

上記シティマネージャー制については、17年10月13日に紹介した、「弱市長制」のことのように見えます。
慰安婦像設置の決定をした同市の市議会・市民集会がどのように運営されたか、どういう経緯で決まったか私には明らかではありませんが、「所有者としての機能」程度の権限・・「公園敷地利用許可」・・のテーマがあった場合、私の自宅付近にある町内会管理の小公園にブランコを設置するかどうかの議論みたいなものでしょうから、町内会の会議にいちいち近所の人は集まりません。
サイレントマジョリティー・多くの市民にとって、慰安婦像設置の可否かどうかすら気がつかないし、あまり関心のない人は公園内に銅像を一つ置くかどうかについて設置反対論を言うために出かけないことが想像できます・・。
日本の場合、自分が出かけて行って口角泡を飛ばして自己主張しなくとも、任せた役員が無茶なことをするわけがないという信頼があるので行かないのですが、アメリカの場合は違うでしょうが・・。
慰安婦像設置許可取り消し?訴訟では、市議会議論の実際・けんけんがくがくの議論をしたか、しないかの証拠調べに踏み込んだ判決かどうかしりませんが、結果が早すぎたのでそのような実態審理にまで入らなかった印象です。
そもそも司法権は、議会審議経過に立ち入らないのが我が国でも原則です。
法律の勉強で習った事例をウィキペデアで調べてみると以下のとおりです。

苫米地事件(とまべちじけん)とは、衆議院の解散により衆議院議員の職を失った原告・苫米地義三(とまべちぎぞう)が、任期満了までの職の確認と歳費の支給を訴えて争った事件[最高裁判所昭和35年6月8日大法廷判決は、衆議院解散に高度の政治性を認め、違法の審査は裁判所の権限の外にあるとする「統治行為論」(多数意見はこの用語を用いていない)を採用して違法性の判断を回避、上告を棄却した。」

町内会の議題でも、自宅付近のポストやバス停の移動は気になりますが、出来上がっている公園敷地内にどのような銅像が立つかについてあまり関心がないのが普通でしょう。
近くの公園に銅像を立てる予定について、賛否を聞きたいというテーマで開催通知が回ってくれば、多くの人はいくら金がかるのかの関心があっても、(建造費を含めて寄付となれば)どういう種類の銅像を建てるかについてまでの関心はないように思われます・・やりかけの仕事・職場を早引きしてまで急いで帰って参加しかないでしょう。
仮に慰安婦像設置の可否と書いてあっても、ほとんどの市民は関心がないので党派的設置運動をしてきたループの動員力次第になります。
日系人がボヤーっとしていて一旦決まってから、驚いて反対運動しても後の祭りです。
それが市長の裁量で行ったのであれば行政訴訟の対象として実態審理に入れたのでしょうが、議会の論争へて(実際に反対論があったかまで知りませんが、とも角民主的決議があって決着がついたということで)設置を決めたということであれば、訴訟になじまない・スラップ訴訟認定という不名誉な形で入り口で負けてしまったようです。
グレンデール市の裁判結果を聞くと日本人としては残念ですが、敗因を読むとムベなるかなという気がしない訳ではありません。
https://synodos.jp/international/13150によると以下のようです。

「カリフォルニア州の反SLAPP法が適用されるには、二つの段階がある。まず第一に、SLAPP認定を求める被告の側が、「公の問題について政治参加や言論の自由を行使した結果」訴えられたのだ、と証明する必要がある。」
実際の裁判において、「この問題について政治参加や言論の自由を行使した結果」訴えられたと証明するには、訴えの対象となった行為――この場合はグレンデール市による「慰安婦」像の設置――が次の四つの要素の最低一つに当てはまることを示す必要がある。
1)立法・行政・司法もしくはその他の法に基づく公式な会合における、口頭もしくは文書による意見表明。
2)立法・行政・司法もしくはその他の法に基づく公式な会合で議論されている件についての、口頭もしくは文書による意見表明。
3)公共の問題について、公共の空間で行われた、口頭もしくは文書による意見表明。
4)その他、公共
被告グレンデール市は、像の設置は議会の内外で議論され、市議会という公式な立法の場で議決されたことであるから1から3の要件を満たし、また、像の設置そのものは口頭や文書ではないものの市による言論の自由に基づく行為であるから4の要件にも該当する、と主張した。
裁判では、これが採用されたということです。」

アメリカで訴訟するには、当然アメリカの判例動向や法令を知っている弁護士に頼んだはずですが、実質審理にさえ入れないで完敗したのは、アメリカの裁判に対する不信感ではなく「訴訟提起する方の訴訟準備が拙劣すぎないか?」という意味で不思議です。
苫米地事件の判例を上記紹介した通り、若干の違いがあっても日本でも基本的には同様で、議会決議内容を司法は憲法違反以外にチェックできないので、訴訟テーマは議決無効と認定されるほどの手続き違背があったかどうか「だけ」ですから・・。
日本では革新系によって、政治で負けたことの蒸し返しのための訴訟提起の頻発・・司法が政治に介入しすぎないかの不満・イメージが増幅されてきました。
しかし、厳密に言えば、国会や市議会等で政治で決めたことの蒸し返しではなく、議会等で決めたルール違反を指摘する・司法はその有無を認定しているに過ぎないのであって左翼系に対する批判が当たりません。
(ネット等では司法・法律家の左傾化などを煽っていますが、非合理な感情的批判をあおっているにすぎないように見えます。)
例えば、原発の運転再開訴訟その他では多くが政治決定に不満な勢力中心に粗探し的に訴訟提起する印象ですので、結果からみると政治決定に司法が介入しているような印象ですが、訴訟テーマは政治で決めた運転基準に違反していないかのチェック訴訟です。
イラク派兵問題では国会で決まったことの蒸し返しではなく、特措法の適用範囲であったかどうか・・戦闘地域であったかどうか・現地実態はどうであったかの審議のための日誌の開示を国会で問題にしていたにすぎません。
沖縄基地の政府と県との訴訟は、埋め立て許可基準に合致しているかどうかの争いです。

アメリカの自治体11(草の根民主主義の妥当領域4)

特定目的自治体や、数十人から数百人程度の規模ではなにかの問題が起きた時に文字通り昼の仕事が終わってから集まる・・昔からのムラ社会で行なわれてきた・・昼の農作業が終わってから集まる寄り合い程度で済む規模です。
私の所属する町内会のようなイメージ運営です。
アメリカの自治体の半数が千人以下というのですから、大方が寄り合い的会合で間に合っている印象です。
これならば日本は古代からずうっと行ってきました。
これが大阪市や横浜市、千葉市のような規模になっている場合に昼間勤務先で目一杯仕事をしてから、仕事帰りに立ち寄って数時間の議論で何を責任を持って決められるのでしょうか?
私の住む自治会では20年程前京成電鉄の線路を隔てて2つの自治会に別れました。
人口が増えると身近なテーマ解決に無理が出て来たからでしょう。
ロサンジェルスやサン・フランシスコのような大都会でも従来型議員活動で間に合っているのは自治体の権限が小さな自治体結成運動で始まったから・・そのままだからではないでしょうか?
アメリアカの自治体は、結成の目的がもともと身近な問題解決のためだったから、規模が大きくなっても身近なテーマに限定されたままだからではないでしょうか?
ただし、大きく育ったと言っても21日に紹介したとおりサンフランシスコ市でせいぜい人口80万ですから千葉市よりも人口が少ないのです。

https://www.city.chiba.jp/sogoseisaku/sogoseisaku/kikaku/tokei/top.html千葉市の人口

 平成30年11月1日現在
・人口977,828人
・世帯数435,113世帯

日本の自治体の場合、もともと一族の命運を決める古代氏族社会からはじまり、これが灌漑と生活手段の発展に応じて共同作業の必要性の拡大や外敵防御その他集落単位〜連合等々の必要性で血縁から面としての生活共同体に発展して来た歴史があります。
関係の広がりに応じて必要に応じて全能の権限を目的別に制限・・権限をより上位の連合体に移譲して来たものですから、規模が大きくなればその分、移譲された権限が大きくなるのが原則です。
ただ、移譲によって失っていく関係ですから、移譲されていない分野では権限が残っています。
明治政府以降法的権限が剥奪されていますが、事実上の権限として古来からの集落共同体・氏子共同体などの結束がいまだに強固に残っています。
大都会における擬似氏子共同体が町内会とか団地の自治会でしょうか?
アメリカではもともと地域社会の裏付けもなく、広大な地域を人為的にテリトリーを決めただけでこれを裏づける歴史的関係・移譲して来た歴史がない状態です。
この結果、逆に州政府から与えられた範囲しか自治体に権限がない・与えられた権能がはっきりしているのに対して、日本とアメリカとでは原則と例外の違いがあるように思えます。
その結果新たに生じた未知の事柄については移譲していないのだから、まだ原始共同体に権限が残っていて・・例えば原発廃棄物〜放射能汚染物質埋設地の立地是非などについては、市長さえ同意すればいいのではなく地元自治会の反応を無視できません。
これらに対応するには文字通り草の根の議論が必要で、しかも新たに起きてくる分野は高度ですから議論レベルも高度になって行きます・・。
マイナンバー法一つとっても、個人情報が漏れたらどうするというスローガンだけではなく、情報機器のどの部分についてどのようなことが起きたらどのようなことが起きて情報漏れがどのように広がる可能性があるかなど具体的な理解が必要です。
安保であれ原発再稼働あれ、ゴミ焼却設備であれ、単に反対というだけでは国民が納得しない時代です。
焼却炉新設ではゴミの収集がどの程度増えているのか、環境がどうなるか、焼却設備の性能であれ、まともに議論するには全て高度な知識が必須です。
このために小さ町村では対応しきれなくなっているので合併による事務部門の高度化が促進されています。
17年10月9日の日経新聞「私の履歴書」では、日本国内での株式の営業経験が全く通じなかったという経験談が書かれています。
日本では個人相手営業だったがアメリカに行くと機関投資家相手なので、例えば、原油が何%上がるとこの企業の業績に何%損が出るなどという緻密な情報を勉強していかないと質問に応えられないので苦しんだ例が書いてありました。
市議とか市長といっても何をやっているかによって要求されるレベルが違ってきます。
もしも日本ではアメリカよりも自治権限が桁違いに高く幅広いとすれば、いろんな分野について市議、県議も市職員も十分な予習学習や訓練を欠かせません。

アメリカの自治体10(草の根民主主義の妥当領域3)

http://eritokyo.jp/independent/nagano-pref/aoyama-col517.htmlによれば、サンフランシスコ市議は十一人しかいないようです。
町内会のように防犯灯をどこにつける廃止するか、ゴミ回収場所の新設程度のテーマの場合、ボランテイアなので、「今日は仕事が遅くなっていけないのでよろしく」程度の挨拶ですむのでしょう。
「市民の代表として市議同士が議論をして市民が傍聴するだけの日本と違い、この方式だと市議同士の議論というより市議と住民との対話集会のようで、住民意見開陳が終わると開陳されたその場の意見を参考に即座に出席市議が評決するので市議同士の密室の議論もないと解説されています。
http://www5d.biglobe.ne.jp/~okabe/ronbun/jichius.htmlの続きですが、

「多様な役職者が選挙で選ばれる一方、市議の数自体は少なくなる。アメリカの市議会は通常5、6人、大都市でも10人前後である(表3参照)日本の市議会が「議員が話し合う」機関なのに対してアメリカの市議会が「市民の話を聞く場」であることと関係している。参加市民とのやりとりを通じて物事を決めていくのであれば、市議はある意味で裁判官のような役割を果たし、何十人もの議員は必要でなくなる。」

いわば、体操やフィギアスケートなどの採点者のような雰囲気ですから、市議が5〜10人もいれば十分・・何十人もいらないという原理らしいです。
日本の公聴会は型式的進行ですが、アメリカの住民自治というのはこうした直接的な意見表明で行われている・・まさに草の根の対話で物ごとが進んで行くらしいのには驚きます。
裁判でも有名な陪審制度の基礎がここにあります。
政治であれ裁判であれ、「内心の意向を汲み取るのではなく、はっきり言ってくれたらそれを参考に結論を出す」と言う単純な社会構造です。
上記論文を読んでいると我が国の町内会運営よりも直接的なイメージです。
私のいる自治会の場合、ゴミステーションをどこにするかとか防犯灯設置または廃止についての議論でさえ利害関係者一人も出てきません・・。
出て来ないで「悪いようにはしないだろうと言う」お任せ方式で不利だったら後で不満を言う方法です。
ですから、町内会役員や市議は後で不満が起きないように意見を聞いて歩くサービスが要請されていてこれをしないで独断でやってしまうとあとで恨まれます。
二者択一の選択しかない場合、一方当事者の意に反した結果になるのは当然ですがその時には、意に沿うように努力したが他の役員や市議におし切られたとかの言い訳が必要ですから(これを繰り返すと今後投票しないと言われます)その前提として自分の意見を聞きにも来なかったと言うのは最悪になります。
日本では会議に出てこない人や発言しないひとの意見を重視する社会ですから、市議・県議に限らず上に立つ人はすべからず御用聞きみたいになるゆえんです。
これが日本のボトムアップ・忖度政治の原型ですし、市議等が市民の意向を聞いて歩くために忙しく動く必要のある原因です。
例によってアメリカはこうだ・・・「夕方から議会を開け、議員定数を減らせ、議員はボランテイアにしろ」という乱暴な意見がトキおりメデイアを賑わせますが、日本では自治レベルが高く議会で論じるべき自治権の範囲が違うし、これに比例して議論レベルがアメリカとは違う・自治体といっても数十人規模の自治体数十万人規模の自治体と一緒にする無理な意見です。
このあとで紹介しますが、アメリカでは数十人規模の自治体などがかなり多くを占めていますし、単純目的だけ(自前の警察がほしいとか「蚊の駆除」や学校をつくるなど)の自治体もいっぱいあります。
http://www5d.biglobe.ne.jp/~okabe/ronbun/jichius.htmlによれば以下の通りです。

「日本には人口1000人を割る自治体はほとんどないが、アメリカの自治体の半数は1000人以下である[12]。人口数十人、数人というところもまれではなく、1997年の調査では、全米19,373の市(Municipal Government)のうち905、の町(Township)のうちが人口99人以下である[13]。そうした小自治体を紹介した貴重な資料にデニス・キッチン『我らの最も小さい町々』[14]がある。自治体研究の必読書とも言える同書からそうしたマイクロ自治体の事例をいくつか紹介してみよう。」
*ノース・カロライナ州のデルビューは人口16人の町。1925年に設立されて以来「3家族以上の家があったことがなく、これからもないだろう」と言うのはバン・デリンジャー町長だ。彼の祖父とその2人の弟がここで養鶏場を経営していたが、野犬がニワトリを食べてしまうという問題があった。州法は野犬を撃つことを禁じていた。そこで彼らは独自自治体を結成し、野犬刈りができるようにした。「野犬を撃つ権利だけを規定した憲章をもつ自治体を結成した」ということだ[15]。
*ネブラスカ州モノウィは人口8人の村。だが、1990年の国勢調査の結果が6人と出た。各戸に調査表も回り、国勢調査局からの電話確認も入った。なのに結果は人口6人。政府調査の信頼性なさの好例とされ、全国に流布された[17]。
*ユタ州オーファーは1906年設立の町。かつて銀鉱山の町としてさかえたが、廃坑後衰え、現在人口22人となった。「この町には常に(馬車型の)消防車はあったが、それを置いておく消防署の建物がなかったので、車がすぐ老朽化してしまっていた」と言うのは現町長のウォールト・シューバート。「それで最新の消防車を買った時、今度こそはと消防署兼市役所の建物をたてた。町の商店、団体、住民が寄付をしてくれた」。何かNPOの運営を語るかのような口調である[20]。
*小さい町では町長がボランティアですべてをこなす。人口30人のニューメキシコ州グレンヴィルで町長をつとめるミグニョン・サエドリスが言う。「男たちが日中仕事に出ている間、(女の)ルースと私があとを引き受ける。消防車を運転し、ブルドーザーを動かし、救急隊を組織する。サラリーはなく、すべてボランティアだ。時々、夫の郵便配達の代わりもする。200キロを車で走り35の家に止まり全行程5時間かかる。」[21]
*テキサス州マスタングは、現在人口27人の町。ダンスクラブ経営者のマック・アルヘニーの主導で1969年につくられた町だ。ハイウェイ沿いのこ地域は、野生の馬が生息する草原地帯だった。アルヘニーはここに450シートのカントリーウェスタン・ダンスクラブをつくる計画をたてた。州の土地規制を回避するにはそこを自治体化する必要があったという。しかし、テキサス州政府は200人以上の住民がいなければ自治体結成の要件は満たさないと言ってきた。そこでアルヘニーは急きょトレーラーハウス場をつくり、臨時住人を集めた。見事200人以上の住民が確保し、自治体を結成。クラブもオープンすることができた[22]。

アメリカの自治9(草の根民主主義の妥当領域2)

http://www5d.biglobe.ne.jp/~okabe/ronbun/jichius.html引用の続きです。

市議はボランティア
「ちなみに、カリフォルニアの政府法では、市長・市議の給料を表1のように規定している[32]。月数万円程度の名目的報酬である。これでは生活できないから、当然、市長・市議は基本的にボランティア活動である。昼は自分の仕事をもっており、夜になると市議会や各種会合に出てくる。市民集会型の市議会では市民も仕事の終わった夜でないと困るわけだが、市議にとってもそれは同じである。
日本でボランティアというと、福祉ボランティアや災害ボランティアなどをイメージするが、アメリカのボランティアはまず市長、市議レベルからはじまっているということである。」
表3 カリフォルニアの市長・市議の給料
出典: California Government Code Section 36516
人口35,000人以下の市     月$300以下
人口35,000-50,000人の市    月$400以下
人口50,000-75,000人の市    月$500以下
人口75,000-150,000人の市     月$600以下
人口150,000-250,000人の市    月$800以下
人口250,000人以上の市    月$1,000以下

小さな自治体・/三万五千人以下の自治体ではわずかに300ドル以下・・3万円あまりです。
25万人以上のサンフランシスコやロスアンジェルスのような大自治体でも市長の月収が月1000ドル以下(今の相場では約11〜12万円)の報酬では本業が別にないと生活ができません。
アメリカの地方自治体政治家は、我々弁護士がただみたいな低い報酬で審議会委員など公職に従事しているようなイメージです。
逆からいえば、州法で決まった範囲は狭く町内会程度の自治しかない・・・その程度の仕事で有給と言うだけでも恵まれているのかもしれません。
このコラムで関心のある自治権の範囲ですが、そもそも自分の本業を切りあげて夕方集会場所に駆けつける住民集会のような市議会で、短時間に住民の意見を聞いてその場で聞いたことを前提に議論して決めていく・・こんな単純なことで可能な政治は身近なテーマに限られるでしょう。
この面からも自治に委ねられているレベルの低さが知られます。
例えば原発の再稼働に関して安全性や原発なしの電力需要にどうするかの議論をデータも見ないで夕方ちょっと集まって意見を聞く程度・ムードだけで賛否の議論しても意味がないことが明らかです。
もともと、数人や数十人規模の自治体を基礎に始まったこの仕組みが、未だに大規模自治体でもそのまま利用されていること自体が時代錯誤的印象です。http://www5d.biglobe.ne.jp/~okabe/ronbun/jichius.html引用の続きです。
「市民運動にとっては絶好の動員の場だ。同一団体のメンバーと思われる人たちが次々立って同じような主張を繰り返す。・・」
と報告されていますが、ここに病理現象が顔を出しています。
このような動員力次第になる結果、実際の国民の支持・民意以上の政治力を発揮して来たことがわかります。
これに加えてメデイア支配によるかさ上げ効果もあり、これがいわゆるリベラルに対する世界的反感が湧き起きて来た基礎原因です。
仕事を終えてから集まるタウンミーテング的仕組みは、いかにも草の根の民主主義の実践っぽいですが、これではホンの数十人しか意見を言えないし、党派的対立のあるテーマでは動員された党派的意見の人が列を作って発言を続けると一方的意見の繰り返しばかりで時間が終わり建設的な議論が出来ません。
芸能人やアルバム等のネット投票では、韓国系のマシーンを使った大量の「いいね」投票が席巻して意味をなさなくなって久しいですが、この種の住民集会も同じです。
ここで報告されているサンフランシスコの人口は以下の通り80万人です。
80万人中、(あちこちで何回か開催されるとしても)1回あたり数十人の参加者の意見を参考に決めるのって、これが「草の根の民主主義」と手放しで賛美できるのでしょうか?

17年10月9日現在のウィキペデイアによると以下の通りです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/アメリカ合衆国の主な都市人口の順位

順位    都市          州           人口
1     ニューヨーク     ニューヨーク州      8,175,133
2     ロサンゼルス     カリフォルニア州     3,792,621
3     シカゴ        イリノイ州        2,695,598
4     ヒューストン     テキサス州        2,099,451
5     フィラデルフィア   ペンシルベニア州     1,526,006
6    フェニックス     アリゾナ州         1,445,632
7    サンアントニオ    テキサス州         1,327,407
8    サンディエゴ     カリフォルニア州      1,307,402
9    ダラス        テキサス州         1,197,816
10    サンノゼ      カリフォルニア州      945,942
11    ジャクソンビル    フロリダ州         821,784
12    インディアナポリス [注 1] インディアナ州      820,445
13    サンフランシスコ   カリフォルニア州      805,235
121   グレンデール     カリフォルニア州      191,719

11月20日に紹介したサンフランシスコ市の議会のようすを写した写真を見ると、市議会というか、住民集会の運営説明と写真を見れば、質問や意見表明したい市民が列をなしていて(一人3分以内と決まっているようです)次々と続く質問や意見表明を聞き続けます。
この意見表明は自治体住民に限定されず誰でもよくて、しかも党派的主張もゆるされるようで次から次へと同じ主張を入れ代わりたち代わり繰り返すこともあるようです。
これが終わると最後に5人前後の当日参加した市議で評決する・・この評決のための議論も市民が見守る中で行われる仕組みです。
ボランテアが原則ですから市議が仮に10人 以上いるような大きな市では、市議が全員出席でもない・都合のつく市議が出席するようなイメージです。

免責事項:

私は弁護士ですが、このコラムは帰宅後ちょっとした時間にニュース等に触発されて思いつくまま随想的に書いているだけで、「弁護士としての専門的見地からの意見」ではありません。

私がその時に知っている曖昧な知識を下に書いているだけで、それぞれのテーマについて裏付け的調査・判例や政省令〜規則ガイドライン等を調べる時間もないので、うろ覚えのまま書いていることがほとんどです。

引用データ等もネット検索で出たものを安易に引用することが多く、吟味検証されたものでないために一方の立場に偏っている場合もあり、記憶だけで書いたものはデータや指導的判例学説等と違っている場合もあります。

一言でいえば、ここで書いた意見は「仕事」として書いているのではありませんので、『責任』を持てません。

また、個別の法律相談の回答ではありませんので、具体的事件処理にあたってはこのコラムの意見がそのまま通用しませんので、必ず別の弁護士等に依頼してその弁護士の意見に従って処理されるようにしてください。

このコラムは法律家ではあるが私の主観的関心・印象をそのまま書いている程度・客観的裏付けに基づかない雑感に過ぎないレベルと理解してお読みください。