日本の律令体制は、郡県制でも郡国制でもなく、地方を全て国にしたのは、直轄化するには力不足だったからではないでしょうか?
「こおり」の漢字表記として郡の漢字を当てていたことにより、旧国地域より小さいはずの郡を旧来の国を数カ国集めた大きさの郡にできなかったからと思われます。
郡に戻しますと、大和朝廷成立前・・前漢時代の倭国100余国というのは、まさに山脈に隔てられた流域を基本とした地域勢力・豪族勢力範囲と一致したでしょうから、中央集権制の中国の真似をして豪族4〜5部族の領域をまとめて国にすることにして、皆喧嘩しないように朝廷からその地域のまとめ役として「国司」を派遣するから・・・「みんな仲良く補佐してね!ということで中世の国人層(武士団)に当たる地方豪族を郡司を任命したのでしょうか。
実証研究に基づかない私のことば遊びの範疇ですが、ちなみに国司や郡司の司とは相撲の行司の「司」であって、アンパイヤーの役割であって下知する支配者ではなかったともいえます。
現在用語で言えば司会者でもあります。
国司はよそ者ですし、サラリーマンですので身の回りに仕える供のものが少しいるだけで自前の兵力もない・・ので地元豪族間の利害調整機能しか果たせません。
平将門の乱が起きたのは、古代豪族が荘園領主に入れ替わっていく過程で武士が勃興し中央から派遣される国司の調整能力が衰えたということでしょう。
鎌倉時代に朝廷任命の国司(守)の他に地元武士代表の守護が設置されたのは、この最終的解決策でした。
律令体制によって各地の・・現在の郡程度の小規模な支配をしている豪族支配地を60豫州の国に編成替えしたことによって、中国の冊封体制を日本列島に当て嵌めて、聖徳太子が「日出処の天子」と名乗った天子の地位を制度的に確立したことになりそうです。
列島内の全域・諸国を天下として、これを束ねる朝廷が中国の皇帝に当たる、中国皇帝が冊封する諸侯にあたる国に当たるのが列島内の邪馬台国や狗奴国等々の国々という縮小版です。
日本はまだ台湾島の植民地を持たない段階の明治憲法が「大日本帝国」憲法と称したのは理にかなっています。
明治維新・王政復古当時、封建体制に決別し中央集権化した明治政体は、広大な中国の縮小版として考えれば、被支配国を抱える帝国といい、天皇(皇帝)と称するのは一貫しているようですが、その後廃藩に止まらず地方制度から国をなくし各地に県令を配置するようになると、朝廷の支配下諸国がなくなります。
(列島内の諸国のトップを皇帝(天皇)が冊封する場合、皇帝は諸国の王に君臨するだけで、地方政治を国主・守に委ねる仕組みですが、県制度=地方の独立性を否定して、県令・中央派遣の官僚が中央政府の下部機関として治める仕組みへの変更ですから、この時点で(全部直轄地)天皇は皇帝でなくなっているはずです。
日清戦争後の台湾領有までの間は、天皇家は統一国家の王であって君臨すべき冊封国・地域がなかったのに明治憲法では大日本帝国と言っていたのが不思議です。
もしかして、王と皇帝の違いや帝国と國の違いは、明治維新当時は異民族支配しているかどうかではなく独立国かどうかの指標として「帝国」「皇帝」という名称を利用していたように思われます。
異民族を支配下に置く場合を帝国といい、その支配者を(王政の場合)皇帝というようになったのは、レーニンの帝国主義論以降のことではないでしょうか?
日清戦争後の下関条約第1条で清朝からの独立を果たした李氏朝鮮政府は、直ちに大韓帝国を自称しているのもこの傍証でしょう。
下関条約は以下の通りです。
https://ja.wikisource.org/wiki/
通称: 日清講和条約、下関条約、馬関条約
調印: 1895年(明治28年)4月17日
場所: 下関
日本側全権: 伊藤博文、陸奥宗光
清側全権: 李鴻章、李経方
第一條[編集]
淸國ハ朝鮮國ノ完全無缺ナル獨立自主ノ國タルコトヲ確認ス因テ右獨立自主ヲ損害スヘキ朝鮮國ヨリ淸國ニ對スル貢獻典禮等ハ將來全ク之ヲ廢止スヘシ
大韓帝国に関するウイキペデイアの記述です。
冊封体制からの離脱[編集]
朝鮮国王高宗は1896年(明治29年)2月11日から1897年(明治30年)2月20日までロシア公使館に逃れていた(露館播遷)が慶運宮へ戻った。1897年(明治30年)にもはや清の藩属国でなくなった以上、国王号を使用することは望ましくないという儒者の建言に従い以下の改革が実施された。
国号を「朝鮮」から「大韓」と改め、元号も前年のグレゴリオ暦への改暦にともなって定めた「建陽」から「光武」に改元した。高宗は、圜丘壇を新たに設けて10月12日に祭天の儀式を行い、翌13日に詔を出して皇帝に即位した。大韓帝国の皇帝位は明朝の皇統を継承したことにより得たものとされた。その後、清の冊封の象徴であった迎恩門や「恥辱碑」といわれる大清皇帝功徳碑を倒して独立門を立て独立を記念した。大韓帝国の皇帝位はかつて宗主国であった明朝皇帝の位を継承したものとされた。
上記の通り、李氏朝鮮は独立と同時に帝国自称ですから「帝国」とは属国の有無ではなく独立國と言う程度の意味だったと解釈すべきでしょう。