思想界では憲法学界を中心にした専門家が大衆同様に「自由市場論に酔い痴れた」まま思想の自由市場とは何かの分析研究を怠って来たように見えます。
むしろ自由市場論=部外者の介入拒否論は、文壇や学会等の支配確立後は、支配グループにとって居心地良いので、自由市場論に寄りかかって閉鎖社会を守ってきたのではないでしょうか?
経済学の場合、現実無視のマルクス経済学が学内主流でもグローバル化の進む実業界は義理で付き合ってると倒産するので学者のご高説を祭り上げて別に進んできましたのでそのまま信じるのは無垢な世間知らずの学生くらい・・いわゆる過激派全学連にその影響力を残すだけで、こういう人を育てるために巨額費用を国民が負担する必要があるのかの議論こそが必要でしょう。
憲法学とその関連思想界では平和憲法という世界に例のない憲法なので「日本は特別」という議論で世界とまともな学問的交流の必要がないので、経済学のようにグローバル化の進む世界との整合性も不要・・破綻しない・・「平和憲法を守れ」というスローガンだけで済むので、今も過激派学生だけでなく一般人左翼系に影響力を持っていますが、これも最後の段階でしょう。
学問の自由と大学の自治の関係では東大ポポロ劇団事件で一定のケリがついたのですが、自治にかこつけた治外法権的主張がいきすぎた・・自治にかこつけて学界外の批判を受け入れないで派閥の独占的立場が強まりすぎると学問も芸術も窒息していくしかないでしょう。
仲間内のかばい合いだけの芸術なんて誰も支持しない時代が来るのではないでしょうか?
今でも、自由市場論=部外者の介入拒否にこだわるのが一般的ですが、一方で本来の市場で売れなくとも構わないと言い張るのが彼らの同時主張です。
上記浜崎氏の引用でも出ているようにゴッホの例を出すのが普通で、言葉の意味での自由市場を否定=公権力の保護=予算要求するのが彼らの主張です。
自由市場で売れない芸術も国家や自体権力の保護・美術館買い上げや、作成費補助金支給の基準はその分野の自治・分野のヘゲモニーを握るグループ支配に委ねろという論法です。
慰安婦像が韓国による政治目的の制作であることが、国際的周知の事実であるにも拘らずその制作費等を日本政府が補助金を出すべしという矛盾を要求したのが今回の愛知トリエンナーレ展主催者の主張でした。
以上は憲法の表現の自由論について法律雑誌に出ているのを余暇に拾い読みする程度の雑な記憶によるものですので、専門家の間では深い研究が進んでいるのかもしれません。
もしもそのような研究が進んでいるならば、憲法や思想会の有名学者が安易に思想の自由市場論を前提にした議論を進めないはずと思うのですが・・。
こういうまともな研究論文があるが、学会で無視されて市場評価に出られない・・干されているだけという場合にはお教えくだされば、ありがたいことですのでよろしくお願いします。
以下に現在の自由市場論が出ていますが、ちょっと読む限り「自由市場論が比喩的に表現されるようになった経緯を紹介しているだけで「だからどうなの?」という私の関心のある現状分析まで進んでいないように読めるのですが・・。
https://docs.google.com/document/d/1B_k-2lcstvNhZWWRqkWpEo0Evf1mJlU7NLjlDEZOEak/edit#
「言論の自由市場」再論 情報管理. 2017, vol. 59, no. 10, p. 699-701, doi: http://doi.org/10.1241/johokanri.59.699 大谷卓史(吉備国際大学アニメーション文化学部)
「言論の自由市場」とは,自由競争市場で,最適な資源配分が行われるという経済学的な仮定を意識した比喩だ」
という見出しですが、まさにそこで主張が止まっている印象です。
上記論文がなくとも元々商品市場の比喩に決まっていますが、比喩であるならば、そのまま準用できる分野と準用してはいけない分野の峻別が必要です。
産業系は原則自由市場で良いのですが、後進国においては、自国産業育成のために関税による保護が必要ですし、先進国でも公共事業は自由市場に委ねられないので税を徴収して警察組織を維持し、橋をかけたり港湾整備、美術館整備などしています。
芸術表現・例えばピカソやゴッホが制作当時売れなくとも後に価値が生じる例もあります。
思想表現も即時に市場評価で優劣を決めて良い分野か?そうでないとすれば将来の価値ある意見や芸術として保護すべきかどうかの判断は誰がすべきかが重要です。
将来に価値のある思想か?芸術品かの判断も市場評価に委ねるのも一方法です。
将来に価値ある思想か?芸術品かの判断も市場評価に委ねるのも一方法です。
事業でいえば将来性を織り込んで現在の評価がある・・株価が決まっていく仕組みです。
すなわち過去には、そういう目利き・・事業や政治分野等で成功した人材が時流に流されずに自己の見識に従って保護したり、パトロンになって過去の色んな優品制作を助けたので、後世に残ってきたのです。
現在高評価されていないが「これは凄い!」と後世に残す権利・・パトロンになれるのは、自己資金を投じることのできる一代の成功者にのみ許されることではないでしょうか?
公金給付補助基準を各界現役トップクラスが審査する以上は、その時代の目(世相、時流に流される)による基準しかあり得ないはずです。