社会党(別働隊1・社青同〜解放派)

社民党が今なお教条主義的体質をそのまま持っているのは、社会党解体?後その事務局〜地方組織や一般党員という運動体を引き継いだ遺産というべきでしょうか?
社民党に関するウイキペデイアの記事です。
社会民主党(しゃかいみんしゅとう、英: Social Democratic Party、略称: SDP[17]、SDPJ[18])は、日本の政党[7][12]。1996年1月に日本社会党が改称して発足した[1]、社会民主主義を掲げる政党である

旧社会党時代には成田闘争には一坪地主として党幹部自身が関与しましたが、現場で機動隊と直接対峙するような実力行使に関与しませんでした。
反対闘争を煽るだけで実力行使は、革マル、中核、社青同3派とその後の分裂で3派10流もと言われる過激系全学連系や京浜安保共闘(労働系運動体)などの別働隊に頼っていたようです。
※ 当時千葉地裁管轄事件だったので、成田事件の弁護をいくつか担当しましたが、そのうちの一つは、成田事件闘争団体の内ゲバ事件であり、その被告人は・今も年賀状の往来がありますが・・労働系運動家でしたが、何系の内部抗争事件だったのか詳細記憶がありません。
メデイアでは過激派学生運動と言われているものの、現場では労働系戦闘員?がかなり関与しているのだな!という印象記憶しか残っていません。
社青同に関する本日現在ウイキペデイアの記事抜粋です。

日本社会主義青年同盟(にほんしゃかいしゅぎせいねんどうめい)とは、青年を構成員とする青年政治同盟である。以前は日本社会党と支持協力関係を持っていた。
歴史
前身は日本社会党青年部。1959年10月開催の社会党第16回大会決定を受け、1960年初頭には社会党青年部を中心に日本社会主義青年同盟結成準備会が作られ、機関紙『社青同』(現、『青年の声』)第1号が1960年3月10日付で発行された。正式結成は1960年10月15日の第1回全国大会で、西風勲が初代委員長に選出された。結成の準備期間はちょうど安保闘争と「三池闘争」との巨大な高揚の時期であり、各地の社青同準備会は正式結成以前から社青同の旗を掲げて闘争に参加した。そのため、社青同は「安保と三池から生れた」といわれる。
政党との関係
日本民主青年同盟が「日本共産党のみちびきをうけ」ると自己の性格を規定しているのに対して、社青同にとっては旧日本社会党との関係は支持・協力関係であり、青年同盟でありながら政党から理論面や行動面での指導を直接に受ける関係にはない(これは「元々社青同が社会党支持者・党員で固められ、支援を前提とする団体であり、改めて『指導』を明言する必要がないからである」という見解もある)。
日本社会党は、社青同の運動にとってはあくまで階級的強化の対象であった。現在においても、社会民主党や新社会党が「護憲」のスローガンを掲げているのに対して、社青同は「改憲阻止」という言葉を用いるなど、政治的な争点となっている憲法をめぐる運動・考え方についてもスタンス、理論の相違がある。
青年共闘運動
職場・産別を超えた青年の学習と交流の場は、青年共闘運動として位置付けられている。
学生運動
東洋大学、中央大学、神戸大学、淑徳大学などが拠点校で、これらの班には数十名の同盟員が在籍していた。都学協には20を超える学生班が結集し、70年代中期には学生運動で民青、中核、革マルに次ぐ動員力を持つに至った。社会主義協会系の各種運動では、現在もこの時期に学生運動から育った活動家の姿をみることが多い。
・・・・・・学生運動全般の停滞は社青同にもおよび、80年代以降社青同学生運動は急速に衰退していった。学生層の変化にみあった方針を出せなかったこと、日本共産党や新左翼は学生運動から生まれたり学生運動を主要な基盤としたため組織全体で学生対策を図ったのに対して、社青同には学生運動は労働運動の添え物という意識が学生運動出身者も含めて強くあり、学生班の衰退に組織として危機感がなかったことなどが理由としてあげられよう。このため、90年代後半以降は学協としての活動は行われなくなった。現在も少数の学生同盟員は存在するが、学内での学生運動や社青同における学習活動ではなく、政党の選挙運動に埋没する傾向があり、存在感を発揮する運動は作れていない。

上記の通り私の学生時代に聞きなれた一大勢力であった社青同がいつの間にか消息不明になっていた理由がわかります。
ただし以上は社会的意味がなくなったというだけで、その道のプロ同士にとっては社青同から派生した解放派(武闘系?)に関しては、分裂による内ゲバの激しさで知られているようです。
(具体的事件に感心のある方は、社青同解放派でネット検索してご覧ください)
結果から見ると社青同解放派に限らず全学連諸派(中核、革マルに限らず学生運動ではないですが、連合赤軍を含め過激活動する諸団体)は世論支持を失う→過激主張化→世論支持離れ加速→常識派の組織離れ→過激主張一色→武闘路線内の主導権争い・内ゲバ凄惨化(あさま山荘事件など)→対外武闘路線をさらに強める繰り返し(よど号ハイジャック事件やテルアビブ空港乱射事件など)→世論支持皆無→勢力衰退を招いて行ったような印象です。
この数十年では門外漢から見れば政治目標不明の「単なる違法集団かな?」と思う人が多いのではないでしょうか?

社会党の教条主義化4(日常活動軽視)

昨日紹介した論考に関する感想の続きですが、社会党凋落が決定的になった69年総選挙敗因を読むと日常活動による個人後援会が育っていなかったことが一因であるようにも読めます。
日常活動が充実していれば、これに比例して社会変化への適応力がつき、世話になった庶民の感謝の気持ちから活動資金も集まりやすいのですが、日常世話活動がほとんどなく観念論の演説に酔い痴れている状態では支持率低下に比例して資金源も細ります。
庶民との接点を重視しないメデイアの振り付けに頼る・・西洋的愚民思想・・庶民は愚かなので宣伝対象に過ぎないと思い込んでいる政党が庶民の代弁者を名乗る資格があるのでしょうか?
社会党がもう一歩で政権交代可能か?というチャンスに中ソの支援に頼るようになっていった結果日常感覚で遅れをとったのに対して共産党は逆に中ソからの独立路線に転じた点が大きな違いになりました。
(児童売買春に関して世間を騒がせたNGO関連で少し書きましたが、この数十年でいえば国内支持不足を国連等の応援?国際社会はこうだ!というグローバル論法にたよって国内批判をする現在のNGOの先駆者?になるのかな?)
共産主義政治の優位性を語る主義主張では国民支持を受けていませんが、外国の手先でないかという疑念を抱かれない点が独立路線に転じた共産党の強み・一定の岩盤支持が残っている違いではないでしょうか。
共産党が独自路線選択の結果、中ソの支援が期待できなくなったので国内での地盤が必要になってある程度日常活動が必須となり、生活者の基礎能力の高さを否定できなくなった結果、次第に庶民意思を汲み取る能力がついてきたと言えるのでしょうか?
日本社会の大変変革期が到来した鎌倉末期にこれを精神面で体系化するのに必須の新宗教が興った・・・浄土信仰と禅宗・日蓮の3宗教でした。
このうち他力本願系と自力系に分けると自力系では内向して行く禅宗系と外的行動を求める→過激主張・過激行動の日蓮宗の2系統に分かれましたが、ボトムアップ型民族の日本では生活人がじっくりした話し合いで決めて行けば良いという知恵・・過激主張と過激行動は好かれない民族性が明らかになったように思われます。
共産党が独自路線採用の結果、価値基準も日本回帰して見ると、ソ連流の「暴力革命」の標榜は社会内孤立するという見通しを持ち、価値観でも国内回帰・大転換したように見えます。
この頃大学内のいわゆるブントに対して「学生は街頭活動や闘争するものではなく、より一層勉学に励むべし」という中央指令を発したので全学連が混乱に陥る、党中央に従うものと、あくまで武闘路線に突っ走るグループ等に四分五裂していくようですが党は動揺せずに安保騒動やその後の全共闘運動等に対して一貫して「跳ねっかえり行動が権力による取締体制強化を誘発するマイナス行動」として厳しい批判を繰り返してきました。
学生の過激運動禁止で共産党の影響力低下の穴を埋めるチャンスとばかりに学生運動連携を強めた社会党は60年安保直前の砂川基地闘争、三池闘争等の学生運動と連携して以来、過激化する一方の学生運動と運命を共にする方向になっていったように見えます。
共産党は独自路線の結果、行き詰まりの反動で人民弾圧を始めたソ連や中国批判を遠慮なくやれたことも時宜にかなっていた面があります。
革新系野党が今でも指導層を高学歴者に頼り、運動方法としては学者声明にこだわる体質が変わらないのは、党は人民を教化する前衛・エリート集団であるという価値観・・DNAによるのでしょう。
韓国では名門大卒かどうか・・最近では超一流企業となったサムスン社員かどうかは昔のヤンパン階層かどうかによるとてつもない格差を示す道具になっているのと同じで思考法です。
共産党や公明党なども代議士、地方議員等は、党が指名して立候補できる仕組みのようなので、社会党の党員の強さに似ているように見えますが、地元民と接触する日常活動の活発さに比例して党員の現実感覚が磨かれるので社会党ほど教条主義者がはびこり難い・・日常サービス活動が残る限度で一定の支持を得て生き残れているのでしょう。
社会党の弱点は官公労等の巨大組織に頼り地元密着の日常活動をほとんどしてこなかったことだと思います。
もともと共産党の方が、共産主義革命そのものをめざす理想主義者?の集まりであり社会党の方が現実的政治センスある集団だったはずです。
昨日紹介した社会党研究論文の前提事実でも、元は現実政党であったのに次第に左傾化して行ったという意見です。
上記によれば、これは結果であって原因ではないという説明になるようです。
現実政党で政権交代可能性が予定されていた社会党が、何故観念論集団に堕して行ったのか?
私の素人意見ですが、選挙民の要望にこまめに対応する日常活動に力を入れたかどうかの差ではないでしょうか?
共産党は自民党顔負けのドブ板選挙に励んでいたので、中国の文化大革命の失政やソ連によるハンガリー動乱やプラハの春やポーランドに対する戦車蹂躙があり、ソ連崩壊等によって共産主義の輝きを失っても日常活動による下支えが現在も効いているように見えます。
社会党が足場を失っていった原因は日常活動ほぼ皆無でメデイア界や文化人等の支持・実態に合わないメデイアのヨイショ記事?あるいはメデイアが掘り起こした政権要路者批判先行によるムード盛り上げに便乗して国会で追及する・タレントが振り付けどおりにテレビで振る舞うような行動に頼ってきた点にあったと言えそうです。

社会党の教条主義化3(宣伝重視)

共産主義系の文化人あるいは運動家が日常活動→地元庶民の困りごと解決に精出すならば・・一緒に知恵をしぼる内に新たな知見や解決策が見つかることが多いので、社会の変化に対応できたでしょうが、社会党の場合庶民に知恵を教えてもらうのでなく、庶民は遅れている・教育対象なので庶民の知恵を学ぶチャンスにできない・・一般党員は庶民の知恵を党上層部に伝えるパイプの役割を果たさなかったのです。
ソ連の影響力の大きかった共産党が、中ソから距離を置く独自路線に舵を切った(舵を切らざるを得なくなった?)結果、国際支援をあてにできなくなり国内地盤維持培養にエネルギーを注がざるを得なくなった→日常活動重視→下部党員が生活者の視点でものを考える素養が磨かれたのに対して、社会党は国際社会やメデイア界で共産党を蹴落として?国際関係やメデイアや学者と連携を独占して宣伝重視→日常活動に重きを置かない政党になった面が否めません。
共産党はもともとソ連式上意下達システムでしたが、公明党、自民党のように困りごと解決に汗をかく日常活動をするようになった結果、上意下達体質を事実上変えていくことになりました。
社会党は支持率低迷で苦しくなってからも日常活動に向かわず、国際提携に頼るようになっていったように見える点で方向性に大きな違いが生じました。
現在でも国内で0、何%の支持率しかない社民党の福島瑞穂氏が国際組織の副議長になっている不思議な状態を見ればそのDNAがわかるでしょう。
福島瑞穂氏に関するウイキペデイアです。

福島 瑞穂(ふくしま みずほ、1955年12月24日 – )は、日本の弁護士、政治家。社会民主党所属の参議院議員(4期)、社会民主党党首(第3・6代)、同参議院議員会長、社会主義インターナショナル副議長。神奈川県在住。

地元日常問題に関心が低い→庶民は感謝しない→結果的に党員が増えない=党費納付者が少ない・・党収入が議員歳費中心政党の場合、巨大な党組織を維持できないので外部からの秘密資金流入に頼るリスクが高まります。
本日現在の日本社会党に関するウキペデイアの記事からです。

革新自治体と社会主義協会派の台頭
・・・・親ソ傾向の社会主義協会派の勢力拡大により、本来の左派である佐々木は中国との接近を強めるとともに、構造改革論争以来の仇敵の江田と結び、以後、協会派と反協会派の党内対立が激化した。1975年にソ連敵視を意味する覇権主義反対を明記した日中共同声明を成田委員長が結んだことで、両者の対立はさらに激化した。
ソ連崩壊後のクレムリン秘密文書公開により、社会党がソ連から援助を得ていたことが明らかにされたが、当時の社会党執行部はソ連の資金援助を否定した。

客観データが開示されているのに、具体的反論しないでただ否定するというだけでは忘れられるのを待っている・反論して論争を長引かせたくないという意図が推測されます。
上記記事では反社会主義協会派(党内左派)は中国援助に頼っている状況らしいですが、資金関係については中国政権がまだ崩壊していないので、証拠がないのは当然でしょう。
ただし文革を賞賛し毛沢東語録賛美(造反有理のスローガン)など親中姿勢は明白でした。
中国政府内では賄賂天国・・全てゲンナマ重視の中国政府が、資金援助なしに外国政党を手なづけていたとは想定できないと思っている人が多いでしょう。
上記の通りソ連や中国(これの証拠は出てません)の資金援助で党を運営していたから、日本のためになる政治には「なんでも反対」を貫いていたのではないかの憶測が広がります。
社会党衰退の原因についてネット上では、以下の論考が芦田内閣以来の検討を加えていて有益です。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jaes1986/17/0/17_0_84/_pdf/-char/ja

日本社会党 の盛 衰 をめ ぐる若干 の考察 -選挙戦術 と政権 ・政策戦 略谷 聖美
要 旨:社 会 党 は,60年 代 に入 る と停滞 し,そ の後 は長 期低 落 の道 をた どった。 この停滞 と衰 退 を め ぐって は さ まざ まな原 因が 指摘 されて きた。 なか で も,党 の非現 実 的 イデオ ロ ギ ーが党 の適 応 力 を奪 った とい う見 方 は もっ とも一 般 的 な もの で あっ た。 本 稿 は,衰 退 の原 因 を め ぐる諸 々の説 明 を逐 一検 討 し,そ れ らの 多 くが必 ず しも説 得 力 を持 た な い こ とを明 らか にす る。 つ いで,選 挙 にお ける この党 の集票 戦術 を分析 し,労 組 依存 に安住 して個人後援会な どの集票組織の構築に努力 しなかった ことが衰退の一因であ ることを示す。 さらに,片 山 ・芦田内閣失敗 の負の影響 はあった ものの,こ の党の連合戦 略 と政策展開は60年代中葉 までは巷間いわれているよりもずっと現実的で,党 が活力 を失 ったのは,そ うした現実派が党内抗争で社会主義協会などの教条的左派に敗れたあ とにな ってか らの ことであることを指摘 した。

詳細紹介しませんが、この論考に同意するかどうかは別として頭の整理になりました。
読んでみて私の思いつき的主張・個人が自分の得票維持拡大・地盤培養のために個人事業主として日常業務に精出す努力をしてこなかった・民意〜客の気持ちがわからない弱点という私の着想は専門家でない考えの浅さがありますが、一部あっている自信を持ちました。
私は子供の頃からしっかりした理解力なく誤解に満ちた人生でしたが、ある人物や絵画であれ論文であれ全体として見れば意見相違があっても、部分部分で見れば共鳴部分があるもので、いろんな物事をを自分に都合よく理解する傾向・・へえ!自分の好みや意見と同じじゃない・・とすぐ納得する・・不満や敵意を持たない・・だれでも好きになるおめでたい性格です。
路地・・鉢植えの草花を見れば、全体としてデタラメかどうかは別としてまずは個々の花びらを愛でたくなる無節操な生き方です。

社会党の教条主義化2(宣伝強化体質)

党員は労組内で生煮えの左翼用語・造語を振り回して自己満足している傾向があり、左翼造語の意味内実に疑問を呈するものがあると「勉強不足」とバカにして教育対象にしていくパターンでしょうか?
・・中国では毛沢東語録の学習会が盛んであったしこれを受けて日本でも学習会が流行りましたし、今でも中国では習近平の思想学習会が盛んです・・ウイグル人の大量収容は「学習させている」だけというのが中国政府の言い分です。
https://www.bbc.com/japanese/50542004

中国政府、ウイグル人を収容所で「洗脳」 公文書が流出
2019年11月25日
中国西部の新疆ウイグル自治区にある、高度の警備体制が敷かれた収容施設で、中国政府がイスラム教徒のウイグル人を何十万人も組織的に洗脳していることが、流出した文書によって初めて明らかになった。
中国政府はこれまで一貫して、収容施設では希望者に、過激思想に対抗するための教育と訓練を提供していると説明している。

https://www.sankei.com/world/news/171114/wor1711140043-n1.html

017.11.14 16:50
中国が習近平思想学習運動を展開 幼稚園でも

古くはソ連の洗脳教育、ソ連崩壊後は中国の学習会など共産系諸国では学習運動が盛んですが、いずれも党中央の方針を有無をいわさず叩き込むシステムであり、下部意見を吸収するしステムではありません。
中国の歴史文化では指導層・士大夫と蒙昧な庶民の2階級があって、科挙で選抜された超エリートとそれ以外の被支配者には「よらしむべし、知らしむべからずしむべし」との理念でずっとやってきました。
理解させるより支配者の作ったルールを叩き込むことが西欧的民主主義の真似事というか、社会が複雑化してきたので孔孟の教えあるいは後世の「法三章のみ」のような抽象的道徳支配方法では社会が回っていかないので、細かいルールを叩き込む必要が起きたので、これが現在的適応と思っているのです。
民主主義の実利的応用というべきでしょうか?
洗脳はソ連が始めたものですが、もともと理解力の低い庶民に対する有効な支配方法として庶民相手の支配手段として強力な宣伝による盲従が有効と言い始めたというか、大々的実践を始めたのはナチスでした。
https://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/1332_gebbles_propaganda.html
ゲッベルスの宣伝術について 池田光穂

(宣伝は目的を生むための手段)
「宣伝は手段であり、したがって目的の観点から判断されねばならない。 それゆえ宣伝の形式は、それが奉仕する目的を援助することに有効 に適合していなければならない。目標の意義は、一般的必要の観点から見ればいろいろでありうるし、それとともにまた宣伝はその内面的価値に おいて種々規定されるととも明白である」(第一部、平野一郎ら訳、上:255)。
「まさに決定的な意義をもつ第二の問題は、次のよう であった。すなわち宣伝はだれに向けるべきか? 学識あるインテ リゲンツィアに対してか、あるいは教養の低い大衆に対してか? 宣伝は永久にただ大衆にのみ向けるべきである」(第一部、平野一郎ら訳、 上:258)。
「宣伝の課題は、個々人の学問的な形式ではなく、ある一定の事 実、ある過程、必然性等に大衆の注意を促すことにある。そのために宣伝の意義は、まず大衆の視野にまでずらされねばならない」(第一部、平野一郎ら訳、 上:259)。
「それだからその技術は、すぐれた方法で、ある事実 の現実性、ある過程の必要性、必要なものの正当性等について、一般的確信ができるようにするところにのみもっぱら存する。しかし宣伝はそれ自体必要なもの ではなく、またそうではありえず、その課題はまさしく、ポスター のばあいと同様に、大衆の注意を喚起することでなければならず、もともと学問的経験のあるものや、教養を求め洞察をうるために努力しているものの教化にあ るのではないから、その作用はいつもより多く感情に向かい、いわゆる知性に対してはおおいに制限しなければならない」(第一部、平野一郎ら 訳、上:259)。
「宣伝の技術はまさしく、それが大衆の感情的観念界をつかんで、心理的に正しい形式で大衆の注意をひき、さらにその心の中にはいり込むことにある。これを、われわれの知っ たかぶりが理解できないというのは、ただかれらの遅鈍さとうぬぼれの証拠である」(第一部、平野一郎ら訳、上:260)。
「宣伝におよそ学術的教授の多様性を与えようとする ことは、誤りである」(第一部、平野一郎ら訳、上:260)。
「宣伝におよそ学術的教授の多様性を与えようとする ことは、誤りである」(第一部、平野一郎ら訳、上:260)。
(宣伝の連呼の意味)「大衆の受容能力は非常に限られており、理解カは小さいが、 そのかわりに忘却カは大きい。この事実からすべて効果的な宣伝 は、重点をうんと制限して、そしてこれをスローガンのように利用し、そのことばによって、目的としたものが最後の一人にまで思いうかべることができるよう に継続的に行なわれなければならない」(第一部、平野一郎ら訳、上:260)。
「すべての広告は、商売の分野でも、政治の分野で も、継続とその利用のむらのない統一性が成果をもたらすのだ」(第一部、平野一郎ら訳、上:267)。

ナチスドイツはゲッペルス宣伝相によって、国民ほぼ全部を一定方向へ扇動することに成功しました。
日本でも低レベル層相手のテレビコマーシャルが大きな影響力を持っている・フェイクニュースの影響の大きさが言われるのはその通りです。
中ソの影響を受ける革新系政党がメデイア戦略に力を注ぐ・現在でも革新系野党の主張はメデイアによる宣伝先行・便乗型が多いのはこの思想によるものでしょう。
日本はアジアでも特異でもともと庶民の知恵が高い社会ですので、上から目線での押し付行為を快く思う人の方が少ないので、中ソの真似をしていた社共系オルグ活動は却って反発を受ける結果になったのでしょう。
ただし、日本的価値観・・「そんな馬鹿な嘘は言わせておけば、その内化けの皮が剥がれるよ!」と言う相手にしない方法が通じる・・サイレントマジョリテイが報われるのは日本国内だけであって、国際社会は利口な民族ばかりではありません。
これで痛い目にあったのが、韓国による慰安婦に関するデマの国際流布運動でした。
無視して放置していればそのうち誰も相手にしなくなるだろうと放置していたところ、知らぬ間に誰でも知っている世界の常識事実・・・既定の常識とされてしまったことでした。
逆に世界の方は日本でメデイア支配(中韓の政治意図による宣伝に限らず米英流商業政策では)大大的宣伝さえすれば、どうにもでもなると思っていたのに意外に効果が出ないことに気づく・お互い誤解していたことになります。

社民党の来し方行く末2(教条主義1)

社会党は民意を肌で感じる議員より観念論で凝り固まった?党員発言力が圧倒的に大きくなりすぎた政党だったので民意遊離が進んだというべきでしょう。
たまたまマルクス・レーニン主義という錦の御旗があるので、この傾向を教条主義者と言われますが実態は党全体が地道な政治活動をしない結果、世間で揉まれない一人よがり思考肥大化という環境要因による点では、いわゆる世間知らずの書生論が幅を利かす全学連執行部の過激化と相似形です。
世間知らずとは文字や映像、メデイアを通じて世間を知れば良いのではなく現実生活を通じて得る幅広い体験に根差した体験知不足のことです。
一般的に言われる「理屈はそうかもれないが実際には難しいものだよ!」というファジーな総合値の重要性を知らないのでメデイアで覚えた過激な言辞を連ね相手は辟易して(バカにし?)黙っていると言い負かしたつもりになっている未熟な若者同様の状況です。
この後で短期間メデイアが持ち上げていたシールズの活動を紹介しますが、未熟な学生レベルの未熟な単語をガナリたてていればそれが党内言論を支配してしまう変な党(学生自治会レベル)になっていたのではないでしょうか?
一般党員の発言力が大きいといかにも足元重視の民主的イメージですが、日常的民意汲み取り作業・こまめな庶民のお世話活動をしない政党の場合、民意の洗礼を受けない観念的グループの支配に堕する副作用の方が大きかったようです。
社会党では一般党員(官公労中心の組合活動専従者・プロ活動家)がいわば党のオーナーで、議員はその代弁者?という位置付けだったように見えます。
当時「議員政党」というメデイア・有識者?の批判が流布していた印象(50年前後前の記憶ですのでどの時点で流布していたか不明)ですが、メデイアの振り付けに頼る社会党ではメデイアの正論そのままに議員は上部構造であって、「草の根の党員こそが主体であるべき」という意識が強く支配するようになっていたようです。
テレビに出る有識者(その頃出てくるメデイア好みの有識者と言えば多くは一党独裁社会を暗黙のうちに理想モデルとする傾向)の意見では、代議員は党が推薦するもので一般国民の支持を受けていないので党員の代弁者になるのが民主主義的?で良いのですが、民主社会においては思想の自由市場・選挙の洗礼を受ける議員こそ民意に最も近いグループです。
商人で言えば本社企画課の人よりも店舗販売最前線で働いている人に当たるのが議員であり、小売店に売り込む営業マンに当たるのが日常活動で民意を吸い上げる役割を果たすのが党員であり、この両輪が機能することによって民意対応できるのです。
これがうまく機能していれば、一般党員と議員との意見がうまく噛み合うのですが、社会党の場合、官公労大規模労組に票田を頼るようになっていったので、議員も党員も大規模労組への営業?活動に特化していったので一般国民意識の吸収システムがなく、民意と大幅に遊離して行ったように見えます。
本来の営業の場合、得意先の意向を必死に把握しようとする結果自ずと顧客の求めるところを吸収するのですが、社会党や共産党上層部と労組の場合、上から目線・・蒙昧な下部組織・現場労働者を教育する使命感で現場「学習会の講師になってきてくれた先生」なので、末端は中央の方針に従わせる教化対象であって組合員・現場から学ぶシステムではありません。
〇〇思想や、毛沢東語録その他偉大な領袖発言の学習会が盛んでした。
(論理的でないから)難解な左翼用語を、学習会で繰り返し耳にしているとわかったような気持ちになるのか?おべんちゃら的「裸の王様よろしく」教化に来てくれた先生に擦り寄る一定数が生まれ、それが組合中堅幹部等に上がって行く・中央から講師になってきた先生は分かったような気がする現場幹部と意気投合して「君らはよく理解しているようだが、あいつはまだまだだもっと教育しないとな!」などと意気投合して帰っていくのでしょうか?
囲い込んだ組織内でしか通用しない思い込みの激しい造語・・左翼用語の刷り込みに頼っている弊害が表面化した分岐点・・象徴的事件が国民人気のあった江田三郎氏の失脚・・脱党でしょう。
江田三郎氏に関するウイキペデイアの記事からです。

政界進出
1946年に日本に引き揚げ、日本社会党に入党。左派の活動家として頭角を現す。1950年に参議院議員に初当選し、1951年の左右分裂後は左派社会党に属した。
江田ビジョン」と構造改革論
1960年総選挙の頃より、江田は構造改革論を社会党の路線の軸に据えようとした。これは、日本社会の改革を積み重ねることによって社会主義を実現しようとする穏健な考え方で、これまで権力獲得の過程が曖昧であった平和革命論を補強しようというものであった。しかし、労農派マルクス主義に拘泥する社会主義協会がこれに反発し、江田ら若手活動家たちの台頭を恐れた鈴木茂三郎・佐々木更三らも構造改革論反対を唱え始める。
1962年、栃木県日光市で開かれた党全国活動家会議で講演した際、日本社会党主導で将来の日本が目指すべき未来像として
アメリカの平均した生活水準の高さ
ソ連の徹底した生活保障
イギリスの議会制民主主義
日本国憲法の平和主義
を挙げ、これらを総合調整して進む時、大衆と結んだ社会主義が生まれるとした(「江田ビジョン」)。これが新聞報道されると話題となり、江田は雑誌『エコノミスト』にこの講演をもとにした論文を発表し、世論の圧倒的な支持を得た[6]。
1977年の党大会では社会主義協会系の活動家たちから吊し上げられる。この結果、江田は社会党改革に絶望して離党しようとしたものの、離党届を受け付けられず、逆に除名処分を受けた。

党再生の切り札と目された希望の星・・江田三郎氏を教条的左派が強硬に葬り去ったのち、社会党は誰にも相手にされない長期衰退過程に突入していきました。

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