米国では州ごとの民族的気質の違いがないために、Aという人の人物属性を知るためにはどこそこの州出身という紹介より、日系、ドイツ系、スペイン系かアイルランド系かなどの特定の仕方が、一般的です。
ケネデイの紹介ではアイルランド系が強調され、トランプ氏の場合、ドイツ系という紹介がされていました。
州の連合体と言っても州単位の民族属性が低いために、独立戦争に参加した各地域を個性のあるNationsではなく、独立戦争時の地域単位をのことを stateと表現したのでしょうか。
ところで州とは日本語翻訳であり米国自身が、「州」と表現しているわけではありません。
ちなみに日本語で州とい翻訳しているのは、もともと漢字の州の流用から発展したものですが、中国歴代王朝ごとに行政単位としての州の位置付けがガラリ何回も変わっているので中国の使用例を研究する意味があまりないので、日本がアメリカのステートを州と翻訳した当時の日本国内用法を見る方が合理的でしょう。
私の個人感想ですが、詩文教養が公卿階層から平家の公達に及び(忠度については平家物語にも出てきますし西行法師も同時期です)に戦国時代には地方でも有力武士になると、太田道灌でも古歌を知らないのを恥ずかしく思うほど地方武士に詩歌の道が広がり、江戸時代に入ると下級武士一般どころか町人階層にまで教養が広がった勢いで、いわゆる教養をひけらかす風潮が広がっていたように思えます。
水戸黄門など通称がいつから出てきたか知りませんが、日本の官位をそのまま言うのは野暮でそれをから(中国)風に言うとこうなるという教養系をひけらかす系の言い方が流行った時代になっていたことにより、日本古来からの上毛野国、信濃国、紀伊の国、尾張国という代わりに上州、信州、紀州、尾州というのがかっこよくなっていたように思われます。
州に関するウイキペデイアの解説です。
翻訳語としての「州」[編集]
東アジアにおける地方行政単位としての州の用例から転じて、ある国家の中で、国家に直属し、広範な領域を持っていたり、高度な自治権を持っていたりする行政単位のことを、「県」ではなく「州」と訳す場合がある。特に、アメリカ合衆国やオーストラリアのステート (state) 、イタリアのレジョーネ (regione) 、カナダのプロヴィンス (province) 、ドイツのラント(連邦州) (Land) 、スイスのカントン (canton) / (Kanton) 、マレーシアのネゲリ(Negeri)のように一定の主権を持ち、連邦を構成する支国またはそれに匹敵する広域行政区画はほとんどの場合「州」と訳され、「県」と区別されることが多い。
中国の省やフランスの地域圏 (région) も州に相当すると考えられる。ただしすでに述べたとおり、中国の州は省と県の間であり、注意が必要である。
上記によるとドイツ、スイスなど旧世界では歴史経緯によるようですが、米国やオーストラリアなど新天地の場合、民族的特性に関係なく植民した地域区分けに始まる・・中央政府の都合による行政単位であるが、高度な自治権を持つか否かに着目した翻訳のようです。
米国の州自体が本国の支配都合上の地域区分け・・地域名称的効能しかなく・・民族的価値観の一体感に依拠しないので、自治権があるとはいうものの自治政府に対する帰属意識がほとんどない点が特徴です。
第二次世界大戦後アフリカ大陸の独立国は、旧植民地の領域ごとで独立しているので世界地図上に定規で引いたような一直線の国境になっている国が多いし、そうでない場合も欧州の植民地支配地の領域のまま独立しているので、現地種族居住地域が分断されていたり、複数種族が一つの植民地になっていた結果独立後の内政は複雑です。
独立後のアフリカ諸国で血を血で洗うような種族間抗争の結果大虐殺が頻発するのは、植民地支配の置き土産です。
中東も同様で現在トルコとシリア関係がややこしいのはクルド族がトルコ領内とシリア領内に分断されていることが大きな原因になっているのが知られます。
アメリカの諸州は、地域住民の生活習慣や言語の一体感によって領域が決まったのではなく植民地経営した本国の都合と主に英仏の植民地争奪戦の結果で決まったものですから、アフリカの独立国の線引きと根が同じです。
米国は英国から独立したので、ついイギリス植民地=英国人が母体のような印象ですが、実は北米地域ではフランスやオランダ島の西欧諸国の植民地がバラバラと広がっていたのに対して、いわゆる英仏七年戦争の北米版として、抗争を繰り広げて徐々に英国が支配地を獲得していったにすぎず、元々の移民は西欧諸国のいろんな民族がバラバラに植民していた歴史です。
ニューヨークはオランダの植民地ニューアムステルダムが英蘭戦争の結果英国植民地になり英国都市名ヨーク市に改名したものですし、元はオランダ人入植地でした。
このような結果ですので、地域民族特性など育つ暇がなかったでしょう。
明治以降の都道府県制度の場合でも、古くからの分国に基礎を置く地域ではなお県民性は濃厚で一体感も濃厚です。
信濃国と木曽の国が合体した長野県では南信北信地域での対立が有名ですしどこそこの出身と紹介されるとその地域出身者としての気質が瞬時に理解可能です。
千葉県のように政府の都合で大きな川で県境を区切り、地図を見ればかり良いようにあっさりと区切った県でしかも、その後東京隣接通勤住宅地として発展してきたので新住民が多くて民族的個性があまりありませんが、それでも縄文以来の豊かな環境のもたらす地元民の大らかな気風がそのまま房総(安房国と上下総国)の県民気質に自然に染まっていく感じです。
古代から・・真間の手児奈で知られる葛飾郡(こおり)が、江戸川で真っ二つになり一方が東京、一方が千葉県に、利根川を挟んでいた下総国の相馬郡が茨城と千葉県になるなど、本来川の両岸が流域経済文化圏を形成していたのを無視して明治政府はこれをぶった切ったのです。
しかし、江戸川両岸葛飾地域は昔からの民族的一体感の結果、信用金庫・組合関連で言えば両岸地域の金融事業の一体感が目立ちます。
利根川両岸の旧下総国でも同じで潮来や鹿島、神須町などは事実上千葉県経済圏に入っています。