自然人と法人2(実存主義)

現行民法制定の起草委員であった富井政章氏の現行民法典編纂過程に関する民法言論がネットに出ています。
ウイキペデイアによれば富井政章氏は以下の経歴です。

民法典論争では、フランス法を参考にしたボアソナードらの起草にかかる旧民法は、ドイツ法の研究が不十分であるとして穂積陳重らと共に延期派にくみし、断行派の梅謙次郎と対立したが、富井の貴族院での演説が大きく寄与したこともあって旧民法の施行は延期されるに至り[1]、梅、穂積と共に民法起草委員の3人のうちの一人に選出された。商法法典調査会の委員でもある。

著書発行は1922年ですが、自分が明治29年成立の民法典起草委員であったときの歴史証言になる論文です。
以下私権の享有主体に関する部分の引用です。
https://ja.wikisource.org/wiki/%E6%B0%91%E6%B3%95%E5%8E%9F%E8%AB%96

民法原論 第一巻総論
作者:富井政章
1922年
第3編 私権の主体[編集]
第1章 汎論
権利の主体たることを得る者は法律上人格を有する者即ち自然人及び法人の二とす。
何れも法律に依りで人格を有する者なるが故に法律上人と称すべき者なることは一なりといえども民法は便宜上世俗普通の慣例に従い人なる語を狭義に用ヰたり。即ち民法に所謂人とは法人に対し専ら自然人のみを指すものと解すべし。
権利の主体たることを得るを称して権利能力と謂う。
民法に所謂私権の享有とは即ちこれなり。権利能力は法人に対してその範囲に制限ある外何人といえどもこれを有するを原則とし身分,宗旨,姓,年齢等に依りで差別あることなし。即ち私法上においては各権利の主体たることを得るものとす。
而して権利の目的物たることを得す。
この公の秩序に関する原則にして何人といえどもその人格を放棄することを許さざるなり。彼の奴隷及び准死の制度の如きは既に歴史上の事迹に属し近世の立法例は特にこの原則を明示することを必要とせざるに至り。
但し私権を享有する程度には差別あり。或一定の身分を有すること又は受刑の結果等に因り特種の権利能力を失う場合なきに非ず然りといえどもこれ何れも特例にして人格を具有せざる一階級の者あることを認める趣旨に非さるなり。
権利能力に対するものを行為能力と謂う。
行為能力とは法律上の効果即ち権利の得喪を生ずべき行為を為す適格を謂う。行為能力に法律行為能力と不法行為能力の二種類あり。何れも意思の発動に外ならざるが故に権利能力と異なりで意思能力を具えさる者はこれを有せず。例えば嬰児又は喪失者の如し民法において無能力者とは法律行為能力を制限せられたる者を謂うなり。

人は権利の主体であり客体たるを得ず・・すなわち人身売買・・奴隷制禁止の思想です。
民法制定の沿革部分(引用しませんが)によれば、旧民法と新民法の違いは細かい解釈の変更ではなく総論を置き、重複を避けるなど体型整備が基本でドイツのパングステンシステムを採用した程度の変更であったことが分かります。
ボワソナード民法(旧民法)はもともとナポレオン法典・・近代市民法の原理を骨格にするもので、新民法(現行法も)近代法の精神等の内容面で大きな変更がなかったようです。
以上によると「私権の享有は出生に始まる」との大宣言(人種性別等によらず全面的平等理念)は、明治初年頃には日本社会の支配的意見だったことがわかります。
世襲というか設計図(今風に言えばDNA配列)が生まれる前から書かれている人生も辛いものでしょうが、実存哲学のように自分で切り開く自由も辛いものです。
「能力次第だから自由にしろ」と言われ、自由恋愛と言われても自分で相手や職場を探せる能力ある人は限られる・・環境のせいにする逃げ場がないのは、凡人にはつらいもので、精神疾患が増えます。
サルトルはこれを「自由の終身刑」とも主張しているようです。
楽直入氏の日経連載「私の履歴書」が今日で終わりましたが、楽焼きの伝統を承継する楽家の長男として生まれた(伝統承継の義務?)苦しみを経て成長していく過程に心打たれますが、それでも家業(生まれる前から書かれている設計図通り)生きるかは慣習・利権継承の問題であって法が強制するものではない・家の伝統を守らず別の道に進むかを決める決定権は本人にあります。
徳川期に大老の家柄に生まれた酒井抱一が栄光の武門を世襲する恩恵を受けるより、一介の絵師になったように、世襲制といってもリアルにみれば、世襲の恩恵より大きなチャンス(個人能力)があればその権利を拒否し枠外に踏み出すことが可能な社会でした。
世襲制といっても世襲する義務があるのではなく、相続権?を行使するかどうか自由のある社会でした。
たまたま安定成長時代に入ったので、よほどの才能がある人以外には将来が保証された相続を選ぶ人が多かった時代だったという程度のことでしょう。
大老というビッグネームを捨てた(跡取りではなかったので、ハードルが低かった)彼以外にも、西行に始まり、芭蕉、平賀源内その他武士・世襲の家禄)を捨てて、文化人になって行った人(山東京伝や滝沢馬琴など)が一杯います。
楽直入氏の生き方を読むとまさに実存者の行き方です。
苦しかったといえば、高名な彫刻家を父に持つ高村光太郎も「僕の前に道はない・・」と同じような苦しみを抱き続けたのでしょう。
高村光太郎氏も父の権威に反発しながらも、詩だけでなく結局?彫刻もやっています。
戦後思想界を風靡したサルトルの実存主義は、行動主義でもあったので・・共産革命や市民・学生運動に結びつく傾向があってソ連崩壊後輝きを失って行きますが、私にとっては青春の一コマ・・セピア色の残映です。

自然人と法人1(私権の享有は出生に始まる)

民法は「私権の享有は、出生に始まる。」とナポレオン法典の思想そのまま導入・大きく出て、当時最先端の平等観をどーんと提示しました。
家柄や身分や性別、人種に関係なく、生まれた瞬間に100%の私権を享有すると宣言したものです。
人には外国人と日本人の区別があるだけです。
それだけではなく、それまで、徳川家、住友家などというものの、その当主の人格を離れて独自の権利主体でなかったのですが、各種集団にも一定の手続きを踏めばそうした主体になれる思想・・法の作った人=法人の二種類あることを同時に宣言しています。

民法
(明治二十九年法律第八十九号
民法第一編第二編第三編別冊ノ通定ム
此法律施行ノ期日ハ勅令ヲ以テ之ヲ定ム
明治二十三年法律第二十八号民法財産編財産取得編債権担保編証拠編ハ此法律発布ノ日ヨリ廃止ス
(別冊)
第二章 人
第一節 権利能力
第三条 私権の享有は、出生に始まる。
2 外国人は、法令又は条約の規定により禁止される場合を除き、私権を享有する。
第三章 法人
(法人の成立等)
第三十三条 法人は、この法律その他の法律の規定によらなければ、成立しない。
2 学術、技芸、慈善、祭祀し、宗教その他の公益を目的とする法人、営利事業を営むことを目的とする法人その他の法人の設立、組織、運営及び管理については、この法律その他の法律の定めるところによる。
(法人の能力)
第三十四条 法人は、法令の規定に従い、定款その他の基本約款で定められた目的の範囲内において、権利を有し、義務を負う。
(登記)
第三十六条 法人及び外国法人は、この法律その他の法令の定めるところにより、登記をするものとする。

人は生まれた時から権利の主体であり、法人は法律の規定により成立した時から権利の主体になるという並列的な関係です。
ただし人は生まれつき、人としての規格に合致するかに関係なく仮に5本の指がなくとも歯が欠けていても目が見えなくとも人は人です。
ある人が集まりさえすればいいのか?と集まり、今から法人になると宣言しても法の定める一定の規格に合致しないと法「人」とは認めない仕組みです。
薬品は、国家が製造過程から介入し、薬品と認めた時から薬品であり、それまでは薬品でない(毒かも知れない?)というのに似ています。
普通自動車は、国が一定の規格に合致していると認めて認証(登録)した時に公式に道路を走れる車になるし、飛行機も同じです。
家の場合、建築基準法で定める以下の規模であれば許可なしに作れますが、それ以上になると建築基準法で定める細かな規制があってその基準に合致しない建築は違法ですし、場合にはよっては除却命令の対象になります。
人の場合、生まれてくる子が大きかろうと小さかろうと将来100メーター何秒で走ろうとどういう子供を産むかの事前申請や許可が入りません。
生まれた後の予定・この子はどういう仕事をしますと世間に表明してから生む必要も義務もないし子供も生まれてから親の約束に縛られる義務もありません。
人の規格に合わないからと建物のように違法建築物として除却されることもありません。
ここまでくると、戦後我が国で大流行したサルトルの実存哲学を思い出します。
人はあらかじめ設計図などなく(神は死んだ前提)、世界内存在として投げ出された存在・実存が本質に先行する思想に意外と合致します。
私の青春期にボーボワールと一緒に来日して慶応で講演して大ニュースになった記憶です。
本質もわからず、ただ青春の熱気だけでこれに反応していた若者でした。
https://www.mita-hyoron.keio.ac.jp/foreign-visitors/201601-1.htmlに出ていました。

朝吹 亮二(あさぶき りょうじ)慶應義塾大学法学部教授

ちょうど半世紀前、1966年の9月、慶應義塾およびサルトルの日本語版全集を出版していた人文書院の招待でサルトルとボーヴォワールが訪日し、三田山上で特別講演会が開かれた。

民法3条の条文は、明治29年国会通過の法案ですし、私権享有の考えはボワソナード民法時代からありそうな市民法の思想ですから、サルトルの実存主義などまだないとき・・いわゆるデカンショ・デカンショで半年暮らす(デカルト・カント・ショウペンハウエル)デカンショ節全盛の時代だったはずです。
ナチスの頃全盛期だったハイデガーもまだ若手学者か学生程度の時代かな?
こういう時期に「私権の享有は出生に始まる」→「人は設計図なしにただ投げ出された存在」(ニーチェの「神」は死んだ」を前提にしたサルトルの論理などという思想があるわけがないとも言えますが、そうはいっても存在論が20世紀にはいって大きなテーマであったことは間違いないところでしょう。
学者は先人の思想を受け継ぎ発展させるものですから、サルトルが大きな影響を受けていないとは言えません。
当時はまだDNAなど知らぬ時代ですので、文字通り設計図なく生まれて投企された実存・・サルトルの言うように自ら主体的にアンガージュマンしていく存在と言う実存主義哲学の時代でも解釈応用できそうな条文です。

個人事業→法人化3

明治の改革は、既存集落を積み上げる形式での再編成ではなく、まず既存幕府領を府としてその後に大阪京都以外の府を廃止して県とし、大名領地ごとに全て藩→府県藩三治制→(廃藩置)「県」とし各地の飛び地の交換分合と各県の併合を繰り返し、ほぼ現在の都道府県を形成したうえで、律令制時代から手付かず・自然変化に委ねていた郡内の小集落の再編を行いました。
まず郡内の単位を大区小区の2段階に分け、小区以下の原始集落の統合を経てその後の改革で市町村制度になって現在に至っています。
市町村法人化はその後になるのでしょうが、さしあたり地域によって違うのではなく、全国一律に人口何万以上を市とし、何万以下何万以上が町とし万に足りない単位を村・・市町村の規模に応じた内部組織の規格を決めれば、全国的に統治が行き渡りやすくなり、国民にとっても相手が市か町か村の規格で判断出来て便利です。
人口規模に応じた内部組織の画一化を図ったものでした。
政府自体明治初年の政体書発行に際して、しょっちゅう変わることについての言い訳を書いていますが、結果から見ると以下の通り見事です。
原文書き出しは以下の通り「徒ニ変更ヲ好ムニアラス」です。
https://ja.wikisource.org/wiki/政体_(慶応四年太政官達第三百三十一号)

政体 (慶応四年太政官達第三百三十一号)
去冬 皇政維新纔ニ三職ヲ置キ続テ八局ヲ設ケ事務ヲ分課スト雖モ兵馬倉卒之間事業未タ恢弘セス故ニ今般 御誓文ヲ以テ目的トシ政体職制被相改候ハ徒ニ変更ヲ好ムニアラス従前未定之制度規律次第ニ相立候訳ニテ更ニ前後異趣ニ無之候間内外百官此旨ヲ奉体シ確定守持根拠スル所有テ疑惑スルナク各其職掌ヲ尽シ万民保全之道開成永続センヲ要スルナリ
慶応四年戊辰閏四月 太政官

本文引用略

明治の改革は朝令暮改のように1年前後で次々と変わっているものの
結果から見ると一定の方向に向けていかにも当初からの計画があって順次実行していったかのように、在野の動き・・必要な時に自由民権運動や不平士族の乱など必要なガス抜きとともに必要部分を法案に取り入れするなども含めて数十年単位の動きが一糸乱れず実現していった見事さに驚きます。
民法商法等の基本法案整備も法律専門家だけの議論からロエスレル商法やボワソナード民法を一旦成立させて、法律という形で国民や国外に見える形にしたことで条約改正運動への足がかりにするほか、(裁判権が日本にない不平等条約は国辱だ!と言っても日本には裁判するべき法律がなかったのです・・)多くの国民・・法律専門家だけでない実務家(維新以降数十年経過で現実に国際的な商取引に参加している実業家が増えてきた段階で)も議論参加できるようになったので、国情と最新取引動向を踏まえた現実的制度になった結果、明治29年制定の現行民法、商法・・これが100年以上経過後の今でも現行法として骨格が残っているほど柔軟現実的な基本法典に結実したのでしょう。
都道府県市町村制度も現行体制(私の戸籍謄本では東京府東京市〇〇区出生となっているのを見た記憶ですので、東京府だけ戦時中に都になった記憶です・)として今も残っています。
その後は、コンピューター化への対応能力や水道事業の大規模化等に伴う事務作業の高度化適応に向けた市町村合併や広域連合体化など現場の必要性に応じた大規模化の流れです。
明治維新以降の約30年間の疾風怒涛の大変革時期を乗り切った民族の叡智・・サッカー等のスポーツで言えば以心伝心の見事なチームプレー同様に長年培われた民族の訓練・・暗黙知の見事さに驚きます。
地方単位の組織化〜法人化の流れに戻ります。
最小単位の村が、自然発生的集落を数十個も統合する規模になると集団固有の意思や行動のために組織代表者が必要ですし、その選任退任基準を明記する必要があります。
従来のいわゆる暗黙知で「何となく人望のある人の意見に決めた」というだけでは透明性に欠けることになります。
郡以下の地方末端組織が自然状態のままだったのを地方公共団体化=団体そのもの固有の意思表明や行動ができるようになると意思決定過程も透明化する必要が生じます。
集団が固有の主体性・法人格を持つにしてもその集団が5〜10人の小規模であれば、私が学童期に見知っていた「寄り合い型民主議」で足りるのでしょうが、明治以降の村は、それまでの数十の集落(大字とういう名に変えて)をまとめた大掛かりなものになってきたので、地方の民主化で村議会ができても一つの字(旧村落)に一人の代表を出せるものではなくなりました。
明治以降の村は地方制度施行と同時に官の任命する村長になったので、村議会設置要求がおきたのでしょうが、議会で反対賛成の論理による討論では従来型の阿吽の呼吸で決める寄り合い民主主義になれた国民にはよそ行きの形式張った会議には戸惑うばかりです。
日本人得意の擦り合わせ・・暗黙知・擦り合わせ技術と、以心伝心とは表裏の関係でしょうが、この頃から徐々に日の目を見なくなってきたようです。
しかし今でもサッカー等のスポーツでのチームでの活動その他すべて緊急事態の政治決断は、一々言語化していると間に合わないので暗黙知で集団行動するものです。
それまでの自治組織というか?みんなの意向・・・言語化しきれない本音の擦り合わせ・・・狭い空間で膝擦り合わせて集団意思を方向付けていく「寄り合い」民主主義に慣れ親しんだ多くの人が不満を持ちます。
この穴を埋めてきたのが、自民党政治家のドブ板政治でしょう。
とはいえ、明治以降の近代化→三井でも住友でも個人事業が大きくなっただけでなんとなく決めて行くのでは限界がある・・事業体が生身の人間を離れて、一個の独立した人格主体として行動するには内部組織も意思決定過程も透明化していくしかないのも現実です。
これからAI時代が来れば、ロボットが人格を持つような法制度を作ろうとしたのが19世紀の西洋思想だったのでしょうか。
これを意識して、明確な法制度・集団にも権利主体性を与えたのが明治民法・現行民法であり現行商法です。

個人事業→法人化2(NPO)

江戸時代の集落の運営について、村方役人といったり地方役人といったり、地方役人の三役と言うのも通称にすぎません。
結果的に三役と言う制度自体がないし、乙名(後の「大人」の語源?)とか庄屋、名主などの名称あるいはその権限職務も地域や時代ごとにバラバラです。
現在では、会社(社団法人)や財団法人、公益法人等の各種法人の他NPO等々の各種組織が法制度として整備されているのと違い、江戸時代までの末端集落は自然発生的集団である以上運営方法も自然発生的・・法的規制がないので必要に応じて多種多様な内部規範や名称があったと思われます。
古くは保元平治の乱の原因の一つとなった藤原氏の「氏の長者」制度?あるいは源氏の棟梁・・正式には源氏の氏長者(いわゆる村上源氏)が知られていますが、それも慣習的に決まっていただけでしょう。
2月20、21日に入会権のテーマで少し説明しましたが、入会権があるかどうかもわからないようやく何か、権利がありそうとわかってもどういう権利かスラ法で決められない・・内容すら慣習に従うというもので地域によって内部規律のあり方(集団意思決定方式)や権限が違う前提でした。
これでは取引する相手も困ります。
近代社会は、〇〇という商品名が同じであればどこへ行っても同じ商品やサービスが提供される・知らない者同士でも取引がスムースに行くのが便利とする基本です。
近代法の原理は、取引の安全・罪刑法定主義と同根で、遠隔地未知の土地に行っても名称だけ分かればどういうサービスを受けられるかどういう権利があるのかはっきりわかるのが合理的とされる社会です。
小さな子度を連れてしょっちゅう旅行していた頃に行き先によっては歯ブラシがいるのかいらないのかなど(今は規格化されていてそういう心配はないですが・・)準備に大変でしたが、シェラトンホテルというのがあってどこへ行ってもホテル規格の一定サービスが決まっているのを知ってこれは便利だと感心したものでした。
弥次喜多道中同様に意外性も面白いのですが、子供連れの場合何がいるかいらないか(熊本の全日空ホテルに泊まった時に、赤ちゃんのミルクで苦労したことがあります)の事前情報が重要です。
法制化するというこということは、車のメカがほぼ同じ(・・ブレーキとアクセルのペダルの場所が違うと戸惑うでしょう)というのと同じです。
もう一度条文を引用します。

民法
第二百九十四条 共有の性質を有しない入会権については、各地方の慣習に従うほか、この章の規定を準用する。

明治政府の地方制度は、幕末期に存在していた多様な名称や組織のある中で「村」という名称を採用してその内部意思決定機関を政府の意図に合うように「村長」を頂点とする組織体に統一したということでしょう。
ボランテイア組織などは、ある程度組織化していても集団そのものの法人格がなかったので、活動に支障をきたしていましたが、神戸大震災以降ボランテイア活動の価値に注目が当たった結果、簡易なNPO法人化の道が開かれました。
法人化する以上は、内部規律はボランティア組織の自由勝手というのでなく、法の設定した基準に合致する組織や代表者選定ルールを備えるなどの設置基準を満たせば法人格を与える・法制化されました。
NPOに関するウイキペデイアの説明です。

特定非営利活動法人(とくていひえいりかつどうほうじん)は、1998年(平成10年)12月に施行された日本の特定非営利活動促進法に基づいて特定非営利活動を行うことを主たる目的とし、同法の定めるところにより設立された法人である。NPO法人(エヌピーオーほうじん)とも呼ばれる(NPOは、Nonprofit OrganizationあるいはNot-for profit Organizationの略。「NPO」も参照のこと)。 金融機関関係のカナ表記略号は、トクヒ。
従来の公益法人に比べ、設立手続きが容易であるため、法施行直後から、法人格を取得する団体が急増し、2008年(平成20年)10月末現在3万5000を超える団体が認証されている。特に従前は任意団体として活動していた団体が法人格を取得するケースが目立つ(任意団体では銀行口座の開設や事務所の賃借などといった、各種取引契約などの主体になれないケースがあるが、NPO法人であれば法人名で契約が可能である[5])

法人格のある村とそれまでの各種集落の違いは、慣習法的に権限が決まっているだけで誰がどういう権限があるか?
画一的組織でない分取引相手には不明瞭だったことになります。
相手にとっては他所でこういう人と取り決めたら効果があったのに別の集落では、この集落では名主だけではダメだなど多種多様では不便なだけでなく、集落側としても対外的に何かするには、名主というだけでなく「うちは名主だけ署名すれば有効になる仕組みだ」と証明しないと相手が信用してくれないとなればお互い不便です。
こんなことで重要文書には多くの部落で、(公文書の連署の慣例同様に主だった人が3人も署名していればのちに無効問題が起きにくいということから)地方三役の連署が普通になってきたのでしょうか?
明治政府によって政府以外に公的組織がなかった・大名も個人事業主でしかなかったのを、「藩」という公的組織に格上げし、続く廃藩置県で短期間にこれが廃止されて県=政府直轄組織となって県令が配置されることになりました。
律令制崩壊後の郡は地域名としての機能しかなかったのでこれと言った組織化しないまま、その郡内の自然発生的集団に任せていた末端集落を人口密集度に応じて市町村に分類して新編成して独立法人(現在の地方公共団体は公法人です)化させ、その代わり組織基準を明確化したことになります。

個人事業→法人化1(府藩県三治制)

昨日見た享保の人口等の調査命令(布達)のウイキペデイアでは、「郷帳」というデータも天保時代まで残っているところを見ると、郷単位で調査報告されていた実態が垣間見えます。
結局、村とか郷とか言い方がいろいろあったようだと言うことでしょうか?
そもそも地方制度は、律令制以降明治の地方制度・・大工小区→市町村制まで、正式制度として公布された事がない・律令制の正式名称「郡」以下の地名は事実上の自然発生的呼称・俗称に過ぎなかったと理解すれば良いのでしょうか?
そもそも幕藩体制と所与のもののように学校教育では習って来たし、小説でも〇〇藩家老とか土佐藩から坂本龍馬が「脱藩」したなど洪水のように紹介されて来ましたが、10年ほど前にこのコラムで紹介しましたが、慶応4年4月の三治体制によって初めて「藩」という名称が公式に出て来たにすぎません。
https://kotobank.jp/word/引用です

府藩県三治制
府藩県三治制(ふはんけんさんちせい)は、明治初年の地方行政制度。

明治初期の地方統治制度。新政府成立によっても従来の藩は暫定的にそのまま存続したが,旧幕府直轄領については,初め鎮台,次いで裁判所の名称が付され,慶応4 (1868) 年閏4月「政体書」が公布されて裁判所はさらに府および県と改称され,江戸府など主要な9地方が府の名称を与えられ,府,藩,県の三治制となった。
明治2 (69) 年6月の版籍奉還では,従来の藩主は知藩事となり,次いで7月,府は東京,大阪,京都だけで,他は藩および県とされ,同4年7月の廃藩置県に及び3府 302県となったが,その後3府 43県に整理された。府,県の職制は,知事,大参事,小参事,大属,少属,史生などであって,版籍奉還後は藩の職制もこれにならって改称された。

慶応4年四月の政体書発布によって、幕府から接収した政府直轄地を府県とし、諸侯統治下を「藩」とする三治体制が宣言されたにすぎません。
それまではの大名文書は、今でいう法人格のある組織代表でなく、肩書き付きの氏名?「浅野内匠頭長矩」「松平〇〇の守何々」等の公式文書を書いていたのです。
政体書発布以降初めて大名の公式名称は〇〇藩主誰某の名=団体を代表する公式文書発行となりますが、それまで個人文書と一定集団を代表するときの公式文書の区別もはっきりしなかったことになります。
せいぜい公式な時には官名表記するかどうかの違いくらいでしょうか?
弁護士会会長名で文書を出すときは弁護士会という団体の存在を前提にした公式文書となりますが、それは同時に「弁護士会」という集団の存在を表していますが、江戸時代までの公式文書は所属する団体名がない・吉良上野介という官名があっても、彼が上野国という国家組織の介(次官)としての公式発言をしているのではなく、そういう肩書きのある個人を特定しているだけのことでした。
古代氏族制度とか江戸時代の家の制度というものの、今の会社のように、「家」という集団組織の資格・・権利義務を認めたものではなく、単にそういう集団形態が多かったというだけのことであり、集団の事実上のトップ(個人経営者)が知行(営業基盤)を得たり失えばその家族もその影響を受けるだけのことであって、制度として決まっていたものではありません。
大名家は個人の家が大きくなっただけのことであり、官名付きの文書や処理はどこそこの誰それという個人特定に必要な肩書き程度の意味でしかない母体集団名でない個人文書だったことになります。
政体書以降の版籍奉還お願いその他公式文書が全て「松平何々の守」の名称だけでなく、「〇〇藩主松平〇〇の守何」々の名で行うようになっていきます。
藩制の布告は集団が独立の当事者となり大名家当主は、その代表者として行動すべき萌芽を示した画期的なことでした。

(上記引用文第二段落の「版籍奉還では,従来の藩主は知藩事となり」とあるので一見昔から「藩」と言われていたように見えますが、従来といってもホンの1年間に過ぎない・明治2年6月の版籍奉還の前に「藩」という組織名を与えられていたから、「従来」と書いて間違いではないのですが、今風に言えば、団体名を与えられてから実はまだ1年余しかたっていない「従来」です)
慶応4年までの大名家は、商売人やボランテイア集団が会社やNPO法人設立する前の個人事業体だったことになります。
政体書に関するウイキペデイアです

政体書(せいたいしょ)は、明治初期の政治大綱[1]、統治機構について定めた太政官の布告である。副島種臣と福岡孝弟がアメリカ合衆国憲法および『西洋事情』等を参考に起草し、慶応4年閏4月21日(1868年6月11日)に発布された[2]。同年4月27日頒布[1]。
冒頭に五箇条の御誓文を掲げてこれを政府の基本方針と位置づけ、国家権力を総括する中央政府として太政官を置き、2名の輔相をその首班とした。太政官の権力を立法・行政・司法の三権に分け、それぞれを立法の議政官、行政の行政・神祇・会計・軍務・外国の5官、司法の刑法官の合計7官が掌る三権分立の体制がとられたが、実際には議政官に議定・参与で構成する上局の実力者が行政各官の責任者を兼ねたり、刑法官が行政官の監督下にあったりして権力分立は不十分なものであった。地方は府藩県の三治(府藩県三治制)。 [1]

明治に入って集団そのものを一個の人格者扱いするようになるまでは、集団そのものを表す概念がなかったのですから、鎌倉時代以降の地域集団意思決定機構を?「惣」と言うもののこれも正式なものではありません。
その頃そのように言われていたらしいと言う程度のことでかっちりした制度があったわけではないので地域によって千差万別だったでしょう。

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