決定理由を不明にしたままですと、専門家の意見があれば「それで決まり!」と思う方が多いし、地震や火山噴火の素人の裁判官が、専門家集団の規制委の判断を覆せるのか?という素人向けの政治論が幅を効かせます。
紹介した産経の批判論も同根です。
産経引用続きです。
阿蘇山からの火砕流については、ゼロリスクを理由に伊方原発を立地不適とするのは社会通念に反する、と良識を示したものの、火山灰などの降下量に関して規制委にかみついた。
四国電力の想定は過小で、それを認めた「規制委の判断も不合理である」としたのだ。
高度に専門的な理学、工学知識が求められる原発訴訟での大胆極まる「決定」だ。審尋は、たったの1回だったからである。
ほとんどの民事事件は膨大な資料のチェック作業ですので、双方準備過程で攻撃防御を尽くし、これ以上の主張や提出証拠ないですか?と確認後決定日は追って指定となるのが普通です。
ちょっとした遺産分割審判でも数ヶ月以上の期間をおいて決定になることが多いので、原発事件のように膨大な資料を読み込み文書化するには、相当の期間を要するのが普通です。
本案訴訟と異なり、口頭弁論手続きがないので民事訴訟法の準用がないのですが、民訴では複雑事件では準備手続きが先行するのが原則で、準備手続き終結後新たな主張が原則として許されない運用です。
民事訴訟法(書面による準備手続終結後の攻撃防御方法の提出)
第百七十八条 書面による準備手続を終結した事件について、口頭弁論の期日において、第百七十六条第四項において準用する第百六十五条第二項の書面に記載した事項の陳述がされ、又は前条の規定による確認がされた後に攻撃又は防御の方法を提出した当事者は、相手方の求めがあるときは、相手方に対し、その陳述又は確認前にこれを提出することができなかった理由を説明しなければならない。
民事保全法
第三十一条 裁判所は、審理を終結するには、相当の猶予期間を置いて、審理を終結する日を決定しなければならない。ただし、口頭弁論又は当事者双方が立ち会うことができる審尋の期日においては、直ちに審理を終結する旨を宣言することができる。
最後の儀式的審尋が一回かどうかは決定の不合理性判断に全く関係ないし、退官前かも本来関係ない憶測です。
ほとんどの民事事件は膨大な資料のチェック作業ですので、双方準備過程で攻撃防御を尽くし、これ以上の主張や提出証拠ないですか?と確認後決定日は追って指定となるのが普通です。
ちょっとした遺産分割審判でも数ヶ月以上の期間をおいて決定になることが多いので、原発事件のように膨大な資料を読み込み文書化するには、相当の期間を要するのが普通です。
最後の儀式的審尋が一回かどうかは決定の不合理性判断に全く関係ないし、退官前かも本来関係ない憶測です。
昨日比喩的に想定される具体的危険判定の分類例を書きましたが、その例で境界値の場合で画一区分け困難な時に主査委員が問題点を整理して委員会にかけて委員会議決で決めることがあります。
主査委員の整理や意見は基本的に委員会承認事項ですが、承認事項として議題に上がるのとたたき台段階でみんなの議論を求めて具体的に甲論乙駁して結果が決まるのとでは議論の深みが違います。
形式論理で決めようがない最後のギリギリのところのプロ集団の総合判断を門外漢である司法権が覆すのは問題ですが、客観的当てはめが学会の通説に反していた場合、司法が不合理な決定として否定したのであれば、プロの判断を無視したのではなく逆にプロの総合値を尊重した判断となります。
つい最近の弁護士経験で言えばある関係者の「過失で死亡したかどうか」が問題になっている事件で死亡診断書には単純な「〇〇病で死亡」としか書いていないので当社に責任がないのではないか(専門家の判断なので、鬼の首を取ったかのように意気揚々とと保険会社が言っている)と相談されたことがあります。
チェックしてみると、その病名が現在の争点と両立しない概念でない・・その病名の場合なりやすい危険としてABCD等が列挙されていて、その事件は上記Bの事故があったかどうかが争点になっていたので、医師の診断はその可能性を排除するものでないことがすぐにわかったことがあります。
(その病気中でなければC事故があっても大事に至らないのが普通なのでその病気がなければ死亡しなかった=死亡とその病気との条件的因果関係があったことが明らかで医師の診断としてセーフの範囲でしょうか?)
例えば交通事故の結果、骨折→寝たきり→肺炎→死亡の場合、何を死因と書くかの問題と同じで、死亡原因を肺炎と書いていることと交通事故の有無とは直接の関係がありません。
条件的因果系列の中で、医師が死因としてどの部分を書いたかの偶然にすぎず、途中の事故を書いていなくとも途中の因果行為がなかった証拠にはなりません。
交通事故のように事故があったこと自体争いがない場合と違い、途中の事故の有無を当事者が争っていて救急車で運ばれた時点で既に死亡していると、生存中の処置は何もしていないので、付き添ってきた家族から病気中であったことと介護者に対する不満を聞いただけでは、医師はその不満が事実かどうか不明のためにかかっていた医師に紹介して、既往歴に間違いなければ客観性のある病名のみを死因と書いたと推定されました。
専門家の判断の場合でもその判断が争点に関係ある部分を直接チェックして論じた意見かどうかの吟味が必要です・上記例では死亡前の経緯を詳しく聞いた上なのか、既往症をカルテで見てあんちょこに?(状況不明のまま)この病気で死亡したという診断書を書いたのか不明なので、医師の状況把握時資料次第だからその点を詰めないうちに主張できないと説明をしたことがあります。
専門家意見の尊重とは、医療で言えば、その当時の学問レベルである事実(情報)しかわからない時にはそれ以上の精密検査技術が開発されておらずそれ以上正確な病態把握が不可能な場合、ABCの施術、投薬のうちどれが必要か不明という場合には経験豊富な医師の直感でどの選択をしたかで責任を問われないにすぎません。
病態解明が進んで、従来肝臓病としかわからなかったのがABC型に分類できるようになれば、肝臓病と判断して終わりにしないでさらにABCのどれかの判定作業に進む必要があります。
その検査をしていれば、C型とすぐわかったのに、C型に必要な治療をしないでAB型向けの治療をすれば、専門家の意見でも正しいのではなく、単純ミスです。
判断時点での学問水準・情報レベルによって、救急外来でその時点では肝臓病までしかわからず翌朝にならないと精密検査できないような状態であれば、その時点での応急処置として何をすべきだったかの次のテーマに移りますが、その時点でたまたま薬が切れていたら、あるいは救急治療室できる範囲の手術しかできない場合、次善の投薬や治療するしかないでしょう。
プロの判断を尊重すべきという論は、その時点での合理的選択肢がない場合に限って、高度な直感的判断によるしかない場面に限定されます。