公務員の任命に戻ります。
ある政権の役人に任命されてもこれに応じないのは、その政権不支持→小田原征伐になったのですが、この逆コース・・脱藩の場合もおなじ意味ですので幕末までは原則として(中期以降は建前だけ)死罪扱いでした。
脱藩に関するウイキペデイアの引用です。
戦国時代では、主君を変える行為は一般的に発生していたが、江戸時代に入ると、臣下の身で主を見限るものとして、許されない風潮が高まり、追手が放たれることもあった。これは、脱藩者を通じて軍事機密や御家騒動などが表沙汰になり、藩(藩主:大名)にとっては致命的な改易が頻繁に生じたことも一因であった。
しかし、江戸時代中期以降、泰平の時代に入ると軍事機密の意味はなくなり、慢性的な財政難のため、家臣が禄を離れることは枢要な人物でない限り事実上自由になっていた。もっとも、その場合にも法的な手続をとることが要件となっており、これに反して無断で脱藩した場合には欠落の罪として扱われて、家名は断絶・闕所、本人が捕らえられれば場合によっては死刑にされた。
明治に入っても、6年ころまでの有力者の下野は江戸時代の続き・反抗・危険勢力と見なされる社会だったようです。
下野すると各地の不平士族を糾合し反乱の旗印になることが多かったので・・西郷隆盛の場合は、国に帰ってしまうこと自体が事実上謀反準備行為的評価を受けて政府の圧迫誘導によって蜂起せざるを得なくなった・本当は賊軍ではないかのように歴史漫画等では描かれます。
ただし板垣だけは地元不平士族に取り込まれなかった・・いわゆる武断派だったのに反乱軍に担がれる方向に行かず、言論の自由・・民主化運動に特化していったのを見れば、個性人格面が重要ですが、それだけではなくバック・出身母体土佐藩の軍事力・士族勢力が強かった程度差だったかもしれません。
以上は直感的想像ですが小説家は私のような推論をしているようです。
板垣に関するウイキペデイア記載の人物評の一部です。
尾崎咢堂 「猛烈な感情と透徹せる理性と、ほとんど両立し難い二つの性質を同時に持っていた」
谷流水 「子供の時から習字が嫌い、読書が嫌い、物をしんみり考えることが嫌い。好きなのは鶏の喧嘩、犬の喧嘩、武術、それに大人の喧嘩でもあると飯も食わずに見物するというのだから今日このごろだったら中学校の入学試験は落第だね」
小説家の海音寺潮五郎や司馬遼太郎は「板垣は政治家より軍人に向いていて、ただ板垣の功績経歴から軍人にすると西郷隆盛の次で山縣有朋の上ぐらいには置かないといけないが、土佐藩にそこまでの勢力がなかったので政治家にされた」と述べている[22]。
不平士族の乱に関するウイキペデイアの引用です。
明治六年政変で西郷隆盛、江藤新平、板垣退助らが下野すると士族層に影響を与え、明治政府に反対する士族は「不平士族」と呼ばれた。
1874年に江藤が故郷の佐賀県で擁立されて反乱(佐賀の乱)し、1876年には熊本県で神風連の乱、呼応して福岡県で秋月藩士宮崎車之助を中心とする秋月の乱、10月には山口県で前原一誠らによる萩の乱など反乱が続き、それぞれ鎮圧された。
1877年には旧薩摩藩の士族が中心になり西郷隆盛を大将に擁立して、日本国内では最大規模の内戦となる西南戦争が勃発。西郷隆盛に呼応する形で福岡でも武部小四郎ら旧福岡藩士族により福岡の変が起こった
こういう不平士族の乱が頻発する中で、板垣や後藤象二郎、副島らのグループは、明治7年『民選議院設立建白書』を提出します。
いわゆる有司専制(大久保独裁批判)批判に対して、政府は意見対立の都度下野させて反政府運動に追い込むのでは政権が安定しませんので,知恵を絞って?明治 8 年(1875)1月の大阪会議(大久保や木戸と下野した板垣との会議・・板垣は参議に復帰)によって下野組の一人である板垣との協議開催に成功します。
この会議で、木戸孝允の構想する立憲政体案が内定し、(板垣も同意)同年4月に「立憲政体樹立の詔」が発せられました。
http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kenpou.nsf/html/kenpou/chosa/shukenshi027.pdf/$File/shukenshi027.pdf
朕 即 位 ノ 初 首 ト シ テ 群 臣 ヲ 會 シ 五 事 ヲ 以 テ 神 明 ニ 誓 ヒ 國 是 ヲ 定 メ 萬 民 保 全 ノ 道 ヲ 求 ム 幸 ニ 祖 宗 ノ 靈 ト 群 臣 ノ 力 ト ニ 賴 リ 以 テ 今 日 ノ 小 康 ヲ 得 タ リ 顧 ニ 中 興 日 淺 ク 内 治 ノ 事 當 ニ 振 作 更 張 ス ヘ キ 者 少 ナ シ ト セ ス 朕 今 誓 文 ノ 意 ヲ 擴 充 シ 茲 ニ 元 老 院 ヲ 設 ケ 以 テ 立 法 ノ 源 ヲ 廣 メ 大 審 院 ヲ 置 キ 以 テ 審 判 ノ 權 力 ヲ 鞏 ク シ 又 地 方 官 ヲ 召 集 シ 以 テ 民 情 ヲ 通 シ 公 益 ヲ 圖 リ 漸 次 ニ 國 家 立 憲 ノ 政 體 ヲ 立 テ 汝 衆 民 ト 倶 ニ 其 慶 ニ 賴 ラ ン ト 欲 ス 汝 衆 庶 或 ハ 舊 ニ 泥 ミ 故 ニ 慣 ル ヽコ ト 莫 ク 又 或 ハ 進 ム ニ 輕 ク 爲 ス ニ 急 ナ ル コ ト 莫 ク 其 レ 能 ク 朕 ガ 旨 ヲ 體 シ テ 翼 贊 ス ル 所 アレ
明 治 八 年 四 月 御璽
板垣は征韓論にやぶれて西郷らと一緒に下野したものの、実力行使運動に加担せず、大阪会議を以降参議に復帰して政府に一見取り込まれますが、すぐに辞職して在野での自由民権論で言論戦を展開することになります。
上記引用続きです。
元老院における「國憲編纂」の作業は、明治 9 年(1876)9 月、元老院議 長・ たる 熾 ひと 仁親王(有栖川宮)に対し、憲法草案の起草を命ずる勅語が発せられた ことによって始められた。
【立憲政体樹立の詔】
熾仁親王に対する勅語
「朕爰ニ我建國ノ體ニ基キ廣ク海外各國ノ成法ヲ斟酌シ以テ國憲ヲ定メントス汝等ソレ宜シク之 ガ草按ヲ起創シ以テ聞セヨ朕將ニ擇ハントス」