保元の乱の戦後処理に戻します。
氏長者の私有地を残すのは、当時の正義にあっているし文字通りしたたかな解決法でした。
保元の乱を仕切った信西は最高の権勢を手にした勢いで、その他の政策でやりすぎ・・周囲の恨みを買って数年で平治の乱の標的になり命を失いましたが、この程度の浅い読みは秀才の読みであってしたたかな人物とは言わないでしょう。
院政が始まって摂関政治自体が有名無実になってきたところで、それまで天皇家の代表決定に藤原氏が介入してきた報復のつもりか?藤原氏一門内の代表を決める内部問題・・氏長者の地位継承にまで後白河が逆介入を始めていたが分かります。
このような策略を企画する人材が北家に限らず幅広く揃っていた・・藤原一門はもともとしたたかな人材の集まりだったと思います。
本来近江朝廷系の藤原氏(素人の想像です)が壬申の乱以降したたかな動きで着々と持統朝に食い込み地歩を築いた経過は見事ですし、仲麻呂の乱以降度重なる一族の反乱等の危機があっても、その都度藤原一門の保険作用・4家並列システムにしたのが強靭にしたのかも?たくみに切り抜けてきたのも見事です。
ところが、兼家以来の北家独占どころか、北家内でもあまりにも道長流の体制が続きすぎて人材供給源が狭くなりすぎた結果、天下の難事(理屈で割り切れない)を裁く器でなくとも摂政関白になれる時代が続いた・・キングメーカー彰子が死亡すると摂関家の人材不足が露呈しました。
この策略家信西が藤原4家のうち何家に属するかをウイキで見ると曽祖父の藤原実範が南家流貞嗣の子孫のようです。
こういう(秀才的策略限定)超一流人材(江戸時代の新井白石ばり?)が、南家の傍流として学問の家柄に生まれたことにより、中級官僚という格式によって昇進の道が閉ざされていたことに対する不満を抱いていたこと・藤原一門内で昇進の範囲が硬直化していたことが藤原氏の弱点になっていたように見えます。
この不満を公言して出家して信西入道になったのですから、大変な鼻息というか野心家です。
この野心の強さが(白石はその点儒学の権化ですから清廉でした)恨みを買い身を滅ぼすのです
信西に関するウイキペデイアからの引用です。
通憲(信西)の家系は曽祖父・藤原実範以来、代々学者(儒官)の家系として知られ、祖父の藤原季綱は大学頭であった。ところが、天永3年(1112年)に父・実兼が蔵人所で急死したため、7歳の通憲は縁戚であった高階経敏の養子となる。
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散位となった通憲は、長承2年(1133年)頃から鳥羽上皇の北面に伺候するようになり、当世無双の宏才博覧と称された博識を武器に院殿上人、院判官代とその地位を上昇させていった。その後日向守に任命されるとともに、『法曹類林』の編纂も行っている。
通憲の願いは曽祖父・祖父の後を継いで大学寮の役職(大学頭・文章博士・式部大輔)に就いて、学問の家系としての家名の再興にあった。ところが、世襲化が進んだ当時の公家社会の仕組みでは、高階氏の戸籍に入ってしまった通憲は、その時点で実範・季綱の後を継ぐ資格を剥奪されており、大学寮の官職には就けなくなってしまっていた。また、実務官僚としてその才智を生かそうにも、院の政務の補佐は勧修寺流藤原氏が独占していた。
これに失望した通憲は、無力感から出家を考えるようになった。通憲の遁世の噂を耳にした藤原頼長は通憲に「その才を以って顕官に居らず、すでに以って遁世せんとす。才、世に余り、世、之を尊ばず。これ、天の我国を亡すなり」と書状を送った(『台記』康治2年8月5日(1143年9月15日)条)。数日後、通憲と頼長は対面して世の不条理を嘆き、通憲は「臣、運の拙きを以って一職を帯せず、すでに以って遁世せんとす。人、定めておもへらく、才の高きを以って、天、之を亡す。いよいよ学を廃す。願わくば殿下、廃することなかれ」と告げ、頼長は「ただ敢えて命を忘れず」と涙を流した(『台記』康治2年8月11日(1143年9月21日)条)。
保元の乱では天皇家〜藤原氏〜源平がそれぞれ分かれて戦っただけではなく、天下の秀才も双方に分かれた戦いでしたが、崇徳上皇側の秀才・頼長も彼の才能を惜しんでいたのが分かります。
以下信西に関するウイキペデイア続きです。
鳥羽上皇は出家を思い止まらせようと康治2年(1143年)に正五位下、翌天養元年(1144年)には藤原姓への復姓を許して少納言に任命し、更に息子・俊憲に文章博士・大学頭に就任するために必要な資格を得る試験である対策の受験を認める宣旨を与えたが、通憲の意思は固く、同年7月22日(8月22日)に出家して信西と名乗った。
出家をしても信西は俗界から離れる気はなく、「ぬぎかふる 衣の色は 名のみして 心をそめぬ ことをしぞ思ふ(出家して墨染めの衣に着替えても、それは名ばかりのことで心まで染めるつもりはない)」(『月詣和歌集』)とその心境を歌に詠んでいる。鳥羽法皇の政治顧問だった葉室顕頼が久安4年(1148年)に死去すると、顕頼の子が若年だったことからその地位を奪取することに成功し、『本朝世紀』編纂の下命を受けるなど、その信任を確固なものとしていった。
策士信西のシナリオに従って?保元の乱(保元元年(11567月)になだれ込み、彼の思う通りの戦後処理・身びいきが進んだので、戦後処理に対する不満・恨みが彼に集中します。
新井白石は旗本に取り立てられただけで公式役職皆無・無役のまま事実上の権力を握っていただけで(身内の引き立てや蓄財等私利私欲皆無)したが、信西の場合、後白河天皇に重用されるに連れて、官位も上がっていきこれに連れて財力もつけた外(没取された頼長所領の預所・荘園管理者となるなど)身内の引きたて・私利私欲が目立ちました。
白石は地位を追われただけでしたが、信西の場合野心の強さが文字通り命取りになります。