利害調整基準明確化・御成敗式目1〜武家諸法度

御成敗式目に関するウイキペデイアの引用です。

御成敗式目(ごせいばいしきもく)は、鎌倉時代に、源頼朝以来の先例や、道理と呼ばれた武家社会での慣習や道徳をもとに制定された、武士政権のための法令(式目)である。貞永元年8月10日(1232年8月27日:『吾妻鏡』)制定。貞永式目(じょうえいしきもく)ともいう。ただし貞永式目という名称は後世に付けられた呼称で、御成敗式目の名称が正式である。また、関東御成敗式目、関東武家式目などの異称もある。
沿革[編集]
鎌倉幕府成立時には成文法が存在しておらず、律令法・公家法には拠らず、武士の成立以来の武士の実践道徳を「道理」として道理・先例に基づく裁判をしてきたとされる。もっとも、鎌倉幕府初期の政所や問注所を運営していたのは、京都出身の明法道や公家法に通じた中級貴族出身者であったために、鎌倉幕府が蓄積してきた法慣習が律令法・公家法と全く無関係に成立していた訳ではなかった。
承久の乱(1221・稲垣注)以後、幕府の勢力が西国にまで広がっていくと、地頭として派遣された御家人・公家などの荘園領主・現地住民との法的な揉めごとが増加するようになった。また、幕府成立から半世紀近くたったことで、膨大な先例・法慣習が形成され、煩雑化してきた点も挙げられる。

関東御成敗式目は、それまで武家内の規律を定める法令がなかったものの事実上武家支配が広がったので、これを明文化した初めてのものらしいです。
源平物語では義経が頼朝の許可なく朝廷から叙任されたことを問責されて義経の悲劇が始まるのですが、これは武家内の常識?礼儀にとどまるもので、法令化されたものではありません。
幕府成立後も朝廷法(律令法)が基本的に通用している西国と武家法が基本的に通用している東国方面に分かれる二頭政治が行われている時代が続きますが、承久の乱(1221)によって西国へも地頭派遣するようになり全国的に武家法が浸透するようになります。
全国区化していくと武家法の内容が慣習によるだけでは、(地域差もあるし)全国基準がはっきりしない・・問注所の裁決基準を明瞭化する必要に迫られた・約4〜50年経過で事例集積が進んだので明文化する準備ができたこととの両面によるでしょう。
徳川家が1615年禁中並公家諸法度と武家諸法度をを公布したのは、戦国時代を経て武家と公家の二本立ての境界不明の法制度から、徳川家の定める法度(法)が武家と公家双方規制する「法」制定を宣言した事になります。
大坂夏の陣直後の制定ですから、高齢化していた家康は急いだのでしょう。
その後、後水尾天皇が勝手に高僧に紫衣着用を許したことで秀忠と後水尾天皇の確執になったことが有名ですが、沢庵など高僧が朝廷側の論理で幕府に反論した為に処罰されるなど実力装置を備えた武家に叶わず(・この点は清盛の実力行使以来実証済みでした)結果的に朝廷が屈服します。
ちなみに紫衣事件は(1629年)家光時代ですが、秀忠存命中(1632年死亡)の事件で抗争の主役は秀忠と後水尾天皇でした。
赤恥をかいた・・後水尾天皇の退位宣言騒ぎに発展し・・和子の娘女一ノ宮に譲位・・女帝は結婚できない不文律の結果、徳川氏を外戚とする天皇出現不可能となり、他の皇族男子がその次の天皇と決まる・・藤原氏以来の伝統である実力者が外戚になり影響力を行使する方法を徳川家が断念する結果になり、以後幕末の公武合体論まで天皇家と徳川家の婚姻はなくなります。
後水尾天皇側・・貴族流策略の勝ちとも言えますが、徳川家は開き直って外祖父によって事実上次期天皇に影響を及ぼす→天皇権威尊重の必要を求めず、実力で天皇家行動を支配する関係が露骨になって幕末に至ります。
もともと徳川家の定める法(法度)が天皇家の定めより上位(法度に違反した天皇の宣旨勅許が全て無効)になるようにした以上は、徳川家が外戚になって天皇の行動に事実上の影響力を及ぼす必要を認めなくなっていたということです。
これが江戸中期の非理法権天の法理→「道理に合わなくとも実力に裏付けられた法には叶わない」・・誕生・「悪法も法なり」で良いのか!という幕末倒幕思想にもにつながるようです。
紫衣事件に関するウイキペデイアの解説です。

幕府が紫衣の授与を規制したにもかかわらず、後水尾天皇は従来の慣例通り、幕府に諮らず十数人の僧侶に紫衣着用の勅許を与えた。これを知った幕府(3代将軍・徳川家光)は、寛永4年(1627年)、事前に勅許の相談がなかったことを法度違反とみなして多くの勅許状の無効を宣言し、京都所司代・板倉重宗に法度違反の紫衣を取り上げるよう命じた。
幕府の強硬な態度に対して朝廷は、これまでに授与した紫衣着用の勅許を無効にすることに強く反対し、また、大徳寺住職・沢庵宗彭や、妙心寺の東源慧等ら大寺の高僧も、朝廷に同調して幕府に抗弁書を提出した。
寛永6年(1629年)、幕府は、沢庵ら幕府に反抗した高僧を出羽国や陸奥国への流罪に処した。
この事件により、江戸幕府は「幕府の法度は天皇の勅許にも優先する」という事を明示した。これは、元は朝廷の官職のひとつに過ぎなかった征夷大将軍とその幕府が、天皇よりも上に立ったという事を意味している[1]。

いわば観念の世界ではまだ朝廷の権威(いわば有職故実の総本山程度のブランド力)があるとしても、実定法の世界では武家政権の定めた禁中並公家諸法度が朝廷の先例や決定より上位になる宣言でした。

利害調整能力3・問注所〜観応の擾乱

8月7日に書き始めた利害調整機関・・問注所に戻ります。
問注所に関するウイキペデイアの紹介です。

創設[編集]
元暦元年(1184年)10月20日、鎌倉に問注所が設置された。
当時、日本は国内を二分する大規模内乱(治承・寿永の乱)の真っ直中にあったが、この内乱の中でも(又は内乱に乗じて)訴訟事案は多数発生しており、非公式に発足した関東軍事政権(後の鎌倉幕府)にとって、これらの訴訟を迅速・円滑に処理していくことが、確固たる政権として認められる条件の一つとなっていた。

・・鎌倉幕府の問注所設置・・訴訟の大多数は、荘園収入の分配・公卿と地元を預かる武士団との分配争いでしたが比較的公正な裁決が多かったので貴族利用が増えた・・幕府権威が定着していったと何かで読んだ記憶です。
建武の中興が短期で瓦解し、後醍醐政権から足利政権への移行してしまったのは、後醍醐政権の裁定(論功行賞)に対する武士団の不満によるものでした。
武士の多くが足利氏の花の御所に伺候して足利氏の口利きで決めてもらった方が有利あるいは納得するようになり、朝廷に向かわなくなった・文字通り市場評価に拠ったのです。
武士団が朝廷よりも足利氏の屋敷に向かうようになると権力が事実上足利氏に集中して、幕府の機能を持ち始めると、足利家近臣で実権を握った高一族と尊氏の実弟直義との抗争が始まります。
抗争の元はと言えば高一族が急激に勢力を伸ばし過ぎた・・平家一門が約7カ国の守を抑え、あるいは殿上人の地位を占めたのが隠れた不満を引き起こしたように、足利氏一門ですらない・・側近でしかなかった高一族がいきなり各地守護になり幕府内の権力を牛耳ったことに対する(その分守護になり損ねたか取り上げられた)門閥・各地豪族の不満が尊氏の片腕と頼む弟の直義担ぎ上げ・・支持に回ったのでしょう。
君側の奸を除けという不満の旗印に直義を利用しただけのように見えます。
緒戦では御所巻きで先行した高一族の圧勝でしたが、(兄尊氏邸に逃げ込んだ三条殿=直義は頭を丸めて表向き公務引退で決着しました)すぐに全国的に高一族への反撃・旗揚げが始まり、いつのまにか直義がみやこから脱出して、岸和田城だったか(うろ覚えです)に入ります。
待ってましたとばかりに、直義派の旗揚げが燎原の火のように広がり、都落ちした高一族が血祭りにあげられて観応の擾乱第一陣がおわりました。
平治の乱における緒戦で信西入道の処刑成功と同じ展開です。
(私の憶測によれば)しかし武士団の不満は高一族が代表して怨嗟のマトになっただけのことで、根本は論功行賞や荘園支配の権限争いの裁定に対する不満ですから、第二陣が始まり、収拾のつかない「擾乱」になっていきます。
ウイキペデイアによる御所巻きの解説です。

貞和5年(1349年)に高師直らが足利直義一派の追放を求めて将軍・足利尊氏の邸宅を包囲する(観応の擾乱)

御所巻きは年号が観応になる直前ですから、日本で言えば第二次世界大戦の前哨戦・日支事変のようなものでした。
観応の擾乱・・御所巻きに始まる高師一族と直義との抗争〜その後の尊氏(義栓)と直義の抗争も、直義がせっかく圧倒的支持を得て尊氏と高一族との抗争に勝ってもなぜか天下の権を尊氏に残したままにして有耶無耶にしてしまった(政権意欲がなかったようにも解釈されます)他、戦後処理としての論功行賞が旧弊であったことからすぐに各地豪族の人心が直義から離れていった(直義は関東御成敗式目を理想とする念が強かったとも紹介されています)ようにも見え、第二陣の足利将軍家内兄弟間抗争に発展していきます。
北条泰時によって制定された御成敗式目・および紛争裁定基準は考え抜いた立派な式目ではあったのでしょうが、もしかすると鎌倉幕府崩壊後の社会意識変化に合わなくなっていたのでしょうか?
建武元年は1334年、観応元年は1350年ですから、御成敗式目制定(1332)後約100年以上経過でその間に蒙古襲来が2回もあり、幕府体制崩壊などの大変革後ですから、荘園経営のあり方を始め社会意識はかなり変わっていた可能性があります。
教養(すなわち過去の価値観に親和性がある)にこだわる政治家が、実権を握ると失敗する一例だったかもしれません。
直義が最後に支持を失っていく経緯理由についての私の意見は、October 28, 2018「幕府権力と執行文の威力」で書きました。
教養(すなわち過去の価値観に親和性がある)にこだわる政治家が、実権を握ると失敗する一例だったかもしれません。

韓国の反日と米国策動の有無(フェイクだったのか?)2

表向き、朝日新聞得意の韓国支援・・期待感を煽るフェイク報道というイメージづけで今のところ一旦収束しています。
この評価については以下に説明が載っています。
https://shinjukuacc.com/20190801-03/一部引用

「米国が日韓を仲裁へ」 巧妙化する情報ロンダリング
配信日時:2019/08/01 11:00 (最終更新:2019/08/01 11:00) カテゴリー : マスメディア論, 時事
マイク・ポンペオ米国務長官は訪問先のタイに向かう航空機内で、記者団に対し「日韓両国が前に向かうための道筋を見つけることを提案する」と述べました。
このポンペオ氏の発言が、「米国が日韓の仲裁に乗り出した証拠」として、おもに日韓を中心とするメディアに引用され始めているのです。
ただ、報じられたポンペオ氏の発言は、「日韓は北朝鮮の非核化に向けて米国と緊密に協力する同盟国であり、両国にとって良い着地点が見つかることは、米国にとっても大事なことだ」、といった趣旨のものに過ぎませんし、以前からの発言となんら変わるものでもありません。
このため、別にポンペオ氏が「日韓貿易紛争」(?)などの個別具体的な事案について仲介すると述べたわけでもなければ、日本が韓国を「ホワイト国」から除外する措置について、延期するように圧力をかける方針を示したものとも考えられないのです。
これが「あの新聞」の手にかかれば、こんな記事に仕立て上げられてしまうようです。「ホワイト国、韓国除外なら日本も悪い」仲裁に動いた米(2019年8月1日07時00分付 朝日新聞デジタル日本語版より)
朝日新聞の記事は、次の書き出しで始まります。
「米国が、悪化する日韓関係の仲裁に腰を上げた。同盟国がにらみ合う現状は、中国やロシアを利することにつながり、米国の安全保障環境にマイナスだと判断した。韓国は米国の介入を歓迎するが、日本は韓国への譲歩に後ろ向きで、事態が好転するかは見通せない。
不確かな情報をベースに「米国が日韓関係を仲裁する」とキッパリ断言している点にも強い違和感を抱きますが、それよりも不思議なのは、なぜこの記事は「日本が韓国に譲歩すること」を前提にしているのか、という点です.

上記の通りの批判ですが、もともと「政府高官が・・」という記事は「情報源を明らかにできませんが・・」という報道形式ですから、根拠を出せない報道と自白しているような報道スタイルです。
当たればスクープでしょうが、見込みが違えばフェイク報道という批判を受けるのを覚悟の報道ということでしょう。
ただ、報道が先走って世論誘導した結果、誘導方向に世論がなる場合があるので、結果で判断するのは危険です。
朝日新聞は事実報道よりは世論誘導形成を狙う傾向が強いので、信用がなくなったということでしょう。
とはいえ、今回は情報源のポンペオ長官が否定すれば済むこと何の何らを否定しないままで、韓国がやっている慰安婦合意無視政策を改めない限り日韓首脳会談をしても意味がないという理由で、G20でも日本がずっと拒否していた経緯を無視して、日米韓外相三者会談設定まで強引に?進めていた以上は、なんとかまとめたい意欲があったと見るのが常識です。
米国は米国立会いで決めれば蒸し返しは許されないから・・と鳴り物入りで「不可逆的」条件設定して「日韓合意」を日本に強制したのですが、終わってみれば、韓国が早速合意を反故にしつある時に「俺の顔を潰してどうしてくれるのだ!」と動くべき時に・・放置していたのは無責任でした。
この怠慢をほっかむりして臆面もなくいつもの通り韓国が困ると余計な口出しをしようとして、今度こそ失敗した汚点を歴史に加えてしまったというべきでしょう。
日米韓の安保協力が重要ならば、事ここに至るまでの約3年韓何故放置していたのか?
火種の小さなうちに火消しに動けばお互い妥協し易かったのです。
こういう無茶苦茶強引な交渉能力しかないのでは、よほどの圧倒的国力差がなくなれば、米国支持国が減る一方でしょう。
ポンペオ氏のメンツは丸つぶれですし米国の看板を背負っての行動でしたから、米国威信も丸つぶれですので、衰えたりとは言えどういう揺り戻しがあるかは別問題です。

韓国の反日と米国策動の有無(フェイクだったのか?)

アメリカはいつも韓国を煽ってやるだけやらせておいて、日本が反撃に入り韓国不利になると「仲良くしろ!」という強制の繰り返しでした(少なくともそう思うようになった国民が増えてきたのは確かです)から、アメリカに対する日本の信頼はすでに地に落ちています。
韓国民にとっては(韓国では虚偽歴史を学校教育しているので)日韓合意に対して不満だったでしょうから、合意後(名目は、大統領のスキャンダルで名目でしたが)すぐにローソクデモによってパク大統領が失脚しました。
次期大統領となった文在寅大統領は、従前より反日政策を過激化しないと立場がないので?この「不可逆的合意」を事実上反故にして、日本大使館前に市民が慰安婦像を建てるのを放置して、表現の自由だから市民がたてるのは仕方ないと言い張り、日韓合意によって設立した財団を一方的に解散しました。
反日法ともいうべき、親日罪を作りあるいは積弊清算と称して日本関係の教育内容の変更などのほか徴用工訴訟を意図的に停滞させていたという理由で最高裁判事を検挙するなどして徴用工訴訟を促進させて、日本に対しては司法の独立だから政府は関知できないという狡猾な態度で日韓条約違反の主張に対して知らぬ顔です。
要するにまともな政治能力がないので、反日で国民を煽るしか能のない政治家しか出てこないのが韓国の不幸ですが、結局は国民レベルが低すぎるのでしょう。
歴史始まって以来専制支配しか国民も政府も経験がないのでまともな議論をした経験がないのに、アメリカの強制で民主化したものだから政府も国民も意見をいえば怒鳴りあうしかない・・どうして良いかわからないように見えます。
日本としてはかわいそうな国だと思って黙って見ていると増長するばかりなので、この段階でダメなものはダメ!ときっぱりけじめをつけた方が良いという人が、増えてきたように思われます。
安部政権が強硬なのではなく、韓国の無法行為は許容範囲を超えているという国民意思の高まりが政府決断を後押ししているというべきでしょう。
ホワイト国優遇取り消しの反撃?に驚いた米国が、これまで韓国のやりたい放題を黙っていたのに、日本が反撃に出るといつものように仲良くしろ!の動きを見せかけたようですが、そんな身勝手なことは常識的に許されませんし、そんなことをしたら今度こそ日本国民は怒るでしょう。
慰安婦日韓合意はアメリカが今度こそ「韓国に約束を守らせるから」ということでアメリカが、立会人になって「不可逆的合意」したものを韓国が反故にしているのに、黙っていて日本が反撃を始めたら停戦・・現状維持の要求など「何の面(つら)下げて言えるンダ!というのが日本人大方の意見でしょう。
https://www.asahi.com/articles/ASM7023HXM70UHBI003.html

米が日韓仲裁へ 日本に輸出規制第2弾の回避を要請
ワシントン=土佐茂生 2019年7月31日13時00分

要するに数年かけてやってきた反日行動を不問して現状固定しろということですから、これでは無法行為やり得の仲裁です。
我慢しないでその場で殴り返せ・・反撃するしかない・時間をおいて準備して反撃しようとすると休戦命令という無茶苦茶な仲裁案です。
反撃をして一定の失地回復したもののその後、一進一退の膠着状態・朝鮮戦争の場合、現状での休戦もあり得ますが、反撃する前の休戦斡旋の場合紛争前の状態に復元しての休戦であるべきでしょう。
朝鮮戦争で言えば、北朝鮮軍による奇襲攻撃で朝鮮半島の南端まで占領された米韓連合軍が総反撃しようというときに停戦斡旋をするようなものです。
そこで朝日新聞の報道に対して政府・官房長官は「そんな仲裁案はない」と否定して(無視して)そのままになり、ホワイト国除外政令を予定通り閣議決定しました。
https://jp.reuters.com/article/suga-usa-south-korea-idJPKCN1UQ0AF2019年7月31日 / 12:53 / 7日前

菅官房長官、日韓問題での米国仲介報道を否定

アメリカはこれに不快感を示した場合の日本の国民感情の強さを測ったのか?グーの音もない状態です。
表向き、朝日新聞得意の韓国支援・・期待感を煽るフェイク報道というイメージづけで今のところ一旦収束しています。

利害調整能力2

宗家の源為義自身ヘマの連続だったようなイメージでしたので小さくなっていて、公卿社会の嫌がらせの矢面に立った経験がないので、頼みの摂関家が力を失うとどこの国にもある宮廷内の複雑な争いに自分で関わるようになりましたが、うまく立ち回れなかったのでしょう。
こうした時間経過と、摂関家の弱体化目的で動いていた白河〜後白河の流れの中で源氏に対する当て馬として平家贔屓されてきたことに対する摂関家の冷ややかな目の中で台頭した伊勢平氏に比べれば、源氏一門は宮中での陰湿な嫌がらせの経験が少なかったでしょう。
平氏の方が宮廷工作では一日の長・有利に立ち回る能力が磨かれていたと思われます。
清盛が播磨守〜安芸の守など行政職を歴任していくのに対して義朝は左馬頭といういわば軍事部門に登用されたのも実は適材適所だったように見えます。
昨日紹介した通り、子供の頃の頼朝の官位も兵衛系です。
物語しか読んだことがなく史実か否か不明ですが、悪源太義平にしろ、為朝にしろなんとなく地方で粗野に?跋扈するにふさわしい猛者で、都人相手に虚々実々のな駆け引きになじまないイメージです。
木曽義仲が京都に出たときに都人の笑い者にされる場面・・人の良さが出ていますが、一方で「木曽殿最後」で見えるように主従の誓いの美しさ・・武士社会では心の通う善き人であったに違いないでしょう。
武士とはこういうものだ・貴族の真似をする必要がないと開き直り、(新しい時代到来の明らかにし、)官位を受けなかった上に武家の棟梁として鎌倉に本拠を構えた頼朝の偉大さです。
清盛に戻しますと、保元平治の乱の処し方の大成功によって都での揉め事の解決には清盛の武力に頼るしかない状態になった以降、ちょっとした政変のたびに「〇〇の守」等の官職を平氏一門がほぼ独占的に就任した上に、旧公卿勢力もなお侮れないので彼らにも(和歌を習うなど)気を使わねばならないので、貴族化する一方で地方武士にとっては裏切られた気持ちでナオのこと不満です。
この恨み節の代表的表現が地下人の代表ではなくなったという「平家の公達」という呼称でしょう。
韓国文在寅大統領の弱みは、労組支持にたよるためにその期待を裏切れない(労組の場合、次世代ホープではなくかげり行く勢力ですが・・)のと同じで贔屓の引き倒しになってきたのです。
不満武士層を支持勢力にして挙兵した頼朝は、政権を事実上掌握すると真っ先に?問注所を作ったのは、この塩梅がうまくいかないと政権がもたないことを知っていたからでしょう。
これまで何回も書いてきましたが、政治とは利害調整が本務です。
政権批判だけで政権を運よく奪いとっても、その後の利害調整能力がないと政権を維持出来ません。
日本野党や韓国の与野党は、あちら立てればこちら立たずの利害調整能力がないのが欠点です。
自社2大政党・55年体制のころには、水と油の二大政党では、いつまでたっても政権交代ができない・・英米並みの方向性が同じ与野党が必要という議論が一般的でした。理念が違うから政権交代できないのではなく、一方は批判だけで具体的な利害調整をしたことがないからいざ政権をとってもどうして良いか判らず右往左往するのが目に見えていたので、国民は怖くて任せられません。
民主主義を守れ、平和主義・国民を大事にする政党というお題目だけで具体的政治をできるはずがないのです。
韓国の場合、国民が成熟していないので大統領を選んでもすぐに不満で我慢ができなくなるのが難点です。
韓国歴代大統領は、任期満了近くになるとどうにもならない不人気穴埋めのために反日を煽るしかなくなるのが、任期満了直前の常套手段になっていました。
日本は困った国だと思いながらも仕方ないか!と相手にしないできたのですが、大統領が変わる都度前大統領より一歩ずつ過激化しないと国民への訴求力がないので、過激化の限界がきたので、李明博元大統領がついに竹島上陸の他に禁じ手の天皇攻撃まで始めたので、さすがに日本が騒然としました。
その大騒ぎを起こして任期満了になったあとを継いだ前朴大統領はさらに一歩進めて慰安婦騒動を国際問題に拡大・告げ口外交を繰り返したので、戦後初めて日本も反撃を開始したことにより国際世論動向では日本優勢になってきました。
米国が仲介に乗り出したので、(せっかく日本優勢になっていたのに・・不満な人が多かったので?)日本は「不可逆的」という修飾語付きであれば合意しても良いという条件を出して韓国も不名誉な条件をつけられても(完敗よりは良い?ということで)ようやく日韓合意となりました。

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