中世秩序が混乱したのは中央権力の威令が届かなくなったことによります。
威令がとどかなくなったのは武力がないからではなく、中世に入って道義基準が混乱したからでしょう。
南シナ海における中国の一方的埋め立て=軍事基地構築に対する国際司法裁判所で「どこの国の領土でもない、公海そのもの」という判決?裁定が出ても、中国は紙くずに過ぎないと公言したのは、国際司法裁判所があっても強制力がないことを前提にした開き直りです。
中国(この模倣社会である朝鮮族も)は古来から道義による支配をしたことがない・・武力強制力の有無・相手が自分より強いか弱いかだけを価値基準にしてきた歴史をここにさらけ出したのです。
韓国の場合も、日本との合意を無視してどんなに反日運動をしようと「民主主義国家なので国民の行動を規制できない」という変な民主主義論を主張していれば、日本は韓国国内政治には手も足も出ないという論理を露骨にした点では同じです。
道理も何もいらない・相手に打つ手がなければ何をしても良いという小津王基準の点では同じです。
日本では内容が道理に従っている・「公正な裁き」と思えば強制力がなくとも従う人が多いからわざわざ鎌倉まで訴え出る人が多かったのでしょう。
ここで、江戸時代に権力確立→司法網が広く行き渡った時代に提唱された「非理法権天の法理」論を利用して中世のルール状態を考えてみます。
非理法権天の法理については、これまでも何回か紹介していますが、これは江戸時代中期に中世と比較して提唱された法理です。
ウキペデイアによると中世はまだ道理優先社会だったとして(法がなかったというより、実施すべき能力(戸籍制度も登記制度も執行機関もなかったのです)以下の通り紹介しています。
非理法権天
江戸時代中期の故実家伊勢貞丈が遺した『貞丈家訓』には「無理(非)は道理(理)に劣位し、道理は法式(法)に劣位し、法式は権威(権)に劣位し、権威は天道(天)に劣位する」と、非理法権天の意味が端的に述べられている。
非とは道理の通らぬことを指し、理とは人々がおよそ是認する道義的規範を指し、法とは明文化された法令を指し、権とは権力者の威光を指し、天とは全てに超越する「抽象的な天」の意思を指す。非理法権天の概念は、儒教の影響を強く受けたものであるとともに、権力者が法令を定め、その定めた法令は道理に優越するというリアリズムを反映したものであった。
非理法権天は、中世日本の法観念としばしば対比される。この時代において基本的に最重視されたのが「道理」であり、「法」は道理を体現したもの、すなわち道理=法と一体の者として認識されていた。
権力者は当然、道理=法に拘束されるべき対象であり、道理=法は権力者が任意に制定しうるものではなかったのである。こうした中世期の法観念が逆転し、権力者が優越する近世法観念の発生したことを「非理法権天」概念は如実に表している。
非理法権天の一般的意味づけは、まだ法の強制力がなく道理に頼るしかなかったという位置付けですが、私は日本は古代から道理を基準にする社会だというのが私の理解です。
中国のように権力者はどんな残虐なことでもできるのではなく「やっていいことと悪いこと」のけじめは法以前に厳然とあるのが日本社会です。
ソクラテスの「悪法も法なり」という言葉が有名ですが、現在法体系的に見れば、道理に反する悪法は「憲法違反で争える」ということでしょうか?
私の実務経験では、憲法違反まで言わなくとも相手方に形式上法令違反なくとも実質被害が生じている時には、日本の裁判所は何とかしてくれるものですが、逆からいえば不当な被害を受けていないのに、相手の非をあげつらうだけの場合では勝てないという説明をして、受任したことがありません。
日本社会では式目や御法度のない時代でも、腕力(政治力)に任せて道理に合わないことを要求するのは恥ずかしいという思いが強いし、周りもそれを容認しない社会でした。
それがお坊さんの説教で済まず、式目や判例集・今でいう法令の必要な社会に何故なって行ったかといえば、白と黒の区別ははっきりしているが、境界付近事例が多くなると生まれつきの常識の応用・・基本的な生き方の習得だけでは裁けなくなったことによります。