中国・修正装置なしの体制1

国内で人道に反しあるいは道徳的に許されない行為でも強ければ何をしてもそのまま通用し修正されない社会・・民度・昨日紹介したルーマニアのように行き着くところまで行き着くしかない社会できたのが中国社会です。
日本では社会構造の漸進的変化に合わせて、社会や村落集合体のあり方〜その連合的仕組みも緩やかに変化して現在に至っていますので無理がない・西欧のような人民の蹶起・ダム崩壊のような革命騒ぎが不要でした。
中国2千年の政権交代の歴史では、王朝の足元が崩れるような農民の流亡化=食えなくなって命を捨てることを惜しまなくなるまで王権の無茶な支配に対する修正が効かない社会です。
中国やその小型版専制支配体制の李氏朝鮮では、人道を踏み外した権力行使に対する修正装置が無いので、国民の多くが命もいらないという大暴動に発展しない限り王朝崩壊しない仕組み・・悲惨な歴史の繰り返しでした。
このようなことが可能であったのは、一旦専制支配体制が確立すると現在の中国地域は域外から干渉される心配のない閉鎖社会であったことによるでしょう。
悪政・失政が続くと対抗勢力に挑戦されて政権交代が起きるのが日本の歴史です。
中国朝鮮ではなぜ対抗勢力が育たないかの疑問ですが、内部的には秦の始皇帝以来専制支配体制確立によって内部批判ができないことだけではなく、失政悪政をする政権を脅かす健全な外部勢力が存在しなかったからです。
春秋戦国時代には、有力諸侯が並び立っていたので、内政・治世の巧拙や諸侯の人望が一国の浮沈を決したので諸侯は競って人材を登用し、君主の評判を高めるために意を尽くしたので、百家争鳴・いわゆる諸子百家が排出するの時代になったのです。
これが秦始皇帝によって統一されると焚書坑儒で知られるように余計な議論よりは法家の思想・皇帝の命じる「法」を守ればいいのだという社会になって以来2000年あまり経過してきました。
ちなみに日本でいう「法」は仏法僧の法であり人倫の道・宇宙の真理ですが、中国では内容いかんに関わらず、皇帝の命じるところが法です。
要するに正義を守るため(権力から守るため)の法ではなく統治の貫徹 ・いちいち具体的指図なしに百官吏僚が一糸乱れずロボットのように動くようにするための道具です。
現在中国が国民便利のためのIT~AI発展を目指すのではなく、10何億人民を24時間監視するために開発しようとしているのと同じ発想です。
法家の解説を見ておきましょう。
https://www.y-history.net/appendix/wh0203-061.html

法家
諸子百家の一つ。性悪説に立ち、法による統治を重視する一派。
古代中国の戦国時代に活躍した諸子百家の一つ。孔子や孟子の儒家の説く礼によって国を治める徳治主義では人民を統治することは困難と考え、成文法によって罰則を定め、法と権力によって国家を治めようと考えたのが法家の人々である。彼らの思想で言えば、なによりも公正で厳格な法の執行が為政者にとってもっと必要なこととされた。そのような思想は斉の管仲、魏の李悝(りかい)、秦の商鞅など実務的な政治家によって行われていたが、理論化したのは儒家ではあったが孟子とは異なって性悪説にたった荀子とその弟子の韓非であった。法家の思想は、李斯が始皇帝に信任されて秦の統一国家建設の理念とされるが、秦の没落後は儒家の思想にその立場を奪われることとなる。

https://kotobank.jp/word/
法家(読み)ほうか(英語表記)fa jia
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

中国古代に興り,刑名法術を政治の手段として主張した学派。春秋時代の管仲が法家思想の祖とされ,戦国時代の李 悝 (りかい) ,商鞅,申不害,慎到らが法家の系列に属する。韓非子にいたってこの思想が集大成され,その著『韓非子』 20巻は先秦法思想の精華といわれる。法家は法と術とを重んじ,法は賞罰を明らかにして公開し,特に厳刑主義をとって人民に遵守を促すものであり,術は人主の胸中に秘して臨機応変,その意志に人民を従わせる統御術とされた。政治を道徳から切り離した実定法至上主義であり,儒家が徳治,礼治を強調したことと顕著に対立する。法家思想は秦代の政策のうえに大いに具現されたが,漢代以降,学派としては消滅した。漢代には儒法2家の融合をみて,儒家は法的制裁をかりて礼の実現に努め,礼と法とは表裏をなしつつ,その後の中国法の性格を形づくるものとなった。

有名な(私が知っているというだけのことですが)一節を紹介しておきます。
http://manapedia.jp/text/3878

「典冠。」
君因兼罪典衣与典冠。
其罪典衣、以為失其事也。
其罪典冠、以為超其職也。
非不悪寒也、以為侵官之害甚於寒。
故明主之畜臣、臣不得越官而有功、不得陳言而不当。
越官則死、不当則罪。
守業其官、所言者貞也、則群臣不得朋党相為矣。

昔者(むかし)、韓の昭侯酔ひて寝(い)ぬ。
典冠(てんかん)の者君の寒きを見るや、故に衣を君の上に加ふ。
寝より覚めて説(よろこ)び、左右に問ひて曰はく、
「誰か衣を加へし者ぞ。」と。
左右対(こた)へて曰はく、
「典冠なり。」と。
君因りて典衣と典冠とを兼ね罪せり。
其の典衣を罪せしは、以て其の事を失すと為せばなり。
其の典冠を罪せしは、以て其の職を越ゆと為せばなり。
寒きを悪(にく)まざるに非ず、以て官を侵すの害は寒きよりも甚だしと為せばなり。
故に明主の臣を蓄(やしな)ふや、臣は官を越えて功有るを得ず、言を陳(の)べて当たらざるを得ず。
官を越ゆれば則ち死(ころ)され、当たらざれば則ち罪せらる。
業を其の官に守り、言ふ所の者貞なれば、則ち群臣は朋党して相為すを得ず。

これが法家の応用事例として人口に膾炙している故事です。
「法」に従うといっても中国の「法」は内容が正しいかどうかではなく、人をロボットのように使う術を説く思想です。

©2002-2016 稲垣法律事務所 All Right Reserved. ©Designed By Pear Computing LLC