日本の危機対応力(米国支配と民族危機)1

欧米でもアジアでも、これまでの戦争では「〇〇会戦」で勝敗が決まれば、それ以上の民族根絶やし的攻撃を続けずに講和会議がはじまるのが普通でした。
米国は日本の交渉打診に対して全面降伏・占領政治を受け入れない限り講和交渉を受け付けずに、その間山間部や農村の民家まで対象に民族根絶やし的空爆を繰り広げていた結果、空爆に対して反撃能力がなくなり爆撃されるママになっていた日本人をもっと効率的殺戮できるように、最後のトドメに原爆を落としたように見えます。
(もちろん米国はそのような目的を否定しますが、その前にやっていたことや占領後政治と総合判断です)
ナチスが効率よく大量に殺せるようにガス室に送ったのとどう違うのでしょうか?
しかもナチスは自国内や支配地内のことですが、米軍の戦い方は戦時国際条約違反であることや、ウエストファーリヤ条約以来の国際合意に反しているのではないか?等の関心で(キリスト教国の国際条約1(ウエストファリア条約)August 26, 2016以下で書きかけだったか完成したかも記憶がはっきりしませんが、書いてきました。
中国の国際ルール違反を批判しますが、自分も相手が弱いと見れば国際合意など守っていなかったのです。
米軍の焼夷弾攻撃は、無差別爆撃どころか積極的な住民殺戮を目的にしていた・・・まず周辺部をぐるりと焼夷弾で炎上させて住民を中心部に追い詰めてから、中心部に向かって渦巻き状に焼夷弾攻撃して全員焼き殺す方法だたったという意見もありますが、(強風下を選んで実行された悔結果によるものかもしれず米軍記録には見えないということでした。
ウイキペデイアによる東京大空襲の記事です。

東京都は、1944年(昭和19年)11月24日以降[1]、106回の空襲を受けたが、特に1945年3月10日、4月13日、4月15日、5月24日未明、5月25日-26日の5回は大規模だった。
その中でも「東京大空襲」と言った場合、死者数が10万人以上の1945年(昭和20年)3月10日の夜間空襲(下町空襲)を指す[2][3]。この3月10日の空襲だけで、罹災者は100万人を超えた

空襲は、建前では軍施設や軍需産業に対する攻撃だが、東京大空襲は東京そのものの殲滅を目的とする無差別爆撃で多数の非戦闘員たる民間人が犠牲になっており、戦争犯罪ではないかとの指摘も強く、2007年の東京大空襲訴訟でも無差別攻撃はハーグ陸戦条約3条違反という主張がなされた[3]。第一次世界大戦後の1922年、ハーグ空戦規則が採択され、軍事目標以外の民間人の損傷を目的とした無差別空爆は禁止されていた[3]。

日本中を・・焼き尽くし作戦繰り返しの最後にやった原爆投下などに対する意見は、邪推でしかないとも言えますが、これと占領後の最初の行動が重要です。
人の意思はある行為の前後の行動から推測されるものです。
殺人や傷害事件でたまたまその場にあった刃物を使ったのか、その前から喧嘩状態にあって、面会前に刃物を準備して会いに行ったかなど前後行動が重要です。
占領後の実際政治では「日本民族にはアジア諸国と同様の生産力・農業生産しか認めない」という方針のもとに、すぐに各種生産産設備を取り上げて船積みをしていた事実を見れば、民主化するための占領というのは名目であって実際に行った生産設備破却行為を見れば(軍需設備かどうか不明だから民家も爆撃したというのであれば、占領後工場設備を設備を撤去してしまう必要はありません)どういう目的で戦争を仕掛けていたかが推測されるように思われます。
当時のアジアで植民地〜半植民地にならずにで独立していたのはタイ王国のみであり、その他は全部欧米の植民地であり中国は日本が、欧米疎開地を解放するまでは半植民地状態であり、最貧国的(戦後だいぶ経っても改革開放時日本の何十分の1の生活水準でした)状態でした。
何回も紹介していますが、現時点でのウイキペデイア(このブログでは特にことわっていませんが、学問的に絶対正しい保証はなくしょっちゅう変更されていますが、引用時点で一応この程度のことがわかっているという意味での引用です)による米国占領政治の紹介を引用しておきます。

産業解体
SCAPはドイツと同様に日本の脱工業化を図り、重化学工業産業を解体した。初期の極東委員会は賠償金を払う以上の日本の経済を認めなかった。

「賠償金を払い続けさせるために」奴隷のように働かせるが、「復興を認めない」ということは、焼け野が原のママで生活しろということでしょうか。
東京銀座や丸ビル付近の戦後直後の焼け野が原の状況が知られていますが、全土で空襲を受けなかった都市はほとんどなかった・千葉市の戦後写真展を見ると一般化されている東京銀座や東京駅周辺の写真同様に丸焼けの状態です。
地方のお城がほとんど(被害のないお城はほんのわずかです)空襲で燃えてしまったことから見ても、全国区のニュースになっていないだけで(お城のない千葉のような当時小さな街でもほぼ市街地全焼ですから)地方でも大方が焼け野が原になっていたと思われます。
札幌旅行の際に偶然見た札幌の空襲前後の写真展でも同じでした。
「復興を認めない」占領とは?国民大方に対して野宿生活を強制するつもりだったのでしょうか?
上記引用の続きです。

「マッカーサーも1945年(昭和20年)9月12日の記者会見で
「日本はこの大戦の結果によって、四等国に転落した。再び世界の強国に復活することは不可能である。」
と発表し、他のアジア諸国と同様に米国および欧州連合国に従属的な市場に解体するべく、極度な日本弱体化政策をとった。
こうして各地の研究施設や工場を破壊し、工業機械を没収あるいはスクラップ化し、研究開発と生産を停止させ、農業や漁業や衣類を主力産業とする政策をとった。工業生産も、東南アジア諸国などへの賠償金代わりの輸出品の製造を主とした[12]。
1945年(昭和20年)に来日した連合国賠償委員会のポーレーは、日本の工業力移転による中間賠償を求め、賠償対象に指定したすべての施設を新品同様の状態に修繕し、移転まで保管する義務を日本の企業に命じた。
1946年(昭和21年)11月、ポーレーは最終報告として「我々は日本の真珠湾攻撃を決して忘れない」と報復的性格を前文で明言し、「日本に対する許容工業力は、日本による被侵略国の生活水準以下を維持するに足るものとする。
右水準以上の施設は撤去して有権国側に移す。」とした。軍需産業と指定されたすべてと平和産業の約30%が賠償施設に指定され、戦災をかろうじて免れた工業設備をも、中間賠償としてアジアへ次々と強制移転させた。
1950年(昭和25年)5月までに計1億6515万8839円(昭和14年価格)に相当する43,919台の工場機械などが梱包撤去された。受け取り国の内訳は中国54.1%、オランダ(東インド)11.5%、フィリピン19%、イギリス(ビルマ、マライ)15.4%である。

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