この機会に議会と司法の審査の関係を日本の判例の流れで見ておきます。
昨日苫米地事件を見ましたが、その前の米内山事件とその後・・現在の到達点を見ておくには、以下の論文が簡潔です。
https://www.westlawjapan.com/pdf/column_law/20180524.pdf
《W L J判例コラム臨時号》第133号
地方議会の内部規律と部分社会の法理~平成30年4月26日最高裁判決1~
文献番号2018WLJCC009桃山学院大学教授田中祥貴
以下要旨を紹介しますが、昨日書いたように、人権保障的分野の憲法問題を除いて議会の自主性が最大限尊重されるというのが大方の意見(学者の方は私がなんとなく理解していたのと詳細論拠は緻密ですが志向性はほぼ同じ)のように見えます。
1.判例の経緯
本判決で採用された判断枠組は、一般に、部分社会の法理と呼称される。すなわち、自律的な法規範をもつ社会ないし団体内部の紛争に関しては、その内部規律の問題にとどまる限りその自治的措置に任せ、それについては司法審査が及ばないという法理である。当該法理形成の嚆矢は、県議会での議員除名処分の取消しを争った昭和28年米内山事件最高裁決定で展開された田中耕太郎裁判官の少数意見に看取される4。すなわち、多元的社会の内部規律問題については、その社会の特殊的法秩序による自主的決定に委ね、司法権の埒外とする「法秩序の多元性」論である。
その後、かかる見解は、昭和35年村議会懲罰決議等取消請求事件最高裁判決で多数意見を形成する5。ここで最高裁は、「一切の法律上の争訟とはあらゆる法律上の係争という意味ではない」、「その中には事柄の特質上司法裁判権の対象の外におくを相当とするものがあ」り「自律的な法規範をもつ社会ないしは団体に在つては、当該規範の実現を内部規律の問題として自治的措置に任せ」るべきものとして、司法審査の対象を限界付けた。
さらに、昭和52年富山大学単位不認定等違法確認事件最高裁判決6では、昭和35年判決を踏襲しつつ、「一般市民社会の中にあつてこれとは別個に自律的な法規範を有する特殊な部分社会における法律上の係争ごときは、それが一般市民法秩序と直接の関係を有しない内部的な問題にとどまる限り、その自主的、自律的な解釈に委ねるのを適当とし、裁判所の司法審査の対象にはならない」と解し、部分社会の法理を判例理論として確立させた。
2.部分社会からの自由
従来、我が国の司法府が展開してきた当該法理は、重大な課題を抱えている。すなわち、部分社会の法理は、国民の裁判を受ける権利と高い緊張関係に立たざるを得ない。就中、裁判を受ける権利は「基本権を確保するための基本権7」であり、個人の人権保障という文脈において非常に重要な位置付けを有する。そして、裁判所はその権利を担保すべき憲法上の責務を負う。それにも拘わらず、特殊な部分社会内部の係争は司法的救済の外に放逐されるという論理は、最高裁が仮託する「法秩序の多元性」論のみで十分な理論的基礎を形成し得るものではない。
何より、部分社会の法理は、それが射程として内包する範囲及び外延の不明確性という致命的な問題に必然的に逢着する。この点、判例上、かかる境界の指標として「一般市民法秩序」との接点を手がかりに「除名処分」と「出席停止処分」の区別が提示されているが8、例えば、任期満了までの出席停止処分という可能性を想定すれば、判例のカテゴライズに基づいた峻別論は理論構成として十分ではないことは明らかである。
・・・結局、司法審査の可否は、団体自治の憲法的要請と裁判を受ける権利との調整をめぐる利益衡量に拠ることとなろう。
この点、昭和35年判決以来、我が国の司法では、部分社会の法理によって司法審査を回避する傾向が看取され、それは「部分社会の自由」に傾倒した感が否めなかった。しかし近年、かかる傾向をいわば「部分社会からの自由13」という視座から再考し、司法審査の対象の再構成を試みる下級審判例が注目される。
・・・従前の最高裁判例が指標とする「除名」等の身分喪失といった「重大事項」性で
はなく、一般市民法秩序において保障される権利への侵害状況が看取されるとき、一般市民法秩序との直接的関係性を認め、「法律上の争訟」性を肯定するのである。
・・・・「一般市民法秩序との直接的関係性」の内実を敷衍するに際して、「一般市民法秩序において保障されている権利利益を侵害する場合や明白な法令違反がある場合」を「法律上の争訟」に該当するとした高裁判決15等を挙げることができる。
3.本判決の妥当性
本判決は、明らかにかかる下級審判決とは異なるコンテクストを有する。
・・・かかる議員の発言が名誉毀損等の不法行為を構成する場合は別論であるが、そうではない場合に、少なくとも、憲法上の基本的人権に対する具体的侵害状況が看取されるにも拘わらず、地方議会の内部規律を優位させ、Xの請求に対して何らの司法審査すら行わず一蹴した本判決は、妥当性を有するとは言い難い。・・・
30年判決(県知事批判意見の議事録削除に対する司法審査拒否結論)の批判が結論されます。
たまたま私の価値観と同じ方向性のようです。
アメリカの判例法理の詳細を知りませんが、日本の法理で言ってもグレンデール市議会の決議内容の不当性を鳴らして訴訟することの無謀さ・非常識さが分かるでしょう。
アメリカでは、「猫を電子レンジで温めて死んだ」と損害賠償請求するなどなんでも訴訟する社会のように揶揄する報道が多いので日本では呆れている人が多い・・じゃ自分たちも訴訟してみようとするのは無謀です。
メデイアは一定の角度でアメリカ社会を揶揄しているだけで、(逆に「アメリカはすごい」と持ち上げる方向で特別な場合を一般化して報道する事例も多い)実はどこの国でも無茶なことはないのです・・アメリカはきちんとルールに基づいて訴訟していることを知るべきです。
グレンデール市の慰安婦像関連訴訟で完敗したのでアメリカでは韓国の主張が支持されているかのように誤解してがっかりしている人が多いでしょうが、司法審査に乗らないテーマで訴訟する方が間違っていたのです。
裁判するのは自由ですが、アメリカでもやりすぎると逆にスラップ訴訟として賠償金が課せられます。
自由には責任が伴うということでしょうか?