憲法とは?(近代立憲主義の限界2)

慰安婦問題を際限なく仕掛けてくる韓国や北朝鮮のように自分の依って立つ意見が絶対とする態度を見るとこういう思考形式の人とは、まともな議論が成り立たないように見えますが・・。
憲法を左翼的理解・・「権力抑制のために定めた根本ルールのみ」と自分の気に入った方向で定義してその定義に従わない人をバカ扱いする人たちは、どこか北の人たちと似ています。
皇室典範や、17条憲法は権力抑制目的ではないので、実質的意味の憲法にも入らないでしょうが、国家民族のあり方の基本ルールを実質的憲法と見れば、上記も入るでしょう。
ところで権力監視抑制のみを憲法の要件とすれば、左翼的立場では絶大な信奉の対象になっている「憲法の平和主義」論は、憲法に入るのでしょうか?
そもそも、左翼思想と平和主義がどういう関係があるのか理解不能です。
今世界で軍事力を前面に押し出している国々は中国やロシア北朝鮮・皆もともと共産系国家であり、中国の軍事脅威に真正面から晒されている日本で、非武装平和論をいうのが軍事力で迫ってくる国々と親和性のある左翼系文化人ばかりというのが不思議な関係です。
いかにも「中国の軍事圧力に屈服するのが最善」と言わんかのようなスタンスに見えてしまうので、信用性がなくなります。
もともと公害反対は人権救済問題であるのは当然ですが、公害など全く問題にしていなかったソ連や中国の実態を知る立場では、共産党の弁護士がこれを中心になって推進することに違和感を持っていたことを繰り返し書いてきました。
共産党と関係ない人の公害反対や各種の人権運動であれば信用し易かったのですが・・。
そういう視点で見れば、米ソどちらかの核の傘に入って「非武装平和」を唱えるかだけの選択の時代には、米ソどちらをかの庇護の元での非武装または軽武装平和論が合理的な時代でした。
60年の安保反対闘争は、戦争反対闘争ではなく米国の傘に入るのに対する闘争だったのです。
集団自衛権・軍事同盟をするとアメリカの戦争に巻きまれると主張しますが、中ソ陣営ならばば巻き込まれないと言うのでしょうか?
「同盟していざとなって自分を守ってもらう」ためには、「自分も相手が困ったときに助けに行く」というのが同盟の基本です。
「自分が攻められていないときには知らん顔しています」という同盟など成り立つはずがありません。
自衛が必要だが「軍事同盟禁止」が成り立つのは、超超大国だけの論理であって、それ以外の中小国は大国との同盟(相互協力関係)がないと自衛することは不可能です。
超大国といえども孤立していると、2〜3〜4位連合に負けるので、多数派(分断)工作に余念がないのが現実です。
社内や政党内の派閥でも「寄らば大樹の陰」で派閥に属すれば、その分自己の主張が制限される・・ボスの言い分に従うしかないのは仕方のないことです。
中ソどちらに属した方が、「自由度が高いか、待遇が良いか」「将来性があるか」の選択の問題なのに「平和憲法を守れ!というだけでは、現実生活者は「私どもには、難しいことはわかりませんので・・」と相手にしなかったでしょう。
上記の通り、双方の方向性が一致していた時代には非武装平和論も意味が(一定の支持)あったのですが、米国の圧倒的地位が低下して「尖閣諸島が守てくれる」かどうかになってくると、米軍のにらみだけでは解決できない・実戦闘勃発可能性が近づいてくると同盟さえあれば軽武装で十分ではなくなりました。
比喩的にいえば「警察力・巡視艇(スピーカーで退去要請だけで、解決するのか、軍事力・海軍力はいらないのか?」ですが、自力撃退しない限り引き下がらない相手には相応の軍事力が必要です。
軍事同盟とは自力防衛が主体であって「応援部隊は応援(後方支援中心)でしかない(野球の応援団?」ないという軍事同盟のセオリーに戻る・・応援が来るまでの初期自力防衛力の備えが必須になってきます。
戦国時代に国境沿いの小豪族が攻められた時に織田や武田の主力軍勢が来るまで自力で小さな城を守り抜く戦力が必須だったのと同じです。
現在で言えば、尖閣や沖縄が奇襲攻撃で中国に占領された時に、米軍は日本が自力で奪還作戦を行うための後ろ巻をしてくれても、米軍が先頭切って攻め込んでくれるようなことは、はほぼ100%ありえない状態です。
この段階で、「侵略されれば無抵抗で受け入れれば良い」という非武装平和論と、米軍に頼るから軽武装で良いという非武装論とは水と油の関係であったことが分かってきました。
平和論と日米安保条約が矛盾どころか補完すると考える勢力との基本認識の違いが、60年安保騒動になったのです。
その後の政治過程を見れば、アメリカの核の傘を選ぶ国民の方が圧倒的多数であり、中ソの各事件や公害垂れ流し、あるいはスターリン粛清や文化大革命等の悲惨な弾圧実態を賞賛する勢力は国民支持を失っていき、旧社会党が消滅し、後継の社民党支持率が今では0%台になっている現状です。
非武装論支持激減は戦後の熱狂が冷めてきたからではなく、中ソに占領させたい勢力と米国寄りの双方が支持していた平和論だったので、国際環境変化によって、元々の目的相違が明白になったにすぎません。
同じく軍事強国として理不尽に実力行使している中国やロシアの軍事力の圧迫に直面している我が国で、共産系に親和性を持っている勢力が非武装平和論を言っても、国民の多くが信用できない気持ちになるのが仕方がないでしょう。
憲法論に戻りますと、平和を守るためには権力→軍事力抑制が必要といえば、立憲主義的理解でも「憲法の平和主義」が憲法に入るのでしょうか?
共産主義国が軒並み軍事独裁国家になっている上に、「軍事独裁や人権侵害が問題になって米国援助が削減されるとすぐに中露になびく政権が普通ですが、このような国際政治における長年の結果からみると中露は道義無視の山賊、海賊の逃げ場・・巣窟のような立ち位置と認識されていることになりませんか?
これらを理想の国として崇め、中露の軍事支配下に入ることを推進しようとする左翼思想家の不思議さです。
その運動として日本国国内の人権侵害や公害、閣僚の揚げ足取り、原子力被害など批判していますが、彼らが理想化し非武装のママ中露の支配下に一刻も早く入ることを目的にしている中露が行っている少数民族への大弾圧や各種情報統制・巨額割路政治による巨大な格差社会を全く問題にしません。
こういう国の支配下に入れば原発・放射能被害も秘密にしてもいいし、人種差別や弾圧思想改造収容や臓器摘出もやりたい放題にすべきというのでしょうか?
そこまで行くと中露の現実を前提にすると、左翼文化人らの各種主張は日本をよりよくしたいという正義の観念が全く見えない・日本の政治を撹乱して世界の進展について行くのを少しの時間でも妨害する・・周辺諸国よりも遅れた劣等国にすることが目的のように見えますが・・。
左翼的・憲法学会的多数説・・「権力抑制こそが憲法である」という主張のおかしさは、イスラム法を基本とする諸国家に当てはめれば、明瞭になります。
イスラムの諸原理は権力抑止機能以外の生活規範がほとんどでしょうから、これらは実質的意味の憲法ではないという意見・・普通の法律以下の扱いになりますが、イスラム諸国でこのような実態無視の意見が主流でありうるとは到底考えられません。
彼らはイスラムの諸原理に従うことは成文憲法に従う以上に重要なルールと考えているでしょう。
ただし、イスラム原理に反する憲法を作ること自体できないから、日常的に矛盾が起きることはないでしょうが・・・。
日本や西欧の基準でイスラム国で男女平等・金融その他のルールを強制すれ大きな葛藤が生じます。
いわゆるハラル認証も同じですが、イスラム諸国においては、イスラムの諸原理は成文憲法以上の効力があることは確かです。

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