いわゆる「近代立憲主義」を主張する勢力にとっては、皇室典範は(天皇家の「私事」に矮小化して理解するために)実質的意味の憲法に入らないようにしたいかのように見えます。
法理論的には以下のような構成になります。
簡単に言うといわゆる近代立憲主義運動家の論理です。
http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20100503/p1によると以下の通りです。2010-05-03(内容レベルから見て専門家の意見のようです)
憲法の機能をめぐる認識のズレ
左派的な立場から憲法が論じられるのを見聞きすると、「そもそも憲法とは国家権力を縛るためのものにある」といった趣旨にしばしば出くわします。
もう少し学識の豊かな方だと、「公権力に一定の制約を加えることこそが近代的な意味での憲法の本義である」などといった形に、憲法の意味を歴史的に限定した上で話されます。これらはごく自然な理解であり、決して間違っているわけではありません。
上記によれば、皇室典範は権力抑制のための制度ではないので、そもそも憲法に入らないことになります。
これによればいわゆる「浮利を追わず」などのいろんな家訓は対象外でしょうし、イスラム諸国でのイスラム原理の多くも意味のないことになるのでしょう。
しかし、「憲法は権力抑止のためにある・・それ以外は憲法でない」とする解釈も、一つの学説にすぎません。
この種の進んだ?学者(信奉者)の多くが、他の意見を認めない傾向が強いのが難点です。
http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20100503/p1の続きです。
・・そういった立場は、あくまでも特定の意味において「憲法」なる語を解した場合における正統な理解であって、憲法の意味や理解がこの立場に限定されるわけでは、本来ありません。
芦部信喜『憲法』(第4版、高橋和之補訂、岩波書店、2007年)の冒頭では、憲法の意味が大きく2つに分けられています。大略は次の通りです。
(1)形式的意味の憲法…「憲法」という名で呼ばれる成文の法典(憲法典)。「日本国憲法」がこれにあたる。英国のような不文憲法の国には無い。
(2)実質的意味の憲法…成文・不文にかかわらず、ある特定の内容によって国家の基礎を定める法。
(2)の実質的意味の憲法に含まれる法文は、憲法典だけには限られません。例えば皇室典範や国会法、教育基本法などのように、果たしている役割によって「国家の基礎」を規定していると解釈されるものは(2)の意味で「憲法」と見做し得るのです。
(2)実質的意味の憲法
①固有の意味の憲法…時代・地域にかかわりなく普遍的に存在するような、政治権力の組織や行使の仕方を規律することによって、国家の統治の基本を定めた法。――(b)
②近代的意味の憲法…専制的な権力を制限して広く国民の権利を保障しようとする自由主義≒立憲主義の思想に基づき、政治権力の組織化そのものよりも権力の制限と人権の保障を重視する。――(c)
既におわかりでしょうが、先に挙げた立場において語られている「憲法」とは、②の意味を指しています。
この意味の憲法が成立するのは一般的に「マグナ・カルタ」からであるとされており、憲法学が形成されていくのもそれ以降です。
①には例えば、「十七条の憲法」などが含まれます。憲法学の対象が主として②であり、憲法学の議論で「十七条の憲法」が普通扱われないのは、憲法学の成り立ちそのものを支えたのが②の意味の憲法とともに発展してきた自由主義≒立憲主義の考え方だからです。
樋口氏や長谷部氏などがこの分類を知らないわけではありません。
天皇機関説に反対した狂信的グループを紹介しましたが、現在でも何かというと訴訟を起こし、自己の主張が通らないと「不当判決」といい、自己の表現の自由にはうるさい敵対者の批判には訴訟を仕掛ける傾向(具体的内容不明ですのですが、相手が権力や大手ならばいいということで訴訟を連発する傾向がある点は間違いないでしょう)が多いことから見て、「近代立憲主義」論者は偏狭な人の集まりでしょうか。
もともと極右も極左もたまたま時代風潮に合わせて、狂信的になる点で思考回路は同じと一般に言われますが・・・。
以下によると、いろんな意見がありうるという学問の基本・・「この点に思いが至らないようです」と書いていますが、これが問題の本質でしょう。
http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20100503/p1の続きです。
・・・しかし、彼らの著書を読んでとにかく「憲法=国家権力を制約するもの」と覚えた人の中には、「憲法」という語の多義性を意識しない人も多そうです。
もちろん、日本国憲法のみならず大日本帝国憲法も②に含まれますが、それはこれらの法典が基本的に②としての機能を果たしているからそう解されているだけであって、別に①と解そうとすることが不可能なわけではありません。つまり、今の憲法は社会的な「事実」として②ですが、それを①の方へと変えていくべきだという「主張」そのものは有り得るわけです。
こうした主張をしていると思われる論者は少なくありません。「憲法」なる語をこのような意味で使うとか、こういう理解で使うべき、などと明示的に述べている人はあまりいませんが、例えば近代主義への反発を軸に議論を構成している西部邁氏などは、明らかに「憲法」という語を非近代的な意味で使っていると思います(私は西部氏の良い読者ではありませんが、数年前に大学院の授業で『ナショナリズムの仁・義』(PHP研究所、2000年)を読んだときにこのことを思いました)。
自由主義≒立憲主義的な意味に限定して「憲法」を考えている人々は、なかなかこの点に思いが至らないようです。憲法に「国民の義務」をもっと盛り込もう、などといった動きとの(「論争」ではなく)「すれ違い」は、ここから生じている部分が大きいと思います。
左派的な立場の人々は、「憲法とはそもそも国家を縛るためのものだから」、そういった主張はそもそも憲法とは何かを理解していない、と考えてしまいがちです。
けれども、そこで異なる立場を採る側は憲法の意味を理解していないのではなく、実はそもそも別の意味で「憲法」なる語を使用しているのだとしたらどうでしょう。
そもそも憲法学の対象が(c)であるからといって、一つの法典(a)としての日本国憲法の条文についての論争が(c)の意味の憲法理解に縛られる必然性はありません。
逆に言えば、(c)の意味の「憲法」を問題にしたいのであれば、必ずしも(a)の意味の「憲法」に拘泥する理由は無いわけです。憲法典以外の法規・方針やそれらについての解釈、及びその他の政治慣行を含む全体としての“constitution”を重視すべきではないか、といった議論は杉田敦先生が提示しているところです(『政治への想像力』(岩波書店、2009年)などの他に、長谷部氏との対談『これが憲法だ!』(朝日新書、2006年)も政治学者による憲法への独特なアプローチが刺激的です)。
相手は憲法の意味も理解していないと考えてしまうと、一方が「馬鹿」だから問題外という話になって生産的な議論には発展しようがありません。
それゆえ、憲法についての有意義な論争を望むのであれば、どちらかが「事実」を理解していない「馬鹿」なのではなくて、日本国憲法が果たすべき主たる機能についての異なる「主張」が対立していると考えるべきでしょう。そろそろ、憲法論争が「ネクスト・ステージ」に進むことを期待したいものです。