天皇制変遷の歴史3(連署1)

裁判(裁定)に勝てば、相手が引き渡さなくとも武士は実力で取り返せるので(取られる一方の弱い武士は淘汰されていく・戦国時代に入っていく所以です・・)それでもいいのですが、公卿は実力装置を武士に頼っている状態で、荘園のアガリの分配を武士と争うとなれば、実力行使できないので勝ち目がありません。
徐々に荘園からの上がりが減っていき最後は盆暮れの付け届けくらいになっていく・・藤原氏を頂点とする公卿・朝廷は干上がっていきます。
室町初期の直義の頃の状況を見るとこういう荘園の収入の分配(平安時代初期には荘園成立過程での初期競争では、藤原氏が貴族(古代豪族)間で圧倒的地歩を固めましたが、それが天皇家自体の参入によって八条院領に蚕食され、鎌倉期になるともとからの荘園領主同士の争いよりは内部に地盤を築いて来た武士層に内部蚕食されて行く(合理的交渉で言えば、管理費の値上げ?要求すべきところを集金した管理費を実力で払わないとなれば横領?)時代に入り、公卿や八条院系)と現場管理者の武士層との紛争が多発する時代に入っていたのです。
鎌倉以降武家の時代になってだいぶ経つのに、観応の擾乱を見るとなお貴族や朝廷の荘園収入があったことが逆にわかりますが、応仁の乱を経て戦国時代に入ると中央の訴訟機関自体が機能しなくなっているので、収入ゼロに追い込まれていたであろうことは容易に想像がつきます。
10月26日に天皇家の収入減少を書きましたの一部繰り返しになりますが、さらに詳しく書きますと、公卿の中には大内氏などに縁を頼って地方に落ち延びていくか?文化を売る・天皇家は落ち延びられないので、天皇御真筆でお礼を貰うなどで食いつなぐ中で、地方有力武将への叙任や、大寺の実力者に僧正などの称号を付与するのは貴重な収入源だったし、ひいては乱発気味になっていました。
これが目に余って来たので、紫衣事件になったのですが、その背景には絶対的な収入減があったことがわかります。https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E7%B4%AB%E8%A1%A3%E4%BA%8B%E4%BB%B6&action=edit&section=1

紫衣と事件に至る事情
紫衣とは、紫色の法衣や袈裟をいい、古くから宗派を問わず高徳の僧・尼が朝廷から賜った。僧・尼の尊さを表す物であると同時に、朝廷にとっては収入源の一つでもあった。
これに対し、慶長18年(1613年)、江戸幕府は、寺院・僧侶の圧迫および朝廷と宗教界の関係相対化を図って、「勅許紫衣竝に山城大徳寺妙心寺等諸寺入院の法度」(「勅許紫衣法度」「大徳寺妙心寺等諸寺入院法度」)を定め、さらに慶長20年(1615年)には禁中並公家諸法度を定めて、朝廷がみだりに紫衣や上人号を授けることを禁じた。
一 紫衣の寺住持職、先規希有の事也。近年猥りに勅許の事、且つは臈次を乱し、且つは官寺を汚し、甚だ然るべからず。向後に於ては、其の器用を撰び、戒臈相積み智者の聞へ有らば、入院の儀申し沙汰有るべき事。(禁中並公家諸法度・第16条)

幕府権力確立によって、旧来同様にすべて幕府を通すべきとなると朝廷の収入源がなくなります。
これを禁止しっぱなしでは朝廷関係者が生きていけませんので、家康が1万石、次に秀忠が皇女誕生を祝って1万石、綱吉が1万石、慶喜が15万石寄進しています。
現憲法下でも天皇家の生活保障のために26日紹介したように「内廷費」が予算計上されているのと同様です。
生活補償するので生活費稼ぎのために「ハシタないことをやめてください」朝廷の権威が下がってしまうことを恐れた意味でもあったでしょう。
話題が逸れましたが、朝廷の文化活動に戻りますと、昭和天皇の活動も「雑草』研究などに限定されていますが、敗戦でそうなったのではなく、家康以前から「文化を売り物にするしかなかった」そういう仕組みになっていたのです。
家康に言われて初めてそうなったのではなく、当時すでに「朝廷や公卿が政治に口を出すべきではない」という価値観が一般化していたからでしょう。
明治維新でなぜ王政復古になったのかですが、薩長が幕府追及・倒幕の言いがかりに「尊王攘夷」を主張しただけのように思えます。
倒幕運動の大義名分が王政復古だったので、倒幕成功・維新後は表向き天皇親政形式・・政体書体制・二官八省体制を作ります。
(これも6省から8省へ変遷がありますが、重要なことは太政官と神祇官をトプ2としたことです)
しかし、もともと公卿・朝廷には鎌倉幕府以来実務経験も能力もないので、実務をやれるわけがありません。
薩長政府は当初二官八省体制を作りますが、神祇官などが政治をやれるわけがなく、目まぐるしく統治体制変更を繰り返し、最終的には、内閣制度を創設して行きます。
結局は実務政府とお飾りの天皇家・公卿を切り離す方向だったのです。
明治初期の政府組織については、2005年07/21「政体書と中央組織」前後で連載しました。
ちなみに内閣制度は明治憲法によってできたのではなく、その前の明治18年に創設されて伊藤博文が初代総理に選任されています。
明治憲法は22年ですから、約4年間先行して実績を積んでいた内閣制度を憲法に取り込んでいったことになります。
言わば幕府の実務機関である「幕閣」を内閣(幕閣の閣「老」を「大臣」と王朝風に)と変えた上で、朝廷と場所的に合体したようなものでした。
武家が朝廷の影響を避けるために鎌倉に政府を開いた時には幕府が何かするには幕府が京へ使者を立てる必要があったのに対して、徳川体制では十分強くなっていたので・・朝廷が何かしようとすると幕府の同意・許可を取る必要があった・・幕府が京へ参内するのでなく朝廷の方が江戸に下向する(これが忠臣蔵の背景です)必要のある社会体制でした。
薩長藩閥政府も今後の国策として開国しかないとすれば、新政府を京に置くわけにはいきません。
実務政府を江戸に置くしかないとなれば、王政復古を唱えた手前、全て天皇の名において発令するには日常的緊密な連携が必要です。
その都度・・京都まで行って参内する手間を省くために朝廷に江戸へ引っ越してもらった・・実務政府幕府→内閣が朝廷を内部に引きこんで、天皇の名において機動的に実務を行えるようにしたことになります。
ところで、明智光秀謀反の黒幕に絡んで
「信長が(恐れ多くも?)安土城内に朝廷・ 御座所を取りこむ構想を持っていた」ことが前の関白を中心にしてクーデターの陰謀が成立したなどという着想が時々小説などに出てきますが、このような視点でこれを眺めると、幕末小御所会議のクーデター以降、事実上天皇・錦旗を擁した薩長勢力が、天皇の神輿を担いで(安土城への移転に代わって)そのまま江戸に移動した格好です。
10月26日に憲法を紹介して少し書いた天皇権力の本質を示す連署に戻りますと、我が国では古くから重要文書には連署する習わしがあります。
王朝時代にどうであったかの記録は今のところ私には分かりません。
連署制は北条泰時が始めたと言われますが、少なくとも江戸時代には幕府正式文書には老中が連署する習慣になっていたようです。
三田市の資料では以下の通りです
http://www.city.sanda.lg.jp/gakushuu/sisi/documents/siryo2.pdf

「三田市史」の史料 その2
『三田市史』第4巻近世資料(166頁63号)
江戸幕府老中連署奉書
(年未詳)三田市所蔵九鬼文書
御状令披見候、公方様益御機嫌能被成御座恐悦旨得其意候、将又今度首尾好御暇日光山御宮御堂参詣有之而去五日在所到着難有被存之由
尤之事候、依之為御礼被差越使者御肴一種進上之候、
右之趣遂披露候処一段之仕合候、
恐々謹言
板倉内膳正重矩(花押)
六月十九日
土屋但馬守数直(花押)
久世大和守広之(花押)
稲葉美濃守正則(花押)
(隆昌)
九鬼長門守殿

幕府老中は月番制度と言われていますが、重要事項に関しては臨時に合議していた他に公文書発給には連署していたようです。
この習慣が各大名家に広まったからか、家老会議に加わるものの中で連署資格のあるものを加判の列に加わると表現されるようになります。
明治憲法下での国会召集詔書の写しは国立公文書館史料に出ています。
https://www.digital.archives.go.jp/das/image/F0000000000000014526には明治23年10月9日付け帝国議会招集の詔勅の写しが出ていますが、これには明治天皇の「睦仁」の署名の他に次ページに山縣有朋以下の閣僚の署名があります。
※ 1年ほど前に、この原稿を書いた控えには、その写しが残っているのですが、今年8月頃にサーバーの不具合で過去の事前掲載用送信分が皆消えてしまったので、今コラムに再アップしようとすると何故かコピペできませんので、関心のある方は国立公文書館に入って確認してください。

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