基本的人権制約原理7(ヘイトスピーチ規制2)

私は昨日紹介したデータの存在を昨日まで全く知りませんでしたが、(真偽は別として)こういうデータが出回っているのに「在日犯罪率が高いなどの故なき批判」を非難するメデイアのイメージ批判が主流で、メデイアの方で上記データに間違いがあるならばきちんと否定証拠を公開した方が良いでしょう。
メデイアからのデータ開示ないままでは、なぜ在日批判論が根拠ないか不明です。
※ただし、有能な外国人誘致の必要性が今朝の日経新聞にも出ていますが、(底辺労働ばかり入れると将来的に保護受給者や犯罪率の上がるマイナス)このような視点から見ると、有能な人ばかり入れて日本人の多くが底辺層になり有能な外人の稼ぎのおこぼれで日本人の多くが生活保護あるいは犯罪率が高まる社会も考えものです。
この種の意見は01/06/03「外国人労働力の移入3」前後に書きました。
後から入ってくる有能な移民(トランプ氏もドイツからの移民2世か?)に負け続けているアメリカでは、移民の古い順にフードスタンプに頼る比率が上がり、これが怒れる白人層を形成している印象です。
在日の生活保護受給率や犯罪率が高いと言うことは、日本人が在日との生存競争に勝っている証明・・めでたい結果で文句いう事ではありません。
流言蜚語というものは情報不足に起因するものですから、犯人検挙の場合には、日本人同様の実名報道を在日団体自体が許容しメデイアに「遠慮なく実名報道してください」と求めれば解決することですが、事実上の匿名「特権」?保持のまま「在日特権などない」と主張しても説得力がないでしょう。
説得力のない批判では表現の自由市場の競争に勝てない・在日批判論が広がる一方になっている危機感から?人権団体?オハコである「思想の自由市場論」をかなぐり捨てて「在日批判自体をさせない」かのような強権行動に出たのがヘイトスピーチ論の背景でないか?と批判が出てきます。
ちなみに一方の人権を過度に保護するのは他方被害者の人権無視につながることを、6月中旬から月末ころまでの袴田再審高裁決定の話題で書きましたが、
「人権団体とは、被害を受ける弱い立場を無視し、加害者=強者の人権のみを主張する団体」
のことでしょうか?
車にぶつかると歩行者が負けるので道の端をビクビクして歩くしかないので安心して歩けるように交通ルールがあるように、(高槻市の震災事故以来社会問題になっているブロック塀の規制論もブロックの下敷き被害に遭いそうな子供の保護が目的です)消費者保護その他多くのルールは弱者保護が基本です。
このルール(信号)無視で歩行者を跳ね飛ばして捕まった犯人・加害者を何が何でも擁護するのが、人権派の使命のように誤解しているようです。
人権擁護派が、被告人が本当に信号無視したかの事実究明を求めるなら合理的・刑事弁護制度はそのためにあるのですが、信号無視やルール違反の有無にかかわらず「検挙拘束自体を人権侵害」と主張するならば、この世の中にルールなど不要・強いものは何をしてもいいのだ」という無政府主義者の主張と同じです。
宮沢憲法のいう「基本的人権は国家社会成立前からある自然権である」というナイーブな意見に忠実なのかもしれませんが、それでは強いもののやりたい放題で人間社会がなり立ちません。
袴田再審高裁決定批判報道を見ると事実認定の合理性を問題にせずに、決定直後内容吟味もなしに、まず「不当判決」の垂れ幕のイメージ報道の氾濫と高裁決定批判の洪水ですから驚きです。
事実認定の合理性の有無にかからず再審開始決定を認めない高裁決定は「不当」という主張の引用報道の氾濫は、交通事故で言えば、交通ルール違反の有無を問題にせずにまず「無罪・釈放せよ」というような報道姿勢です。
訴訟手続きや法に反しているかの吟味なしに、「不当」と決めつける運動をしているグループ(これをあたかも正義のように洪水的に報道し続ける報道姿勢)・・支持する人権団体の論理によれば訴訟手続きを守っているか否かではなく、結論が納得しなければ「不当」と言うのですから、「自分たちが処刑したい」側に立てば、面倒な訴訟手続き遵守しない・・証拠吟味などしないで、まず「1日も早く処刑しろ」という主張に簡単に転化できる危険な集団イメージです。
社会主義国で普通に行われてきたいわゆる(文化大革命時の紅衛兵による吊るし上げで実例が知られます)「人民裁判」という吊るし上げ処刑を理想化する思考方法を、民主主義社会に移植しようとしているかのように見えませんか?
彼ら革新系というか左翼系運動家は、「刑を減らしなくす方向への運動ならば、訴訟手続き無視でも人権侵害にならない」という片面的価値観であるとすれば、理解可能です。
よく言われるように障害者枠を設定したり一定比率の女性役員を強制する場合の基本原理でしょう。
しかし、弱者救済のためと言っても職務能力がなくとも一定率の雇用を割り当てて強制しも良い職場と一定技能レベルが要求される職務とでは許容分野が違います。
取締役等の場合、能力不足の人が女性枠で1〜2人程度役員になっても、能力がなければ発言力がないので、(大方の議案に黙ってうなづくばかり?)重要意思決定に影響力が及ばず実害が起きません。
医師その他の各種資格等は、患者が医師を選べないし、歩行者が正面から未熟運転でぶつかってくるトラックの運転手を選べないので、危険です。
すぐに暴力行動に出る危険な子供も教育を受ける権利があるとは言っても、一方で被害を受ける子供の存在を無視することは出来ません。
このようにどの場面でどの程度弱者優遇すべきかは、学校で習った「基本的人権尊重・弱者保護」の精神と言うお題目を唱えるだけでは何の基準にもならないので、国民の総意・民意=法で具体的に決めていくべきでしょう。
この結果、訴訟手続きで見れば、訴訟手続き上弱い立場にある被告人にどこまで有利に下駄を履かせるかについては、立証責任で無罪の推定を原則化しているほか、証拠法則も厳格化し、国費による弁護人選任権など訴訟法で細かく決めていることであって、法で決めた以上に有利に運用しろという主張は「法」=民意を無視した意見となります。
日本は法治国家・人民裁判が許される国ではないので、「結論をこうしろ!」という主張ではなく、高裁決定を批判するならばどのような訴訟手続き違反があるかを主張すべきです。
言論の自由市場論の例外として在日批判をどの程度許さないか・・特別保護すべきかのテーマに戻ります。
ヘイトスピーチ論は、少数派/マイノリテイーは反論が自由にできないから「少数派批判は許されない」というのが一般的ですが、自由競争に馴染まない弱者であるから、「下駄を履かせろ」ということでしょうか?
「下駄を履かせろ」と言うのは刑事手続で言えば、無罪推定や証拠法則等の方法論で足りる・将棋で言えば飛車角落ち、囲碁で言えば置碁、ゴルフのハンデイなどその後の戦うルールは同じというのが普通の考えです。
これを超えて「強い選手の出場禁止」、「犯罪を犯しても刑事訴追禁止」あるいは、「日本人に比べて刑罰を半分にしろ」とまで行くと、弱者救済論の目的を逸脱し特権付与論になります。
ヘイト被害者が少数派であって言論発表の場がないならば、公平な言論競争ができるような反論の場を提供するなどの土俵作りをするのは、独禁法による救済同様の弱者保護基準ですが、強者の発言自体を封じるのは、少数派救済にかこつけた反対意見発表を制限するのが目的でないかの疑念が生じます。

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