日露講和条約時の7博士意見書以来書いてきたように、メデイアが対露強硬論を煽ってこれに共鳴した庶民による焼き討ち騒動を起こしましたが、その当時はまだ民意による政治の建前が弱かったので、政府は無視できたので無事講和条約成立しました。
April 10, 2018,「7博士意見書と学問の自由1」で詳細を書きましたが、空理空論に対して当時の政府は
「伊藤博文は「我々は諸先生の卓見ではなく、大砲の数と相談しているのだ」と冷淡だったという。」
と相手にしないで済んだのです。
その後普通選挙実施等による選挙制度拡充に伴いメデイアによる扇動効果が大きくなり、政治家はメデイアのあおりを無視できなくなっていきます。
アメリカは日露戦争で日本を極端に応援して、満州からロシアを追い出し、続く第一次世界大戦で日本に対して相応の権益取得を認めたのは、日本の応援をしておけばその後の満州進出にアメリカが一枚噛める思惑があってのことでした。
日本もその辺は知っていたのですが、「尊い血を流して獲得した満州死守」のメデイアの大合唱で、政治家はアメリカの逆鱗を買う「満州独占支配」しか選択肢がなくなったのです。
この辺はApril 15, 2018,「メデイアと学者の煽り8(軍国主義肥大化へ2)」にも書きました。
ここからアメリカの対日オレンジ作戦→日本の孤立が始まり、ひいては軍事突破戦略しか無くなっていきます。
国内政治ではメデイアは政府のあら探しばかりで、これに呼応する野党が国会審議妨害ばかりでまともな政策論争ができなくしてしまったことにより、国民が政治家に愛想をつかしてしまった・・これが純粋に国の将来を憂うる清廉イメージのある軍部(未熟な若手将校)への期待感を高めてしまった原因です。
天皇機関説事件に始まってメデイア界が根拠のないあら探しばかりをして、(今の森かけ問題集中・官僚のセクハラ暴露も「政治家や官僚に任せて置けない」という国民意識を醸成するのがメデイアの主目的である点は戦前同様です。
メデイア界は・・戦前政治に及ぼした自分らの悪行を棚上げして被害者イメージばかり広めて自己反省をしない結果、戦前のあら探し報道に回帰している流れです。
せっかく始まったばかりの議会政治を政策討論よりは揚げ足取りの不健全な方へメデイア界が引きずり込んでしまったことが日本の政治を窒息させていった反省がありません。
戦前の戦争責任論としては、上記のように、世論を戦争方向へ誘導していった(3・15〜2・26事件等では違法行為は許されないが、「政治のあり方を反省する必要がある」かのようなメデイアお得意の事実上の応援論調が大きかった)これに反する政治家や学者を葬るのに大きな役割を果たしてきました。
メデイア界は対外強硬論に協力させられた被害者のような主張ですが、むしろ帝大7博士による強硬論以来何かと言うと対外強硬論の煽り中心で、国際孤立を避けるために日米和平を模索していた政府を袋小路に追い込む役割を果たしてきたのが他ならぬメデイア界です。
戦前の政治家も今の政治家も、政治家はメデイアの煽る世論動向に左右される役者の立ち位置でしかなく、権力=政策決定の方向を決めてきたのが映画監督に当たるメデイア界であったという厳然たる事実認識・・反省こそがメデイア界には求められています。
「公権力と距離を保つ」是枝発言は、戦争方向へ誘導していた第四の権力とまで言われるメデイアの責任にほっかむりして、「権力」という意味不明の主体に責任転嫁して映画界が(権力に協力」させられた被害者のごとく責任転嫁して「事足れり」としているメデイア界の開き直り・すり替え姿勢そのままです。
無色透明の権力が勝手に方向を決めるのではなく、権力=政策方向づけに当たってメデイアが大きな役割を果たしてきた点の理解が足りないか、あえて知らんぷりしているのではないでしょうか?
戦前「抑圧」国家体制が出来上がって行った原因と戦後の変化をみない・・戦後70年以上の経過で社会が大きく変わっている現実を見る目がない・・・見たくない人が日本の(戦前でもありえない環境設定)暗部を「創作・(捏造して)?」映画にして海外で日本の暗部だと宣伝する。
これが格好いい文化人?の仕事だと信じているのでしょうか?
NHKテレビ小説「おしん」は戦前の貧しい農村部の生活を描いたもので現在日本社会の状況として描いていませんが、是枝監督は(映画を見ていないで不明ですが題名等から察するに)、現在日本という時代設定で映画を制作しているように見えます。
これが後世に残ると当時の日本はこんな社会ではこうだった例として利用されるモデルになっていくのでしょうか?
映画が本当に日本社会の現実を描写したものか?仮に、本当に存在する核心を描いたとしても日本の現実には滅多にない変な・醜悪な部分を拡大して描くと国を代表する監督として国外で表彰されるのでしょうか?
「万引き家族などあるわけがない」という批判が起きれば、慰安婦騒動の「吉田調書」同様に「フィクションで何が悪い?」となるのでしょう。
幕末から明治にかけて浮世絵などがジャポニズムとして西欧文化に大きな影響を与えましたが、日本の醜悪な部分(仮にあるとしても)を日本国民が国外宣伝する意味が日本のためにも国際的にもあるでしょうか?
国内で発表してみんな豊かになったわけではないから浮かれないで、こう言う人もいると警鐘を鳴らすのは意味がありますが、海外発表して国内に持ち込む意味があるのでしょうか?
中韓等で日本の悪口を言いふらして喝采を受けて表彰された場合、帰国して日本政府から「よくやった表彰する」と言われると居心地が悪い人が多いでしょう。
こう言う人が、日本政府の表彰を辞退したい気持ちになるとすれば潔いことです。
『国益』や『国策』と一体化し、大きな不幸を招いた過去の反省に・・」というのですが、国益や国策に反することが映画の使命であるかのように公言するとは驚くべき主張です。
国益とは国民の利益であるべきでしょうし、国益に資する政策を国策とすれば、民主国家における国益に資する方策決定=民意そのものです。
民意にも誤りがあるでしょうが、「民意と一体化すれば(常に)大きな不幸を招く」かのような言い回しには飛躍があります。
誤りが後に分かるコトがあるとしても民意で決まった政策→法律をみんなが守る義務があるし、法で強制されなくとも一定の方向が決まれば(お祭りその他の行事など)率先して協力するのが良き共同体員の生き方でしょう。
彼の論法によれば、是々非々ではなく常に「民意」・地域共同体や地方自治体=公権力との一体化を拒み「距離を保つ」べしと言うかのようです。
国策=政府方針と常に距離を置く=何でも否定的反応→反対しかないのでしょうが、こののちに紹介するように、カンヌ映画祭出品作品は政府補助金を得て製作していると言うネット批判が早速出ています。
国策の内容に関わらず常に距離を置くと言うからには、国の補助金だけ貰えるものは貰う/困った時には救急隊や警察の助けを借りるのって矛盾していませんか?
個別に救援されたり補助金をもらうから目立つだけで、個別の援助がなくとも一定の集団に属する場合には、その組織の運営による恩恵・・我々弁護士会でいえば、良い仕事をする弁護士のおかげでその他弁護士も信用されるが悪い弁護士がいると他の弁護士の評価が下がる関係.自治体や国でいえば、共用施設・・公的空間や街路樹や街灯ガス水道・医療施設その他治安の良さなど・・税で運営されている恩恵を受けて生きているのが普通です。
いわば属する組織や集団と関係がないことなどあり得ないのに、自分の都合の良いトキだけ「距離を置いたり縮めたり」が許されるか?という常識の問題です。