郷原氏は本田鑑定の問題は、小保方氏のSTAP細胞事件のデータ捏造と流れが同質だと言いたいようです。
小保方氏のSTAP細胞事件ついては、「誰でもやっていることだ」という擁護論がチラチラと聞こえてきましたが、この種の意見によれば、こういうずさん発表が常態化・蔓延しているから小保方氏だけ批判するのはおかしい・・・業界内暴露のようです。
1昨日書いたように各種検査偽装発覚が相次いでいる実態とも合っているような印象を受けますが、要はこれを現実として容認していくか、ずさんな運用が表面化した機会に「タガを締め直す」ために厳しく処分して行くべきかは国家運営の価値観によります。
弁護士会の懲戒事件を見ると、自分だってホンのちょっとした違いで起こしかねないミス?と背筋の寒くなるような事例が多く、(自分の能力を省みると偉そうに)「人の批判できるか?」と忸怩たる思いがいつも付き纏いますが、他方で弁護士に対する世間の信用維持には、「これを不問にして良いか」の別の基準に想いをいたして勇気を奮い起こして「泣いて馬謖を切る」処分を出すしかないのだろうなと思うことがあります。
「データ偽装くらいいいじゃないか」という意見は「データ偽装でも実験成果を認めろ」という意見とすれば幾ら何でも論理矛盾・・実験していないのですから、実験成果が否定されることは認めるが小保方氏に対するパッシングが酷すぎるという程度の意味になるのでしょうか?
その論理が成立するには科学界ではしょっちゅうデタラメな成果発表していて「信用できないのは当たり前だ」という論者の科学者の論文はデタラメだという「常識の成立を認めろ」というに等しいことになります。
ネット上の小保方氏擁護論は学会の頽廃を前提とするもので、一般人には衝撃的意見で負け組の庶民からするとエリート・研究者といっても日頃から「嘘ばかり発表している」という宣伝に同調したい気持ちをくすぐったように見えます。
しかし、科学界としては、「非常識なことが日常的に行われているから処罰するほどの悪事ではない」かのように言われると、→日本の科学界全否定→日本発論文が世界で信用されなくなるので、この種の擁護論に流されなかったようです。
科学系発表に至る素人のイメージでは、こうしたらどうなるか?と色々な実験して見たらいい結果が出たので、何回もやり直してみる→同じ成果が出る・・「これは本物だ」となれば発表用にきっちり記録化しながら再実験を繰り返した結果を発表するものでしょう。
発表する以上は、データは再実験可能なように克明に記録化しながら進めるのが実験のイロハと思われます。
一回だけうまく行ったがその後何回やっても結果が出ない・・「だから記録にできなかった」が「本当に成功していたのです」と言う言い訳に合理性があるでしょうか?
科学とは「同じ手順でやれば誰がやっても同じ結果が出る」という再現実験可能性が基本と学校で習った記憶です。
いわゆる検証可能性が科学の特徴で、検証不能な意見はいわば主観的意見・・思い込みの類です。
小保方氏のSTAP細胞の発表には、そうした基礎データがなかったという調査結果とすれば、「データのない研究発表を科学業績と認める指導者がいるなど考えられない」と言うのが学界のルール・共通認識であるべきでしょう。
小保方氏の問題点は、理研の指導官が実験データをきっちりチェックしていてどうしてこういう事件が起きるのか?という基本的疑問です。
東大博士とか〇〇大博士と大学ごとの称号がありますが、チェック機関の信用を表すもので・小保方氏のような事件が起きない限り大学ごとのレベル信用を暗黙の了解として無意識に評価していて、学位論文を検証する暇のある人は滅多にいないでしょう。
だからこそ指導官の責任「道を踏み外した責任」→自殺にまで追い込まれた・・小保方氏擁護論者が言うほどには日本の「学会全体が腐っていない」と言う社会の評価だったのではないでしょうか。
(自殺=ルールに反してOKした指導官に対する学会仲間の無言の批判の強さ健在という推論は、門外漢の私の憶測です)
画像も別の実験記録をコピペし流用したことまで判明し本人がこれを認めている上に、小保方氏は理化学研究所から正式に実験データの捏造を認定されたときの記者会見で
「自分は不正をしていない」
と「一応」否定しただけで、不服申立期間内に不服申立てもしないで終わっています。
上記の通り、理研の小保方氏に対する処分や関係上司の自殺などの一連の流れを見ると、多くの科学者は真面目にやっている「開き直りをしない」)ように安心した人が多かったと思います。
ただし、早稲田の学位論文調査の結果、実験成果が捏造であることを認定しながら、学位授与を取り消さない決定をしたうえに「学位論文審査者」に対する言及がもしも一切ない(ニュースで見かけないだけなので「処分をしていない」とは断言できできませんが・・)とすれば、同大学の学位授与に対する信用・・・「この程度は皆やってることだ」「データを見る暇なんかないよ!虚偽がない前提で審査している」と言わんかのような結果ですから、大学学位授与の信用をおとしたことになるように思われます。
https://www.news-postseven.com/archives/20140729_267914.html
小保方氏の博士論文に早稲田大「不正は故意ではない」と判断
2014.07.29 07:0
論文の第一章は80%が剽窃(パクリ)であり、画像、イラストの剽窃も多数見つかった。なんと参考文献のリストすら別の論文からコピーしていた。
その他、画像があるのに説明文がない、意味不明の用語が使われている、論旨不明箇所が多数、実験手続の記載なし、誤字脱字が42か所などと指摘され、さすがに報告書も「合格に値しない論文」と結論づけた。
報告書では寛大な処分を下す理屈として、学位を剥奪すれば小保方氏の「生活の基盤、社会的関係を破壊する」からだと主張するのだが、不正に対して認識が甘すぎる。
※週刊ポスト2014年8月8日
事実認定が客観的に行われるべきは当然ですが、どの程度の処分にするかも制度目的に忠実であるべきであって、情実を絡ませるのは異常・非常識です。
かわいそうかどうかの情状論は学位論文信用性維持の法益を基礎として、情状で考慮できる範囲がどの限度かの判断がつかなかったようです。
刑法で罪種によって法定刑が決まっているのは、情状を考慮しても罪種による最低の枠がある・・その枠を踏み外さないようにという意味があるからです。
車の免許不正取得でいえば、不正行為に対する処罰・・罰金や懲役刑の選択については情状を考慮できても、情状如何に拘らず運転能力がないならば、免許取り消しすべきです。
学位・・資格授与は職業上の資格・免許同様の機能ですから、学位(免許)取得に不正があることを認定しながら(入学試験や公務員試験受験の不正行為を認定しながら、可哀想だからと罷免しないのと同様?)可哀想論で学位授与を取り消さないのって、「早稲田大学って大丈夫?」という疑問を持つ人が多くなりませんか?
可哀想だから取り消さないというのを逆から見れば、「可哀想な人には能力がなくとも学位を与えるの?」という疑問につながります。
早稲田大学は学位を剥奪すれば小保方氏の「生活の基盤、社会的関係を破壊する」から学位剥奪しない・・博士号の利用を許すというのですが、これの実用性があるでしょうか?
可哀想だという理由で博士号剥奪されなかった「博士」をありがたがって採用する研究機関があるのでしょうか?
小保方氏の生活を心配したのではなく、学位審査に関わった人たちの責任問題(自殺までいかないでしょうが)に波及するのを防ぐ目的99、9%だったのではないでしょうか?
そこにあるのは、仲間をかばう意識の方が早稲田大学の価値・信用を守るより優先している状況です。