弁護側に不利な虚偽報道があれば弁護側は手持ちの判決書や決定書ですぐに反論できますが、内容に合わない「不当判決」の宣伝報道や内容捻じ曲げた報道があっても裁判所も検察も反論できないので、虚偽〜フェイク〜内容のない根拠ない誹謗・・何でも報道されっぱなしになります。
弁護側の主張が否定されると決まり文句のように出る「不当判決、不当決定」の垂れ幕がこの象徴でしょう。
本来大人の感覚で言えば、自分の意見が通らない都度、論争相手を「不当」と罵るなどはやるべきことではありません。
サッカーやスポーツで負ける都度対戦相手の試合が不当だと、罵っていて国際関係がなりたつでしょうか?
不当と言う批判の洪水ほど不当な批判の仕方はありません。
何が間違っているかの事実適示がないまま、不当(市民感覚が許さない)と言う根拠のない意見表明では批判された方が反論できない決めつけ報道になりますので、こういう報道は、批判とか意見と言うのも恥ずかしい動物の咆哮レベルのシロモノです。
上記のとおり裁判所等がなんら反論できない仕組みが出来上がっていることからこのような事実無視・・事実を論じない粗雑報道がはびこるようになったのではないでしょうか?
一旦メデイア攻撃の対象になると、国や大手企業に限らず個人でも全く反論できない点ではほぼ同様です。
もしも権力に属する裁判所や検察が、「裁判批判が間違っている」とひとことでも言えば言論弾圧といって(メデイアが煽って)大騒ぎになるでしょうから、「自由な言論市場で勝負すべき」と憲法学者が言うものの、メデイア攻撃の対象にされた組織や個人は何も言えない・言わせない仕組みを作り上げた上で「あることないこと無茶苦茶」報道してこれが「世論だ」「市民感覚」だと強弁する習慣が出来上がっていると言えるでしょうか?
戦前の美濃部教授に対する天皇機関説事件はまさにその種の総攻撃でした。
企業誘致その他公聴会等でも反対派はいくら動員しても良いが、賛成派が動員したことがわかるとメデイアの袋叩き・大政治問題になります。
企業側・公務員が何か釈明反論すると「そんなこと言って良いのか!」という非合理な非難大合唱で、最後は平謝り・土下座強要の繰り返しで、いつの間にかメデイアの応援を受けた庶民は怒号し放題という構図が出来上がっています。
平安末期に僧兵が神威をかさに着て日枝神社の神輿を担いで問答無用で暴れ回っていた横暴なやり方を、根拠を示さない「庶民の声」「市民感覚」に置き換えただけのように見えます。
ようするに日本では、メデイアが一方の立場で洪水的攻撃を始めると誰も反論できないまま、(妄言批判等で大臣がクビになり政治生命をなくす)社会から抹殺される時代が続いてきました。
うっかり疑問を呈すると「市民感情を理解できていない」と根拠不明の基準で袋叩きになる社会・・言論の自由市場・対等合理的論戦できる仕組を破壊し尽くしてきた結果、メデイアの応援を受けた批判者は言いたい放題・・批判する方は何を言っても言論の自由で免責される仕組みです。
道路占拠の屋台などを行政が是正しようとすると「部落民を差別するとかいじめて良いのか」という「えせ同和」が蔓延るようになったのと同じ構図です。
この類縁が(弱者の)「在日をいじめるのか!」と何でもゴリ押しがとおってきた習慣・.京都の公園不正使用が恒常化していた原因しょう。
韓国では一旦弱者のメデイア的地位を得るとやりたい放題の傍若無人ぶりが(たとえば飛行機遅延だったか?軽微な不手際事故では米国の飛行場だったかでクルーに暴力を振るう乗客の映像や、セウオール号事件では1年以上経過しても体育館だったかに泊り込みを続けている例が知られています)報道されますが、日本にもメデイアを通じてそのやり口が浸透しすぎているように見えます。
これは日本のエセ同和や在日のやり口が韓国に浸透したのか、韓国系の心情政治が日本のメデイア界に浸透したのか、どちらが先か知りませんが、「メデイアによって一旦弱者報道されれば何をしても言っても良い」という方向性は共通です。
いわゆる「在日特権」というのも特権でもなんでもなく、在日の場合ゴネてうるさいので窓口で役人が「こと勿れ主義」で対応して来た結果、在日を事実上特別扱いしているに過ぎないでしょう。
こうして在日の生活保護受給率等が高まり、京都の公園不正使用が既得権化していたのです。
「人の噂も75日」といわれるように判決等の内容を半年後に一般専門家が目にする頃には、世間の関心が移っているというか都合の悪い事実をメデイアが報じないので、マスメデイアによる世論誘導力は甚大でした。
今やネット時代で、コネがあれば担当弁護士から「決定書」をメールでもらって、そのままコピペ拡散できる時代です。
裁判所が自分で反論しなくとも、弁護士の名(郷原氏は隠れ裁判所か?)で拡散できます。
メデイアの誤読や意図的誤読報道はすぐにネットで反論されるようになります。
ひと昔前までは、何かあると北朝鮮や中国は「すべて日本の責任だ」という公式発言が普通でしたが、朝日新聞を筆頭にメデイア界では今でも何が何でも「人権?」と名のつく方に捻じ曲げて権力批判の結論だけ報道する傾向がまだ変わらない状態です。
6月17日の日経新聞朝刊社説にも、一度再審開始に決まったものが、同じ証拠を見る人によって正反対の結論になるのはおかしい」といい、「無罪方向に決まった場合には、事実の有無に関わらず覆せないようにすべきだ」と言わんかのような論調です。
念のために正確に引用しておきましょう。
「信頼される司法のために」
静岡地裁が・・再審開始を決めた・・その最大の決め手が、袴田被告の来ていたとされるシャツについた血痕のDNA型だった。弁護側の推薦した鑑定人の鑑定では元被告や被害者のものと一致しなかった。
ところが・・高裁は鑑定のやり方について、「深刻な疑問が存在する」と信用性を否定。再審開始決定を取り消した。
裁判官が違えば異なる事実の認定や判断がなされることがありうる。
それにしても同じ証拠から死刑か無実かという正反対の結論が導かれるようでは司法の信頼をゆるがしかねない。
・・無罪につながるような新たな証拠が見つかり一度再審の開始が決まったらその扉の外で延々と争うのではなく、速かに再審の裁判に映る仕組みに改めるべきである。
以上のように日経は、高裁決定で1審の結果が変わるのでは、司法の信頼が揺るがしかねないという主張です。
それを言い出したら三審制度が成り立ちませんし、最高裁まで行って確定した有罪判決を一地方裁判所が取り消すような再審開始決定自体が、司法の信頼を根底から揺るがすことになりませんか?
だからこそ、再審査手続きに入るかどうかの手続き入り口で慎重な手続きが予定されているのです。