原理論と時代不適合1(民進党綱領)

誰の目から見ても、従来の延長ではなく産業界を含めて各種構造改革・リストラクチャリングが必須になってきたバブル崩壊後、政府が何かしようとすれば先ずは反対・けちを付ける方法ばかり精出して、1日でも10日でも決定の先延ばしが目的かのような議事妨害や主張態度が国民支持を失っていったのは当然です。
当時最大野党であったバブル頃からの社会党の流れに関する3月5日現在のウイキペデイアの1部です。

土井ブームの盛り上がりと凋落
土井社会党は土井の個人人気と女性候補(「マドンナ」と呼ばれた)を積極的擁立など女性層を中心とする選挙戦術を展開し、消費税導入やリクルート事件、農業政策に対する不満を吸収した「激サイティング!社会党」のキャッチコピーを掲げ、1989年の第15回参議院選挙では46議席を獲得。自民党は36議席しか獲得できず、連合の会と共に、自民党を非改選を含めても過半数割れに追い込み、改選議席で自民党を上回った。土井の個人的人気による選挙結果のため、土井ブームと呼ばれた。
1990年に発生した湾岸危機で政治課題となった自衛隊の派遣では、日本社会党は憲法9条堅持の立場から、「自衛隊海外派遣に反対」を主張し、民社党・公明党との関係は冷え込んだ。
これと並行して民社党・公明党との協調を重視する連合など労組幹部などとの摩擦も強まり、土井執行部の求心力は急速に低下した。1991年の統一地方選挙で社会党は敗北、土井は責任を取って委員長を退いた。
1993年の第40回総選挙で社会党は新党ブームに埋没し、改選前の136議席から70議席と議席をほぼ半減させた。
特に都市部では、東京都で11議席から1議席に激減するなど、土井ブームで得た議席を失い、55年体制以来最低の議席数となった。長年の宿敵であった自民党が大敗した選挙であるにも関わらず、社会党は却ってその存在感を失うこととなり、後のことを考えれば皮肉にもこれが社会党にとっての”終わりの始まり”であったとも言える。
・・・その後の1995年の第17回参議院選挙では16議席しか獲得できず、2年前の衆議院選挙に続く大敗北に終わった。
新党構想は結局、鳩山由紀夫・邦夫兄弟や菅直人らが中心となり同年衆議院解散直前結成された民主党として現実のものとなった。
社民党は一旦、民主党への丸ごと参加を決定したが、鳩山由紀夫の「排除の論理」に反発して、すぐに撤回。現職の幹事長であった佐藤観樹を含め約半数の党所属国会議員が「個々人の決断」のもと社民党を去り、民主党結成に参加した。幹部候補生と目された前北海道知事横路孝弘も民主党を選んだ。
一方、村山ら約半数の議員は社民党に残留し、土井たか子を党首に復帰させ、第41回総選挙に臨んだ。支持労組の大半は民主党支持に転じたが、地方組織のかなりの部分は社民党に残った。村山内閣時の路線転換に批判的な議員や党員の一部は、離党して1996年3月、新社会党を結成した。結果的に民主党、社民党、新社会党の3つに分裂したことになる。

上記土井ブーム以降の経過を見ると鳩山民主党の大勝から凋落〜民進党への改称〜希望の党と立憲民主党への3分裂「排除の論理」などそっくり同じコースを辿っていることがわかります。
バブル期には政策など不要で浮かれていたので消費税反対の「やるっきゃない」というアッピールだけで、社会党が急浮上したもののバブル崩壊後斬新な知恵が必要になってくると自社既存政党の対応力不足で、ともに支持率を落としていきますが、実務に足場を持ち融通性のある自民党以上に学校で勉強した知識に頼る硬直的社会党がついて行けなくなったことが浮き彫りになります。
自民党は時間をかけて新時代対応力をつけていったのですが、革新系は硬直的近代法理・平和論にこだわる結果、総本山社民党は以来恒常的に2議席前後になってしまいました。
国民の数%は教条主義の貫徹に郷愁を持つ人がいるということでしょう。
上記の通り民主党はもともと選挙対策として社会党を脱出した人が多くを占めているので、民主党〜民進党は内部に左右対立を抱えているのが難点でした。
これを解消するために保守の小池新党へ合流するにあたり排除の論理を宣言したのは合理的でしたがその結果、保守政党にまぎれこもうとした左派(教条主義)の猛反発を受けたことになります。
バブル崩壊後野党の主役になった民主党〜民進党系野党の主張は日本をどの方向へ導きたいかの方向性が見えない・元社会党のようになってきた・・新たな政策を少しでも遅滞させる・・変化に適応をさせないことが自己目的になってきた印象でどうにもならなくなったのを打開するために細野氏ら右派が分裂したのですが・・。
そもそも野党の綱領や公約は何でしょうか?
民主党時代には左右両派の寄り合いでしたので当綱領さえ作れないと言われていました。
自民党綱領解説からの抜粋です。
https://www.jimin.jp/aboutus/pdf/kouryou.pdf

平成22年(2010年)綱領
(2) 綱領は政党の命
この綱領で民主党とどこが違うのか、との質問が出ます。我が党と民主党との最大の違いは、綱領があるかないかです。
民主党には、昔の社会党綱領の下で議員をやっていた人が、閣僚席に現在数人座っています。
この方々は、社会主義を捨てて、民主党に参加したのでしょうか。また、我が党の中で、ポストに就けない、権力闘争に敗れたからといって出ていった人も多い。市民の目先の生活が大切で、国より個人だという市民運動家の方もいる。民主党は、綱領がないというよりも、こうした人たちの混合政党であるから、政策を判断する共通の理念を統一できない。
その結果として、当面の選挙対策的場当たり政策がまかり通るのが残念な現実です。共産党は共産主義で統一をされている。社民党の性格は変わってきたけれども、最終的には社会主義的なものへ移っていくことが書かれています。ところが、民主党には綱領がありません。選挙が不利だから離党する、大臣になりたいから他党にいくなどいう政治家が集まる政党では、綱領が持てないのは当然です。綱領を共有するから同志が集まり、党があるのです。政治理念ではなく、当面の損得で離散集合をする政治家は、必ずや後世の批判を受けるでしょう。政治家である前に、節義ある人間として、我々もまた心すべき点です。

民進党に改称された頃に「党の方針も決められない政党」と言う批判に答えるためにようやく綱領できたようですが、以下の通り肝心の国防その他の基本方針が全くなく、あたり触りのない綱領になっています。
https://www.minshin.or.jp/about-dp/principles

民進党綱領  2016年03月27日
我が党は、「自由」「共生」「未来への責任」を結党の理念とする。
私たちは、「公正・公平・透明なルールのもと、多様な価値観や生き方、人権が尊重される自由な社会」「誰もが排除されることなく共に支え、支えられる共生社会」「未来を生きる次世代への責任を果たす社会」を実現する。
(私たちの立場)
我が党は、「生活者」「納税者」「消費者」「働く者」の立場に立つ。
未来・次世代への責任を果たし、既得権や癒着の構造と闘う、国民とともに進む改革政党である。


民進党の綱領を見ると自由、共生社会など当たり前と言うか幼稚園児の作文のよう暗喩目しか書いていません。
国家存立にかかわる防衛の基本方針も決められない。
内政では分配中心で肝心の分配資金をどうやって稼ぐか・・・生活水準向上の原資をどうするかの国民最大関心事に対する主張がありません。
・・決まりきったことしか書けない点が今まで批判されてきた寄合所帯の弱さを表しています

 

政党と内閣支持率推移3(劇場型政治から安倍政権へ)

3月2日に紹介したグラフを見るとバブル崩壊後小泉政権を除けば政権獲得後すぐに幻滅に見舞われ短命内閣が続いたのを見ると、新時代に応じた人材養成期間が必要であったことがわかります。
キャッチアップ・調整型政治に慣れ親しんできた社会でいきなり構想力・実現力を求められても、そういう人材が産業界を含めた各種分野で中堅幹部等にしか昇進していなかった・・そう言う人材は海外子会社に飛ばされているなどすから、創意工夫・企画力のある人材が中枢に抜擢され昇進してくるまでの期間が必要です。
その間目くらまし的に劇場型・イメージ・パフォーマンス戦略に走るしかなかったのは・・・政治の足腰・前提たる実業界自全体が従来型キャッチアップ商法からどうやって脱皮・転換するかに苦しんでいたのですから、政治分野だけ成果をあげるようなアイデアがある訳が無い・堅実な裏付けのないパフォーマンスに終始したのは当然です。
パフォーマンス政治=実現性のない格好付け政治スローガンの意味とすれば、バブル崩壊後安倍政権に至るまでの各内閣を見ると、小泉氏以外のパフォーマンスが全て失敗した原因と小泉政権との相違点を見ると小泉氏以外は、鳩山氏の「少なくとも県外へ」同様にすべて前向き政策の提示でした。
バブル崩壊後政治家だけではなく、超円高と中国の開放による超低価格攻勢に実業界もどのように対応するか模索中でしたので、どう言う構造改革が必要か不明のまま「蛮勇を振るって改革する」という期待感を煽るだけでは(裏付がなく実行力を伴わなかった結果)政権発足直後失速した点では鳩山氏に限らず結果からみると保革を問いません。
鳩山氏は何をするか不明の構造改革論と違って「少なくとも県外へ」と焦点を絞った点で小泉劇場同様にインパクトがあったのですが、郵政民営化は国民がそのスローガンに熱狂さえすれば一定の法改正自体可能ですが、基地移転は相手が米国ですし、国内的に見ても移転先の同意・用地獲得などの手当てが必要ですから、熱狂・国内をいくら煽ってもどうにもならない・・スローガンの実現不可能性は素人にもすぐに判明した点で目立ったにすぎません。
小泉劇場の成功の秘訣は、野党の「〇〇反対」と同じ「ぶっ潰す」というだけで新たに何かする提案をしていない、出来もしない前向き政策を提案していません。
現行政策をストップするだけで具体的政治に対する期待感を煽らなかったので、既存政治家にいじめられているイメージだけ膨らませて、いじめられている人に対する同情心・判官贔屓で成功したものです。
「ぶっ壊す」のは、新たな制度構築に比べて権力者にとっては楽なことです。
たとえば道路をつくるといえば道路用地買収から予算までいろんな手順・実務能力が必要ですが、(「少なくとも県外へ」が失敗したのは受け入れ先の同意その他の実務がいるからです)中止ならば実行中の工事の次の工事の発注さえしなければ済みます。
小池氏はその真似をすればいいと思った・・まず最初の大政党を敵に回しての孤軍奮闘のイメージ戦略で有権者の同情心を掴み、都知事になって実際に何かする必要が出てくると築地市場の移転では、豊洲の粗探しで工事中断に持ち込みました。
オリンピックのエンブレムに始まる騒動も全て粗探しに始まって手続き中断を狙ったものでした。
築地移転もオリンピックも目先の注目期間が終わり、何のための中断だったか(停滞の損失)に関心が移る頃に総選挙になったので失速してしましたが、ともかく工事中断効果があったことは間違いがありません。
このように「やめる」だけならば、トップの権限で公約通りに実行可能な点が前向き政策との違いです。
民主党政権での「事業仕分け」が華々しかったのは、事業廃止だけだったので強引無茶な仕分けが可能だったにすぎません。
(馬に水を飲ませないことはできるが)「飲ませることはできない」という箴言の応用です。
革新系のように反対・粗探しによる議事・進行妨害だけならば国民の納得不要で簡単ですが、前向きの政策の場合には国民が自発的に動いてくれないと進まないので難しいので自己満足ではどうにもなりません。
小池氏のオリンピック問題のカラ騒ぎや築地移転のいちゃもん騒動では、以下の通りの大損失ですが関係者の協力不要で先送り可能でした。
オリンピックでは東京都以外の競技場検討というだけ言って大騒ぎした結果、競技場が元の予定に戻るなど関係者は不満だらけですが、国益のためになんとか間に合わすしかない・仕方なしの協力関係になっています。
築地移転に至っては具体的損害が出ています。、
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201707/CK2017073102000110.html

2017年7月31日 朝刊
東京都の築地市場(中央区)から豊洲市場(江東区)への移転延期が長引き、築地市場の建物解体工事を都から受注した業者が困惑している。移転時期が不明なため、都が契約解除を求めているためだ。業者にとっては大きな仕事を成し遂げて実績にしたいとの思いがあり、「落札した契約を都の都合で破棄されるなんて聞いたことがない」と反発している。 (唐沢裕亮)

http://ytanaka.g.dgdg.jp/toyosubook/ebook-8.pdf

大騒ぎをし、数百億円の損失を残した、豊洲移転延期騒動は何だったのか

上記では各分野の中断による損害を弾いていますが、省略します。
小池氏は、次の予定された次の工事着工OKの印鑑を押さないだけでは格好がつかないので、過去の決定手続き過程調査が必要と言って時間稼ぎをしていたように見られてしまいました。
パフォーマンス政治脱却に成功した安倍政権(BtoCからBtoBへの実業界の対応が進んできたことが背景)時代になっても、まだパフォーマンス劇場型の小型版・・二番煎じで支持率を維持できると誤解していたのでしょうか。
バブル崩壊後次から次へと政権が交代してもその都度支持率急落の連続でしたが、3月2日紹介のグラフで第二次安倍政権の支持率を見ると、派手なパフォーマンス不要で内閣支持率が党支持率を長期安定的に上回っている初の本格政権になっていることが分かります。
安倍政権が次々次繰り出す政策が良いから経済順調・支持率維持なのか、経済が息を吹き返した時に政権獲得したから支持率が安定しているのかの関係は不明ですが・・。
内閣支持率の安定こそ政敵・野党に限らず中韓等敵対国は、政権党を攻撃するよりは先ずは安倍政権打倒に必死になっているのでしょう。
60年安保以降〜高度成長期以降の野党の動きを見ると体制(政策)選択の主張で競争するのは無理が出てきたので、各種反対運動や国会議事妨害目的になって行き、清水幾太郎がそのように変化していった丸山真男ら主流的文化人らと反目するようになっていったことをFebruary 23, 2018,に紹介しました。
「何でも反対」論は、四日市の公害や熊本の水俣病などによる公害反対激化したころまでは社会的意義のあるものもありましたが、駅前商店街(零細商店)を守れなどの反対になってくると市中心部の空洞化の原因となり、空港立地や高速道路反対・工場立地反対など地域経済に対するマイナスが目に見えてきました。

政党と内閣支持率推移3(小泉〜小池劇場)

バブル崩壊以降は長期低迷打破・・局面打開期待に応じて、就任当初の期待感人気で内閣支持率が高くなるものの実際にはどうして良いか不明時代ですから、就任直後から内閣支持率が急減し政党支持率以下に下がる短命内閣が続いたことが3月2日に紹介したグラフでわかります。
小泉内閣になって初めて恒常的に党支持率を逆転するようになったのは、社会構造の何を大胆に構造改革できたのか、単なるパフォーマンスの連続・目眩し「劇場型政治」が成功したに過ぎなかったかは、(小池劇場はこの模倣と言われましたが失敗しました)私にはわかっていません。
「1内閣1テーマ=郵政改革の成果」だけで「よし」とするかの評価の問題です。
ゆうちょ民営化の原型はすでに中曽根内閣の民営化路線でレールが敷かれていたのですから、無数にある公的事業民営化流れの一つに挑戦しただけです。
小池新党の選挙公約のお粗末さについてその頃に連載しました。
中曽根内閣の民営化は、国鉄民営化等いわゆる3公社5現業に限らず、その後各種広範な国営事業民営化改革に連なり、今や国立大学や国立病院も博物館も今は「国直営の国立」」ではありません。
この動きは国関連の道路公団その他各種公団の民営化につらなり、地方自治体の公益事業や公民館等の民営化や民間委託部門の拡大など今なお裾野を広げつつあります。
上記に比べて郵政民営化騒動は何であったか?日本社会に何を残したのかどのような波及効果があったのかまるで見えません。
金融部門に限定しても、郵貯が民営化されたことによって、日本の金融業務慣行がどのように変わってどのような利便性を持つようになったのか、国際競争力強化にどういう効果があったのか?他の金融機関の進化にどんな影響を与えたのでしょうか?
金融部門の中の1業態・たとえば信用金庫制度をなくす程度?の部分改革・・改革と言えるのか不明ですが、ともかく世の中の不満・閉塞感に訴えるために既存権力システムに挑戦しているパフォーマンスを示しただけではなかったでしょうか?
小泉改革は社会の構造変革ではなく、その後に野党の主張・流行となった隠れ資金・特別会計などの埋蔵金がある筈!運動の先駆け・・財投資金を明朗化する程度で終わったのではないでしょうか?
財務省は豊富な郵貯資金の取り入れによる財投政資金なくなり、その分赤字国債に頼るようになります。
ただその頃に書いた記憶ですが、郵貯資金でも国民に返すべき貯金ですから、いつか返さねばならない国債と実は同じです。
郵貯の場合満期が来てもそのまま更新する人が多いので事実上返さなくて良いのですが、国債だって企業の社債だって借換債を前提にしている点は同じです。
国債や社債の場合、満期時の市場の信認に頼る点が大きな違いのように見えますが・・.郵貯だって高金利時代になれば、相場に金利を合わせないと更新してくれない点は同じです。
小泉政権は自己を目立たせるため自民党の支持基盤解体に挑戦し、支持基盤の弱体化に成功した結果、その後遺症・・支持基盤の再構築に自民党が苦しむようになって短命政権が連続し、ついには野党に転落した原因です。
小泉氏が今でもメデイアや野党系に人気のある所以です。
「自民党をぶっ潰す」というスローガンを掲げて党首になった小泉氏が、自民党の強固な支持基盤であった各地の特定郵便局の解体に向けた郵政民営化攻撃・・・周囲から冷ややかに見られている中でドンキホーテばりの突撃は反自民のメデイアの賞賛・脚光を浴びる文字通りのパフォーマンスで人気取り・メデイアの支援を受ける相乗効果を狙ったものでした。
この辺は「小池劇場」と言われた一連の騒動も如何にも強いものに挑戦するかのような方向性は小泉氏と同じですが、実は相手は本当に強い安倍政権に正面から挑戦せずにすでに15年以上前に退陣した元総理と、猪瀬舛添2人の後任都知事の前に退陣している80代の高齢元都知事をやり玉にあげる点で異常でした。
すでに小泉政権の前の2000年ジャスト頃に退陣した森元総理の主催するオリンピック委員会の既存路線のひっくり返しによりそのボスである森元総理に恥をかかせることから始まり、この決着がつかないうちに築地市場移転問題もひっくり返し、何期(猪瀬〜舛添)も前に高齢化を理由に現役を退いた老人・・社会弱者になっている石原元都知事を公開の場に引き出して(100条委は強制力があります)何年も前の細かな決定経緯を問い詰めるなどでした。
ウイキペデイアの記事です。

百条調査権の発動に際しては、証言・若しくは資料提出拒否に対し禁錮刑を含む罰則(同条第3項)が定められており、国会の国政調査権(日本国憲法第62条)に相当するものである。議会の議決にあたっての補助的権限、執行機関に対する監視機能、世論を喚起する作用等を有している。

不正行為の有無等であれば事実経過確認が重要ですが、政治決定の妥当性については結果に対する政治責任で評価するしかないのが原則です。
結果の妥当性に文句をつけられないから、手続き関与者に質問してイヤがらせしようとしたのでしょうが、パフォーマンスとは言え・・私なども数年前の言葉のやり取りを聞かれても書類記録に残っている以上の個人的記憶はほぼ100%ありません・・・ちょっと筋悪すぎた印象です。
個人が都知事に会った場合には滅多にないことなのでその時の記憶が強いでしょうが、都知事は超多忙で膨大な書類決済しているのですから、何年も前の決済事項を議会証言をさせるために呼びだすこと自体が異常です。
国民や(このままではオリンピックがどうなるのか)都民(市場関係者にとっては移転時期変更のために事業計画が止まったママになっている)ので早くきめてほしいのですから、必要なことは決定手続きが杜撰であったか否の確定(司法手続き)ではありません。
一見して都知事選挙に勝った勢いで弱った相手を吊るし上げようとした「弱いものいじめ」で決定でき兄弱さを隠すための時間稼ぎをしている印象を受けました。
退陣したパク大統領をすぐに逮捕拘留した韓国現在政治の印象を受けます。
議会で老人を吊るし上げても結局何も出ないで、築地移転がどうなるかについては約1年間工事が遅れたただけで終わり、オリンピック計画も見直しすると騒ぎを大きくしただけでほとんど変わりなく終わった印象です。
(地下水問題を解決した功績を言うでしょうが、こう言う不具合は工事進行過程でその程度出るのが普通ですから、その都度修正して行けばいい程度の問題であり選挙の争点だったか?という疑問です)
小池氏の選挙戦略はマスメデイア出身者らしくいかにもイメージ戦略過剰で裏づけになる政策が皆無であったように見えます。
(小池新党の公約は内容空疎であったことを連載しました)
何をするという責任ある政策提言ができないことから、60年安保以降革新系野党の国会戦術・資料が足りないとか審議時間が少ないなど手続き問題ばかり主張するようになった戦術と同じです。
都知事選自体が大政党のバックがないまま健気に闘うイメージで票を集めたものでしたし、その後は勢いに乗って個別に敵役を作りターゲットにする戦略で注目を浴びただけでその先何の展望・どうするかの政策が一切なかったのですぐに失速しましたが、国民はすでに内容のない小泉劇場を経験していたこと・個人攻撃に特化した点を嫌った・・見る目が肥えていたことが大きかったでしょう。

政党支持率と内閣支持率推移2

福田内閣で安定成長軌道に乗ると再び党高政底(リーダシップ政治不要?)に戻ります。
あ〜とかう〜とか何を言っているのか、まるで不明な発音が普通であった大平氏を筆頭に鈴木善幸〜最後は(大平氏に比べて発音ははっきりしているが)「言語明瞭意味不明」と言われた竹下など基本的に「寝業師」中心で何をどうするのか不明の時代が続きました。
この間、政治目標をはっきり主張していたのは「青年将校」と言われていた中曽根氏だけです。
若い頃から総理公選制を唱えるなど主張のはっきりしていた彼が遂に政権を入手すると長期政権になったのは、三角大福中の政権争奪者の中で年齢が一人大幅に開いていた(若かった)からと言われていますが、日本の経済力が警戒されて国際包囲網が形成されていく中で、相応のビジョンを持って国際的人脈形成をして世界に飛び込んで適応できたことがわかります。
人脈的にはいわゆるロン・ヤス関係を構築し、貿易面では国営企業を減らして国内経済では国鉄その他の民営化実現などの自由経済化を進める改革を行うなど国内で痛みを受け入れるべきは受け入れ流などの成果をあげました。
国鉄とJRとのサービス精神の違い超赤い自他室が黒自体室に変わっただけではなく・・その頃を期して公務員の姿勢が民間並みに変わったのを見れば結果的に大きな改革でした。
国際政治的には不沈空母発言等で西側諸国になくてはならない存在を強調するなど第二次世界大戦前夜のような孤立の再現を防ぐのに成功していたことがわかります。
プラザ合意でひどい目にあったという意見が主流ですが、一定の痛みの受け入れによって円高でも稼げる筋肉質の企業に変身させ、他方黒字を稼ぐばかりではなく、儲けを国内還元する・・内需拡大→生活充実・文化度アップに切り替えた功績は偉大です。
このコラムで「失われた20年というが、日本の身近な生活水準が目に見えてよくなっている」ことを繰り返し書いてきました。
内需無視で輸出で儲けるばかりでは国民も不幸ですし、商人や製造業者は一定の儲けがあったらその段階で家族・従業員国民にその利益を還元し国民の消費・文化度アップできてこそ、儲ける意味があります。
韓国の苦しみを見るとここ1〜2年貿易統計上空前の黒字を稼いでいる筈なのに、国民に還元せず国民の多くが低賃金や失業や負債増加に苦しんでいるアンバランスがあり、そのはけ口として文大統領が率先して自分が不法占領している竹島問題を持ちだして日本を刺激し、あるいは解決済みの慰安婦騒動の蒸し返しを図っています。
中国も実は貿易黒字が大きいのですが、国威発揚のために戦略的に無駄な海外投資(軍港確保目的にインフラ融資をして返済できないと港湾を取り上げる高利貸し商法)をしたり、内需(無駄なインフラ投資ばかりで国民を豊かにする消費支出)に回せないために、国民の生活レベルが低いままです。
この不満のはけ口にするために対外強硬主義に走るしかなく、何でも「死活的国益だから譲れない」と息巻いて相手国を恫喝する傾向です。
いくら威張っても、日常レベルの低さを知っている日本人の多くが気にしない・中国人民自身が日本の豊かな生活が憧れの対象になっている要因です。
何かあると譲るのを拒み「国難」だといきり立ってその都度仕返しだと騒いで対外的強硬策で孤立するのが良いものではありません。
中国は国内改革・痛みを拒んで・・開き直って、逆にこの1〜2年で見ると成長が止まった生産過剰分を民間に圧力をかけてどんどん潰して国有企業温存策に転じた上で、国内不満対策で対外強硬策になっているのを見ると、日本が戦前に突き進んだ轍を踏んでいるように見えます。
日本の対米戦は、短期的に見ればアメリカに戦争に追い込まれた面がありますが、その前に「満州死守が我が国の生命線」というような頑なな対応が遠因になっているという反省が必要です。
今になっての後講釈ですが、そのとき少し譲っておいても生命線でも何でもなかったことがわかります。
中曽根氏は小派閥の長でしかなかったために、時の主流派に正面から抵抗できないために妥協を重ねて政界風見鶏と言われ続けましたが、ともかく潰されないで生き残ったことで国鉄その他民営化の大業を歴史に残せました。
この時期には、もはや共産主義か自由主義の選択の時代が終わり(勝敗がついていたので)自由主義陣営内の競争選択の時代が来ていたのです。
内閣支持率が下がっても日本経済が上昇基調にある限り、党の支持率(体制選択不要・社会党/革新系支持率が上がらない)変更にはならなかったことがわかります。
一方で日本の国力増大(1968年西ドイツを抜いてGNP世界2位)→国際的地位・関係が微妙になり始めた時期でもありました。
ニクソンが電撃的に中国訪問(1972年)し、自陣営に引き入れて共産主義陣営の中ソ分断に成功し、一方で西側陣営内で頭角を現わしてきた日本外し(中国による日本批判を裏で承認する方向性)に動いていたのですから、複雑な国際政治経済が始まっていました。
国内政治が複雑になっただけではなく、自由主義陣営参加で占領軍支配以来のやり方・・・アメリカのいうとおりしていれば済む時代でなくなってきたのです。
一方で欧米諸国は、第二次世界大戦の教訓もあって日本を重視する方法も用意していました。
世界の重要事項を決める大国の首脳会議の場・サミットが結成され日本が創立メンバーに入ったのもこのころですがいわば、欧米多数の中に一人アジア人が入っても何も言えない・・「一緒に決めましたよネ!という約束させれる場を作られたようなものです。
その意味はいわゆるプラザ合意も同じです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/
第1回先進国首脳会議は、1975年11月15日から17日までフランスのイヴリーヌ県ランブイエで開催された先進国首脳会議。通称ランブイエ・サミット。
参加者 ヴァレリー・ジスカール・デスタン
ヘルムート・シュミット
アルド・モロ
三木武夫
ハロルド・ウィルソン
ジェラルド・フォード
ニクソンショック〜プラザ合意以降自由陣営内で日本包囲網が形成される時代ですが、日本の選択として中ソ陣営に鞍替えする余地のない時代でした。
キャッチアップ時代が終わって以降現状維持・調整型政治では困る・・構想力・現状打破力プラス国際政治の荒波をくぐり抜ける能力が問われる時代が到来していることになります。
戦前独ソ不可侵条約締結に際して「時の平沼騏一郎内閣は、『欧州の天地に複雑怪奇なる新情勢が生じた』という声明を出し、総辞職してしまった。」http://www.y-history.net/appendix/wh1505-010.html)ようなことの繰り返しでは困ります。
プラザ合意により、超円高〜バブル崩壊後「失われた20年」が始まりました。
「失われた20年」(ただし私は成長の足踏みが続いた結果、より良き日本文化が成熟できた良き時代であったと考えていることを繰り返し書いてきました)の始まりの閉塞感打破を期待されるようになって、トップ交代に対する期待感が再び強まったものの誰がやってもうまくいかない時代が続きました。

内閣支持率と政党支持率の推移1

昨日紹介した希望の党に関する支持率変化を見ると合理的議論に応じるまともな野党を標榜して票を集めながら、選挙が終わると先祖帰りしてしまって国民を欺いたことに対する国民の冷めた気持ちが伝わります。
メデイアがこぞって小池新党を煽っていた手前、この惨めな状態を毎日新聞は表面に出せなかったから半端な表現になったのでしょうか?
昨年総選挙直前頃から「安倍政権だけは許せない」という変な宣伝がメデイアで浸透していたし、現在の憲法改正論についても、内容に対する議論(「軍靴の音が聞こえてくる」「戦争に巻き込まれる」式の説得力がないのを自覚しているからでしょうが)よりは「安倍政権での改憲を許すな!」「安倍1強のマイナス」面の強調など自民内の分断を煽る傾向がつよくなっています。
では安倍氏が自民党の足を引張っているのかと言うとそうではなく、自民党支持率よりも内閣支持率の方が高い・・自民党議員の多くが安倍人気で支えられているのが実態です。
昨年の総選挙ではこの候補者は人物的にどうかな?と言う人でも、安倍人気のおかげで底上げされて漸く当選できた人がいます・・、
小泉政権以来「〇〇チルドレン」という議員が増えているのは、党首人気に左右される選挙になってきたことによることがわかります。
だからこそ、投票の数ヶ月前頃から自民党対野党の政策を競うよりは、ともかく「安倍内閣が許せないのだ!」と言う意味不明の感情批判に訴える内閣批判が強まったのでしょう。
そこで内閣支持率と政党支持率の関係を以下の表で見ると、メデイアの宣伝が功を奏したのか?昨年選挙時数ヶ月間だけ内閣支持率が急減しています。
内閣批判すれば自民党支持率に直結すると言う選挙戦略だったのです。
内閣支持率と自民党支持率の関係について歴代の表が出ていましたので紹介しておきます。
https://www.nhk.or.jp/bunken/research/yoron/political/2018.html

グラフ:2017年内閣支持率

内閣:安倍内閣(%)
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月
(衆)※1
11月 12月
支持する 55 58 51 53 51 48 35 39 44 37 46 49
支持しない 29 23 31 27 30 36 48 43 36 43 35 35

 

グラフ:2018年内閣支持率

内閣:安倍内閣(%)
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
支持する 46 46
支持しない 37 34

 

 

http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/5236a.html

いわゆる55年体制以降で見ると、当初自民党支持率の方が内閣支持率より高く安定していた時代が続いたのは一つには、左右政党の大同団結直後で左右対立のどちらが良いかの選択を求める全面競争・・体制選択時代であったのでトップの個性による政策の細かな幅のウエートが低かった時代です。
どちらが地上の楽園であるかの争いは、現実の経済状態・時間経過で証明されていくものですから、池田政権の高度成長政策は、自由主義経済の優位性を事実で国民に示したものでした。
高度成長時代はキャッチアップ型経済成長が続いていたので、(社会/共産主義を取るか自由主義を取るかの大きな違いだけで、自由主義陣営を選択する限り誰がなっても政策の幅に変化が少なかったからでしょう。
60年安保後も、政党選択の延長時代であったようです。
高度成長終末期の軌道修正時期に入った田中〜三木内閣が党より個人の能力による政策期待・・脚光を浴びる時代になって、内閣支持率の上下が激しくなりいわゆる三角大福戦争に突入し政治論議が身近になった時代でした。

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