左翼系文化人の伸張2(ポポロ事件)

16年9月4日に書き始めていた「占領政策と左翼系文化人の伸張1」以来アメリカ政府に対するコミンテルンやユダヤの影響に逸れていましたが、日本の文化人が何故左翼系中心になったかのテーマに戻ります。
左翼系文化人はニッポン民族批判にはアメリカ基準・・言論の自由や人権が・・と騒ぐのですが、国際政治になるとイキナリ旧ソ連や中韓の応援します。
高度技術漏洩防止の必要性や、防衛の必要性になるとイキナリアメリカ軍が使っていた軍国主義国家論が復活すると言うスローガンが出回ります・この二重基準の基礎にはルーズベルトの二重基準・反共国家の指導者でありながら容共体質・によって占領政治が始まったことにあります。
今のトランプ大統領が、個人的にはプーチンや中国の独裁政治・自国中心主義の身勝手な政治に対する賛美する資質を隠していませんが、その分ロシアゲートなどで国民批判を受けて反中・反ロシア政策をとるしかないねじれ現象担っているのと似ています。
アメリカ占領政策初期の政策にはルーズベルトのスターリン贔屓の影響でコミンテルン・今の言葉で言えば「グローバル化」の貫徹)とアメリカ民族主義の本音が混在していたことになります。
以下はルーズベルトと共産主義の関係に関する記事です。
http://ameblo.jp/rekishinavi/entry-11586757334.htmlの引用です。
「ヴエノナ文書とは第二次世界大戦前後の時期にアメリカ政府内部に多数のソ連のスパイが潜入 してことを暴いた文書で、アメリカの情報公開法に基づいて開示されたのですが、江崎氏が研究すればするほど、ルーズヴェルトはソ連やCHINA共産党と通 じていたことが明らかになってきたそうです。」
上記研究の信頼性は分りませんが、(意見には当然反論があり得ます)アメリカ本国では(ルーズベルト死亡後彼が政権に引き入れていた共産主義信奉者の影響が大き過ぎることに懸念が生じ)その後周知のとおりマッカーシー旋風で共産主義者が政権中枢から一掃されますが、それほどまで政権中枢にコミンテルンの細胞?が浸透していたことが分ります。
日本では独立後占領支配権力・・公式にはアメリカは反共陣営筆頭です・・が縮小して行く過程で、左翼系文化人は一旦勢力を張った大学やマスコミでの支配勢力維持のために、アメリカの持ち込んだ思想表現の自由・・これを拡大した大学の自治?をそのまま主張して民族系学者の復帰・浸透を許しませんでした。
大学研究機関、マスコミ界では共産系思想家はそのままとなり、却って自由主義系学者は後ろ盾がなくなり共産主義思想が大学等研究機関での支配勢力になって行く原因になりました。
現在でもNHKの「偏った」報道に対する批判に対して、「報道の自由」と言う偏った?意見で反論しているのがその代表的現れ方で、戦後ずっとこのやり方で学問の自由、大学の自治などで聖域化してやってきました。
この代表的事件がいわゆるポポロ事件でした。
ウイキペデイアからの引用です。
ポポロ劇団は1952年2月20日、東京大学本郷キャンパス法文経25番教室で松川事件をテーマとした演劇『何時(いつ)の日にか』(農民作家・藤田晋助の戯曲、1952年1月発表[1])の上演を行なった。これは大学の許可を得たものであった。上演中に、観客の中に本富士警察署の私服警官4名がいるのを学生が発見し、3名の身柄を拘束して警察手帳を奪い、謝罪文を書かせ、学生らが暴行を加えた。奪った警察手帳は東京大学の決議によって警察に返還されたが、警察手帳のメモから少なくとも1950年7月以降から警察が東大内を張込・尾行をして学生の思想動向等の調査を行っていたことが判明した。私服警官に暴行を加えた2人が暴力行為等処罰ニ関スル法律により起訴された。
最高裁判所大法廷は昭和38年5月22日、原審を破棄し、審理を東京地方裁判所に差戻した。理由として
「大学の学問の自由と自治は、大学が学術の中心として深く真理を探求し、専門の学芸を教授研究することを本質とすることに基づくから、直接には教授その他の研究者の研究、その結果の発表、研究結果の教授の自由とこれらを保障するための自治とを意味すると解される。大学の施設と学生は、これらの自由と自治の効果として、施設が大学当局によつて自治的に管理され、学生も学問の自由と施設の利用を認められるのである」。
しかし、
「本件集会は、真に学問的な研究と発表のためのものでなく、実社会の政治的社会的活動であり、かつ公開の集会またはこれに準じるものであつて、大学の学問の自由と自治は、これを享有しないといわなければならない。したがって、本件の集会に警察官が立ち入ったことは、大学の学問の自由と自治を犯すものではない」。

上記の通り事件としては公開の集会だから警官の立ち入りが違法でないとされたものの、前提としての大学自治が保証される判決でしたので、大学側の要請がない限り犯罪行為があっても警察が踏み込めないかのような行き過ぎ・・聖域化が始まり、教授吊るし上げ等のやり放題・以後荒れる大学が生まれる素地になっていきました。
民放の場合には顧客による選別・市場選択権がありますが、国営放送の場合一方的中韓政府主張代弁報道ばかりされたのでは、国民は溜まりません。
この批判不満が漸く進出して来たのが昨今ですが、マスコミ界は報道の自由論で一歩も引きません。
この種の意見は、日弁連の政治運動に対する批判に対しても「弁護士会自治」と言う理論で批判を寄せ付けないのと軌を一にしています。
私が大学を出た頃には経済学と言えば、近代経済学派系よりはマルクス経済学派系の方がマスコミで大事にされていて、隆盛な印象を持つ時代でした。
歴史・・漫画その他一般的ストーリーでも唯物史観が幅を利かしていました。
マルクス経済学者である美濃部氏が共産党から出て都知事を何期かやったのは、その直後頃でした。
https://ja.wikipedia.org/wiki
革新統一による知事として知られ、政党では日本社会党と日本共産党を支持基盤とする革新知事として1967年(昭和42年)から1979年(昭和54年)の12年間(3期)に渡り、東京都知事を務めた。
どちらの経済論理が正しかったかはソ連の破綻、何千万の餓死者を出していた中国の失敗をみれば明らかですが、間違っていた共産主義理論が、学問組織内では逆に圧倒的優勢だった・・現在もこれが続いていることに学問の自由とは何か?と言う歴史の真理があります。
「◯◯の自由」とは「一旦支配権を握った方が半永久的に専制支配を続ける自由」と読み替えることが可能です。
何回も例に出していますが、大学自治会がどこからも介入を受けない結果、過激派の拠点になっていて、大学自治会のほぼ100%が、一般学生と関係のない政治組織になっていることを想起してみれば分ります。
自治と言うものは活動家が独走を始めると構成員総意を反映しなくなっても是正方法がなくなるリスクが多い・・・実はくせ者です。
スターリンの恐怖政治は、民主的選出方法による筈の共産主義国家で起きたものです。
司法試験受験科目であった政治学言論では、共産主義国家は自由主義国家ではないが、が、民主的選任方法があるから民主主義国家であると言う分類を習いました。
何となく詭弁っポイ説明でしたが、今や北朝鮮や中国等の共産主義国家が民の声を充分に吸い上げている国であると思っている人は皆無に近いでしょう。
こんな詭弁を信じ込んでいまだに中国の肩を持って活動しているのが革新系野党です。

憲法と国家8(マルクス経済学者・矢内原総長と大内兵衛)

日本民族思想形成に大きな影響力のある東大総長人事に戻ります。
南原繁総長のあとを継いで東大総長になった矢内原忠雄東大総長は南原総長同様に新渡戸稲造の弟子でありキリスト者として知られた人です。
同じくキリスト者として米国のメガネに叶ったのでしょうか?
長男伊作氏による伝記では以下の通りです。
http://blog.canpan.info/yashinomi/archive/1346

矢内原忠雄伝』矢内原伊作著 [2015年12月20日(Sun)
「矢内原忠雄の植民政策研究の特色は、統治者の側から統治政策を考えるのではなく、社会現象としての植民を科学的に分析し、実証的調査によってその理論を検証し、ヒリファーディング、ローザ•ルクセンブルグ、レーニンといった人々のマルクス主義的方法を駆使しながら、帝国主義論の一部として、あるいはその中心として植民地問題を扱った点にあると言えよう。」(同書381頁)
矢内原伊作氏は哲学者であり、弟の経済学者矢内原勝の下記の記述の方が正確なのではないか、と思う。
この中に出て来る木村健康氏のマルクスと矢内原の限定的な関係(下記引用文に下線をひきました)は「矢内原先生をしのぶ」『教養学部報』1962年1月,『矢内原忠雄- 信仰.学問.生涯 』468、に書かれているようなので後日読みたい。
また、矢内原忠雄が植民論を受け継いだ新渡戸稲造はマルクスを知っていたが講義等で触れなかった事。矢内原忠雄が影響を受けたであろうもう一人の東大教師であった吉野作造が講義で取り上げていた事も書かれているのが興味深い。
「矢内原忠雄はマルクス主義の研究を行なった結果, マルクス主義がただに特定の経済学説もしく は政治学もしくは政治行動たるにとどまらず, これらを網羅しその根抵をなすところの一の世界観 であることを十分認識していた。そして社会科学の学徒とキリスト者であることは両立するかという設問をし,両者いづれか一を棄つぺしとしたならぱ科学を棄てて信仰に生くる, としながらも, 両者に同時に従享できると考えている。
そして社会科学とくに経済学の理論として彼はマルクス経済学を採用した。それは当時の事情を把握し說明するためにこの理論が最も適当とみたからであろう。木村健康氏は,矢内原忠雄がマルクシズムの経済理論の部分を植民政策の研究の用具として使われていたにすぎないことがわかったとし, なぜこれを採用したかという理由として,他の経済理論にくらベてマルクシズムの経済理論が「神秘性」が少ないという答を得ている。」
『矢内原忠雄の植民政策の理論と実証』より
ついでに(キリスト教徒ではなかったからか?)東大総長にはならなかったものの戦後ニッポン経済学に大きな影響を与えた大内兵衛氏についても紹介しておきましょう。
https://blogs.yahoo.co.jp/tokyocityjpn/25545845.html
1938年2月1日に所謂「教授グループ事件」が起こり大内兵衛は経済学部内「革新派」及び当局の謀略により逮捕されました。これは「第二次人民戦線事件」とも呼ばれます。
これは前年1937年における矢内原事件とそれに続く労農派一斉検挙(これが第一次人民戦線事件といわれる)を伏線として民主主義・共産主義を弾圧する為になされた右翼ファシズムによる暴挙でした。
大内兵衛の『私の履歴書』によると、「当時マルクス主義の立場に立つ人々は二つに分かれたのですが、それが労農派と政党派です」っと述べられております。そして「ソ連の指導に無条件に服従するという一派が日本共産党政党派と称し、そうでない人々が労農派といわえるようになった」そうです。つまり、「まず日本の事実について一通り理解して、つまり史的事実を先において、その事実はマルクス主義ではこう解釈されるべきである、というのが労農派の立場だ」ということです。

日本が戦時体制に入った頃、当局は共産党を取り締まる為に治安維持法をつくり、「国体変革」と「私有財産否認」をスローガンに掲げる政治党派を特別に弾圧できる体制を築きましたが、労農派は治安維持法の適用団体であるという容疑で全国で労農派一斉検挙が行われました。当時、「マルクス経済学の権威」と言わていた兵衛は、当局から労農派であるという容疑をかけられ、同じ治安維持法によって摘発されたのです。

ウイキペデアの記事からです。

GHQの占領時には、当時大蔵大臣だった渋沢敬三が、日銀顧問に迎え、東京裁判でも証言台に立った。1949年に東大経済学部を退官後は、1950年より1959年まで法政大学総長。向坂逸郎と共に社会主義協会・社会党左派の理論的指導者の一人として活躍した。
1955年5月から6月にかけて日本学術会議のソ連・中国学術視察団に加わった。門下の美濃部亮吉の東京都知事立候補を強く支持し、美濃部都政を助けるなど、実践面でも社会主義を貫いた。また、鳩山一郎や吉田茂からの大蔵大臣への就任要請を断ってきた[2][3][4]。社会保障制度審議会初代会長を務め、国民皆保険や国民皆年金の創設などを答申した[5]。
ソ連・中国学術視察団を経て、大内は社会主義について、「私も社会主義を勉強すること実に40年であるが、なにぶん進歩がおそく、社会主義がユートピアであるか科学であるかは、今まではっきりわからなかった。しかし、ここへ来て、いろいろの見学をして見て、それが科学であることはしかとわかった」と述べた[6]。また、経済学の分野に関しては「ロシアの経済学は二十世紀の後半において進歩的な特色のある学問として世界の経済学界で相当高い地位を要求するようになるだろう。……こういう歴史の変革のうちに経済学者としていよいよ光彩を加える名はレーニンとスターリンでありましょう」と、ソ連の計画経済を高く評価し、レーニン、スターリンの両名を経済学者として激賞した[7]。しかし、ソ連の社会主義経済はその後30年あまりで崩壊することとなる。
ハンガリー動乱について社会主義擁護の視点から、「ハンガリアは(米・英・日と比べて)政治的訓練が相当低い。そのためハンガリアの民衆の判断自体は自分の小さい立場というものにとらわれて、ハンガリアの政治的地位を理解していなかったと考えていい」、「ハンガリアはあまり着実に進歩している国でない。あるいはデモクラシーが発達している国ではない。元来は百姓国ですからね。」と、ソ連の圧政に対して蜂起したハンガリーの国民を批判的に論じた[8]。

南原氏は、昨日書いた通り、共産主義もナチスも全体主義を否定する立場でしたが、上記の通り総長2代目になるとキリスト者プラスはっきりした親ソ・マルクス経済学者になって行き、東大内でマルクス経済学者が表面に出てくるようになり、地歩を固めて行きます。

南原繁氏の超国家・普遍思想6

ニクソンショック〜1985年のプラザ合意に至る過程で欧米による対日経済圧力・・攻勢が強まり窮地に陥っていた日本の大蔵省が、経済面での国の顔である紙幣の顔として米国で人気のある新渡戸稲造を急遽登用した理由でもあったのでしょうか。
敗戦時に米国受けの良い南原氏厚遇で占領軍政を上手くこなした経験を活かすべく、あんちょこに紙幣の表紙を変えたのではないかとのうがった見方も可能です。
紙幣表紙は日本の(恭順の)気持ちを表すだけでしかなく、今後真摯に貿易黒字削減〜内需拡大に取り組む意思表示としての意味があってもいきなり国全体の構造改革は無理ですから、欧米が求めていた「結果」を出せない以上、自主的改革が無理ならば外圧による強制ショック療法・為替自由化=経済力に応じた為替相場→円高しかないとなり、結果的にプラザ合意を阻止できませんでした。
メデイアはしきりに失われた20年と言いますが、この結果日本国民は貧弱な生活のもとで金儲けばかりに精出さずに生活水準を高める方向に方向転換できたので良き時代であったという基本主張を繰り返し書いてきました。
中国が、対中経済制裁を免れるためにアメリカで好感度の高い人物を仮に外相や駐米大使に起用しても、鉄鋼等のダンピング輸出やサイバー攻撃をやめない限り報復を止められないのと同じです。
国内構造改革・輸出より内需拡大・豊かな生活が必要とわかっていても、国民にその準備ががないので当初5〜6年間は手近な不動産バブル・・ブランド品や高額な絵画などに狂奔するしかなかった点は、今の中国と同じです。
2000年代初頭から5000円札表紙が樋口一葉に変わり、数年前から十和田市で新渡戸稲造記念館の存廃問題が起きてきたのは、小手先の目くらましには意味がないことに気がついた・・特需の恩恵が静かになくなってきた時代の流れでしょうか?
南原氏とは何者か?どう言う基本思想の人物かの関心で、西田氏の意見を2月19日頃から23日頃まで断続的引用してきましたが、哲学用語で難解でしたが、南原氏の宗教面の研究があって、これと合わせて読むとが少し理解しやすい印象ですので、関心のある方のために以下引用先と目次と結びのみ紹介しておきます。
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/74750/1/08Kato.pdf
Kyoto University
南原繁の宗教論 : 国家論の枠組みの中で
加藤,喜之
キリスト教思想と国家・政治論 (2009), 2008: 27-42
キリスト教思想と国家・政治論 近代/ポスト近代とキリスト教研究会
2009年3月27~42頁
南原繁の宗教論 1
―国家論の枠組みの中で―
加藤喜之(yoshiyuki.kato@ptsem.edu)

本論
一.価値並行論と宗教
二.民族論と宗教
三.日本的キリスト教
結び
南原宗教論の現代的意義

概観して来たように、南原の宗教論は、西南学派の価値哲学とフィヒテの民族論の哲学的枠組みが、無教会的福音主義信仰と交差しあうことによって成り立っている。
その根底に流れる価値と歴史、理想と実在といった問題は、哲学史において未だ解決されていない重要問題であるゆえ、この結びで取り扱うことは出来ない。
つまり、現代の主たるアカデミアで取り扱われることは少ないにしろ、新カント学派の超越論的論考がはたして、哲学的に超克された問題なのかは、未だ結論が出ていない。
ただ、ポスト・ハイデガー的現代思想の枠組みの中で、価値や理想論の復興はあくまでも、間主観的に執り行われるゆえ、短絡的に、南原の思索の根底にある価値並行論を、現代に適応することは出来ない。
しかし、今日においても、間主観的に取り扱われる様々な道徳の問題の彼岸に、
「赦し」と「絶対者」の問題が現れてくることも理解されなくてはならない。
このような枠組みの中での南原の宗教論には、現代思想が再読しなければならないものが残されているかもしれない。キリスト教思想と国家・政治論40なるのであった。
日本文化の中に生きつつ、その精神文化によって道徳的価値や「絶対者」・「聖なるもの」の可能性を見いだしながらも、結局は得ることの出来なかった根源悪からの救済を、十字架のイエスの上に見いだすことが出来る。
この非合理的な十字架は、罪の赦しとしての新しいいのちを与え、そして、そのいのちによって、日本精神を刷新することが出来、それゆえに日本的キリスト教を構築していくことが出来るものであった。
    かとう・よしゆき (プリンストン神学大学博士課程)
上記筆者は神学者のようですから、政治哲学側面よりは神学・哲学的研究が中心ですが、これを読むと西田氏の(批判的)研究に出てくる哲学的言及に対する側面理解に有益です。
上記論文中の価値並行論を読むと哲学用語が満載ですが、高齢者特有の(難しい論証を省いて「要するに・・」と言う読み方をすれば、)南原氏が現実政治での解決・・国家を超越した神の「赦し」を基礎におく以上、19日頃に引用した西田氏が批判するようにそこから先に理論進化がなかったとしても(浅学菲才の私がいうのはおこがましいですが)当然の結果だったような気がします。
ただし、この後に書くように南原氏は、民族精神・共同体について日本に当てはめて象徴天皇制を基軸とする独自意見を展開していてその通りの戦後ニッポンを形作って行った実績がありますがプロから見れば哲学的深化がなかったということでしょうか?
神の領域と現実政治・国家の分離を主張する価値並行論は、神道の影響を排撃したい占領軍政治方針とも合致していて、好都合だったでしょう。

南原繁氏の超国家・普遍思想5→福音派・米政府との人脈

ちょっとのつもりでだいぶ横にそれましたが、南原元東大総長の全面講和論に戻ります。
February 23, 2018,「超国家・普遍思想4と現実との乖離2(全面講和論と安保騒動)」の続きです。
実務というものは、100%思う通りに行かないネクスト〜サードの妥協で成り立っているのが普通ですが、思うように行かないからと完全反対していた場合、その結果どうなるかの視点が必要です。
全面講的には現実政治的には無理・・いつまででも米軍に占領されている方が良いのか?となります。
(南原氏にとっては異民族占領支配が続いた方が居心地がよかったのでしょうか?)
日本民族の独立が正しい選択とした場合・・当時の国際状況を客観的に見れば全面講和以外の講和条反対・・結果的に米軍占領政治がその後約40年以上も続いた方が良いと言う主張は、無い物ねだりの主張・現実無視論でした。
南原氏や革新系野党の全面講和論者の言う通りしていたら、日本は米ソ対立が続く限り独立できず、国連にも加入できず日本に利害のある各種の国際政治に独立の当事者としての参加資格がないまま・・自己主張する権利もないままに据え置かれていたことになります。
李承晩ライン設定や竹島占領と言う白昼公然の強盗行為にだって独立していなかったからなんら有効な対応できなかったのです。
歴史は後世の人が裁くものですが、ソ連崩壊時ですぐ独立できたとしても戦後約50年経過ですから、それまで日本は何をされても何らの当事者能力もないまま戦後50年間やられ放題で放置されていたことになります。
現在に至っても日露平和条約を結べないことから明らかなように、ソ連崩壊した時に(独立するためにはかなりの見返りを要求される)無償で全面講和できたと思う人はいないでしょう。
日中国交回復だって、日本が独立国として日本が中国を承認する方でしたが、これがもしも逆であれば大変な代償を要求されていた可能性が高かったでしょう。
日韓国交交渉も同様です。
これが「曲学阿世の徒」という批判を受けた原因でしょうか。
この機会に南原氏の9条論を紹介しておきます。
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51954443.html
憲法制定議会で野坂参三と並んで2人だけ第9条に反対した南原繁の証言は貴重だ。彼は当時をこう回想している。
戦争放棄はもちろん当然なさるべきことですけれども、一兵ももたない完全な武装放棄ということは日本が本当に考えたことか、ということを私は質問したわけです。つまり私の考えでは、国家としては自衛権をもたなければならない。ことに国際連合に入った場合のことを考えるならば、加入国の義務として必ずある程度の武力を寄与する義務が将来、生じるのではないか(p.350)。
つまり南原は一国平和主義をとなえたのではなく、国連中心主義の立場で第9条に反対したのだ。したがって彼は、吉田茂がなし崩しに進めた再軍備には、強硬に反対した。それには憲法の改正が不可欠だと考えたからだ。
南原が理想としたのは、カントの提唱した常備軍の廃止だった。
彼はその代わり、国際機関による警察機能を考えた。将来も戦争が起こることは変わらないが、今のような主権国家の枠組ではなく、それを超える国連の警察機能で国際秩序を守ろうと考えたのだ。
南原氏の戦後教育に与えた影響力の強さに今更ながら驚きますが、私自身そういう教育方針にどっぷり浸かって感化されて育ったように思えます。
国連第一主義を教え込まれて育ちましたが、いつまでたっても国連が日本国内の警察のような役割を果たせない現実があります。
国際司法裁判所があっても独立国でないと訴える資格もないでしょうし、フィリッピンのように中国を訴えてせっかく完勝しても中国から「そんなのは紙切れだ」とと豪語されて逆に中国のごきげん伺いするしかない現実があります。
尖閣諸島に石油資源があるとなれば、いきなり自国領土と言い始め、実力行使に出てくる国があります。
そうなると日本も自衛手段が必要ではないかという現実論が起きてきます。
自衛が必要となれば、1国だけでは無理なので友好国が必要となり友好国であればいざという時には助け合いましょうとなるのが普通・・安保条約・集団自衛行動の必要性に繋がっていきます。
非武装論者は軍備より相手から攻撃されないようにする外交が重要というのですが、それは周辺諸国との友好善隣構築が基本です。
友好国に災害があったり、不当な攻撃を受けているときに黙って見ているのでは友好関係になり得ません。
ここでのテーマとズレますが、戦後思想教育の翁影響を与えた南原氏の論文はネットに出てこないので、ネットであんちょこ・直接読めませんが、南原氏の論文に対する研究論文がネットに出るようになったので、批判と擁護両面の論文を読むと当時の南原氏の思想・立ち位置が浮き彫りになる面があります。
南原氏はプロテスタントとは言っても福音派ですが、たまたま22日の日経新聞夕刊3pには、福音派が今でも政治中枢に絶大な影響力を持っている記事が出ていましたので紹介しておきます。
ネットでも大々的ニュースになっていたので以下引用しておきます。
https://www.jiji.com/jc/article?k=2018022200006&g=int
米国のキリスト教福音派伝道師で、保守派を中心に政界にも強い影響力を持ったビリー・グラハム師が21日、ノースカロライナ州モントリートの自宅で死去した。99歳だった
1949年にロサンゼルスで催した伝道集会に多数の信者が集結したことで、その影響力が注目を浴び、50年にBGEAを設立。同協会によれば、185以上の国・地域の計2億1500万人近くに福音を伝えた。
トルーマン政権(45~53年)以降、歴代大統領の多くと親交を持ち、ニクソン、レーガン、ブッシュ(父)、クリントンの各大統領の就任式で祈とうを行うなど「精神的導師」を務めた。米メディアによれば、冷戦期に当時のソ連や東欧諸国にも足を運んだほか、92年と94年には北朝鮮を訪れ、金日成主席とも会った。
トランプ大統領は声明で「(グラハム師は)その人生と指導力で真の『神の大使』の称号を手にした米国の英雄だ」と追悼。同師の埋葬の日には、ホワイトハウスなど国内外の連邦施設に半旗を掲げるよう命じた。オバマ前大統領、ブッシュ元大統領親子、カーター元大統領らも、それぞれ声明などで死を悼んだ。(2018/02/22-10:17)
過去の指導層からはみ出たイメージの強いトランプ氏までこのメンバーになっているのには驚きました。(日経夕刊にはトランプ氏との写真も出ています)
敗戦特需(を受けた人々?)という言葉がありますが、一般的に知られているキリスト教系人材が特需を受けただけでなく、キリスト教徒の中でも南原氏など敗戦時の日本の福音派思想家がいかに米政府からの恩恵を受けていたかが分かろうというものです。
南原氏らが恩師と仰ぐ新渡戸稲造氏(熱心なクエーカー教徒?)が特大的評価を受けて従来の5000円札・聖徳太子像に変わる表紙になった理由もわかります。
彼がアメリカで発行した「武士道」の本はアメリカで人気を博してから日本語版が出た程度であって、日本国内の国民的人気としてはマイナーな彼がいきなり昭和58年に紙幣の表紙になるのは唐突な印象です。
アメリカ人にとっては武士道精神は衝撃でも、日本人にとっては何の目新しさもありません。
国民文化の向上に何の役割があったかという視点では、評価がほぼゼロではないでしょうか。
ミスユニバースになっても、日本国内でほとんど評価も受けないのと同じです。
ミスユニバースやアメリカ受けの良い芸人を外交に利用するようなものでしょうか。

原理論と時代不適合5(テロ対策3)

昨日まで見てきたところによると、違法収集証拠の証拠能力排除と言っても、違法レベル次第、または重要事件かも考慮されるし緊急性次第によるようです。
GPS捜査の最判事件では緊急性もなければ、窃盗被害でしかない点では重大性も低いということでしょうか?
その代わりプライバシー侵害といっても程度が低過ぎないか?(「お前はプライバシー意識が低すぎる」と言われればそれまでですが)の疑問です。
GPS判例は大法廷判例・しかも全員一致ですので中長期的には確定的ですが、それにしても・・・という論理的根拠のない主観的な疑問のみっbで書いてきました。
テロ対策に戻りますと、
政権側としては佐倉惣五郎事件のような大規模騒動が起きると政治責任になる上に、歴史に残る不祥事ですから、事前抑制に熱心になります。
悪い方を考えれば事前抑制=犯罪を冒していないのに個人情報を収集するのは今の「建前?」では違法・人権侵害ですが、そう言ってられない時代が来ています。
「収集した情報はテロ対策/もしくは限定した犯罪予防以外に使わない」という逆転の発想で許すべきではないかの意見を書いています。
店舗や公道の防犯カメラや一般利用目的のトイレやエレベーター内のカメラ等も皆そうですが、プライバシー侵害のために盗み見る目的で設置されているものではありません。
事件発生等があった時に関与者特定目的その他のあらかじめ決めておいた要件合致の資格者(フランスでは紹介したように資格者だけになっているようです)だけ見れば足りるものですし、実際に日本のスーパー等でもみだりに防犯カメラを関係ない人に開示していないでしょう。
2018-2-26「民主主義ルール3と違法収集証拠排除論2」前後で紹介したGPS捜査が問題になっている事件では、(ラブ)ホテルに駐車したことまでGPSでわかるのが許せないような判決理由になっていたように記憶しますが、ここで正確を期すために最判全文を見直してもそこまで書いていません。
もしかしたら間違って記憶していた可能性もありますし、判決が出た当時高裁判決の詳細事実認定を読んだり、あるいは関連紹介記事を読んだ記憶かもしれません。
※ 今日事務所に出て「自由と正義」2017年10月号を見直してみると上記事件の弁護団で中心的役割を果たした弁護士の事案経過説明が出ていて、これによると、犯人が一度だけ乗車したことのある事件に関係のない女性の車にもgpsが装着されていたり、塀に囲まれて外部からラブホテルに駐車したことが分からない駐車も特定されていたことが説明されています。
何れにしても警察は窃盗被害との関係で移動履歴を知るために設置しているのであって、調査対象者がたまたまラブホテルに行ったかどうかなど犯罪に関係のないプライバシーに関心のないことです。
実際に事件に関係がないので検察側は証拠請求していなかったものを弁護側の開示請求によって明らかになったものです。
最判の論法で言えば、防犯カメラに犯人と別人がたまたま立ち小便しているのが写っているあるいは恋人と抱き合った場面や痰を吐くところが写っていた場合、それを咎めてプライバシー侵害・・路上強盗の写真を証拠に出来ないというのでしょうか?
その部分だけすみ塗りして証拠提出すれば足りるように思われます・同様に窃盗事件の立証にラブホテルへ行ったことまで証拠にする必要のないことですし実際検察官が窃盗に無関係なプライバシー移動経路まで証拠請求していなかったことは上記の通りです。
いろんな論文を見ていると犯罪に関係ない網羅的捜索が許されないのが原則のようですが、(例えば家宅捜索などで、もしかしたらは犯人仲間か?と言う疑いで根拠ない当てずっぽうで気楽にしょっちゅうやられたら溜まったものではないですが・・・)資金では通信防除その他の議論の前提で、GPSに関する令状発布が原則として許されないと言う議論に出てきます。
自宅にズカズカ踏み込めんだり身体検査などはプライバシー侵害の程度が大きいからであって、車の移動経路わかる程度ではプライバシー侵害のレベルが違いすぎます。
物事は侵害される権利との程度問題ではないかと言うのがこのシリーズの関心です。
民間の万引き防止のための防犯カメラ等よりも公的目的の情報蒐集に限って情報収集を厳しくするのが一般的風潮であり、おかしいと書いてきましたが、この蒸し返し・補充論です。
日頃から無断(令状事前提示不要)で収集してもいいが、事件発生後の犯罪捜査にしか使わないあるいは、フランスのように犯罪発生前にも事前に特定資格者に限って情報提供を求められる制度・その要件を厳重にするのを認めたらどうでしょうか?
今のテロは犯行着手やその準備段階(日本でいえば凶器準備集合罪)を待っていて、それから検挙するパターンあるいは兇徒が徒党を組んで出撃するような段階で行進を阻止するような悠長な手順を踏んでいては、(ベルギーのテロでは瞬時に約300人の被害)間に合わなくなっている時代になっています。
事件が起きてからの捜査を前提にする近代法の原理はそれなりに人権擁護に果たした役割は否定できませんが、今では航空機搭乗前の所持品検査が必要になるなど事前情報蒐集や検査が必須の時代です
こうした変化を認めずに一旦何か原則を決めると「例外を一切許さない」という硬直姿勢を取るかどうかの問題です。
労働法制も工場労働発達時に制定したものであって、(この時代にも柔軟勤務を前提に管理職には不適用でした)時に合理的であったにすぎません。
管理職でなくとも柔軟な働き方が増えて来た以上、それに見あった法制度が必要です。
それをどうすべきかは、未経験のことなので模索中であることも事実であり、今から完全な正解はまだ誰もわかりません。
国を挙げて叡智を絞り何とか対応しなくてはならない・出来ることから試行錯誤して行くべきテーマにケチだけつけて野党が満足しているのは不思議です。
講和条約に始まって60年安保以降反米中ソ支持グループは対案提示をやめてしまい、明確な反政府勢力になって現在に至っているように見えます。
過去に成立した原理原則にこだわる運動形式は、世界情勢を無視した幕末攘夷思想と同じです。
政治分野の議事妨害だけではなく・法律家の世界で始まった違法収集証拠排除ルールの強化は、軽微な違法?捜査で証拠排除する方向に突っ走る?ようになったのは、アメリカで発達したルールを信奉しているように見せかける点で、一見西側価値観に足場を置いたようなスタンスですが、結果的に政府の政策になんでも反対し妨害する政治運動に利用している方法論の一つのように見えます。

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