メデイアの煽りといえば、天皇機関説事件に関するウイキペデイアの記述です。
松田源治文部大臣は、天皇は国家の主体なのか、天皇は国家の機関なのかという論議は、学者の議論にまかせておくことが相当(妥当)ではないか、と答弁していた。岡田啓介首相も文相と同様に、学説の問題は学者に委ねるべきだと答弁した。
同年2月25日、美濃部議員が「一身上の弁明」として天皇機関説を平易明瞭に解説する釈明演説を行い、議場からは一部拍手が起こり、菊池議員までもがこれならば問題なしと語るに至った。
しかし、3月に再び天皇機関説問題を蒸し返し、議会の外では皇道派が上げた抗議の怒号が収まらなかった。しかしそうした者の中にはそもそも天皇機関説とは何たるかということすら理解しない者も多く、「畏れ多くも天皇陛下を機関車・機関銃に喩えるとは何事か」と激昂する者までいるという始末だった。最終的に天皇機関説の違憲性を政府およびその他に認めさせ、これを元に野党や皇道派[1]が天皇機関説を支持する政府・枢密院議長その他、陸軍統制派・元老・重臣・財界その他を排撃を目的とした政争であった[2]
これに乗じて、野党政友会は、機関説の提唱者で当時枢密院議長の要職にあった一木喜徳郎や、金森徳次郎内閣法制局長官らを失脚させ、岡田内閣を倒すことを目論んだ。一方政府は、陸軍大臣からの要求をのみ、・・・」
美濃部の告発まで進みます。
日露講和条約反対で言えば、講和の損得などの機微について詳しく知らない庶民や右翼が、焼き討ちするまで盛りあがるには、盛り上がるにたる一方的な(国民を煽る)情報を流布して反政府運動をもり上げるメデイアがあったからです。
このようにメデイアと野党の二人三脚による追及で失脚するのを弾圧事件と言うのが正しいかどうかは別として、失脚の程度を天皇機関説事件に先立つ滝川事件について見ておきましょう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BB%9D%E5%B7%9D%E4%BA%8B%E4%BB%B6によれば以下の通りです。
1933年4月、内務省は瀧川の著書『刑法講義』および『刑法読本』に対し、その中の内乱罪や姦通罪に関する見解[注 2]などを理由として発売禁止処分[4]を下した。翌5月には齋藤内閣の鳩山一郎文相が小西重直京大総長に瀧川の罷免を要求した。京大法学部教授会および小西総長は文相の要求を拒絶したが、同月26日、文部省は文官分限令により瀧川の休職処分を強行した[5]。
この休職処分(ここ数日のテーマ関心は処分が正しいというのではなくこれを「弾圧」とは過激な表現でないかの疑問で書いています)に教授会や学生が抵抗したので大騒ぎになったものです。
上海の「新生」事件では、中国政府は懲役1年2月の実刑判決を宣告し、発行者は実際に服役しています。
日本で教職や辞職すれば済むのとは大違いです。
紹介した論文の一部引用です。
https://www.lang.nagoya-u.ac.jp/media/public/200803/yo.pdf
2-1 杜重遠と『新生』
・・・1934年『新生』を発行した。1935年7月、「新生事件」で懲役1年2ヶ月の判決を言い渡され、上海の漕河涇監獄に入り、1936年9月に刑期を終え出獄した。
今でも習近平政権になってからの政敵弾圧では、失職どころか全て長期服役が原則です。
スターリン粛清のようにシベリヤ流刑になるどころか、以下に紹介するように滝川事件では次の大学教授の職まで政府が用意しているのです。
昨日見たウイキペデイア続きです。
瀧川の休職処分と同時に、京大法学部は教授31名から副手に至る全教官が辞表を提出して抗議の意思を示したが、大学当局および他学部は法学部教授会の立場を支持しなかった[注 3]。小西総長は辞職に追い込まれ、7月に後任の松井元興総長[注 4]が就任したことから事件は急速に終息に向かうこととなった。
松井総長は、辞表を提出した教官のうち瀧川および佐々木惣一(のちに立命館大学学長)、宮本英雄、森口繁治、末川博(のちに立命館名誉総長)、宮本英脩の6教授のみを免官[6]としてそれ以外の辞表を却下し、さらに鳩山文相との間で「瀧川の処分は非常特別のものであり、教授の進退は文部省に対する総長の具状によるものとする」という「解決案」を提示した。
事件のその後
滝川事件に関連して京都帝大を辞職した教官のうち、18名が立命館大学に教授・助教授などの形で移籍した。また、瀧川自身も事件後は立命館で講義を行うようになった[7]。立命館への受け入れは、立命館総長・中川小十郎が西園寺公望の意向を踏まえ、元京大法学部長で立命館名誉総長だった織田萬と相談の上で運ばれた[8]。結果、立命館をはじめ京大以外の関西圏大学法学部の発展を促すことにもなった。
・・・この事件で予期せぬ漁夫の利を得たのは、立命館大学だった。立命館は、安い給料で当時一流の学者を招聘できた。また、戦後になって立命館がGHQに睨まれた際にも、この京大事件で追われた末川博を総長に据えるなど、大学の民主化を図って切り抜けた。
上記によれば、西園寺公望の政治力で、立命館で彼らを引き受けることにして収拾を図ったようですが、同氏は当時政界随一の実力者でした。
西園寺公望に関するウイキペデイアの紹介です。
明治39年(1906年)内閣総理大臣に任じられ、第1次西園寺内閣、第2次西園寺内閣を組閣した。この時代は西園寺と桂太郎が交互に政権を担当したことから「桂園時代」と称された。その後は首相選定に参画するようになり、大正5年(1916年)に正式な元老となった[1]。大正13年(1924年)に松方正義が死去した後は、「最後の元老」として大正天皇、昭和天皇を輔弼、実質的な首相選定者として政界に大きな影響を与えた。
右翼も立命館教授になった滝川教授らをそれ以上追求しないで終戦を迎えています。
日本の思想弾圧とか戦前の「暗黒時代」という大げさな報道や教育刷り込みの割に実は極めて穏健なものです。
中国のように皇帝の逆鱗に触れるとすぐに九族皆殺しにあったり、トーマス・モアのようにヘンリイ8世の離婚がキリスト教の教えに反すると言い張って死刑になってしまったイメージとはまるで違います。
キリスト教国の異端審問・・思想自体を裁くものとしては、ジャンヌダルクの火あぶりの刑で知られているように過酷です。
ソ連では「収容所列島」と言われたようにスターリンのご機嫌を損ねるとたちまちシベリヤ流刑になる時代が続きました。
アメリカではアメリカ国籍を持っているにも関わらず日系人というだけで(文字通り人種による処罰です)全財産を没収した上で女子供を含めて荒野に鉄条網で囲った収容所に閉じ込め犯罪人扱いをしましたが、(男女年齢を問わず収容所送りと言う点では、ガス室に送られなかった点が違うだけでナチスの人種迫害と変わりません)日本は日本国籍を持たない在日米国人に対してさえそんな事をしていません。
日本政府の反対思想に対する対応は「弾圧」と言う禍々しい表現よりも、ソフトな不利益待遇(政府権力者による弾圧よりは、メデイアがうるさいからちょっと閑職に退いてくれないか)程度ですから、諸外国に一般的な弾圧という表現は実態にあっていません・・政治不利益扱い〜抑圧程度に表現するのが適当でしょう。