先住民権運動の背景3(ロシアの領土欲1)

先住民権運動に戻しますと先住民運動が活発化してきた原因は、単なる善意の愛国心によるのではなく、国政政治関心・・欧米のアメリカ大陸やオーストラリア大陸での先住民に対するジェノサイド等々に対する非難活発化に呼応した動きによるのではないかという関心に戻ります。
現代国際政治的に見れば、北海道を含めた北方領土を狙うロシアと尖閣諸島を手始めに沖縄本島を狙う中国が北海道と沖縄切り放しの口実に、先住民運動を活発化させている印象です。
この意見は印象であって根拠はない憶測・穿ち過ぎ?ですが、この数十年でこの種運動が激しくなってきたのは不思議です。
これに呼応する動きがだいぶ前から国内に浸透し準備されていたことがわかります。
この数千年程度の北海道の気候を前提にすると、いわゆるアイヌ人は「北方民族」であってもともと別民族のようなイメージが定着しています。
ところが9月2日に紹介したとおり九千年前に南方から伝わったはずの漆の利用例が出ていることや青森の三内丸山の巨大遺跡を見てわかるとおり、長い1万年以上も前から始まる縄文時代の間には北の方でもかなり気温が高い時があって北方であることの不利性がこの数千年間よりも少なかった・・今の気候条件で考えるのは間違いの元ではないでしょうか?
気候条件が同じであれば身の回りの環境ひいては生活習慣も似たようなものになります。
長い縄文時代に北海道にいた人たちと本州の人との間で一体感が強かった・同一生活圏・価値観でつながっていた可能性がうかがわれます。
DNA調査により寒冷化によってシベリアから日本列島にきた人種がいると世上言われていますが、流れの順序は逆でしょう。
暖かい時にシベリアまで行っていたグループ(ブリヤート人)が寒くなっても少し生き残っていたとみるのが普通ではないでしょうか?
日本海などが凍って大陸と繋がったので列島に(歩いて)来たと言われていましたが、常識的に無理がある・海が凍るほど寒い時に海を渡る=長距離(女子供など弱者が一緒で)民族移動するには10日〜20日では移動できません・・。
海が凍るほどの寒冷期にようやく海を渡り切ってもすぐの海岸線・・海が歩けるほど凍っていれば宗谷岬周辺にたどりついてもそこも寒いでしょう・・に果物がたわわに実っているはずがありません。
寒冷化によって生命を維持できなくなっての民族移動するということは、元々備蓄食料が底をついている状態での出発です。
中世〜近世〜近代〜現在でも長期間移動となれば、全期間の食料携行は無理があるので行く先々で食料調達しながら移動していくのが普通です。
凍った海を歩いて渡れるどの寒冷期となれば、その間の食料をどうするかという問題一つとっても、無理な想定です。
同様に寒冷期にベーリング海峡〜アリューシャン列島を歩いてアメリカ大陸に渡ったという説も教えられてきましたが、これも非現実的です。
むしろ産物の豊かな暖かい時代に行く先々で魚その他食料を得ながら千年単位で少しずつ北上して行ったグループが寒冷化後もシベリアに居残っているとみるのが本来でしょう。
私のような素人が、ウルシの分布を勉強してきただけで想像するのは飛躍がありますが、もしかすると縄文時代を通してみると北海道を含めて大方は暖かく同一生活環境民族であり寒くなった以降4〜5千年あまりの短期間気候環境が違っていただけ・・元々同一民族とみるべきも知れません・DNA次第ですが・・。
実際にここ数十年で先住民性を言い立てるようになる前には、普通に見られる田舎の人と都会の人の違い程度・・近代化の進度こそ違っても思考形態がまるで違う民族という印象を受けた記憶がありません。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8Cで見るとアイヌのDNAが沖縄人と最も近く和人ともはほぼ同じらしく、私の上記思いつき同様同じ縄文人であった.・・和人と同一人種らしいです。
「人類学的には日本列島の縄文人と近く、北海道にあった擦文文化を基礎に、オホーツク文化と本州の文化を摂取して生まれたと考えられている。本州では農耕文化が始まるが、北海道では狩猟採集の文化が継続し、7世紀には擦文文化が始まる[6]。擦文文化やオホーツク文化はアイヌ文化に影響を与えている[6]。13~14世紀になると、農耕も開始され、海を渡った大和民族との交易も行われた[6]。」
遺伝子調査
近年の遺伝子調査では、アイヌとDNA的にもっとも近いのは琉球民族で、次いで大和民族であり、大和民族とアイヌ人の共通性は約30%程である。他の30人類集団のデータとあわせて比較しても、日本人(アイヌ、琉球民族、大和民族)の特異性が示された。これは、現在の東アジア大陸部の主要な集団とは異なる遺伝的構成、おそらく縄文人の系統を日本列島人が濃淡はあるものの受け継いできたことを示している[11]。アイヌ集団にはニヴフなど大和民族以外の集団との遺伝子交流も認められ、これら複数の交流がアイヌ集団の遺伝的特異性をもたらしたとされる[12]。」
アイヌの言語で見ると以下の通り日本語と語順が同じようです。
http://jinbunweb.sgu.ac.jp/~okuda/works/02003-2001-01-03.pdf4
.文法
アイヌ語の文の組み立てかたは、すでに述べたとおり、日本語などとよく似ている。」
素人の私の意見ですが、語順が同じならば、アイヌ語と言っても日本各地の方言同様に単語や発音・・東北弁に限らず多くの方言は単語だけでなく発音方法からして違うのが普通です・・が違う程度に帰するのではないでしょうか。
以上総合すれば沖縄人もアイヌ人も大和朝廷支配下に入った時期が遅かったというだけの違いのように見えますが、何故これをここ数十年で強調するようになったのでしょうか?
今、我が国では北方領土問題といえば、歯舞色丹等の4島だけに何故か限定していますが、ソ連は日本敗戦時に火事場泥棒的に満州侵入・占領作戦→シベリア連行と同列に北海道全域の占領統治を目指していたことを忘れてはなりません。
もともと千島列島全体が、日本とロシアが幕末から明治にかけての交渉の結果、平和的に決めた領土関係でした。
幕末〜明治期には日本はロシアと対等交渉する能力すらありませんでしたが、 漸く平和裡に現状を認めあって、国境確定していたものです。
日本が継戦能力がほぼなくなった敗戦の数日前になって、不可侵条約を突如破棄して連合軍に参加したソ連が戦勝国として平和裏に決まっていた千島列島全体を自国領土に編入すること自体が国際法的に許されないことです
これを連合軍が容認すること自体が、連合軍が日本に仕掛けた戦争は正義でも何でもない・・侵略戦争を仕掛けていたたことになります。
ですから日本はアメリカが正義の戦いであったというならば、北海道の一部である4島だけではなく、千島列島全体の返還要求すべきことがらです。
ソ連は千島列島と北海道全土の占領→自国領土化を目的に参戦していたことは、日本の降伏により防衛意欲低下を見込んだソ連軍が夜陰に紛れて千島列島の守備隊を急襲してきたことがこれを表しています。
この奇襲は北海道全体占領の手順として手をつけたものでしたが、これを首の皮一枚のところで防いだのは、ポツダム宣言受諾・降伏後に急襲してきたソ連軍から千島列島を守るために日本兵が果敢に防衛したことによります。
ソ連としてはその時に、あと一息というところで北海道占領・自国領土に編入しそこなった残念感・逃げた魚は大きい・・未だにこだわっていることを忘れてはなりません。
ソ連による不可侵条約違反によるの満州侵入と暴虐非道な行いは良く知られていますが、実は千島列島でもあったのです。

政治宣伝で虚偽が真実になるか?2

学問的定義は別として盛んに「侵略、侵略された」あるいは軍に自決を迫られたと合唱されていると沖縄県民の反本土感情が高まりこそすれ、親愛感が高まるとは到底思えませんし、日本の立場・イメージを貶める効果があると思う人の方が多いのではないでしょうか。
ひどい植民地支配を受けたと繰り返し教育されて育つ韓国人の対日感情が良くなるどころではないでしょう。
日本で少女売買春が横行していると言う国連報告になりそうという動きを嬉々としてネットに報告していたNGOがありましたが、こう言う国外宣伝に精出す運動家あるいはこの成果を嬉々として発表するグループは、この結果売買春がなくなって「日本の国がもっと良くなれば良い」という気持ちであって、日本を誹謗しているのではないと言う主張だとは思いますが・・。
沖縄やアイヌは侵略による迫害を受けている先住民であり、韓国中国に対しても植民し支配や侵略・慰安婦や南京虐殺など早く誠意をもって謝った方が日本のために良い結果になるという善良な愛国心によっているのでしょうか?。
売春婦を「性奴隷」と翻訳して世界に普及させた結果、世界中で日本軍がとてもひどいことをしていたかのような印象をばら撒いた人もいますが、小遣い銭欲しさに男性に声をかける少女/いわゆる援助交際を少女「売買」春として世界に売り出すと?人身売買が日本で公然と行われているかのようなイメージを世界に流布させる効果があるでしょうが、実際の英語翻訳を知りませんがもしも「売買」に力点を置いた翻訳だと世界に与えるイメージ効果が大違いです。
これをしも、愛国心に基づくという論理に納得する人がどれだけいるでしょうか?
そうした運動家の善意の意図とは別として、日本を結果的に貶める宣伝効果を主張する意見の浸透方法をみると・・メデイア界でも同様の洗礼をしょっちゅう受けている結果ではないか(中韓の浸透が進んでいる面があるとしても)という関心が湧いてきます。
独りよがりの主張を公的機関が取り入れないと組織的動員した数十人がこもごも抗議電話をかけ続ける(1億数千万の国民から見ればごくわずかですが・・)あるいはシュプレヒコールなどされると業務が麻痺する一方で反対側の攻撃がないのでうるさい方をなだめるのが合理的選択になります。
そこで、やむなく上層部がでてきて陳謝して番組や展示などを修正する方向になり、その後は自主的にその主張を取り入れるようになって行きます。
靖国参拝を問題視する運動も同様で、触らぬ神に祟りなしの論理で政治家も近寄らないだけではなく徐々に反対論が勢いを増していき、いつからか記憶がはっきりしませんが、この20年くらいではメデイアが積極的に「踏み絵」を迫るようになっています。
政治家一人一人に対して靖国参拝するかどうかの個別調査回答を求めて公表する・参拝すると回答するととんでもない軍国主義者と言わんばかりのレッテル貼りが横行するので、メデイアに洪水的パッシングを受けても負けない強固な地盤と信念がないと回答できない・・状況が続いています。
硬軟織り交ぜた長期浸透作戦成功の結果?メデイア界や学会その他(・・ことなかれ解決に流れやすいい公的機関中心?)多方面の行事その他発表で事実上支配し、一見世論多数の指示をうけているかのように見えることが多くなります。
内実は1億数千万の人口から見れば、数十〜百人〜最大でも数千人程度では少数意見とすら言えないほどの豆粒ほどの独りよがりの意見でしかないのかも知れないのですが、表向きどこでもその種の意見でポスターなどが溢れるようにあって国民全部が支持しているかのような外見が出来上がっています。
良くわからないならば大勢に従った方がよいという多くの国民の傾向を利用して、たとえば集団自衛権、共謀罪、秘密保護法など何か反対したいことがあると、その時のために長期間かけて組織内に浸透しておいた成果を利用して、それぞれの権威?を利用するのが普通です。
憲法学者多数の共同声明や日弁連などの反対声明・これに呼応するメデイアの好意的報道などによって「世の中の大勢はこういうものだ」と思いこませるための活動をしているうちに、運動家は自分の作りあげた虚構に自分自身が誤魔化(自己陶酔?)されて国民大多数の支持を受けていると信じてしまうようです・本気で信じていないと運動ができないでしょう。
この誤解がコアで言えば数%〜民進党共産党全部合わせても10%台の支持しかない左翼系政党が、重要法案が採決されると「国民大多数の意見を無視した国会の暴挙を許さない」という声明を出す不思議な原動力になっています。
本当は仕方なしにパンフレットなどを置くのを許容したり署名に応じているだけのことなかれの人が多いことが、選挙すれば大負けすることの繰り返しになっている原因ではないでしょうか。
右翼系がメデイアの左翼偏向を主張していますが、歴博の例で言えば一方の不当な主張を押し返す右翼の動員がないから、声の大きい左翼の言う通りに修正するしかなくて各地の心あるメデイア関係者・公務員は本当は困っているのかもしれません。
今回の築地市場移転関連コラムでも書きましたが、根拠なくフッ素の危険性を煽るので関係者は(審議会で)面倒だからか?とフッ素化合物の土壌基準を飲用の水道水と同じ基準(根拠がないのでエイヤで決めるしかありません)にしただけに過ぎないのに、床下のたまり水からフッ素が出たといって大騒ぎでした。
しかし、地下の泥水を1日に水道水のように何リットルも飲む人がいないし、まして出荷された魚がその水を飲むわけがないので、なんの心配もないことは明白なのに小池知事とメデイアは大騒ぎしたのです。
日本の国際評価・信用の基本中の基本は「電車が1分でも遅れることが珍しい」と言う正確な社会・・組織的に緻密に作り上げていく能力・・中韓のように、インフラ受注を安値でかっさらうもののその後まともに工事を進められないのと比較がされている最中ですが、小池知事とメデイアの連携プレーにより、長年の念願?であった日本の信用破壊に多大な貢献をした成功例として歴史に残るでしょう。
小池都知事のパフォーマンスによって、オリンピッック関連工事が遅れた結果だけ残りましたが、いつも思うのですが都民が有名人=メデイアの洪水的報道に踊ろされる傾向が多いのに驚きますが、約45年前に千葉に引っ越してくると一般人と地元政治家とのお距離の近さにおどろいたものです。
その後は弁護士業務上の関係で政治家との接点が多くなっているので、一般の方と比較するのは無理がありますが・・。
東京で住んでいたころには政治というものは、メデイアを通して得た知識を元に判断するものでしたが、地方では政治家は身近で現実的利害のある存在です。
根無し草の都会人はメデイアのタレ流す情報を前提に判断するしかないので、メデイアが描く通り結論を出して行く人が多いとしてもこの種のことはスグにメッキが剥がれます。
小池都知事は就任以来既存決定のアラさがし・オリンピック関連決定や石原氏等の粗探しばかりで政策混乱させることが誇るべき大成果というのではなく、前向きの政策遂行しない限りは次回選挙までに無理が出るでしょう。
原発事故時にそのころは事故直後であったこともあって私自身原発の危険性を強調する論調のシリーズ連載中でしたが、その時に放射能汚染の実害を調べてみたが根拠がみつからないが、今までこれを基準してきた以上は・・「それを守るべき」という意見を書きましたが、この種の一般的思考方式を狙った運動です。
新技術導入時には何でも漠然(根拠なく)と危険だ危険だと煽るだけ煽って規制基準をつくってしまうことに精出してきました。
審議会などでは運動家の納得する程度・・想定される実害以上に厳しめに作っても、審議会委員や事務局、関連業界の企画している当面の生産活動に支障がないならば双方納得ということで安易な方向に流され勝ちですが、一旦規制基準ができてしまうとこれが数十年後の新たな分野が勃興して来たときに大きなネック・威力を発揮します。
今回の原発事故でも放射能被害を前提に強制避難区域や周辺区域が決まり、且つ風評被害/原発存続可否判断・その他大騒ぎの基礎になっていますが、その基礎は上記の通り根拠のない被曝基準です。

政治宣伝で虚偽が真実になるか?1

左翼系は戦前戦後の民族国家内部に浸透して民族国家を内部崩壊させるコミンテルン思想系統を継承している関係で(国共合作を利用して国民党内部浸透に成功しルーズベルト政権位に深く食い込んだように)内部浸透作戦は巧妙で板についているように見えます。
野党がコミンテルン本家の共産党との共闘を警戒するのは主に(内部浸透されて乗っ取られる心配)この理由によります。
http://www.y-history.net/appendix/wh1501-108.htmlによれば以下の通りです。
コミンテルン/第三インターナショナル/共産主義インターナショナル
「1919年結成の国際的な共産主義運動を指導する共産主義インターナショナル。第三インターナショナルともいう。1920~30年代の国際政治にも大きな影響力をもっていた。当初は革命を指導する機関として動いたがドイツ革命の失敗などから、次第に支援機関という性格に変化し、また1935年から人民戦線戦術に転換した。
 コミンテルン Comintern は、共産主義インターナショナル(Communist International)の略。第3インターナショナルともいう。帝国主義と闘う国際的な共産主義運動を志向したレーニンによって提案され、1919年3月に結成された。第一次世界大戦勃発に伴い、各国の社会主義政党が自国の防衛戦争を優先して第2インターナショナルが崩壊したことの反省にたち、労働運動や社会主義運動の国際連帯にとどまらず、各国の共産主義政党が明確に革命を志向するための世界共産党として組織された。その設立を呼びかけたロシア共産党のレーニンの指導権が圧倒的に強い組織となった。1921年7月にはその下部組織として、モスクワでプロフィンテルン(赤色労働組合インターナショナル Profintern )が社会民主主義的な国際労働組合連合(アムステルダム)に対抗して結成された。 → 国際労働運動 第1インターナショナル 三つのインターナショナルの違い」
日本では昨日歴博展示に対する抗議行動で紹介したように声が大きい方が勝ち・・論理の正当性を冷静に主張するのではなく・・現場で抗議を繰り返して現場を混乱・困惑させるなどによって、主催者が困って結果的応じる・・主張を通して来た日常がうかがわれます。
窓口で騒いで公務員などが辟易させられるパターン・・生活保護あるいはエセ同和などが知られていますが、わずか10数人規模でも全国いたるところで順次行動すれば、日本中が彼らの思う方向へ強制誘導させられます。
結果的にどこへ行っても彼らの主張が出ていて一見世論を制したかのように見えても、実は上滑りで「足が地についた支持」を受けていないので、長期的にはその咎めが出てきます。
慰安婦騒動が顕在化した時の韓国主張要旨は、「すでに世界で勝負がついている今さら何を言っているのだ!」とバカにした意見(放射能半減期研究で書きましたが不都合なことは徹底してバカにする運動)で、議論自体を受け付けないものでした。
彼はシコシコと内部浸透しておいて、何回も(民主「的」)機関決定を経ているから、今更そんな議論をすること自体許されないという手法です。
弁護士界内部も重要テーマについて「会員から直接アンケートをとるべし」という遠慮がちな!意見すら抹殺されてしまう現状をみると)この種の「民主的」汚染が支配しているように見えます。
世界的に言えば安倍政権成立当初盛んに歴史修正主義者というレッテル貼りに精出していました。
自己主張に合わないと抗議の繰り返しで修正させていく先々で表向き思想統制が出来上がりますが、嘘で塗り固めた宣伝.苦情をいくら流布していても、「王様は裸」という子供の一声で虚構性が亜ガラガラっと崩れるようにいざとなれば真実の強さには勝てません。
「侵略の事実を直視してより良い日本になり沖縄と親密になるべき」という意見でしょうから反日思想によるのではないのでしょうが、島津家による沖縄侵略を強調し、沖縄でそういう教育を繰り返すことが、民族融和に資すると思う人が少ないのではないでしょうか?
我々法律家の世界では、例えば首や胸など枢要部を刺して置いて死ぬとは思わなかったと言い張っても裁判実務は殺意を認定するルールです。
政治の世界では、声の大きい方が勝ちみたいな変なルールがあって合理的判定不能ですが、彼らの主張が「強弁」に過ぎないのかどうかは、小選挙区では沖縄でしか当選できない社民党支持率が2%ギリギリで長期低迷し消滅しそうになっている事実が証明しています。
同じく韓国でこんなにひどい「植民地支配」をしていたという反省?のためのシンポジュームを開いたり韓国でそのような教育を繰り返すことが日韓との融和に役立つのでしょうか?
(日本が資金投入して教育や産業振興や身分制度廃止などのプラス面・日本が資金的には搾取どころか持ち出しでした・この辺は北海道や沖縄に関しても同じですが、これに一切触れずにうまくいかなかったた点を針小棒大に教育してもその1部事実があったことに関してはまちがっていません。
親子でも百に一つは思い出せば、あの時こうしておけばよかったと反省する場面がありますが、そこだけ取り出してひどい親だったということはないでしょう。
歴史というものは、自己の都合に合うものを探せば一つや2ついくらでも探せます。
どんなに理想的社会を目指しても、植民地でなくともどこ国でも粗暴警官もたまにいるでしょうし、不祥事もあるし地位を利用した不当行為が皆無ではないでしょう。
政治も百%完全な政治はあり得ないので、部分的不祥事だけを取り出すはなく、トータルでどちらの政治家がより良いかで選択して行くものですから、アラ探しで失脚させるのはスターリン得意の粛清政治を「民主的?」メデイア利用による焼き直し版です。
今中国で盛んな党中央の方針に反したとか汚職摘発名目の粛清も同じです。
野党の政治スタイルが本来の政治論が一切なく(せいぜい「日本死ね!」というばかりで民進党ならどうするという政策がなく)アラ探しばかりなのは、スターリンの粛清政治を理想としているからでしょうか?
歴博で問題になった沖縄で「軍による自決指示」があったかどうかですが、暦亜h区の展示までいちゃもんつけてこれに抗議しているグループは多分「米軍に殺されたのではなく日本軍に殺された」というイメージ刷り込み効果を期待しているのでしょうか。
http://www.peace-museum.pref.okinawa.jp/heiwagakusyu/kyozai/qa/q2.htm
沖縄戦Q&A
Q2 沖縄戦による死亡者数は?
A2 200,656人〔沖縄県援護課発表 1976年(昭和51)年3月〕
   日本 188,136人(沖縄県出身者122,228人(一般人94,000人、軍人・軍属28,228人)
             (他都道府県出身兵 65,908人)
   米 12,520人
https://matome.naver.jp/odai/2134042141300132201
1944年10月10日、沖縄戦の前哨戦 として10.10空襲があった。 この空襲で旧那覇市街の90%が焼失する。旧那覇市内の養蚕試験場にあった司令部も焼け 、首里城の地下に司令部壕が掘られる事になる。その壕を掘ったのが学徒達であった。
米軍の上陸地点からこの首里城の司令部までの首里以北を中部戦線と呼び、司令部が首里陥落を目前に 南部に撤退したため、多くの住民が戦闘に巻き込まれてしまった、首里以南の戦いを南部戦線と呼んでいる。 ひめゆりの悲劇もこの南部地域で起きた。 ひめゆり学徒は何度も映画化され有名なためこの南部地域こそが沖縄戦の主戦場であったと思われている ことが多い。しかし南部戦線は米軍にとっては敗残兵狩りに等しい戦いであり、 米軍の上陸地点から首里城までの中部地域こそが日米が死力を尽くして戦った沖縄戦の主戦場である。
米軍は上陸地点である北谷から首里城までの10キロを進むのに50日間かかっている。沖縄守備軍は この間10万人の内7万4千人(主戦力のほぼ7割)の兵力を失っている。日本兵の死者は1日あたり千人以上にもなる、太平洋戦争もっとも激しい戦いといわれるゆえんである。
米軍兵士により強姦された女性数を10000人
収容所および米軍の占領地域では、米軍兵士による住民への暴行や強盗行為が多発した。無抵抗の住民を背後より射殺するなどの蛮行が報告されており、住民女性への拉致・暴行・強姦も多数証言されている[52]。戦争の終結後も暴行は続き、たとえば、「南部戦線の戦闘が終結してからはとくに米兵たちは横暴になり、昼夜を分かたず強姦事件が頻発していた。収容所では米兵がおそってくると、酸素ボンベの鐘をたたいて女性たちを避難させるさわぎが続いた。」とも[57]、「戦時中も戦局が追い詰められた状態になると、アメリカの軍隊そのものが集団で村の女性たちを襲ったといいます。なかには夫の目の前で犯された女性もいます。」ともいわれる[58]。米軍兵士により強姦された女性数を10000人と推定」
数日前に日経新聞で連載中の「私の履歴書」で湯川れい子氏が敗戦時に母から懐剣をわたされ米軍に辱めを受けたら自決するようにとその作法を教えられたと書いています。
軍の指示あるいは教唆の有無ではなく基礎にある深い愛情を「ひどい親、ひどい軍だった」という評価を押しつける方がおかしいのです・沖縄人に対する差別や、軍が非道な強制をしたのではなくこういう教育が本土内で普通にされていたのです。

先住民運動の背景2(歴博と政治攻撃)

出雲の国譲り神話も見てもわかるように国家形成のどの時点でもって侵略というのか不明です。
歴博の政治意見によれば、家康の天下統一も周辺大名に対する侵略でしょうし、世界中の現在国家はいくつかの周辺部族の統合・侵略でなりたっているのですから何もかも〇〇年の「侵略以降」のイタリアとかスペインと表現することになります。
仮に1609年に島津家の支配に入ったのが今風に言えば侵略に当たるとしても(歴史学会の趨勢を知りませんが)これを漆の文化紹介にあたって書く必要があるかの疑問でした。
政治論争のために歴博が設置されているわけではない・ウルシ文化の客観的分布とその原因を紹介すればいいのですから、「島津の支配下に入って」から・・という単純表現に何故できないか不思議です。
オナガ沖縄県知事の先住民発言を応援するかのような「侵略」という表現を何故繰り返して「国立機関の展示で国民教育しているのでしょうか?
敵対国は相手国の領土拡大を侵略行為と言いたがりますが、自国の領土拡張拡大を「侵略行為だった」と必要もないのに敢えて国家機関自ら言う国はないでしょう。
ロシアは15年のクリミヤ併合を「我が国の侵略後支配下に入った」と自分では言っていないと思います。
まして「侵略」という言葉もないような1609年の自国の行為を政府自から「侵略した」という国がどこにあるでしょうか?
先の大戦で日本が東南アジア諸国に進出しましたが、それを見方によれば侵略とも言えますし、欧米のアジア植民地支配からの解放戦争だったとも言えます。
もちろん日支事変の見方も分かれます。
いずれにせよ、日本政府がなにかで挨拶する都度聞かれてもいないのにわざわざ「先の侵略戦争では・・」と毎回挨拶する必要がないのが普通です。
何か言及する必要があるとしてもせいぜい「先の戦争では大変ご迷惑をかけました」という程度でしょう。
少しでも言葉を婉曲的にすると左翼・文化人が「侵略戦争に対する反省の念が足りなない」と大騒ぎするので、相手国・特に中韓では日本国内でさえ問題になっているのに我が国が黙っていて良いのか!となって中韓等の相手国政府もそれに反応せざるを得ない関係が起きます。
この繰り返しが大きくなったのが慰安婦騒動や靖国参拝などで日本と中韓との感情対立・政治問題の象徴になってしまい、お互いの外交の棘になってしまった原因です。
東南アジア諸国ではこの扇動に乗らないのでうまく行っていますが、中韓両国が対日交渉を有利にするためにこれを利用し(有利にするために左翼をそそのかしていた黒幕かどうか不明)たことが、「千年でも恨みが残る」とパク前大統領が公式発言するほどの長期的禍根を残すタネになってしまいました。
中韓両国が対日友好路線に梶を切替えようとしても、歴代政権が自己の政治権力維持のためには「反日を煽って損はない」という計算で前政権よりさらに過激な主張をする繰り返しで反日教育をして来たために、今更切り替えると政権の命取りになる・・難しくしてしまったのです。
パク大統領が政権当初から反日で突っ走っていたものの、最初は初めて聞いた第三国は「そんなことがあったの!と同情的対応しますが、あまり激しくやったために日本が反撃を始めると結局は事実の方が強いのです。
逆に世界中で相手にされなくなりパク大統領が孤立するようになった結果仕方なしに日韓合意になっわけですが、その途端に国民不満が高まりどうでも良いようなことで国民感情の赴くまま大騒動になって失脚しました。
日韓合意批判票を集めて当選した文大統領は、当選後国家間合意を破るわけに行かず「国民感情が・」と日本への理解を求めるしかない立場です。
そういう感情を育ててきた自分で責任を持って処理するしかないでしょう・これが大人のやることです。
日本との友好復活以外に国の活路がないので、煽って来た徴用工問題その他日韓の棘を前にどうやって良いか、困りきっている状態が見えます。
歴博は日本の国立機関・正式には「国立歴史民族博物館」ですから、漆の解説には何の必要もないのに敢えてそう言う刺激的な説明文を付する必要があるのでしょうか?
学問世界では占領軍に迎合した反日思考が幅を利かせ・今では中韓迎合歴史観でないと出世できないという刷り込みがはびこっているのではないでしょうか?
私自身歴博の政治批判がどうなっているのか知りませんが、事実を積み上げていく研究レベルが高いこと・・地元千葉県にあって簡単に行けることをありがたく思っていますが、漆の説明をするのに侵略によるかどうかを買う必要があるかどうか不明な事柄で歴博が政治評価にをなぜ頭を突っ込む必要があるかの疑問を抱いて帰ってきました。
気になってネットでちょっと調べて見ると以下の騒動があったことがわかりました。
https://blogs.yahoo.co.jp/nipponko2007/36816912.htmlからの引用です。
産経ニュース(2010.4.7 19:08)
沖縄戦の展示内容を再検討 抗議殺到で歴博 千葉
瑞慶覧長敏衆院議員は2009年の総選挙で自民党を破った民主党議員。政権交代の 後遺症がこんなところにも現れている。
結局、一部市民団体(プロ市民)と沖縄サヨク議員の抗議を呑んで展示内容の変更を決定。
その後の様子を産経記者が伝えた。
産経ニュース(2010/5/23)
【日本の議論】評価定まらぬ「現代史」 国立博物館はどう展示しているか?
http://sankei.jp.msn.com/life/education/100523/edc1005230701000-n1.htm
ところが、昨日、更に抗議を受け容れて「軍人の指示があった」と明記するに至った。
読売新聞(2011/1/6)
沖縄集団自決、軍人の指示明記 歴博が説明変更
衆参議員で総数700人以上もいる中で 一人二人の左翼政治家がねじ込めば、学者が学問の自由を言わずにすぐに国民支持率わずかな左翼系政治家の主張にすぐに応じるのが不思議です。
国民大多数の支持を受けている政治家がうっかり苦情を言うと「学問への干渉だ」と大騒ぎして抵抗する学者やメデイアの偏頗な方向性が不思議です。
この事件以来沖縄に関する表現を全て左翼系の希望する方向に変更している歴博の基本方針がか固まったのか?この習慣が漆の紹介文にさらっと出たのかもしれません。
国民の知らぬ水面下でこんな地道な学問分野でまで、この種の思想定着運動がシコシコと浸透していたことが分かり驚きました。
左翼・文化人は人道主義の名の下で日本は侵略国家・そもそも沖縄や北海道は日本の固有領土ではないというイメージ流布に骨折っているように見えます。
こうした水面下の浸透作戦を国内外(国連を含め)で着々と浸透させているようですが、彼らは日本を本当に愛しているのでしょうか?
歴博館長であった平川南氏が朝鮮・韓国関係重視?で右翼の攻撃を受けているとの噂がありますが、(どういう理由か知りませんが・・)少なくともこうした歴博の基本姿勢が背景があるようです。
ネット検索してみると以下の記事が出ました。
http://blog.livedoor.jp/bbgmgt/archives/1013465999.html
 2) 国際シンポジウム「『韓国併合』100年を問う」
  2010年8月7・8日の両日,東京大学弥生講堂一条ホールで「国際シンポジウム「『韓国併合』100年を問う」が開催された。主催は国立歴史民俗博物館,共催が「『韓国併合』100年を問う会」,後援に岩波書店,朝日新聞社。このシンポジウムには1000人超える聴衆が参加した。
このシンポジウムは「植民地主義を克服し,問題解決の転換期に」という狙いのもと,2日間で4つのセッションと特別セッションが開かれ,27人の学者・研究者らが幅広い視野・視点から講じ,「韓国併合」100年について問題提起と発言をおこなった。」
国立歴史民俗博物館の平川南館長は開会のあいさつにつづき,韓国の成均館大学校東アジア学術院教授の宮嶋博史があいさつに立った。同シンポの意義について「『韓国併合』にまつわる諸問題がいまだ解決していない状態のまま,101年目を迎えてはならないという思いからこのシンポを開くこととなった。この問題解決の転換期になれば」と述べた。
そもそも日韓併合後の政策を欧米の過酷な植民地支配と同視する議論じたいに批判がある中で、上記のようなテーマを掲げて公費を投じてシンポジュームを開くこと自体が偏っていると言う批判がありうるでしょう。
内容が紹介されていませんが、概ね日本の「植民地支配」を「否定する人がいるのは困ったものだ」「反省が足りない」的な主張が圧倒的に支配する会合になっていて、この運営に関して批判を受けているのかも知れません。

先住民運動の背景1(歴博展示)

工場労働者を基礎にした社会党を中心とする反対には相応の合理性があって公害防止技術の発展などの前向き効果がありましたので、いわば怪我の功名だったことになります。
工場労働を前提にした組織を背景にしていたから、一定の理解力があった事にもよるでしょう。
ここ数十年サービス社会化が進展してくると工場労働を前提した反対ばかりでは何も生み出せない・単なる社会構造変化反対と同義になってきました。
ここ数十年来、左翼系が先住民意識を煽ったり地域エゴを煽るようになったのは、日本の進歩に資することはなんでも妨害・・反企業=日本国力衰退願望を基礎にしたかのような「何でも反対」のイメージが定着しうまく行かなくなったので、もっと基本的な民族分断策に切り替えたと見るべきでしょう。
日本民族は一体ではない・「先住民」がいる・・国内分裂策として見れば最効果的戦略です。
先住民というのはそもそも何か?が不明です。
大和王権成立時期から見ると当時の東国・・今の岐阜県以東は皆異民族・先住民族なのか?出雲や越の国の人は?なぜアイヌや沖縄人だけ先住民というのか?
東北の蝦夷(エミシ)や九州の隼人族は?
一般的に言って、周辺部族同士(元々言語習慣の似た者同士)の争いで負けた方が吸収されてより大きな部族になり〜民族国家になって行く場合・・黄河上流の小さかった漢民族が次第に周辺民族を吸収あるいは融合していった場合や異民族包摂した多民族国家内の少数民族などを先住民とは言わないでしょう。
常識的に言って、西欧がアメリカ大陸やアフリカに進出するようになって、押しのけられた元からいた民族を先住民というようになった印象です。
一般に予定している先住民のイメージは・西欧の植民・移民政策・圧倒的武力によって元からいた民族をおしのけて我が物顔に住み着くようになり、先住民根絶やし政策にあります。
・・アメリカ大陸でのスペイン系による先住民意図的抹殺・・ほぼ100%と言われる西欧人とのおそるべき混血強制政策・混血というと聞こえがいいですが、男は皆殺してしまい・・女性は性奴隷にしてしまい100%混血児以外先住民を残さない徹底した民族根絶やし政策でした。
この後にウエストファーリア条約の紹介でキリスト教徒以外には人権がない・牛馬豚同様でどんな非道なことも許されるという身勝手な「人道主義」(これが黒人奴隷を公然と行った基礎です)を紹介して行きますが、もともと異民族根絶やし政策・思想は西洋人の十八番でした。
ナチスのユダヤ人に対するジェノサイドは突然発生したものではなく、この延長で西洋系同士で起きたので衝撃が強かったにすぎません。
例えばAugust 16, 2017,「自民族言語表現の重要性5(インドネシアの国語統一)」でをオランダのインドネシア統治方式紹介しましたが、現地人との混血(植民地に赴くのは主に男性・軍人で現地女性に産ませる)しその混血児優先に利用して支配の道具にしていく方法でした。
上記コラムで紹介した文章をもう一度引用しましょう。
「③オランダは大がかりにインドネシア人との混血児を作り、それを間接統治の官吏とした。行政官は混血児と華僑に任せ、インドネシア人の政治参加、行政参加はほとんど禁止した。」
アメリカ大陸と違いアジアでは、基礎的人口が多すぎるからオランダが現地人を根絶やしにできなかったにすぎません。
ポリネシアの諸島の多くでは基礎人口が少ないことから、西洋人との混血以外残っていない状態になっているとどこかで読んだ記憶ですが、今になると根拠が分かりません。
異民族・現地人絶滅方針は中南米や北米の対インデアン政策だけではなく西洋・キリスト教徒のの基本政策であったと見るべきです。
日本敗戦時占領時に「男は皆殺され、女は強制的占領軍人の性奴隷にされてしまう」・・民族根絶やしにされると恐れた理由は西洋人による中南米や南洋諸島での先住民根絶やし政策の実例があったからです。
アメリカインデイアンに対する卑劣極まる(降伏後約束を破る)仕打ちが良く知られているところですが、(アメリカを信用するとイラクのフセインやリビアのカダフィのような目にあうという不信感・北朝鮮の核兵器保持の上での交渉以外には応じられない不信感もそこにあります・・)彼らの行った非人道性がようやく人権問題のテーマになってから、先住民概念が生まれたのではないでしょうか。
(ノルマンコンクエラーや次々と支配層が重層的に入ってきたインドのように)少数者が入ってきて支配層に落ち着く程度の場合には、元々の住民は今も社会の大多数であって、彼らを先住民とは言いません。
香港割譲中・返還前のイギリスと香港住民の関係も支配と被支配の関係であって、香港人を先住民は言いませんでした。
あとから来て支配者になるかどうかではなく、あとで大挙して来た集団が住民として元からの住民を押しのけて住み着き多数を占めるようなイメージを いうものでしょう。
欧米のアメリカ阿智陸の先住民迫害の酷さが言われるようになると、その反作用として「日本もあるじゃないか」と言わんばかりにこの数十年来アイヌと沖縄人が先住民性が、喧しくなってきました。
確かにアイヌの部族は明治維新までは異民族・「化外の民」扱いでしたし、文化的格差も大きいものがあり、さらには住民が大挙して移住してアイヌ人を圧倒してしまった点では、アメリカへの西洋人移民と似ていますが、元は同種族同士で気候の違いで発展段階がずれただけのことですから、西洋人がアメリカ大陸やオーストラリアの先住民を人間扱いしなかったのとは本質が違っています。
これに対して沖縄はどうしょうか?
文化水準の違いはあるものの和人が大挙して押しかけて元々の住民を圧迫し少数民族においやっているような関係自体がありません。
今も沖縄人の島々です。
周辺部族がより民度の高い方に収斂していく普通の国家形成関係/過程にあると見るべきでしょう。
9月2日に歴博で見てきた「漆」の企画展(内容は充実していてとてもよかったのですが)の説明文を見て驚いたのですが、沖縄(琉球)の漆文化の紹介文に、1609年の「島津の侵略・」という表現が何箇所かあったことです。
島津の支配下に入ったことは誰でも知っていることですが、それをあえて「侵略」以降と一度ならず繰り替えしてどぎつく!書く意味・政治意図です。
漆研究の発表であればその流れをそのまま書けばいいことであって、琉球が日本文化圏に入ったことをいうためには「支配下に入った」結果・・と説明すれば足りるものをあえて「侵略」というどぎつい表現を繰り返す必要が何故あったのでしょうか?
歴史学者間では島津家による琉球「侵略」で一致しているからというのでしょうか?
仮に島津家の支配が友好関係の結果か武力威嚇によるかをテーマにする討論の場であれば別ですが、ウルシの伝播あるいは分布過程の説明の場で、「侵略によるかどうか」を論じる必要のないことをあえて書く必要があるかの疑問です。
沖縄観光案内に「島津による侵略を受けた沖縄へようこそ!」といちいち大きく書く必要があるかの問題と同じです。
そもそも「侵略」という熟語自体が近代以前にあったかどうか?せいぜい明治以降の熟語でしょう。
シーザーやアレクサンダー大王、ナポレオン、漢の武帝もチンギスハーンも今の解釈によれば大侵略者ですが、彼らの表現するのに大侵略者武帝、大侵略者シーザー、大侵略者ナポレオンと肩書きをつけて表現しているのをみたことがありません。
慰安婦・当時売春業は世界中で普通であったのに、今の基準で政府が衛生上の必要から管理した売春婦がいたことを人道非難するのがおかしいのと同じです。

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