ロシアの脅威12(道義無用1)

ところで19世紀の西欧列強の外交を砲艦外交とは言うものの、ロシアのように裸の武力行使による侵略ではありませんでした。
ペリー来航時の交渉も砲艦は背後にあっとしても、現在のアメリカ軍背景の威力による国際交渉同様に一応西欧の作った価値観による法原理・道理による交渉が可能な相手でした。
※ただし、一方的情報しか知りませんが、これまで日本で教育・報道されている限りでは、アヘン戦争は密輸禁圧に対する攻撃によるものですから、文字どおり仁義なき戦いと言う教育を受けてきました。
密輸であったとすれば、密輸を取り締まるのは、清朝の専権事項ですから・・。
林則徐は密輸入した中国人を処罰するだけではなく、イギリス商人の保管するアヘンを没収処分したことが戦争のきっかけです。
当時の条約では国内取り締まり権の範囲をどう定めていたのかが重要です・・外国人保有資産まで没収する権利があったかどうか不明です。
国内でせっかくアヘンを禁止してもイギリス人が中国国内で持っているものを処罰没収できないのでは国内流通を防げません。
それを決めるのが、いわゆる治外法権制度の問題ですが、イギリスと中国がどのような条約をしていたかによって結論が変わってきます。
日本の江戸時代では、薩長の家臣が違法行為をしても町奉行が捜査検挙する権利はありませんでした。
この不満が嵩じて幕末庄内藩の薩摩屋敷の焼き討ちに発展したのです
坂本龍馬が薩摩屋敷に逃げ込む話があるのは、この権利によります。
米軍基地内の拳銃や武器類が横流しされると国内治安に大きな影響が出るのと同じですし、軍人の犯罪捜査権や裁判権がないのが不都合となっています。
でもそういう場合、外交ルートで解決していくのが国際政治の筋であって、(地位協定の見直しが進んで一定の犯罪について早期に捜査権や裁判権を日本に移すなど・・)国民が納得しないからといっていきなり実力で米軍基地に警察・軍事力行使で踏み込むのは、戦争開始と同じ扱いを受けます。
当時の英中間の条約・ルール関係がどうなっていたかについては、日本では教えられていません。
欧米の法治主義と言っても西欧が勝手に作ったものであっても(今も各種ルールは欧米が事実上主導しています)・・ロシアを除けば一応道義・ルールに基づく交渉可能な相手でした。
世界の覇者であった西欧の都合で国際間ルールをつくって来たとはいえ、作った以上は強者もそれを守らねばなりません・・支配者は支配貫徹のためにはルールが必須ですが今度は自分がそのルールを率先してままらないと示しがつきません。
平和が続き多角交渉時代に入ると、道理の通る割合が増えるので強国の割に思うように振る舞えないことにアメリカのトランプ氏は業を煮やしている・・1対1の取引外交に戻りたいのでしょう。
だいぶ前に書きましたが、アメリカも格好つけていられなくなって、ロシアや中国のように無茶をやりたいという地金が出て来たのです。
これに対して中国やロシアの文化(まだ文化までいかない未開社会?)・・支配のルールは、自分の方が強いか否かの基準しかありません。
強ければ賄賂でも非人道行為でも何をしても良いという実力剥きだしの社会です。
サイバーテロでも知財剽窃でも実際にやれるかどうかが基準で正義の基準・やっていいことかどうかの基準はありません。
サイバーテロが現実化していることについては、某国によるウクライナ攻撃が常態化していて電力施設まで麻痺する事態が起きていることを24日日経新聞朝刊第1面大きな紙面で出ています。
日本で言えば、原発施設その他がサイバーテロによって電源喪失になると大事故に発展します。
自分の方が強いとなれば問答無用で強盗同様の侵略・強奪をためらわないし、知財で言えば今や強い立場を利用してコソコソと剽窃する必要がないと開き直りになってきました。
情報統制に関しては、10年ほど前に情報協力だったかを要求されてグーグルは中国か潔く撤退しましたが、今度はフェイスブックが中国の言いなりの規制情報遮断に協力することで中国に進出したことがだいぶ前から問題になっています。
つい最近ではケンブリッジ大学の出版局が中国に都合の悪い出版しない・検閲協力をしていることが話題になっています。
この辺はケンブリッジ大学やフェイスブックが表現の自由侵害に手を貸しても中国内で協力するだけで世界中の表現を検閲するわけではないのであれば、中国人民が事実を知ることができず損をするだけのことですが、技術移転や知財提供の強制になると意味が違ってきます。
この10年程度では、技術移転・知財提供しないと中国市場参入させないという公然たる国家強制が始まっています。
自分が相手に強要できる力があるかどうかだけ?が基準ですから、違法かどうかどころか、侵略成功すればどんな暴虐行為を平然と行う歴史になっています。
もともと行動基準に道理・人道の基準がないのでどんな非道な行為・「非道」かどうかの基準概念さえも発達していないのでしょう。
ソ連の場合には、スターリン批判後はさすがに恥ずかしい?国際道義を気にするようになったのか?ロシアになってからの2014年のウクライナ侵攻では覆面した兵士の展開が報道されていました。
クリミア併合はウクライナ政府軍を追い出した後での住民投票によるものでしたが、その白々しさに驚きます。
ウクライナ東部侵攻も公式にはロシア軍ではないという鉄面皮な主張ですし、ウクライナに対する大規模なサイバーテロについてもロシアは知らんぷりです。
ロシアがどうしてそんなにまでして国際孤立を恐れずに領土拡張に熱意を燃やしているかの疑問ですが、ここ数年の原油価格下落に象徴される資源価格の全般的下落が、ロシア経済のボディにじわじわと効いてきたことによると思われます。
一般的には体力が弱ればおとなしくなるものですが、ロシアの場合には国力不相応の軍事力維持に執心しています。
北朝鮮や中国、ロシア(韓国も含めて)の場合には国力が劣ると大人しくなるのではなく、体面を保ち国民に対する締め付け強化(地位保全)のために対外要求がより一層激しくなる傾向があります。
こういう国相手では経済制裁は逆効果でしょう。
プーチン政権になってから、ロシア経済が好調になったので勢いが良かったのですが、その内実は生産性が上がったからではなく、資源価格高騰によるところが大きかったに過ぎません。
原油その他資源価格が下がるとロシア経済にとっては強力なダメージでプーチン政権にとっては必死でしょう。
日経新聞によるとロシアの原油依存度は以下のとおりです。
4〜5年前までは1バレル百ドル以上もしていたのですが、この数年で20ドル台に下がってしまいました。
ロシアの原油依存度は以下の通りです。
https://www.nikkei.com/article/DGXKZO08485840Y6A011C1ENK001/
ロシアルーブル、下落傾向が一服 原油価格上昇を反映
2016/10/18 14:03
「ロシアは石油に輸出や歳入の半分程度を依存しており、油価は為替や株式相場に大きな影響を与えている。原油価格の国際指標である北海ブレント先物相場は年初に一時、1バレル20ドル台後半に下落したが、4月には同40ドル台に上昇。10月に入って50ドル台に戻した。」

北方探索(間宮林蔵)

最上徳内は特定の好奇心あるいは民族的使命感による探検家でしたが、精密な北海道地図作成としては、1800年の伊能忠敬の測量があります。
彼は天文学の興味を満たすための測量でしたので、その後北海道に特別な関心を抱かずに全国地図作成に精出していた点では民族意識を基礎に身を捨ててでも頑張った最上徳内や間宮林蔵とは違います。
彼の日本全国の地図が有名ですが天文学を学んでいた彼が最初に測量したのは、蝦夷地でした。
伊能忠敬に関するウィキペデイアの記述からです。
第一次測量(蝦夷地)
測量の許可
忠敬と至時が地球の大きさについて思いを巡らせていたころ、蝦夷地では帝政ロシアの圧力が強まってきていた。寛政4年(1792年)にロシアの特使アダム・ラクスマンは根室に入港して通商を求め、その後もロシア人による択捉島上陸などの事件が起こった。日本側も最上徳内、近藤重蔵らによって蝦夷地の調査を行った。また、堀田仁助は蝦夷地の地図を作成した[104]。
至時はこうした北方の緊張を踏まえた上で、蝦夷地の正確な地図をつくる計画を立て、幕府に願い出た。蝦夷地を測量することで、地図を作成するかたわら、子午線一度の距離も求めてしまおうという狙いである[105]。そしてこの事業の担当として忠敬があてられた。忠敬は高齢な点が懸念されたが[106]、測量技術や指導力、財力などの点で、この事業にはふさわしい人材であった。
忠敬一行は寛政12年(1800年)閏4月19日、自宅から蝦夷へ向けて出発した。忠敬は当時55歳で、内弟子3人(息子の秀蔵を含む)、下男2人を連れての測量となった[114]。
9月22日に山丹貿易で書いたように、アイヌの交易拠点は樺太南端の集落・白主(しらぬし)会所に移っていました。
日本支配地確定には樺太測量が必須でした。
樺太といえば間宮林蔵です。
間宮林蔵の活躍は(上記伊能忠敬の蝦夷地測量時に現地で出会ったと言われるように)だいぶ時代が下りますが、それでも1840年のアヘン戦争よりはかなり前です。
以下間宮林蔵に関するウイキペデイアの記事を紹介します。
これによるとすでに文化4年・1807年に間宮林蔵が択捉島駐在時にロシア軍の襲撃を受けた記事が出ています。 
こうした事件記録から見ても択捉島がいわゆる北方領土が幕府支配下にあったことが分かります。
有名人の関与した事件であるから、こういう幕府の記録が歴史家の目に留まり引用され残っているのでしょうが、交渉ごとがうまく行かないとすぐ武力を振るう・・この種のロシアとの揉め事がしょっちゅうあったような印象です。
当時からロシアは、平和な話し合いがなりたたないクマを相手にしているような物騒な民族だった一端が記録になっているのです。
その翌年の樺太探検・間宮海峡の発見に繋がります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%93%E5%AE%AE%E6%9E%97%E8%94%B5
常陸国筑波郡上平柳村(後の茨城県つくばみらい市)の小貝川のほとりに、農民の子として生まれる。戦国時代に後北条氏に仕えた宇多源氏佐々木氏分流間宮氏の篠箇城主の間宮康俊の子孫で間宮清右衛門系統の末裔である。
当時幕府は利根川東遷事業を行っており、林蔵の生まれた近くで堰(関東三大堰のひとつ、岡堰)の普請を行っていた。この作業に加わった林蔵は幕臣・村上島之丞に地理や算術の才能を見込まれ、後に幕府の下役人となった。寛政11年(1799年)、国後場所(当時の範囲は国後島、択捉島、得撫島)に派遣され同地に来ていた伊能忠敬に測量技術を学び享和3年(1803年)、西蝦夷地(日本海岸およびオホーツク海岸)を測量し、ウルップ島までの地図を作製した。
文化4年4月25日(1807年6月1日)、択捉場所(寛政12年(1800年)クナシリ場所から分立。択捉島)の紗那会所元に勤務していた際、幕府から通商の要求を断られたニコライ・レザノフが復讐のため部下のニコライ・フヴォストフ(ロシア語版)たちに行わせた同島襲撃(文化露寇)に巻き込まれた。この際、林蔵は徹底抗戦を主張するが受け入れられず、撤退。後に他の幕吏らが撤退の責任を追及され処罰される中、林蔵は抗戦を主張したことが認められて不問に付された。
文化5年(1808年)、幕府の命により松田伝十郎に従って樺太を探索することとなり、樺太南端のシラヌシ(本斗郡好仁村白主)でアイヌの従者を雇い、松田は西岸から、林蔵は東岸から樺太の探索を進めた。林蔵は多来加湾岸のシャクコタン(散江郡散江村)まで北上するが、それ以上進む事が困難であった為、再び南下し、最狭部であるマーヌイ(栄浜郡白縫村真縫)から樺太を横断して、西岸クシュンナイ(久春内郡久春内村)に出て海岸を北上、北樺太西岸ノテトで松田と合流した。
「林蔵はアイヌ語もかなり解したが、樺太北部にはアイヌ語が通じないオロッコと呼ばれる民族がいることを発見、その生活の様子を記録に残した。松田と共に北樺太西岸ラッカに至り、樺太が島であるという推測を得てそこに「大日本国国境」の標柱を建て、文化6年6月(1809年7月)、宗谷に帰着した。調査の報告書を提出した林蔵は翌月、更に奥地への探索を願い出てこれが許されると、単身樺太へ向かった。
林蔵は、現地でアイヌの従者を雇い、再度樺太西岸を北上し、第一回の探索で到達した地よりも更に北に進んで黒竜江河口の対岸に位置する北樺太西岸ナニオーまで到達し、樺太が半島ではなく島である事を確認した。更に林蔵は、樺太北部に居住するギリヤーク人(ニヴフ)から聞いた、清国の役所が存在するという黒竜江(アムール川)下流の町「デレン[2]」の存在、およびロシア帝国の動向を確認すべく、鎖国を破ることは死罪に相当することを知りながらも、ギリヤーク人らと共に海峡を渡ってアムール川下流を調査した。その記録は『東韃地方紀行』として残されており、ロシア帝国が極東地域を必ずしも十分に支配しておらず、清国人が多くいる状況が報告されている。なお、現在ロシア領となっているアムール川流域の外満州はネルチンスク条約により当時は清領であった。
間宮林蔵は樺太が島であることを確認した人物として認められ、シーボルトは後に作成した日本地図で樺太・大陸間の海峡最狭部を「マミアノセト」と命名した。海峡自体は「タタール海峡」と記載している」
一般的に幕末の危機感の盛り上がりはアヘン戦争による清朝の香港割譲に日本がショックを受けたことに始まるような教育が普通ですが、アヘン戦争は1840年ですからそのおよそ7〜80年ほども前から・・西欧の侵略脅威よりもロシアの脅威対応のために幕府財政危機が先に起きていたことが、これまで見て来たことで分かるでしょう。
ロシアのことを江戸時代には「オロシア」という(語源的には中国で「オロス」と言っていたことに由来するらしいですが・・コジツケっぽい感じです)こと自体がロシアに対する恐怖心・・恐ろしや・・に引っ掛けた江戸人の洒落・俗語と見るべきでしょうか。
日本の思想界〜教育界、メデイアでは、ロシアの脅威が幕末危機を引き起こした直接の原因であった事実をできるだけ伏せて置こうとする偏頗な姿勢が顕著です。
これはコミンテルンによる思想界支配(メディアはソ連軍の満州侵入による言語に絶する人道被害をほとんど報道しません・・アメリカによる原爆投下その他空襲攻撃ばかりです)プラス薩長土肥・明治政府に都合が良い歴史教育の合作によるのかもしれません。
西南諸大名は西欧列強対策では身近だったので対応が進みましたが、対ロシア政策では何の功績もないから、明治以降の歴史教育は西欧列強対策に西南雄藩が優れていたか(蒙古襲来の教育もその一種です)ばかりにシフトして来たのです。

ロシアの脅威11(北方防備と幕府財政逼迫)

松前藩の上知は寛政11年(1799年)とのことですから、寛政の改革(1787年から1793年)で知られる松平定信失脚後のことになります。
その後を継いで(昇格して)老中首座になった松平信明は、(寛政の改革の)遺老と言われ定信の改革踏襲者として引退後の定信の意向に従ってやっていたので、いわばバックいる定信の英断によっていたことになります。
信明に関するウィキペデアの記述です。
「寛政5年(1793年)に定信が老中を辞職すると、老中首座として幕政を主導し、寛政の遺老と呼ばれた。幕政主導の間は定信の改革方針を基本的に受け継ぎ[1]、蝦夷地開拓などの北方問題を積極的に対処した。寛政11年(1799年)に東蝦夷地を松前藩から仮上知し、蝦夷地御用掛を置いて蝦夷地の開発を進めたが、財政負担が大きく享和2年(1802年)に非開発の方針に転換し、蝦夷地奉行(後の箱館奉行)を設置した[2]。しかし信明は自らの老中権力を強化しようとしたため、将軍の家斉やその実父の徳川治済と軋轢が生じ、享和3年(1803年)12月22日に病気を理由に老中を辞職した[2]。
信明辞職後、後任の老中首座には戸田氏教がなったが[2]、文化3年(1806年)4月26日に死去したため、新たな老中首座には老中次席の牧野忠精がなった[3]。しかし牧野や土井利厚、青山忠裕らは対外政策の経験が乏しく、戸田が首座の時に発生したニコライ・レザノフ来航における対外問題と緊張からこの難局を乗り切れるか疑問視され[3]、文化3年(1806年)5月25日に信明は家斉から老中首座として復帰を許された。これは対外的な危機感を強めていた松平定信が縁戚に当たる牧野を説得し、また林述斎が家斉を説得して異例の復職がなされたとされている[3]。ただし家斉は信明の権力集中を恐れて、勝手掛は牧野が担っている[3]。
文化4年(1807年)に西蝦夷地を幕府直轄地として永久上知した[2]。また幕府の対応に憤激したレザノフの指示を受けた部下のニコライ・フヴォストフ(ロシア語版)が単独で文化3年(1806年)9月に樺太の松前藩の番所、文化4年(1807年)4月に択捉港ほか各所を襲撃する事件も起こり、信明は東北諸藩に派兵させて警戒に当たらせた(フヴォストフ事件、文化露寇)[4]。またこのような対外的緊張から11月からは江戸湾防備の強化に乗り出し、砲台設置場所の選定なども行なっている[5]。
経済・財政政策で信明は緊縮財政により健全財政を目指す松平定信時代の方針を継承していた。しかし蝦夷地開発など対外問題から支出が増大して赤字財政に転落し、文化12年(1815年)頃に幕府財政は危機的状況となった。このため、有力町人からの御用金、農民に対する国役金、諸大名に対する御手伝普請の賦課により何とか乗り切っていたが、このため諸大名の幕府や信明に対する不満が高まったという[7]。
評価
松平定信にその才能を認められた知恵者で、定信失脚後は老中首座としてその改革精神を継承し、将軍・家斉の奢侈を戒め、その側近らの規律を正した逸話が伝わる[8]。ただ松平定信は信明について「発生した事柄には対処できる。しかし、長期的視野に欠けて消極的であるばかりか、決断力が乏しかったので、補佐する者がいればよかった。とはいえ、才能があって重厚でもあるので、今彼に勝る人はいない」と自らの日記に記している。一方で対外政策が30年も手遅れになったのは信明の責任であると評している[7]。
定信の近習番を務めた水野為長が市中から集めた噂を記録した『よしの冊子』によると、信明が老中を務めていた当時の政治は定信と信明、それに若年寄の本多忠籌の3人で行われており、老中の牧野貞長や鳥居忠意はお飾りに過ぎないというのが市中の評判であった。」
幕府は松前藩支配地を松前城の周辺付近を除いた蝦夷地を全面的に上知・・取り上げて直轄支配地にしていた様子を昨日紹介しましたが、今日は幕府側の動きの紹介です。
中学高校の日本史ではこの種の教育を全く受けませんでしたが(今では変わっているのかな?)古代の防人のように幕府は北方警備のため東北諸藩に出兵を命じていたことが分かります。
このため出兵しないその他の藩にも資金拠出を命じたこと(・・幕府財政赤字)が幕末諸大名の不満の下地になって行ったようです。
この辺は日本史の授業では出てきませんし、幕末西欧接近の危機感ばかり・薩長の活躍ばかりですが、ロシア対策によって財政支出・ひいては諸藩への負担協力を求めたことに対する不満が蓄積していたことが分かります。
将軍家の奢侈を戒める松平信明を将軍家斉は疎んでいたのですが、彼が病死すると好き勝手な奢侈に走り、いわゆる「化成」文化が花開きます。
財政危機のためにロシアに対する危機対応が不十分になっていたのに、家斉は逆ばり政治・奢侈に精出したことになります。
日本が世界に誇る浮世絵その他多様な文化爛熟期でしたが、背後から「怖いものが迫っているのを見ないことにしていた」時代であった・・これが幕府財政崩壊を早めたことになります。
西欧ではギロチンのつゆと消えたフランスのルイ16世や中国北宋最後の徽宗皇帝、わが国では室町幕府・政治を投げ出していた足利義政の東山文化を連想させられる動きです。
家斉政治に関するウィキペデア記述です。
「文化14年(1817年)に信明は病死する。他の寛政の遺老達も老齢等の理由で辞職を申し出る者が出てきた。このため文政元年(1818年)から家斉は側用人の水野忠成を勝手掛・老中首座に任命し、牧野忠精ら残る寛政の遺老達を幕政の中枢部から遠ざけた。忠成は定信や信明が禁止した贈賄を自ら公認して収賄を奨励した。さらに家斉自身も、宿老達がいなくなったのをいいことに奢侈な生活を送るようになり、さらに異国船打払令を発するなど度重なる外国船対策として海防費支出が増大したため、幕府財政の破綻・幕政の腐敗・綱紀の乱れなどが横行した。忠成は財政再建のために文政期から天保期にかけて8回に及ぶ貨幣改鋳・大量発行を行なっているが、これがかえって物価の騰貴などを招くことになった。」
「怖いものを見ない」ことにしても北から南から迫ってくる世界情勢・日本を取り巻く危機は変わりませんし、貨幣改鋳しても幕府財政赤字は変わりません。
たまたま9月10日と16日の2回千葉市美術館で開催中のボストン美術館所蔵の浮世絵・・鈴木春信(享保10年〈1725年〉 ?- 明和7年6月15日〈1770年7月7日〉)展を見てきましたが、可愛い子供や娘を大事にする江戸市民の気風が当時の流行絵画になっている・・鈴木春信の錦絵が最盛期を迎えたのは明和年間(1760年代末)のようです。
この錦絵によって庶民は江戸開府以来約百五十年以上に及ぶ平和の恩恵を享受している様子・・その後の浮世絵の本格 発展の萌芽を目にすることができましたが、その裏(一般市民はそんな物騒なことが遠くでおきているとは知る由もなく)で同時進行的に太平の世を脅かすロシアによる侵略の危機が遠くからヒタヒタと迫っていたことになります。
国防の基礎は自国の実態把握です。
まずは最上徳内から見ておきましょう。
以下アフィキペデアの記述です。
「実家は貧しい普通の農家であったが、学問を志して長男であるにもかかわらず家を弟たちに任せて奉公の身の上となり、奉公先で学問を積んだ後に師の代理として下人扱いで幕府の蝦夷地(北海道)調査に随行、後に商家の婿となり、さらに幕府政争と蝦夷地情勢の不安定から、一旦は罪人として受牢しながら後に同地の専門家として幕府に取り立てられて武士になるという、身分制度に厳しい江戸時代には珍しい立身出世を果たした(身分の上下動を経験した)人物でもある。」
「幕府ではロシアの北方進出(南下)に対する備えや、蝦夷地交易などを目的に老中の田沼意次らが蝦夷地(北海道)開発を企画し、北方探索が行われていた。天明5年(1785年)には師の本多利明が蝦夷地調査団の東蝦夷地検分隊への随行を許されるが、利明は病のため徳内を代役に推薦し、山口鉄五郎隊に人夫として属する。蝦夷地では青島俊蔵らとともに釧路から厚岸、根室まで探索、地理やアイヌの生活や風俗などを調査する。千島、樺太あたりまで探検、アイヌに案内されてクナシリへも渡る。徳内は蝦夷地での活躍を認められ、越冬して翌・天明6年(1786年)には単身で再びクナシリへ渡り、エトロフ、ウルップへも渡る。択捉島では交易のため滞在していたロシア人とも接触、ロシア人のエトロフ在住を確認し、アイヌを仲介に彼らと交友してロシア事情を学ぶ。北方探索の功労者として賞賛される一方、場所請負制などを行っていた松前藩には危険人物として警戒される。」
同年に江戸城では10代将軍・徳川家治が死去、反田沼派が台頭して田沼意次は失脚、田沼派は排斥される。松平定信が老中となり寛政の改革をはじめ、蝦夷地開発は中止となる。徳内と青島は江戸へ帰還。徳内は天明7年(1787年)に再び蝦夷へ渡り、松前藩菩提寺の法憧寺に住み込みで入門するが、正体が発覚して蝦夷地を追放される。徳内は野辺地で知り合った船頭の新七を頼り再び渡海を試みるが失敗、新七に招かれて野辺地に住み、天明8年(1788年)には酒造や廻船業を営む商家の島谷屋の婿となる。

ロシアの脅威10(ロシアの東進政策と水路)

21日紹介したピョートル大帝の記事で分かるように、和人の知らない間にロシアではすでに1600年代から黄金の国として知られる日本との通商を目的に(とは言っても勇猛なコサック騎兵を先頭にした武力による露払いで)東進を進めていたことがわかります。
スペインがアフリカ廻りあるいは中東経由でのアジアとの交易ルート以外・・逆張りの着想での大西洋廻りでインド到達を目指したように、ロシアは海路では遠すぎて英仏蘭などの海洋先進国家にはとてもかなわないので陸路を利用して日本への直接到達を目指していたことになるのでしょうか?
日本にとっても裏(背後)からいきなりやってきたロシアの脅威(9月18日に書いたように日本列島の防衛政策は伝統的対馬と琉球諸島方面からの脅威対処が中心でした)は想定外のことだったでしょう。
・・アイヌ人にとってはロシア人が普通の善良な通商相手であれば、交易相手が新たに出てきただけのことだったでしょうが、善良な交易相手ではなかったから警戒して保護者である松前藩に通報したのではないでしょうか。
北海道北辺に出没するようになったロシア人(といっても勇猛な戦闘集団コサック人を先頭に未知の大地を切り開く目的でやってきたものです)は元々通商に適した民族ではないことから、今風に言えば凶暴な熊のようで脅威だったでしょうから、1700年初頭ころには松前藩には・・・こういう人たちが来るようになって「怖い」という苦情が通報されていたのでしょうか?
ロシアのシベリア進出に関しては、http://www001.upp.so-net.ne.jp/dewaruss/on_russia/siberia.htmに詳しく紹介されています。
ロシ贔屓的紹介文ですが事実を詳しく知ることができます。
これによるとコサックの東進がスムースに進んだのは、現地はまだ毛皮交易に頼る(農耕民のような定住性のない)住民しかいなかった・・自給自足できなかった結果、現地人はロシアの領土野心を全くに気にしなかった・・交易保障の対価・さえ低ければ誰でもよかった・イメージが伝わってきます。
たまたまモンゴル解体後の中央アジア諸国・ジュンガル汗国・これを滅ぼした清朝支配の方が苛烈であったというか、後出しジャンケンみたいで、それより有利な条件をだせばいいので有利でした。
実際最重要交易品であった毛皮の最終需要地は当時西欧諸国でしたから、清朝や他の中央アジア諸部族よりは、ロシアは西欧に直結していて取引上の情報その他有利な位置にありました。
コサックは武装集団であっても戦争で勝って支配を広げるための大軍ではなく、水路沿いに少しずつ橋頭堡を築いて行った・・古代の商人のように水路沿いに下って行きそこで交易しては市のような集積地を確保していくやり方で軍事力は防衛に徹して軍事支配を顕在化しなかった関係で軍事力で現地人が寄り付きやすくしたのが成功の秘訣のようです。
上記紹介文を読んで驚くのは、コサックの隊長が遠征したという程度の知識しかない時には、ロシアの戦車隊のイメージと合わせて陸路の遠征とばかり想像していましたが、上記によるとシベリアの大河は下流では千キロ単位で離れていても源流に遡ると両川の距離はわずか10キロ程度しか離れていないと書いているのには驚きました。
高低差のほとんどないシベリアでは、源流に遡るといってもさしたる苦労がないし、しかも源流に着いてからでも、日本の源流と源流の間のように間に峻険な山(分水嶺)があるわけではないというのです。
コサッックのイメージ=騎馬民族による征服?イメージと違い水路利用による移動であったというのです。
ナポレオン戦争やナチスとの攻防戦あるいはノモンハン事件等を通してみるとソ連=陸軍国のイメージがすり込まれますが、海洋では外洋に面していない分、英仏蘭に遅れを取っていましたがシベリアを水路移動していった点で同じだったのです。
このように平和裡に進出して行ったので、せっかく武力でジュンガル支配を奪った清朝の支配を次第に崩していき最後は黒竜江の両岸で支配地を分けるネルチンスク条約になっていくようです。
上記によるとロシアの東進政策は無理しない・・穏健な浸透方式・・「こちらの水は甘いぞ!」と地元民の支持を得て行くやり方ですが、なぜアイヌの人たちはこれを脅威として松前藩に庇護を求めたのでしょうか?
一つには、エミシ〜エゾの歴史で分かるように、エゾ地の人たちは本州から鉄・食料衣類その他の必需品の供給を受けて代わりに河川での獲物・北海でしか取れない漁獲物(ニシンや昆布など)や毛皮の交換で成り立っていた(和人との交換品を入手するために山丹交易をしていたに過ぎない)ので、ロシア人に西欧へ交易仲介をしてもらうメリットがなかったことが大きかったのかもしれません。
大河の源流・分水嶺を上記に書きましたが、山丹交易圏に入ると最終消費市場が西欧ではなく清朝や日本列島にあったからロシアの出番がなかったからでないかと思われます。
山丹貿易に関するウィキペデアの記述です。
「山丹人は、清朝に貂皮を上納する代わりに下賜された官服や布地、鷲の羽、青玉などを持参して樺太に来航し、アイヌは猟で得た毛皮や、和人よりもたらされた鉄製品、米、酒等を、山丹人が持ち込んだ品と交換した。また、アイヌの中には山丹交易をするばかりではなく、清朝に直接朝貢していたものもいた。
アイヌと松前藩との交易は、もともとは松前城下において行われていた(城下交易制)。1680年代に商場知行制に移り、松前藩の交易船が行き着く蝦夷地最奥の宗谷(現在の北海道宗谷支庁)において樺太アイヌを介して行われていた。宝暦年間(1751年 – 1763年)になると樺太南端の集落・白主(しらぬし)会所に交易船を派遣し、寛政3年(1791年)より交易の場所は宗谷から白主に移った。」
出番がないと鷹揚に構えていられない・強制的に今でいう関税などを徴収しようとなりますので、原住民は何で鞘抜きされるのかと不満が出ます。
不満が出ると武力が前面に出るので、松前藩に対する通報になっていったのでしょう。
山丹貿易関係者にとって、ロシアの進出が歓迎されていなかった・ロシアの方が条件がよければ松前藩の方が外されるようになったでしょう。
松前藩に関するウィキペデイアによる記事では以下の通りです。
もう一度一部引用しておきましょう。
「18世紀半ばには、ロシア人が千島を南下してアイヌと接触し、日本との通交を求めた。松前藩はロシア人の存在を秘密にしたものの、・・・」
「秘密にしたものの」とは、都合の悪い事実があったことを前提にした書き方です。
都合が悪いのは武断外交・・強引に押してくるロシアの圧力を押し返せない不甲斐ない実態を幕府に知られたくない心理があったからでしょう。
上記の通り松前藩は幕府に報告しなかったものの(商品流通がある以上隠しきれません)幕府に知るところとなり、幕府直接調査の結果強面で押してくるロシアとの交渉を武力の裏付けのない・・1所懸命に裏打ちされた武士ではない・戦国時代の経験のない松前藩に委ねるのは無理と判断したのでしょう。
松前城下周辺・渡島半島のうち松前半島南部?以外を全部(領域の9割以上?)取り上げるとはかなり思い切った政策ですが、こんな大胆な政策を実行した為政者の豪胆さ・・思い切りの良さに驚きます。
松前藩は内地のその交易支配権でしかなく、没収といっても役職取り上げに似ていて、先祖伝来の大名の領地没収とは意味が違いますが、先祖伝来の既得権取り上げですから、それだけの切迫した危機があったからでしょう。
今でも漁村に不法上陸して来た場合、漁村だけでは対応出来ない・・一般人の不法上陸なら警察対応ですが、軍艦の侵入の場合にはもっと上位機関の対応が必要になるように、これを大規模にした関係です。
幕末ロシアの対馬侵攻時に幕府直轄事業にしないと地方の弱小藩任せではまともな対応が出来ないという外国奉行小栗の意見はこの例によったのでしょう。

ロシアの脅威9(幕府の認知と海国兵談)

林子平の海国兵談がいつ書かれたかに関するウイキペデイアの記事です。 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E5%9B%BD%E5%85%B5%E8%AB%87
1738年に生まれた林は洋学者との交流を通じて海外事情について研究を行い、ロシアの南下政策に危機感を抱き、海防の充実を唱えるために本書を記した。江戸幕府の軍事体制の不備を批判する内容であったために出版に応じる書店がなかった。このため、天明7年(1787年)に自ら版木を作成して第1巻を刊行し、寛政3年(1791年)に全巻刊行を終えた。直後の寛政の改革によって版木を没収されてしまったものの、自写による副本を秘かに所持していたため、後世に伝わることとなった。」
林子平の海国兵談は1787年の自費出版ですから、思いついていきなり高度な本を書けませんし、先ずそのような関心・意欲を抱くには、そのだいぶ前からロシアに対する危機感を抱いていた人がかなりいてその影響を受けていた(洋学を通じて西欧系のロシアに対する危機意識の影響を受けていた可能性もあります)・・本を書かないまでも、相応の先達がいた可能性があります。
北海道網走根室宗谷方面は、当時の徳川政権にとって滅多に情報のない遠方ですから(林子平は仙台藩藩医であった兄の居候でした)本土にいる学者(当時学者という職業がありません)が危機感を抱くには、その前に相当の情報が広がっていたことになります。
ウィキペデイアの松前藩によれば以下の通りです。
「当時の北海道では稲作が不可能だったため、松前藩は無高の大名であり、1万石とは後に定められた格に過ぎなかった。慶長9年(1604年)に家康から松前慶広に発給された黒印状は、松前藩に蝦夷(アイヌ)に対する交易独占権を認めていた。蝦夷地には藩主自ら交易船を送り、家臣に対する知行も、蝦夷地に商場(あきないば)を割り当てて、そこに交易船を送る権利を認めるという形でなされた。松前藩は、渡島半島の南部を和人地、それ以外を蝦夷地として、蝦夷地と和人地の間の通交を制限する政策をとった。江戸時代のはじめまでは、アイヌが和人地や本州に出かけて交易することが普通に行なわれていたが、次第に取り締まりが厳しくなった。」
「18世紀半ばには、ロシア人が千島を南下してアイヌと接触し、日本との通交を求めた。松前藩はロシア人の存在を秘密にしたものの、ロシアの南下を知った幕府は、天明5年(1785年)から調査の人員をしばしば派遣し、寛政11年(1799年)に藩主松前章広から蝦夷地の大半を取り上げた。すなわち1月16日に東蝦夷地の浦川(現在の浦河町)から知床半島までを7年間上知することを決め、8月12日には箱館から浦川までを取り上げて、これらの上知の代わりとして武蔵国埼玉郡に5千石を与え、各年に若干の金を給付することとした。」
文政4年(1821年)12月7日に、幕府の政策転換により蝦夷地一円の支配を戻され、松前に復帰した。これと同時に松前藩は北方警備の役割を担わされることにもなった。嘉永2年(1849年)に幕府の命令で松前福山城の築城に着手し、安政元年(1854年)10月に完成させた。日米和親条約によって箱館が開港されると、安政2年(1855年)2月22日に乙部村以北、木古内村以東の蝦夷地をふたたび召し上げられ、渡島半島南西部だけを領地とするようになった。代わりに陸奥国梁川と出羽国村山郡東根に合わせて3万石が与えられ、出羽国村山郡尾花沢1万4千石を込高として預かり地になった。
松前藩がアイヌからのロシア情報を幕府に報告しなかったものの、幕府の知るところとなって調査団が派遣されたのは1785年からであり、上知を命じられたのは1799年のことですから、海国兵談発行(1785)は幕府の調査開始とほぼ同時です。
彼の著書発行計画が契機となって幕府の調査が遅れて(慌てて)始まった可能性もあります。
松前藩が隠していても幕府にバレたのは、北前船または東廻船の普及・・松前藩を窓口とする交易の活発化にあると思われます。
ウィキペデイア記載の北前船の始まりと寄港地は北海道に限定すると以下の通りです。
「例年70,000石以上の米を大阪で換金していた加賀藩が、寛永16年(1639年)に兵庫の北風家の助けを得て、西廻り航路で100石の米を大坂へ送ることに成功した」
これが北前船の走りだそうです。
その後んどんどん発達して一大動脈になります。
北海道では箱館、松前、江差、熊石、上ノ国(以上渡島国)、紗那、泊(以上千島国)、根室(以上根室国)、厚岸、釧路(以上釧路国)、様似、門別(以上日高国)、苫小牧、室蘭(以上胆振国)、小樽、余市、寿都(以上後志国)、久春古丹(以上樺太)
ただし、上記は明治30年頃まで盛んであったころの完成形の寄港地であって、いつ頃から千島や根室,樺太まで行くようになっていたのか私にはわかりません。
各地の郷土史関係のホームページに入れば分かるのかもしれませんが今日はこのくらいにしておきます。
冒頭に紹介したように松前藩は本州の大名のように農業収入によらずに蝦夷地と和人との交易仲介で藩財政が成り立っていたのですから、上記のような本格的航路開設の前から通商窓口になっていたので、おのずから各種情報が内地に漏れ出る関係にあったでしょう。
「ロシア人が根室にきて暴れた」などの新聞や文献情報があったとは思えない・・林子平の著書が最初とすれば・知識階層では新たに出現して粗暴な行動に走る傾向のあるロシアに対する口コミ?情報が集積され関心が高まっていたのでしょう。
彼が仙台にいて北海道更にその先の千島列島との境付近の情報を得てから、危機感を持ち、さらにそれを著作にするまでには、10〜20年単位の時間差があったように思われます。
(松前に行ったのは、物見遊山に行って偶然知ったのではなく、危機情報に触発されて現地を実地に見るべく行ったと見るべき・・危機情報の具体的収集目的で行ったものと思われます)
林子平の人となリは以下の通りです。
https://docs.google.com/document/d/1B_k-2lcstvNhZWWRqkWpEo0Evf1mJlU7NLjlDEZOEak/edit
子平はみずからの教育政策や経済政策を進言するが聞き入れられず、禄を返上して藩医であった兄友諒の部屋住みとなり、北は松前から南は長崎まで全国を行脚する。長崎や江戸で学び、大槻玄沢、宇田川玄随、桂川甫周、工藤平助らと交友する。ロシアの脅威を説き、『三国通覧図説』『海国兵談』などの著作を著し「およそ日本橋よりして欧羅巴に至る、その間一水路のみ」と喝破して当時の人びとを驚かせた。」
上記の通り1787年出版の仮に10〜20年以上も前から現地人が怖がっている情報を得た可能性があります。
1738年生まれの林子平が成人した頃の1760〜70年ころには、以下のピョートル大帝の時代から約7〜80年も経過していることを見れば、すでにロシア人が武力を背景に樺太〜北海道付近に頻繁に出没してアイヌの人がかなり困っていたから松前藩に通報があったのでしょう。
アイヌ人はもともと日本列島を根拠地としながら北方系・・千島列島やシベリア〜満州北部〜今の沿海州方面との交易を行なってきた平和的種族です。
・・・この辺の事情は15年ほど前に函館市内の美術館を見学して知った知識をこのコラムで書いたことがあります。
アイヌはシベリア方面の異民族との接触に慣れているはずですが、そこに従来型暗黙のルールでの交易無視の暴力主体のロシア系集団が現われたので松前藩に相談するようになったのでしょう。
ロシア史から見れば以下の通りです。
http://www.y-history.net/appendix/wh1303-004.html
「ロシアはシベリアを東進、17世紀中ごろピョートル大帝の時、黒竜江(アムール川)を下って沿岸に城塞を築いた。その頃、康煕帝のもとで全盛期を迎えていた清王朝は、ロシアの南下に反撃し、1689年両国はネルチンスク条約を締結した。清がヨーロッパの諸国と結んだ最初の条約である。この条約で清は外興安嶺までの黒竜江左岸を確保した。
 ついで雍正帝の時、1727年のキャフタ条約で、中央アジア方面のロシアと清の国境を確定した。 → ロシアの南下」
ピョートル大帝については以下の通りです。
http://www.y-history.net/appendix/wh1001-148.html
「また東方ではシベリア進出を推し進め、清の康煕帝との間で1689年にネルチンスク条約を締結し、国境を確定した。また1697~99年、コサックの隊長ウラジーミル=アトラーソフにカムチャツカ探検を命じ、日本との通商路を探った。晩年にはベーリングを派遣してカムチャツカ、アラスカ方面を探検させ、ベーリングはアラスカに到達した。」
以上によると、1600年代末から、太平洋に到達していたこと・進出を果たしていたことが分かります。

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