フェイクニュース2と編集権1(加計問題国会報道2)

昨日長々と引用紹介したとおりの国会質疑があったかについて私は(ユーチューブで少し質疑を聞いたくらいで時間の制約もあって)正確に知ることはできません。
ましてテレビをここ何十年も(旅行中ホテルで見るくらいで)まとまった時間みたことがないので、NHKがどの程度不公平に報道したかも知りません。
ただユーチューブで国会中継を見聞きしていたかぎりでは、前川氏が根拠なく「首相の意向と思った」と言う趣旨の「言い切り」をしていただけ・・これでは、前後の参考人意見と比較すると前川氏が個人的にあるいは一定の政治的立場を背景に「私は思った」だけという開き直りに終始したとしか私には聞こえませんでした。
ただしこの後で書きますが、これを聞いた当時石破4条件(今回の騒動は石破氏が黒幕ではないかという疑念で初めて一般に出てきたことです)の存在自体を知らなかったし、しかもそれが15年秋頃に閣議決定を経ていること・・それがその後の戦略特区指定によって過去の規制がどのように変化し(取り払われ)ているかも知りませんでしたから、何も知らないで見ているとそのように思うというだけのことです。
政治については国民の9割方が私のように(報道解説がない限り)前提事実が分からないで聞いたり見たりしているのですから、メデイアはまず基礎事実を時列的に広報しておく他に、(1〜2週間前に新聞等で書いていたとしてもきっちり記憶出来る人はいないので)議論の都度気になる人は即時に時系列をチェックし直せるような主たる記事の脇にワンクリックで引き出せるようなボタンを用意しておく必要があるでしょう。
私が報道機関幹部であった場合に、上記(前提知識のない)私の個人的受け取り方に従って、「根拠なく前川氏言い張る」という放送を繰り返した場合、一方の立場の報道になります。
同じやり取りを聞いても受け取り方は視聴者それぞれでしょうが、それをそのまま編集せずに報じてこそ国民が自分の経験や知識を前提に自由に判断できるのです。
私がこのシリーズで言いたいのはメデイアが事実をそのまま報じない(・・前提事実の開示をしないで、素人には複雑な過程を理解できないという前提で結論だけ教えてやる姿勢)で自己の主観的立場によって、好きなように編集(変集?)してしまって良いかの疑問です、
いわゆる台湾訴訟でNHKを勝たせた編集権の問題ですが、言論の自由とはいえ公共電波を使う以上は政治立場中立性の要請を勘案しての限界があるべきではないでしょうか?
NHKスペシャルに関する第1審判決はウイキペデイアよると以下のとおりです。
判決の他に経緯や双方の主張をかなり詳しく書いていますので関心のある方は直接当たってください。。
https://ja.wikipedia.org/wiki/NHK%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AB_%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BA_%E3%80%8CJAPAN%E3%83%87%E3%83%93%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%80%8D
第1審
第1審は3年続いたが、2012年12月14日、東京地方裁判所は原告側敗訴の判決を言い渡した。それによると「番組の編集はNHKに委ねられており、恣意的な編集はなかった」などとし、原告側の台湾人の「NHKに取材を受けたが発言をねじ曲げられ、期待と違う内容が放送された」に対しては「番組内容への期待は法的に保護されない」としたうえ、「祖先を動物扱いされた」とする台湾人の主張に対しては「歴史的事実として紹介しただけで、原告の名誉を傷つけたとはいえない」と判断している。またNHKは公平な放送をする義務があると訴えた視聴者らの主張についても「視聴者ら個人に対する義務は負わない」としており、全面的に原告側の主張は退けられている[61]。
慰安婦騒動を大きくした吉田調書の著者が、事実確認の取材に対し「作家の書くのはフィクションに決まっているじゃないか!」という趣旨を言い張っていたことが知られていますが、日本兵の残虐さをテーマにする映画その他何をいくら広めても表現の自由と言い切るべきかを検討することが必要な時代が来ています。
意見ならば、事実に基づかなくとも良いのではなく意見にも合理的根拠事実を付記すべきではないでしょうか?
そして引用した事実が虚偽である場合、相応の処罰規定が必要です。
吉田調書はフィクションを「調書」として事実であるかのような表現をした点が犯罪的です。
アンネの日記だってイザとなれば「フィクションで何が悪い!」と逃げられる仕組みです。
少なくともメデイアが報道する場合には影響が大き過ぎるので、意見を報道する時には前提事実を上げる義務を課すべきです。
編集権とは何か?ですが、メデイアや文化人によれば表現の自由を錦の御旗として不可侵の権利であるかのような解釈が幅を利かしています。
表現の自由には名誉毀損等の限界がありますが、メデイアの場合にも名誉毀損その他法令違反さえなければ、一方的な切り貼り報道をしても表現の自由として許容されるかのごときです。
個人間の場合意見が合わなければ相手にしない・付き合わなければいいのですが、メデイアの場合には一方的に垂れ流してくることもあって視聴しなければいいだろうとは行きません・影響力が大き過ぎます。
またそれを正しいものとして自己の脳内思考・立論の基礎にしたり引用する人や機関が増えるので、影響力が半端でありません。
私で言えばこのコラムを書いているとある事件について、いつころでどういう内容だったかと確認のためにネット検索するのが普通です・・上記NHKスペシャル騒動があったことを知っていましたが、いざ書こうとするといつのことかすら記憶していないのでネット検索して引用しています。
編集権あるいは表現の自由があるとしても、上記のとおり前提事実の開示を義務付けらば、前提事実から乖離した編集では批判を受けるので自ずと抑制が効くはずです。
もともと編集権という概念はGHQが自分は内密に検閲し占領政策貫徹のための報道を強制しておきながら、占領政策に不都合な意見報道をさせないように・・占領軍に都合の良い一方的報道に対する(朝鮮人の悪行や占領軍の違法行為を報道しないのかという)苦情が来たら報道の自由・編集権があると言わせるために言い出したことによるらしいです。
世界中で行なって来た米国の偽善行為の一端を示す歴史事実の一つです。

メデイア誘導・フェイクニュースの限界1(加計問題国会報道)

昨日の引用記事の続きです。
少々長くなりますが、NHKが報道の自由と称して肝心の重要発言を報道しない・・一定方向に向けた切り取り報道の常態化・・を明らかにするためにほぼ全文を引用しておく方がわかり良い・これを見る人によってNHKの方が逆に正しいという意見もあるでしょうから・公平のために以下長くなりますが引用しておきます。
私にはどちらの方が都合よく切り取り紹介しているかはわかりませんが、こういう批判が起きているという紹介です。
JBpress
森 清勇1日前
「審査では与党側が獣医学部に関わる実情を内外の視点から質し、長年の間誘致に関わってきた愛媛県前知事の加戸守行氏は「岩盤規制で歪められた行政が正された」と話し、ワーキング・グループ座長の八田達夫氏は事業主体の選定過程においては「一点の曇りもない」と発言した。
 しかしNW9では、「行政が歪められた」と語ってきた前川参考人はしばし登場したが、「行政が正された」とする参考人たちの発言はほとんど報道されず、首相と友人のゴルフや会食の多さから疑惑は深まったとする見方に重点を置いた報道であった。
「総理の発言」云々は既得権益優遇者の発想
野党は7割の質問時間を配分されたが、安保法案などの審議と同じく問題の本質に迫る質問はほとんどしなかった。他方、与党の小野寺五典委員(24日)や青山繁晴委員(25日)は、問題の核心に迫る質問から「疑惑」と言えるのかを引き出そうとした。
 小野寺委員は「加計という具体的な話はあったか」と聞き、前川参考人は「首相と加計氏が友人であることを知っていた。加計学園が希望していることも知っていた」ので、「『総理は自分の口からは言えない』は加計学園のことだと確信した」などを引き出した。
 また、和泉洋人首相補佐官からは「岩盤規制改革を全体としてスピード感をもって進める旨の指示を(首相から常々)受けていたので、その旨伝えたが、『総理の口からは言えないので私が代わりに言う』とは言っていない」ことを確認した。
また、前川氏が上司の大臣や下僚の局長などに「行政が歪められますよ」などと語っていないことを確認したうえで、「この問題で行政が不当に歪められたかというと、必ずしもそうではない。むしろ岩盤規制に穴をあける努力が行われたということであり、加計は前川参考人の心の中にあったのではなかったか」と纏める。
 そのうえで、実際に岩盤規制と戦った八田参考人に「これまでの一連の質疑応答を聞いて、行政が捻じ曲げられたと感じたか」と質す。
 八田氏は岩盤規制がいかに強く働いているかについて言及し、「国益の観点ではなく既得権者の自己益を守るために存在するもので、今回の決定で「不公平な行政が正された」と証言した。
続けて、「獣医学部の規制は利権と密接にかかわっており、成長分野を阻害している。規制に穴をあけた今回の一連の過程で、総理の方針に言及しても何ら問題はない。その発言を特定の事業者を優遇する意向と受け取ったとすれば、自身が既得権益を優遇してきた人でなければ思いつかない論理じゃないかと思う」と、前川氏の証言が問題だというニュアンスの発言で結んだ。
細かいことを総理に聞いても無理だ
青山委員は24日における前川氏と他の参考人の発言を確認したうえで、前川氏以外は「加計」という言葉は誰一人使っていないと指摘する。
 そして、「加計ありきで決まってしまっているというのは前川氏本人ではないか。加計ありきは前川氏の胸のなかにある。これを一般的な言葉で言えば、『思い込み』という」と締めくくる。
NHKが本質にかかわる問題で報道したのは、加戸氏の「安倍総理との何十回にわたる会合を通じて加計の『か』の字も聞いたことはないし、私自身も申し上げたことはない。特区申請以来、悲願10年の手前で『白紙に戻せ』という議論が出ていると、またあと10年待たされるのかなと。それは日本国家としての恥だと思っている」という発言だけであった。」
NHKは「国民が求めているのは丁寧な口調ではなくて、確たる記憶、動かない証拠、丁寧な説明内容です。1月20日を守るために過去の答弁を修正していくという手法は丁寧な答弁だったとは思わない」と発言した蓮舫委員をはじめ、野党委員の発言を多く取り上げて報道した。
 また、「こんな場面もありました」として、山本幸三地方創生担当大臣が「細かいことを総理にお尋ねしても無理だと思います。それは私が担当しているわけで、私に聞いていただければと思います」と発言したことに関わる部分を報道した。
 質問していた櫻井充委員(民進党)は「そんな小さなことってどういうことだよ、(大臣が、手や頭を横に振りながら言ってないよと否定するが)言ったよ今。そんな小さなことは総理が答弁することじゃない。失礼だ、もうあなたは答弁結構だ。時間の無駄だから出て来るなよ」と、色を成して相手を言い捨てる場面を放映した。
櫻井委員の方が勇み足であることは、大臣の発言を確認すれば簡単に分かる。大臣は「細かいこと」とは言っているが「そんな小さなこと」とは言っていない。櫻井委員が自分の聞き間違いに自分で激高する、言うなればスタンドプレーであるが、NHKはこれを注釈なしに流し、「審議はしばしば中断された」とも述べた。
 視聴者は、大臣の答弁姿勢に問題があるかの如く受け取るのが一般であろうし、そうした印象操作と言えなくもない。
閉会後のインタビューでも、前川参考人の「真相究明のためにもっと時間が必要ではないか」という発言や、野田佳彦民進党幹事長の「疑惑は深まった」という発言を流したが、中立的な立場で取り仕切ってきた八田氏の「一点の曇りもない」には触れなかった。
報道されなかった本質論議
獣医学部の新設規制は法律で決められたものではなく、文科省が告示で決めているものだ。文科省が農林水産省や日本獣医師会の政治力を受けて、雁字搦めの「告示」にしている状況も浮き彫りになった。
 獣医系大学の立地状況をみると、現在16カ所、定員930人に設定されており、獣医師の不足から定員40人の2割増し50人前後を受け入れている大学もあるという。また、8割が東日本にあり、西日本には2割で四国にはない。小野寺委員は、まずこの問題について参考人に質問した。
 加戸氏は「私は10年も前から当事者であり、10年後、安倍首相にあらぬ嫌疑がかけられていることを晴らすことができればと思う」と心情の吐露から始めた。
そして、愛媛県には学園都市構想があり、高等教育機関の誘致を行ってきたが失敗の連続であった。その後、鳥インフルエンザや口蹄疫が発生し、また米国では狂牛病なども生起した。こうしたことからも国際的に胸を張れる獣医学部の新設を考えたという。
 リップサービスなどはあったが、なかなか来てくれない。「黒い猫でも白い猫でも獣医学部を作ってくれる猫が一番いい猫」で、話に乗ってくれたのは加計学園だけであったと語る。その過程においては安倍首相の友人である加計学園の「か」の字も出たことがないと断言した。
 文科省に獣医学部開設の件を依頼に行ったが、農水省がうんと言わない、獣医学界がうんと言わないので文科省だけでは何ともできない、と言われた経緯などにも証言が及んだ。
文科省の後輩には国が求めているもの、世界が求めているものを考えてくれ。アメリカでは感染症、遺伝子操作など新しい獣医学部を作っているぞ、道州制で四国州ができれば、(日本を捨てて)進んでアメリカの51州になるぞと、強い言葉で言ったこともあるなど回想した。
 現に米国ではテネシー州、テキサス州、アリゾナ州など、獣医学部の空白地域にどんどん設立されていることを紹介したうえで、「こうした近未来の国際社会における情勢を見ながら大臣に食ってかかって、(硬直した行政を)直しましょうという役人になってほしい」と、苦言を呈する場面もあった。
続いて八田座長が、加計学園に獣医学部新設を認めるまでの経緯について説明し、「(首相が)特定の事業者を優遇して欲しいという意向を示されたことはない。新潟市の提案を前提に議論してきたことからも分かる」と述べ、また、「1校のみ(に絞ったこと)が首相の関与ではないかという疑念を生んだ。しかしこれは獣医師会の政治家への働きがけで1校となった」もので、首相の関与の余地がなかったことも明言した。
 以上の経過から、「決定のプロセスには一点の曇りもない」と断言し、また「4条件は満たされている」とも語った。
さらに追加的に、岩盤規制がいかに強く働いているについて言及し、国益の観点ではなく既得権者の自己益を守るために存在するもので、今回の決定で「不公平な行政が正された」とも結論付けた。
 加戸氏と八田氏の発言は、誘致と規制の現場で辛酸をなめてきたからこそ語ることができた証言であり、今回の疑惑を解く有力な示唆を与えるものであったが、NHKが報道することはなかった。
 産経WEBニュース(7月27日)によると、元財務省官僚の高橋洋一氏は7月25日、愛媛「正論」懇話会で講演し、「文部科学省にはいろいろな許認可があるが、『告示』という省内の規則で獣医学部の新設は『申請を受け付けない』としてきた。これにより、新設は50年間ストップしてきた。(中略)この告示を問題視した規制改革委員会が平成17年に文科省に対し説明を求めたところ、『挙証責任は委員会側にあると、理屈の通らないことを言ったのが、課長時代の前川喜平・前文部科学事務次官だった』」と紹介している。」

ハングルの普及と漢字放棄

高度な熟語は専門家だけがけ分かればいいという政治姿勢について続けます。
政治は政治家だけで通じる専門用語で議論すれば良い・素人・国民は議論に使われている言葉すら知る必要がないと言うのは、いわばヤンパン・エリート支配の復活を目指したものというべきでしょう。
専門用語は専門家だけが知ればいいという思想によれば、例えば国会論争は政治家同士が素人には分からない専門用語を駆使して論争しているのだからプロの政治家に任せておけばいい・・という方向になります。
民主国家ではそうも行かないのでメデイアには報道する必要がありますが、メデイアはそのまま伝えてもどうせ素人には分からないという圧倒的世論の社会ではどうなるでしょうか?
・・我が国の例・・例えばTPP交渉であれば、どう言う論争があって、A論B論C論のそれぞれの意見によればこのようになるとか、どう言う利害があるかの具体的報道を怠り(あえてしないで)「農業を守れ」とか「売国奴」とかの感情論の報道で一定方向へ世論誘導するのが簡単になります。
我が国の知識人?はエリート意識が拠り所ですから、素人は文化人?の主張を感心して聞いてればいいという図式を重んじています。
なにかあると「文化人?」多数の署名意見発表とか、共謀罪法や集団自衛権論では「危険だ」「近代法に反する」とか「戦争法案」という抽象論(アジテート)ばかりで、具体論を一切言わない奇妙さを何回も書いてきました。
メデイアも法案の具体的内容を一切あるいは殆ど報道しないで、いつも審議時間が少ない、議論が足りないと強行採決はどうのというムード的批判報道ばかりです。
憲法学者や法律家の声明ですら殆ど内容に触れないで戦争法案反対というばかりです。
権威主義社会の韓国では大学教授という肩書きの威力がすごいと言われますが、日本でも革新?系はこれが好きで憲法学者連名の声明文発表など肩書き重視です。
文化人?やメデイアでは、「安倍政権を倒す」という目標では一致していますが、そのために政策論争を挑まずスキャンダル探しに狂奔しているのは、(レベルの低い)国民には政治論など分かるはずがない」という一方的決め込みが前提らしく、答弁が下手だと言っては政治責任を問い、スキャンダルや癒着ならば愚昧な庶民でも分かるという仕掛け・・森友・加計学園などムード報道ばかりで政権を追い込んでいます。
メデイア合作の強みで安倍政権と自民党支持率が激減したと報道されましたが、国会追及で頑張ったはずの民進党支持率はさらに下がって党存亡の危機になっている結果を見れば、国民は本当の政治論争を望んでいることが見て取れます。
日本国民はレベルが高いので、政治家には日本がどうあるべきかの政治論を戦わせているところを聞かせて欲しいのですが、メデイアと民進党はこれを一切しません。
国会中継でも大事な政策論議を一切報道しない偏り方です・・獣医学部新設の必要性に関して今回の癒着報道の10年以上前から岩盤で進まなかったというのですが、どこのメデイアがスキャンダルと関係のない段階で純粋な政策論として報道していたのでしょうか?
大臣の答弁が下手だとか、揚げ足取りになるとすぐに過熱するするメデイアのあり方・・これが政治・国会論戦の主要テーマであるかのようなメデイアのムードづくりに多くの国民は誘導されて(テレビ等のコメンテーターが「こんなのおかしいよね」という話題を垂れ流している・・これがトレンドならば、自己保身上「先ずは同調しておこう」という空気で政権支持率が下がっていますが、それと政治家に求めるものは別・・国民を馬鹿にしている本質を国民に知られてしまったのです。
支持率低下と言ってかけ学園問題の政府説明に納得しますか?と聞かれた後で政権支持の有無を聞かれると政府説明に納得しない人は支持しない方向へ答えが来るような仕掛けになります。
説明不十分と思っているが、それと政権支持と関係ない・自分は政策本位で決めると言い難い流れを作って強引に支持率を決めつけていく流れです。
こんなまやかしの加工報道をアテにしているから、旧社会党は消滅し民進党は無くなりそうになっているのです。
政権を競うならば政策論争で国民の審判を仰ぐべきです。
スポーツその他すべて競技(五輪競技場の設計審査も)の勝敗(芸能人は人気で生きている以上別ですが・・)はその競技で勝敗を決めるべきであって、その選手の家柄や私生活によって勝敗を決めるのは邪道です。
スキャンダル探しに熱を上げて練習を怠って本番で負け続けるスポーツマンみたいになっているのが、旧社会党であり民主党〜民進党です。
メデイアは初の女性〇〇などと、能力外のことを過大に報道し過ぎです。
メデイアや文化人はエリート意識の強い高学歴者人が多いので、「レベルの低い国民相手に合理的議論を紹介しても意味がない」という上から目線で政治動向を興味本位?で報道しているように見えます。
国家の重要な法律案などを審議する姿よりは、スキャンダル探しの議論の方がテレビの脚光をあびる・まさに衆愚政治に陥るようにメデイアが煽っているとしか思えません。
メデイアは政治論の甲論乙駁を紹介するよりは、スキャンダル探ししかしなくなった結果、この十数年間ではいわゆる「身体検査」と称するものが政治資質の有無よりも最優先事項になってしまっています。
この結果、政治家任用もその人の政策実現能力よりは、スキャンンダルで集中砲火を浴びないような人材・・官僚のようにソツなく答弁する能力優先で枢要な役職が決まって行くのでは、国家の不幸です。
こんなことでは、真面目に天下国家のあるべき姿を考え努力するよりも、ソツなく生きる器用な人だけが政治指導者になる社会が来てしまいます。
政治家はどうあるべきかの基準をメデイアが事実上作って、「ツノを矯めて牛を殺す」ようなケチな基準を報道して日本社会を腐らせてしまう・・衆愚政治に誘導している面があります。
日本民族を腐らせてしまうためにどこかの手先になって運動しているのではないかの疑いをいう意見が出て来る所以です。
専門用語を庶民もよく知っているわが国ですら、(本当に国民が知るべきことをあえて報道しない)メデイアによる一種のフェイクニュースの氾濫でこういう状態になっています。
たまたま8月4日事務所でちょっと手の空いたスキにMSNニュースを見ると、マサに私の関心と関連する・・事実報道しないNHK批判記事が出ていました。
この引用は自宅に帰ってからこの文章を書いたのが昨日20時33分ですから、14時間前の発信記事となります。
JBpress
森 清勇14 時間前
  加計選定「一点の曇りもない」証言を報道しないNHK
 問題の本質は、(1)獣医学部新設の必要性と規制の現実、(2)認可に至る手続きは公正に行われたかの2点である。
与党委員は岩盤規制で必要性が阻害されているのではないかとの視点から首相や官房・内閣府、そして民間の参考人に問い糾した。
 他方、野党はもっぱら「総理のご意向」や「官邸の最高レベル」という文科省内に見つかった文書から読み取れる首相の圧力があったのではないかとみて質問した。
 この過程で、獣医学部新設に当っては関係する省と団体の圧力は相当なもので、首相のリーダーシップをもってしても容易に崩せない実態が浮き彫りになった。
24・25両日のNHK「ニュース・ウォッチ9」は、首相と加計氏の会食が異常に多かった、加計学園が申請したのを首相が知ったのは今年1月20日かなど、決定過程に疑惑があるとみる野党委員の質問や、「加計ありき」とする前川喜平参考人の発言などを中心に報じたが、問題の本質である必要性や半世紀も正されずに来た岩盤規制、そして正当な手続きで加計学園に決ったとする参考人の発言はほとんど報道しなかった。」恐るべき偏向報道ではなかろうか。NHKの報道姿勢が偏向していると指摘されて久しい。しかし、一向に改まる気配は見られない。
 「7月10日の閉会中審査を終えて、筆者はJBpressで、「加計学園問題の審議はもう不要、安全保障論議を! 行政は歪められたのではなく正された、前川喜平氏こそ問題の中心」として取り上げた。
しかし、国民の多くはニュース番組としてのNHKを視聴して、政党主張の是非や政治の正邪を判断するに違いない。それ故にNHKには民放と異なる要求が放送法で課されている。」

日本統治・義務教育化によるハングルの普及

ただし世宗がハングルを導入するためには「表音文字に過ぎない」と言い訳するしかなかったほど周辺支配層の反対が強かったことから分かるように・・・支配層は欧米の異民族支配と同じで既得権益死守のために・庶民のレベルアップを阻止するためにハングル普及を極力妨害して1900年ころまで成功してきたようです。
この結果、朝鮮ではハングル文字が「ある」というだけで、日常的利用に発展できていませんでした。
日常利用されていなかった結果・・・ハングル表記ルールさえ決まっていなかったのですが、文字利用のルールがないと混乱しますので、後記のとおり日本政府がハングル文字の教育を始めるにあたって1912年に日本政府が制定した「諺文綴字法」によります。
それまでは「いろは」のようなルールすらない状態でしたが、日韓併合後朝鮮人民レベル底上げのためには、日本同様の教育制度化を必要として学校制度の構築に力を注ぎましたが、文字を見たこともないような人を相手に漢文の授業では無理があるので、漢文読解力及び漢文での文字表現を庶民全部に求めるのは無理があることから、日本のような漢字仮名交じり文の発想・・朝鮮には古くからハングル文字があることに目をつけてこれを整理しルール化(諺文綴字法)してハングル教育を強力に推し進めたのでこれが庶民に普及するようになりました。
朝鮮民族の言語は古代からあるのですが、考えを文字表現できるようになるとならないのではその後の文化発展には大違いです。
思考の途中で文字化するとその先に思考が進みやすくなるだけはなく脳内概念での整理も進みますので、文字を持つ民族と持たない民族とでは人間とその他の動物との分化に匹敵する・・人類が言語会話能力を持ったことによって、その他動物との知能格差が生じたほどの格差が生まれます。
朝鮮で庶民向けハングル文字の教育システム化によって庶民に文字文化の普及が始まるとすぐに庶民向けの流行本・いわゆるタクチ本が発行されるようになった結果がこれを示しています。
日本では古代から庶民向けの絵草紙や歌舞伎,浮世絵〜落語その他多くの文化が発達したのは、庶民向け文字の発達によるところが大きかったと思われます。
西欧ルネッサンスの始まりとなるダンテの神曲は、ラテン語ではなく地方言語であるトスカナ語で書いたことが重視されるのはこの点にあり、・.これを中学生の時に習ったときに自国の文字文化に慣れ親しんでいた私はこの事自体・自民族の文字表現がなかったことに驚きました。
・・西欧は、以後ラテン語の呪縛から逃れて身近な言語文字を介して日常の事象を浅く広くあるいは深く思考するチャンスを得られることによってその後約4〜500年後に宗教への懐疑〜モンテスキューなどの思想家を生み、市民革命やイギリスの産業革命につながったことになります。
8月2日現在のウイキペデイアの記事からです。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%B5%B1%E6%B2%BB%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E6%9C%9D%E9%AE%AE
「李氏朝鮮は清国の従属下にあり漢字が重視される一方、ハングルは軽視され、公文書でも採用されることもなかったが、李朝末期(1886年)になって開化派と井上角五郎の協力により朝鮮で初のハングル使用の新聞・公文書(官報)である『漢城周報』(1886年創刊)が発行された[37]。また、一般人(特に女子)のための教育機関は皆無で、大多数の朝鮮人は読み書きができない状況だった[38][39]。
日本統治下になると学校教育における科目の一つとしてハングルと漢字の混用による朝鮮語が導入されたため、朝鮮語の識字率は一定の上昇をみた[40]。1911年に朝鮮総督府は、第一次教育令を公布し、朝鮮語は必修科目としてハングルが教えられることとなった[41]。朝鮮語の時間以外の教授言語としては日本語が使用された。総督府は1912年に、近代において初めて作成された朝鮮語の正書法である普通学校用諺文綴字法を作成し、1930年には児童の学習能率の向上、朝鮮語の綴字法の整理・統一のための新正書法である諺文綴字法を作成し、それを用いた。識字率の上昇によってハングルで書かれたタクチ本が1920年代から1930年代にかけて流行した[42]。
いわば庶民ほぼ100%の文盲状態脱皮は、日本政府によるハングル教育開始・強制によるものでした。
この成果で、以下に紹介するタクチ本の大ヒットでもわかるように、庶民の思考力や表現力が急速にレベルアップして行きました。
政治的方便としての公式意見としてはハングルはまさに発音記号でしかないのですが、ハングルが日常的に使われるようになれば、表音のみでは不便なのでなんらかの意味が入ってくるのは、自然のなり行きでしょう。
他方でハングルには同音でいくつもの意味を持つので間違いやすいとも言われている実態とも合います。
上記タクチ本とは、恋愛小説どのジャンルがあるようですから、相応の内面表現ができることになります。
タクチ本に関するhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82%AF%E3%83%81%E6%9C%ACによれば、『洪吉童伝』『沈清伝』『春香伝』といった古典小説[1]のみならず、『長恨夢』などの新小説[1]、『金庾信実記』など歴史上の人物を扱った小説[1]、1923年に悲恋の果ての自殺(情死)事件 (ko:강명화 자살 사건) を起こして話題となった平壌の妓生・康明花(カン・ミョンファ)を題材にした小説[3]などがある。このほか、ジョーク集[1]や、さまざまな歌を載せた雑歌集[1]、『怪傑張作霖』(1929年初版)など同時代の人物を扱った評伝[1]も出版された。」
というのですから、結構高度複雑な内面の葛藤などを表現出来ることが分かります。
考えてみれば、源氏物語などの古典を我々多くは漢字仮名交じり文の印刷で読んでいますが、平安女流文学の数々の原典は(特に百人一首で知られる和歌など)平仮名で出来ているのではなかったでしょうか?
どの程度の漢字が混じっていたかについては、古代には今のように印刷技術がないので、写本を繰り返す都度、文意がわかり良いように漢字が増えて来る傾向があるらしく、元々「薫」大将などの人名や官名などは漢字中心だったとも言われますし、全部ひらかなだったのかすらちょっとネットで原典を探した程度では分かりません。
それまで漢字ばかりだったのが、せいぜい漢字仮名混じり文が正々堂と発表された程度だったのかもしれません。
枕草子をネット見ると原文とは書いてあるものの(「〇〇本」ということで文字どおり作者が書いた原本ではありません)漢字が結構使われています。
上記の通り情感表現程度は表音文字で何とかなるとしても、現在の各分野の専門用語・・術語になってくると簡潔な熟語が必須ですから、漢字放棄の不都合が顕在化するはずです。
ちなみにパソコン用の文字数で言えば以下のようです。
例えば我々の法律用語でいうと一々ひらかなで書いているとまどろっこしくていけません。
それならば、専門家同士でだけ分かれば良いじゃないかと思うでしょうが、・韓国ではこの考え方で庶民には必要がないという公式立場です・・消費者に対する説明が必要な時代です。
医師や弁護士が説明する場合、専門的用語またはその周辺言語を客がある程度理解している・・専門用語の説明をするには周辺用語の理解能力の高い人の方が説明の正確性が得られます。
感情的な結論の報道しかできません・これでは民主政治の本来の意義が実現できません。
MRIを撮る説明でもその仕組みをコマゴマと説明せずとも、レントゲンを知っていれば、それとの違い程度の説明だけですぐに患者が必要性・高度性を理解出来ます。
このように周辺専門言語理解があってこそ先端言語も理解し易いのです。

人権の序列(公共の福祉)

弁護士等の憲法遵守義務と時代に合わない憲法改正をした方がいいかどうかを論じることとは別ですが、不思議なことに護憲論者は改正反対の理由に憲法擁護義務を掲げるのが普通です。
左翼文化人が金科玉条のように重視する憲法においても、・・個々人の人権は全体利益の範囲内でしか認められないのが原理原則です。
以下に紹介するとおり、人権も「公共の福祉に反しない限り」認められているに過ぎません。
憲法
第十二条  この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
第十三条  すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
第十八条  何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。」
憲法では、全体利益を損なう・・犯罪を犯せば刑務所に入るなど人権の制約が許される仕組みです。
共同体が構築する秩序があってこそ、生命を含めた人権が守られるのは当然です。
文化人は騒音被害や肖像権、プライバシーなどを理由に新しい政策反対の道具にしていますが、強盗や傷害・殺人事件が頻発するようになると防犯カメラによる肖像権侵害とどちらが優先課題になるべきかを見れば、治安の確保があってこそいろんな人権が守られていることが分ります。
イラク・シリアの悲惨な現状を見れば、あらゆる(個々の人権も重要ではあるが)個々の人権保障に先立って、先ず共同体秩序維持を最優先すべきことは誰の目にも明らかでしょう。
治安をまとめて破壊されるのが外敵による侵略・異民族支配で、個々人で言えば、強盗が押し入って民家を長期間支配しているような関係です。
治安を乱すものは刑務所に入れられる・・生命・身体の自由さえ奪われるのが憲法の基本ですから基本的人権にも序列があることが分ります。
そして、治安=国家の安全・・秩序を守ることが他の人権よりも最優先課題であることが、上記憲法の記載から分ります。
上記によれば人権侵害だと言う以前にその制度がなくても治安・高次の人権を守れるかの議論が先にあって、それが確保された上でプライバシー、肖像権などの人権を言うべきことになります。
卑近な例で言えば、「信号機で通行規制されるのは通行の自由を侵害する」と言う以前に信号機がなくとも交差点での事故防止出来るか、車のような高速交通手段が有効利用できるかの議論が先にあるべきです。
集団自衛権がない、あるいは特定秘密保護法がないと侵略されるリスクが高まるかに付いては議論の余地があり得ますが、集団自衛権反対論者がこの種の合理的な議論しているのを聞いたことがありません。
スパイ防止法がなくとも国家利益を守れるのかに付いても同じです。
どのようにして国家を守れるかの議論を一切しないで、国家の安全があってこそ守られる個人のプライバシイなどの人権ばかり言うのでは、合理的な議論の仕方とは思えません。
目の前にニッポン侵略意図を明らかにしている中国が存在する現在、ニッポンが滅びても現憲法を守る可シと言う人が憲法学者であり人権活動家の資格があるとは思えません。
ましてニッポンを半永久的支配下に置こうとして占領軍が押し付けた憲法であればなおさらです。
国家社会が破壊されて異民族の隷属下に入ろうとも武装禁止の憲法を守るべき(アメリカ占領でニッポンの明治憲法が無効にしたように)中国支配下で、現憲法がそのまま維持されるのか、言論の自由があるのでしょうか?
中国は香港返還時に1国2制度を公約しておきながら、今ではなし崩しに政府批判者を拘束しています。
まして武力占領されたニッポンの法制度がそのままと言うのは想定し難いことです。
旧ソ連や中国の環境破壊や人権侵害・核実験や原子力発電には一切の批判をして来なかったマスコミや文化人憲法学者は、中国支配下に入るならば、人権を問題にしないと言う意思表示でしょうか?
それはそれで一貫しています。
上記のとおりに、人権と言っても公共の福祉に反しない限度であるべきですが、何故かマスコミや文化人?は個人主義の悪い面を強調して全体に及ぶ悪影響を無視して権利権利と強調し過ぎる傾向があります。
マスコミの誘導のとおり、極端主張し行動しているのが、韓国の現代自動車労組に代表される労働運動です。
ユダヤの陰謀論が盛んですが、ユダヤが何重にも本音を隠して世界戦略をしかけているのに韓国がその手先としてこれを下手に実践するので、却ってアメリカやユダヤの本音が透けて見える・・日本にとって便利な存在です。
社会混乱を招く目的集団?人権屋グループが、米軍やその支配下にあるマスコミの応援を受けて大きな顔をして来たのですが、マスコミがいくら煽っても縄文の昔から共同体を大切にして来たDNAを変えるところまで浸透出来ませんでした。
さすがに戦後70年も経過すると逆に???と言う人が増えて来ました。
何やかやと言っても、「共同体があってこその自分があるのじゃないか」と言う人が発言出来る時代が来たのです。

©2002-2016 稲垣法律事務所 All Right Reserved. ©Designed By Pear Computing LLC