李氏朝鮮時代の貨幣経済と日本の土倉

現在中国のバブル政策を見ておきます。
https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2017-03-24/ONAUYG6TTDSU01
「人民銀の北京支部は24日の声明で、離婚後1年に満たない北京の住宅購入者が住宅ローンを申請する際は2次取得者と見なすと発表した。また、レバレッジがかかった金融商品を使って頭金を捻出する購入者に対しては、住宅ローンを提供することを銀行に禁じる。
北京市は先週、住宅の2次取得者に対する頭金比率を10ポイント引き上げ60-80%としたばかり。人民銀北京支部は市政府との共同声明で、頭金の支払いを減らすため、離婚して独身の1次取得者として住宅ローンを申し込むカップルもいたとした上で、「政策で講じた制限の効果を損ねる」と説明した。」
中国人の場合、保有資産だけではなくレバレッジがかかった投機的金融商品で購入資金調達手法が発達しているようですが・・。
中国人の歴史は三皇五帝の神話時代から実在しそうな古代王朝の始まりとされる夏王朝は、文字どおり夏=賈(商取引を意味する漢字)の謂いであって、商業集団が始まりであったことを示していますし、次の時代を我が国では「殷」と言いますが中国では、これを「商「の時代と区分しています。
このように中国社会の歴史は商人の集落から始まっていて商業民族系・・「いわゆる三度の飯よりも投機好き」の民族ですから、日韓とは違って国民の多くが金融商品に対してはプロ級の能力があるかも知れません。
狩猟・漁労→農→工→商→金融→AIへの発展段階があるとすれば、日本は縄文土器以来の「工」に特性があって(「工」が発展すれば自然に交換経済が発展します)その前後の「農と商」もかなりやれるが、中国人には「商→金融→AI」に関する能力が高い民度がある・・この特徴を生かしたのが華僑の世界進出であり、地域的成功例が香港・シンガポールですし、国内的には、鄧小平の発案による特区制度・・上海や深圳などの大成功でしょう。
秦以来の歴代王朝は、農業社会化に合わせて面としての領域支配をしていましたが、支配の本質は中央の任命した官吏・長官の駐在する県城を点々と連ねた点の支配でした。
言わば県城内の市民が守るべき仲間で、城外に住む者はいつ攻めて来るか知れない異民族と言う仕組みで(鶏鳴狗盗の故事のとおりに夜は城門を堅く閉ざしてしまう)やって来たのです。
この点が日韓や欧米先進国社会の成り立ち(・・西欧の城は日本同様に市民を中に引き込む関係ではありません)とは違うように見えます。
インド人はゼロの発見に象徴される数学的才能・・優れた点はコンピュー系・・AI特化型でしょうか?
日本人も含めて韓国民はとてもこんな芸当(マンション投機のためには離婚偽装も厭わない・・)は出来ない・特に韓国人の場合、払えなくなると高利貸しに借金して四苦八苦するのが関の山でしょう。
韓国では何故高利貸しのイメ−ジが強いかですが、これは発展段階・・社会の基礎レベルの低さに関係する可能性があります。
日本では鎌倉時代に物流業発展の外「土倉」(金融業者)が発達しましたが、日韓併合前の韓国社会の発展段階としては、まだその前段階にあったのではないでしょうか?
李氏朝鮮では、良く知られているように「曲げ物」が発達しなかった結果、物資を入れる容器・たるや桶その他の容器や運搬用荷車の発達がなかったので明治維新の頃まで物流自体が成り立っていませんでした。
「工」の生産品ないと交換経済が成り立たない・・物流のないところに日本同様に中国から貨幣が入っても、無用の長物で次第に貨幣が枯れ果ててしまったのです。
日本では、唐の文化が入るとこの刺激で和歌や大和心・・大和絵が起こり宋で南画が起こるとその影響で水墨画が発展し育って行ったのと違い、受け皿の木基礎能力がない社会では、絶えざる供給が途絶えると外来文化は根がつかずにたちまち枯れてしまいます。
日本の土倉(金融業)は平安末に宋銭が入ってから貨幣経済に必要なものとして発生し数世紀以上の発展段階を経て力をつけて行ったものが鎌倉時代に名を知られるようになった土倉であり、江戸時代を通じて、手形取引その他高度な金融業として発展したものです。
金融取引の発展が日本人に根強い信用大事・・「約束を守るべし」とする商習慣が根付いた原因です。
ところが、朝鮮では、物流がない結果商取り引きが発展しない・・長年の貨幣経済の経験もなく明治維新直後から、貨幣経済がイキナリ入って来て単に高利で貸す・・消費者金融中心になりますし、信用が発達していないので約束を守る精神が育っていないから任意支払が期待出来ないので、回収に当たっても乱暴な取り立てしか知らない・ヤクザ稼業と紙一重になります。
約束を守るかどうかの基準は相手が自分より腕力が強いかどうかだけの事大主義の基礎がここに胚胎します。
慰安婦の合意等の国際約束は相手が弱ければ(アメリカ等の支援次第で)いくらでも無視すると言う国民性ですし、ヤクザの取り立てが発達した原因でしょう。
李氏朝鮮時代の産業構造は以下のとおりです。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E6%B0%8F%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E3%81%AE%E7%B5%8C%E6%B8%88
李氏朝鮮の貨幣
概要
李氏朝鮮の経済体制は、専売制対象品である塩との交換が布や米、雑穀に限定され、自給自足である物々交換の領域を脱け出すことができなかったので、貨幣の流通量も少なかった。李氏朝鮮初期には楮貨という一種の紙幣と銅銭が発行・鋳造されたが、十分には普及しなかった。特に楮貨は時代が経つほどその価値が暴落し、貨幣としての信用と安全性を持つことができなかった。有力な流通手段は依然として米・麻布・綿布であった。楮貨は中期になって自然消滅した。」
上記のとおり日本と同時期に宋から入って来た貨幣は、古代的物々交換に競り負けて朝鮮社会に根付かずに廃れてしまっていたのです。
このように物々交換に戻って行く・・退化して行く社会って、世界史上希有な例ではないでしょうか?
朝鮮半島の居住民は、周辺社会に比べて著しく劣っていたので周辺文化が入って来ても文化を吸収出来ずに、ついて行けなかったと言うことでしょう。
幼稚園児に高校生レベルの礼儀作法を強制しても意味不明でただ真似しているだけですから、指導者(植民地支配者)がいなくなると幼稚園児の行動に戻るようなものです。
引用を続けます。
「李氏朝鮮初期の貨幣
李氏朝鮮初期の自給自足的経済の中で、貨幣経済の発達は緩慢であり、専売品の塩との交換品が布や米、雑穀に限定されていたこともあり、麻布・綿布・米などの現物貨幣が取引され、布貨の使用が認められた。
1401年に河崙などが主張して紙を原料とした楮貨を発行して国幣にして通用を奨励したが、一般庶民は使いたがらず、ただ俸禄の支払などに混用されたから、京城付近でだけ通用して広く普及しなかった。
1423年には朝鮮通宝という銅銭が、そして1464年には箭幣が作られたが、これらは主として国家の収税に用いる目的で使われ、一般の社会的要求に応じるものではなかった。」

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