重商主義政策と植民地争奪戦1

今日から、年末のシリ−ズの続きに戻ります。
今年は母校が何十年ぶりか・・あるいは史上初?で箱根駅伝に出られない年となって例年と違い,正月2日は手持ち無沙汰です。
そこで今日は正月早々家族で上野の国立博物館に出掛けて国宝級の逸品見学の予定となりました。
今年は[長谷川等伯」の松林屏風図が目玉らしいです。
昭和50年代半ば頃に小さな子供らを引き連れて智積院の宝物館で等伯の作品を見学していると「もっと良いのがある」と係の人が奥の部屋に案内してくれて、秘蔵している等伯の息子の作品を見せられて素晴らしいので感激したことがあります。
周知のとおり等伯の息子は等伯よりも更に才能が見込まれていたのに夭逝してしまった惜しい人材でした。
当時家族旅行が少なかったこともあって、?行く先々で大事にされたのも良い思い出です。
昭和56年秋に東大寺の3月堂だったかで家族で土間に座って拝観しているとタマタマ高僧らしい方が,欧米人学者らしい人を案内して入って来たことがあります。
内陣に入って仏像の間を縫って説明をしていたのですが,土間の椅子に座っていた私たち家族に気が付いて,「入ってきなさい」言われて,子供らと仏像と仏像の間に入れてもらったことがあります。
肝腎の国宝よりも,お堂の内陣?に入れてくれた方に記憶が残っています。 
こちらはプロではないので,細かな仕組みを聞いてもチンプンカンプンで,やはり一般人が見るべきように配列されている,正面から見ている方が素人には分りよいです。
美術展でに出品されている絵画でも「この色の出し方が難しく名人の技です」と説明されても,??と思うばかり・・猫に小判?こちらは全体として良ければ満足です。
2007年に久しぶりに東大寺に行ってみると、今は当時と違い、人が次々と入って来ますが,それでも有名美術館のような混雑がないのは良いことです。
土間部分が板張りになっていてその上にゴムのようなシートが敷いてありました。
知恩院の奥の方の廊下を歩き回って疲れて子供らと休憩していると,お坊さんが出て来たと思ったら御供物のお菓子を一杯持って来てくれたり、いろんなことがありました。
等伯の松林図屏風はまだ本物を見たことがありませんので、感想は見てからのお楽しみになります。
と言うわけで朝起きたらすぐに出掛ける予定でしたが,事情があって急遽延期・・明日に変更になりました。
今年は,正月気分を早めに切り上げて今日から普段のコラムに戻ります。
昨年末のシビリアンコントロ−ルの関心です。
一般的解説では,市民の抑制がないと戦争になり易いからシビリアンコントロールが必要となっていますが,重商主義・商人・教養と財産のある市民の方がより広い市場・・植民地を求めて戦争の時代に突入して行ったことを重商主義のコラムで10年ほど前に連載したことがあります。
モンゴルが版図を無茶に広げたのは、遊牧による移動を限界とするモンゴル人の自己欲求としては無理があります。
政権に入り込んだ商人・・色目人による西域通商路確保に関する要望によるものと理解するのが私の感想です。
ウイキペデイアのモンゴル帝国に関する記事では以下のとおりです。
「遊牧民は生活において交易活動が欠かせないため、モンゴル高原には古くからウイグル人やムスリムの商人が入り込んでいたが、モンゴル帝国の支配者層は彼らを統治下に入れるとオルトクと呼ばれる共同事業に出資して利益を得た。占領地の税務行政が銀の取り立てに特化したのも、国際通貨である銀を獲得して国際商業への投資に振り向けるためである。」
「モンゴル帝国は、先行する遊牧国家と同様に、商業ルートを抑えて国際商業を管理し、経済を活性化させて支配者に利益をあげることを目指す重商主義的な政策をとった。」
時期的に見るとチンギスハーンの即位が1206年 – 1226年で最大版図の第5代のクビライの治世は1260年 – 1294年ですが,この当時の西洋の歴史を見ると実は十字軍遠征と大幅に重なります。
リチャード獅子心王とイスラム側のサラデイーン両雄の登場で知られる第三回十字軍遠征が1189〜1219年で、その後第8回(1270年)まで大規模に行なわれています。
(9回以降は小規模です)
他方でモンゴルの第三代皇帝グユクが1246年に ローマ教皇インノケンティウス4世に宛てたペルシア語文国書が残っているなどローマ法王との交流も行なわれていて、モンゴル軍によるフレグ西方遠征軍による『バグダードの戦い』が1258年でありフレグがイランに「イル汗国」を樹立してモンゴル帝国が連合統治体制になる最初になり、これが西進の最後です、
世界規模での動きでみると,東西から世界交易の中心である中東地域までの通商路確保を目指していた時代であることが分ります。
モンゴル帝国の版図拡張が内陸ではロシアの前身であるルーシ、(ハンガリやーポーランドでもキリスト教のテンプル騎士団などと戦っていますが支配下におかず)中東ではバグダッド付近で終わっていること(代替わりが進み分国統治になて膨張エネルギーが衰えた事情もありますが)・・・地中海地域の商人にとって、中央アジア通商路の入口拠点だった(アッバース朝の首都であったが・・当時はイスラムの中心都市がカイロに移っていました)バグダッドあたりまでの通商路確保さえすれば良かったとすれば合理的です。
西欧にとっても十字軍遠征でイスラムの先進文化に触れたことが次のルネッサンスの導火線になっています。
膨張収束後の元の内政でもマルコポーロなど地中海の商人との交流が盛んでしたし,国際的に移動する商人を優遇し,多様な宗教の保護など,商業重視の政策を採用しています。
モンゴルによる西域通商路確保後には,関税・木戸銭については,途中木戸銭(日本の関所)徴収を禁止(最後の売上だけに課する)して流通の合理化を図っています。
元寇の原因は元が通商を求める文書に応じなければ武力制圧するかのような文言があった結果、誇り高い日本(武士)が拒否したことによるのが普通の解釈でしょう。
フビライの国書の最後は以下のとおりです。
「願わくは、これ以降、通交を通して誼みを結び
 もって互いに親睦を深めたい。聖人(皇帝)は四海(天下)をもって
 家となすものである。互いに誼みを通じないというのは一家の理と言えるだろうか。
 兵を用いることは誰が好もうか。
 王は、其の点を考慮されよ。不宣。」
これでは,通交に応じないなら[兵を用いる」と言う宣戦布告と同じです。
朝廷は「失礼ではないか」と言う返書を用意したようですが、武家政権の鎌倉幕府は返書拒否した・・元寇になったと言う流れです。
三国時代の曹操が発した呉の孫権に対する80万曹軍「呉において(お前の領地内で)将軍と会猟(勝負を付けよう)せんと欲す」と言う孫将軍に対する脅し文句→これが呉蜀同盟に発展し三国鼎立・・赤壁の戦いの発端になるのですが,昔から相手の立場をソンタクしない高飛車なのが特徴です。
高校時代の教科書にある・・18史略の1節です。
「今治水軍八十万衆、与将軍会猟於呉。」
水軍だけでも80万を手中に収めている・・いわゆる100万曹軍の触れ込みの1節です。
幕末、西欧諸国も「開国に応じなければ不利になりますよ」と暗に匂わせていたので危機感から幕末騒乱が始まったのですが,最後にアメリカが武力を背景に強引に開国を迫りました。
アメリカも直接的表現しか出来ない点は中国とレベルが似ているので気が合う筈です。
これがトランプ氏になって,日本にとって危険性がある・・ハラハラするところです。
4~5日前に大雪による千歳空港の運行停止に対して中国人数百人が暴れて警察出動になったニュースに対して駐日中国大使が,「マスコミが煽っている」と逆批判しているニュースが流れていました。
日本人ならば「お騒がせして大変申し訳ない」と御詫びするところですが,先ず相手を非難しないと気が済まない不思議な国民性です。
御詫びした上で,そのように言い足したのを、マスコミに報道されたのかも知れませんが、そこに本音が出るリスクに気がつかないのでしょう。
北朝鮮や韓国あるいは中国が上から目線でしか言えないのは,弱過ぎて高飛車に出るしかないと思っている人が多いかと思いますが,威張った方が勝ち・・古代から礼儀・ソフトが発達していないのでしょうか?

2017年元旦(目出たさも・・)

あけましておめでとう御座います。
今年もあらたな1年が始まりました。
皆様晴れやかな新年をお迎えのことと存じます。
若い人にとっては,希望に燃えた新春の始まりでもあるでしょう。
我が家もこれと言った目出たいことはないものの,まあまあの新年の始まりと言うわけで,何か困ったことがないことが目出たいと言うところです。
大晦日のコラムでふと思い出した武者小路実篤の作品?に多い心境と同じかも知れません。
武者小路実篤が「仲良きことは美しきかな」などと言う軽いタッチの心境をさらさらと書いてデパートなどで売り出していたのは,1976年同氏死亡の約5〜10年前後前・・晩年近くのことですから,私はまだ晩年には遠い現役ですので,まだ達観するには少し早いようにも思えますが・・。
小林一茶の俳句「目出たさもちうくらいなりおらが春・・」がイキナリ浮かんだのですが,もしかして武者小路が野菜と一緒に書いたものと印象がどこか似ているからかも知れません。
その頃の新築住宅の玄関の下駄箱の上などにかかっているのを良く見かけたように記憶していますが(「仲良きことは良きことかな・・」とかいろんな文字があったのでこの種の言葉もあったろうと言う程度できっちり覚えているわけではありません)・・そんなところです。
結婚前後ころの記憶ですから,昭和40年代中頃だったと思うのですが高度成長の恩恵がサラリーマンに及んで私のちょっと上の人たちが東京郊外の一戸建て住宅に移り始めた頃だった記憶です。
いわゆる◯◯寮(または◯◯方)〜アパートに移り,「◯◯荘」〜郊外の新興住宅を手に入れて◯◯市何丁目何番地に三段跳びで住所移転して行った(物価もドンドン上がりましたが・・)夢多き時代でした。
今のように各人が本物のプロの絵を自宅に飾れる時代ではなかったので,プロの絵描きではない実篤が余技でサラサラと書いた程度のカボチャやナスなどの絵(俳画だったかな?)に気の利いた文字を書いた(大量生産品だったと思います)のをデパートなどで買い求めて,先輩達が文化生活が始まった時代です。
今は,あちこちに美術館があって気楽にホンものを見られる時代ですが、当時は美術図鑑などで有名絵画の写真を図書館で見る程度でした。
そう言えば上野の西洋美術館に来たミロのビーナスを何時間も並んでみたのは、いつの日だったか?
いま思い出すと当時の郊外の分譲住宅の多くは新建材の建物で,(今は殆ど全部建て替えられてしまいましたが・・)その程度の軽いまがい物?でも文化の香りを楽しんで,皆喜んで飾っていた時代でした。
私自身で言えば,結婚してからだけでも現在の自宅になるまで6回も移り住んでいます。
2回目(昭和47年)では瞬間湯沸かし器(それでも冷たい水で食器類を洗わなくて良くなったのは画期的なことでした)だったのが、4回目の家(昭和51年)では給湯式でお風呂にはシャワーがついているし洗面所もお湯が出るのに感激し,5回目の家では(昭和61年)当時最先端のウオッシュレットを顧問先からプレゼントしてもらいました。
今の家は全て二重サッシュですし,床暖房で変化のめまぐるしさに驚くばかりです。
昭和45年の結婚当時と今を比較すると失われた20年とか30年とか言われるものの,現在の快適な生活ははるかな彼方からやって来た・・成長を遂げて文化生活レベルもはるかにアップしたものだなあ・・と感慨頻りです。
ところで、「ちうくらい」とは一茶の地元の言葉で「中」ではなく「いい加減な」と言う意味らしいです。
〈から風の吹けばとぶ屑屋はくづ屋のあるべきやうに、門松立てず煤はかず、雪の山路の曲り形りに、ことしの春もあなた任せになんむかへける〉と前書付きの俳句で、一茶57歳の作ですから,老い先短い元旦を迎えたときの感慨を表現した俳句らしいです。
「いい加減」とは,だらしないと言う意味ではなく文字どおり[加減が良い」と言う・・(分相応の?)「良い塩梅だなあ」と言う意味(私個人の勝手な解釈です)でしょう。
学生時代に野尻湖湖畔でゼミの合宿があって、その帰りに小林一茶の旧居を見学したことを思い出しましたが、本当に狭い・土蔵とも言えない・・あら土で塗り籠めただけのあら壁の小屋が空き地にぽつんと建っているだけでした。
立派な業績を上げた人のツイの棲家の質素さ・・一茶の素朴な?作品を連想したものです。
(今行けば,廻りが整備されて立派な観光資源になっているでしょうが・・)。
ところで一茶の作品は子供心にも分り易いので素朴な印象を受けますが,難しいことを平易に表現するのが本当の達人とすれば,一茶の達人ぶりは半端でありません。
私は勿論一茶のような偉人ではありませんので、奥深い意味はありませんが,新年の心境を俗っぽい意味で言えば「ちょうどこんなモノ・・」だなあと言えるのかも知れません。
自分の心境を言い表すのにヒトサマの俳句を借りて表現するしかない・・無能と言えば無能ですが,俳句や詩,絵画あるいは芸術作品はおよそ凡人の心境を代わって表現してくれることにプロとしての存在・意味があるのかも知れません。
名句・名画〜名作とは万人の心に訴えることの出来る表現(共感)性の高いものと言い換えられるでしょう。
旅行などの写真を見ても自分の写したものと,プロの写真とはまるで出来が違いますが,その代わり自分の写した写真には自分や家族の具体的記憶が詰まっている・自分または関係者だけの価値です。
他人が見ても面白くないわけです。
個人の日記、故人(父母)の形見の多くは共感する範囲が自分一人または遺族だけですが,歴史に残る各種日記や遺品が個人だけの共感ではなく,民族の共通遺産になると「作品」となります。
同じ形見の衣類でも[家康の陣羽織」となれば共感者の範囲がぐっと広がり博物館の展示物になります。
明治村にある漱石の旧居は建築としては何の変哲もないものですが,漱石の住んでいた家となれば,座敷のたたずまいを見ているだけでいろんな作品の風景が偲ばれ価値が高まります。
これは公開のコラムですので,(気の利いた句をつくれない言い訳ですが・・)自分にしか通用しない自己満足の俳句や詩よりは通用性の広い名句を借りるしかないのは仕方のないところです。
プロの作者は大衆の気持ちの代弁者とすれば,人口に膾炙すればするほど作者の満足度が高まると言うもので,折角の名句を利用させて頂いてこそ、小林一茶が草葉の陰で喜んでくれるでしょう。
「去年今年貫く棒の如きもの」 高浜 虚子
は凛として決まっていますが,私には荷が重い感じがするので,今年は小林一茶の名句の心境で新年を始めたいと思います。
小林一茶は苦労した偉人ですが、凡人の心境を気負わずに表現しているのが、庶民文化社会のファンの心をつかんでいるのでしょう。
今年も根拠のない個人的思いつきを書いて行きますので、意見の合う限度でお読み下さるよう・・どうかよろしくお願いします。

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