国民重視社会とピープル軽視社会の違いが、新興国の台頭による国際大変動に対する対応にどう言う違いが出るかの関心から民度に深入りしましたが、元に戻ります。
December 14, 2016,「規模追及の限界2と民度4(PeopleとCitizen1)」の続きになります。
新興国台頭=低賃金対策に戻りますと,日本では支配と被支配渾然一体社会であり、軍(武士)も民族のためにあることは日本人にとっては自明です。
欧米ではピープルとの市民・支配層一体感がないので、(社員食堂で社長や幹部が一緒に食べるなど考えられない社会)ピープル相手にどれだけ搾取し,儲けられるかが新興国対策の基本になります。
欧米支配層の利益目的価値観基準・・企業で言えば株主利益最大を目指すために労働者の意欲・労働条件を重視するのに対して、日本社会は従業員第一主義でそのためには(資本家も大事)株主の機嫌も取るしかない・必要悪?なので,方向性が欧米とは逆になっています。
マスコミを賑わせる「IR対策」と言う用語自体が欧米の資本主義との違いを物語っています。
欧米の価値基準では従業員対策でしょうが、日本では資本家・投資家「対策」になる違いです。
産業革命以降国際競争激化が始まると,国際競争に勝ち残るには,労働者の技術レベルを上げることによってより良いものを作れるようにするコトが必要→人育成競争社会にはいりました。
日本が明治維新後近代化に成功したのは,江戸時代から庶民に至るまで教育システムが行き届いていたことや勤勉習慣・これに報いる仕組み、あるいは元々の器用さなど基礎レベルの高さによります。
国際競争社会になると国民レベルの引き揚げが必須ですし、国家・企業としては家柄やコネ・賄賂に頼っていると競争に負けるので,自ずから公正・平等主義が重視されます。
日本では源平合戦以降武士社会になってから,実力があればドンドン抜擢する社会になっていたのは,既に国内で自由な競争が徐々に始まっていたからです。
江戸時代で言えば学問では林家、絵画では狩野家、武芸では柳生家・有職故実は◯◯などとそれぞれ決まっていましたが,幕末までには皆事実上権威を失っていた(絵画で言えば琳派〜浮世絵に中心が移り)ことから見ても(表向きの権威があっても実質はかなり)自由な社会が実現していたことが分ります。
政治の世界でも江戸城無血開城を決めたのは,旗本でさえなかった・末端ご家人(勝海舟の何代か前に御家人株を買い取って御家人になったと言われています・・ご家人とは戦国時代で言えば足軽階層・・騎乗が許されない・・兵上がりの勝海舟でした。
昔読んだ記憶ですので確認してみますと,「御家人」に関するウイキペデイアに引用されている文献では私の記憶どおりのようです。
「5 例えば勝海舟がそうである。勝の曽祖父は高利貸しの米山検校で、息子の平蔵に御家人・男谷家の株を買ってやり、その男谷平蔵(海舟の祖父)が御家人・西丸持筒与力から旗本・勘定に昇格している。平蔵の子・勝小吉(旗本・勝甚三郎家を継ぐ)が海舟の父に当たる。小川2003」
人権思想家が言えば平等な社会になるのではなく,重商主義時代から産業競争時代に入って人材必要性が自由競争や平等主義を要請していたから労働者の能力アップが支配者に必要になったのです。
以上のとおり,産業革命後は従業員の能力に応じた優遇が必須になりますから,クニも企業も労働者自身の自発的能力アップ意欲を引き出すために(能力さえあればいくらでも出世出来る)自由平等が売り文句になります。
日本でも憲法上の平等の意味は,能力に応じた平等扱いであると教えられ、庶民でも能力があれば出世出来ると期待出来る・・みんなが能力アップに励む社会が始まりました。
安倍政権が「同一労働同一賃金」と言うのは、この延長・・能力が同じでも賃金差があるのでは国民が努力する気がなくなってしまうからです。
日本では過去何百年も,勤勉・学問を尊び,江戸時代でもこれまで紹介している新井白石でいえば、千葉県の久留里藩2〜3万石の家臣から,親が浪人しています。
白石が木下順庵の塾生となって才能を現し,遂に幕政をし切る役につき「正徳の治」を実現しました。
日本は明治維新後直ぐに学校制度を全国に広げましたが,近代化したクニでは個々人が学歴をつけてより上位の資格を得るための修練を怠らないのは,この基準で生きていることを意味しています。
支配層にとって労働者を能力に応じて優遇し、能力のレベルアップ・・労働条件が過酷で不健康な労働者よりは健康な労働者がよい・ゆとりを与えた方が工夫が生まれる・・労災を減らす方が企業にもメリット・・など企業・支配層も労働層も目指す方向が一緒ですから、労使・支配被支配関係は蜜月時代でした。
リンカーンの「 government of the people, by the people, for the people,」は,まさに庶民を搾取する対象ではなく,「ピープルと共に、ピープルのために」もあるのだと言う演説です。by the peopleを「人民による」と民主政治に結びつけて一般に翻訳しますが,抽象的に昇華すればそのとおりですが,真意は人民の「力」「協力」によらなければ,国際競争に負ける・国力維持出来ないと言う意味に捉えるべきです。
これは,戦況を有利にするためにたったの2分ほどの短い演説であった・・本気でそう思っていたか不明と思われますが,工業化の進んだ北部ではそう言う時代が来ていたのを敏感に察知したのでしょう。
こんなことを思い出したのはトランプ氏の大統領就任演説全文が今日の日経新聞夕刊に記載されていたことによります。
曰く「エスタブリッシュはみずからの利益を守ったがあなた方の利益を守らなかった・・それがすべて変わる・・」言わば、リンカンの演説・・約束が実行されてないことを私は守ると言うかのような?演説ですが、具体的にどのように変えて行くかの道筋は不明です・・就任演説で具体的なことまで言えないのは仕方ないでしょうから、今後どう言う政治を出来るかにかかっています・・。
上記のとおり「あなた方を守る」には労働者レベルアップが必須です。
トランプ氏の演説全文を見ると(具体策はこれからとしても,能力は短期にレベルアップするわけがないので)レベルアップと関係なく利益を「守る」のを約束しているような印象ですが,そのためには能力以上の収入保障=「不正・腕力で他国から富を収奪する」しかなくなります。
腕力に基づいて不良品を高く売りつける悪徳商人になる宣言のように読めます。
腕力(軍事力・砲艦外交)を能力の重要要素とする19世紀までの考えに戻るとすれば、トランプ氏の主張も能力主義に違反していません。
このように憲法の平等主義と言っても、どの分野の能力を基準にするかで人権保障の意味が大幅に違って来ます。
「腕力に応じた平等」であるならば、男女差別は人道主義に基づく平等違反ではないとなります。
日本国憲法を見ると,この辺は慎重に14条自体に許されない例示として「性別」を書き,「両性の本質的平等」と言う条文を別に設けていますから,能力差概念定義を進めると許される差別の中に男女差による差別が入る前提で別に特例として条文を用意したとも読めます。
憲法
第十四条 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
第二十四条 婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
○2 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。