フランス革命の意義に戻しますと「市民」が,革命の成果として信教の自由=教会の思想審査の特権を廃止し(特定宗教が信徒の思想審査するのは勝手ですが,異端と判定され破門されても信教の自由があれば市民は別に困りません),同時に教会の経済基盤である・中世以来,領主による領地寄進で成り立っていた教会財産(領地)を国有化してしまいました。
西欧で宗教戦争が何故激しく長く続いたかと言えば,ルネッサンスで人間解放を謳いながらも実際には信教の自由がなかったからです。
信教の自由があれば、命がけで戦争までする必要はありません。
ガリレオだって,信教の自由があれば地動説が正しいと最後まで言い張れた・・節を曲げる必要がなかったでしょう
ちなみに西欧でイギリスの近代化が最も早かったのは、ヘンリイ8世( 1491年6月28日〜1547年1月28日)のイギリス国教会設立→ローマ教皇支配から思想統制からの独立・民族の思考自由化が始まったからではないでしょうか。
我が国で言えば信長による比叡山焼き討ち(元亀2年9月12日(1571年9月30日)が象徴的ですが,このトキから宗教の権威・呪縛がなくなり日本社会の合理主義が始まったのと時期的にも似ています。
ただし、ヘンリー8世は個人の粗暴性の故に・・破門されるならば別の宗派を建てると言う単なる開き直りをしただけ・・ローマンカトリックから独立しただけでキリスト教社会に留まった点では、信長が目の前で浄土法華両宗派のエリートを集めて宗論を戦わさせて(安土宗論1579年天正7年)合理的な方に軍配を上げるなど時代変革の意識鮮明だったのとは違いますので、社会に与えた効果が間接的で大きくはありませんが,似たようなことになったと言う意味です。
信長は石山本願寺と熾烈な戦いをしていたことを数日前に紹介したように浄土宗支持者は政治の場面では大敵でしたが,(和解したのは1980年ですからこの宗論はその直前・・まだ戦っている最中です)このときの軍配は浄土宗に上がったと言う、うろ覚えです。
法華〜日蓮系の排他的・・自由な思考を禁止する傾向に自由な発想を重んじる信長の合理主義が許せなかったのでしょうか。
叡山焼き討ちは古代から続く宗教意識の権威を木っ端みじんにすると言う信長による時代変革の意図的なものであったので、その後を受けた秀吉〜家康〜幕末まで時間をかけて徐々に,宗教権威をなくす方向が着実に進みました。
家康の頃までは学問知識が佛教を経由していたので,黒衣の宰相コト崇伝や沢庵和尚がまだ権威を持っていましたが、その後紫衣事件などの政変?を経て「学問知識」の源泉が朱子学に入れ替わり,更には陽明学導入で日本人意識の実践的精神・合理化が進んで行きます。
この合理的実践主義の尊重・・経験が明治維新以降の近代化・・現在の現場力の高さに大きな役割を果たしたのはまぎれもないところです。
佛教が知的権威から切り離されて行った経過については、11/28/05(2005年です)「儒教との距離5(定着していた仏教2)前後の連載で詳しく紹介したことがあります。
信長以降捲まず撓まず各種宗教権威が否定され,宗教界は葬式佛教や寺子屋程度あるいは各種興業(相撲巡業や軽業師その他)の場所貸し・・いまでは観光遺産?に地位低下させるのに成功したのです。
この辺,未だに天動説を信じ,あるいはダーウインの進化論など知らない国民が一杯いると言われる・・真偽のほどは分りませんが・・アメリカなどとの大きな違いです。
繰り返し書いていますが日本の社会変化は武士の勃興に始まり何事も数世紀上にわたって少しずつ着実で後戻りのない点が特徴で,この辺が個人的(トランプ氏もその一人にカウントされるのか?)粗暴性で突発的・革命的に起きる西洋とは基礎レベルが違います。
上記のように宗教の権威をつき破る意識改革が意図的・着実に進んだ日本とヘンリー8世の暴挙とは違いますが,ここではローマの教会の権威をコケにしてしまったことがイングランドでの社会変化の切っ掛けになったのではないかと言う思いつきを書いているだけです。
今になるとどう言う根拠か知りませんが(私のような視点によるとは限りません)従来のルールしきたりを無視する「とんでもない君主だった」と言う悪評価に対する再評価の動きがあるようです。
ヘンリ8世が思い切ったことが出来たのは,1つにはイングランド,アイルランドはローマ文化からの中心地から遠い辺境の地でローマ文化・キリスト思想の浸透が遅く半端であった(ケルト族の習慣・信仰が色濃く残っていることは周知のとおりです)ことから早く離脱出来たコトが大きかったように思えます。
もっと古くにはマグナカルタがありますが,もともとローマから遠い上に海を隔てている結果,ローマの権威が及び難かった・・地元民族固有の考え方や生き方がそのまま残り易かったことを表しています。
中世の特色は修道院文化とも言えますが,スペインやフランスなどに比べてイングランド・アイルランドでは修道院が(私の知る限りですが)それほど発達しなかったように見えます。
この辺は同じ漢字文化圏と言っても思考様式が中韓と全く違っている・日本の場合,都市のあり方・住宅様式から衣類・食材文化までまるで違っていますが、それほどではないにしても・・我が国と似ています。
イギリスでマグナカルタが出来,コンモンローが早くから発達し〜弁護士制度が発達し・・今でも国際的に弁護士業界が世界を席巻出来ている原因も,国教会の独立が大きな契機になったかも知れません。
ちなみに我が国サービス業の生産性が低いと言われていますが,・・ラーメン屋・デパートの生産性かな?どうやって計るのか?と思って内容を見ると,国際金融サ−ビス,コンサル・法律海運その他も含まれています。
法律サービスや金融サービス・コンサルも含まれているのでは、M&Aなどのコンサルなどで巨額報酬を得ているのに比べると我が国では企業買収等のコンサル業が未発達ですから,日本のサ−ビス業の生産性が低いわけです。
落ちぶれたりとは言え,イギリスは今でも法律・金融サービス分野ではだんトツで日本が遠く及ばない・国際競争力のある分野です・・歴史は怖いものです。
日本でのフランス革命の理解は、参政権→意見表明の自由・人権宣言の角度中心ですが,フランス革命に倣った西欧的理解では,参政権は派生的成果であって、信教の自由の獲得・・ローマ教皇支配から脱却こそが絶対に譲れない革命の成果でした。
日本では学校で学ぶフランス革命は政体変更(アンシャンレジーム打破)中心ですが,フランス革命の時系列的変化を見ると,一直線で共和制になったのではありません。
政体・・立憲君主主義か共和制かどのような選挙権を認めるかなどは正に(私に言わせれば)「些末な」革命の成果・・バリエーション範疇でした。
短期間の革命進行途中でさえめまぐるしく変わるので簡単に書ききれませんが,最初は(王制前提の)立憲君主主義宣言でしたし,途中で公安委員会が幅を利かす=議会と行政一体制の時代があり、共和制になったりテルミドールの反動があり,ナポレン帝政になり,ナポレオン失脚後王制に戻ったり更にナポレン3世の時代もあります。
共和制になってもいろんな風に政体が変わって来ました・・現在のフランスの政体はド・ゴール将軍の始めた何と第5共和制です。