Civilian1とCitizen3(信教の自由1)

昨日紹介した記事にあるように教会財産を国有化して経済基盤を奪い,「聖職者に対する統制を強めた」とありますが,聖職者が第1部会で市民が第三部会だったのですから上下逆転して統制される側に回ったことになります。
地位の逆転はナポレオンの戴冠式によっても、ヴィジュアルに見ることが出来ます。
従来国王就任の正式儀式・・法皇(代理の聖職者)から戴冠されて叙任される千年単位続いた形式から見れば天地がひっくり返るような大逆転です。
ウイキペデイアによれば以下のとおりです。
「戴冠式(たいかんしき、coronation)は、君主制の国家で、国王・皇帝が即位の後、公式に王冠・帝冠を聖職者等から受け、王位・帝位への就任を宣明する儀式。」
朝廷から叙位されていた徳川家が,逆に禁中並公家諸度(慶長20年7月17日[2](1615年9月9日)を定めたのに似ています。
ただ日本ではその後も,将軍宣下があり,上下の格式は変わりませんでした。
西欧では実力差がそのママ出て来る点では、習近平氏が,国力が上がるとそのままイギリス訪問時に威張ったのと似ています。
ナポレオンの有名な戴冠式では,ナポレオンが王冠を自分で自分のアタマに乗せるデッサンが残されているようです。
屈辱的な戴冠式に招かれた法皇が政治妥協の結果(苦渋の決断で)出席したものの何の役割もなく,椅子に座っているだけの有名なナポレオンの戴冠式の絵が残っているのはそのせいです。
ナポレオンが自分で自分のアタマに王冠を乗せたのですが,そのままの絵では法皇に対して露骨過ぎるのでナポレンがジョセフィーヌに戴冠する形式の絵に修正したらしいです・・いずれにせよ法皇のメンツ丸潰れです。
ナポレオンの戴冠式に関する以下の記事からの引用です。
https://ja.wikipedia.
ナポレオン1世(1769–1821)は、ローマ皇帝の即位式に似たローブを身に着けて立っている。他の人物は、受け身的な見物人に過ぎない。絵をよく見ると、絵が修正されていることが分かる。最初の構図は、ナポレオンが頭上に冠を掲げて、自身に戴冠しようとするものであった。
ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ(1763–1814)は、フランス民法に則りひざまずいて恭順を示している。彼女は、教皇の手からではなくナポレオンの手から戴冠されるところである。」
関心のある方は上記記事を見て下さい・・ナポレオンが自分の手で図上に持ち上げて戴冠するデッサン(これもルーブル美術館所蔵らしいです)が紹介されています。
信長の肖像画の改ざんがここ何年か騒がれていますが,政治意図による修正はよくあることがわかります。
油絵の場合デッサンが残っていることもあって、早くから知られていたことです。
一方で1789年8月26日に憲法制定国民議会によって採択された「人間と市民の権利の宣言」(Déclaration des Droits de l’Homme et du Citoyen)において,「言論と出版の自由、「[宗教上の意見の]表明は法によって設立された公的秩序を乱さないことを規定された」コトによって(異端審問による刑事処罰が禁止されて)間接的に信教の自由が宣言されています。
以上見て来たとおり,people対置概念としてのCitizenが上位権力に対する抵抗勢力として自己表現するときにはシビリアンと称し,市民革命で漸く制度的に,キリスト教支配・・異端審問・魔女狩りを怖がらなくて良い社会になりました。
我々学校で習った知識では,ルネッサンスで人間解放が出来たと誤解し勝ちですが,1300年(ダンテの神曲)から始まった筈のルネッサンスでも1650年代になってもガリレオが「それでも地球は動いている」と言わざるを得なかった例で分るようにまだ言論の自由に及んでいなかったのです。
せいぜい絵画や彫刻表現の自由化が進んでいたに過ぎないことが分ります。
ルネッサンスとは,まだまだ解放して欲しいと言う気分が出始めただけで、うっかり自由に発言すると破門されて処刑される恐怖下で市民が生きて来たコトが分ります。
フランス革命で「信教の自由」と「思想心情の自由」がセットで宣言されたことは、日本人には気が付かない重要な制度変更・・社会のあり方の根本変更を意味しています。
革命による人権宣言以降,「何を言っても良い」ことの制度的裏付け・・それまでは破門されると地獄に堕ちるだけではなく現世で・・火あぶりにされても仕方がない制度でしたが,信教の自由=破門されても処刑されないしキリスト教徒でなくとも良くなったのです。
ローマ消滅〜西洋始まって以来の一神教社会を廃止して異教徒の生存を認めて,多神教社会に遅ればせながら参加することになったことを意味しています。
何回も書いていますが,フランス革命は日本に比較して進んだ誇れる社会ではなく,遅れていた社会を日本のようにさしあたり制度だけも自由化したと言う程度のことです。
信教の自由化の結果、何か変わったことを言って破門されても・社会から抹殺されなくなった制度変更ですから,フランス革命での信教の自由宣言は制度的に大きな意味を持っています。
(制度が逆転しても民心が変わって行くのは千年単位の時間がかかります・・ナポレンの戴冠式を紹介しましたが,法皇にとって王冠を授ける役割のない出席は屈辱だったかも知れませんが、逆に言えば政治的にはなおキリスト教式の戴冠式を必要としていた現実・・法皇の影響力を無視出来なかったのが実態・・今でも欧米では法皇の政治発言には大きな影響力があります。)
思想表現の自由と信教の自由は表裏一体の関係があり,フランス革命での信教の自由宣言は一神教世界の否定ですから文字どおりキリスト教支配を覆す革命的大転換を意味していたのです。
日本では元々八百万の神・多神教社会ですからこの辺の意味に気が付き難い・・政治に市民が参加出来るようになった身分差別がなくなったと言う外形歴史を習う傾向があります。
戦後アメリカ占領下で制定された日本国憲法では,(欧米系にとっては信教の自由は人権保障の基本ですから入れる必要を感じたのでしょうが・・)信教の自由が憲法に明記されたのでこれを有り難がっている人が文化人や法律家に多いのが現状です。
ところが、我が国では自分と宗派が違うからと言って,実際に弾圧や喧嘩など昔からありません・・葬式に行って初めて宗派を知る程度です。
(他宗派排斥論の強い日蓮系が嫌がられて来た歴史・・これがキリスト教が普及に失敗した原因でもあります・・信教の自由を侵害する危険のある排他的宗教を禁止して来たのですから真逆社会です。)
憲法学者や左翼文化人が占領軍の遺産(今で言うレガシイ?)である憲法の有り難みを宣伝したいのに,新憲法による変化を強調する材料に困ってしまい?「神社に自治体が数百円〜数千円の◯◯料を払ったのが違憲でないか」などとあちこちで争うようになりました。
西洋で信教の自由が宣言されたのと歴史経緯・・本質的意味が違うのですから、国民の多くは「専門的なことは分らないがケチな言いがかりが幅を利かす?変な社会になったな」と思う訳です。
ちょうど現在・前衛?絵画展覧会などに行くと素人には分らなくていいと言うような雰囲気と同じ印象です。
絵画には「日本画」と言うジャンルがあるので助かりますが,憲法学者も欧米価値観の受け売りではなく日本人の気持ちにあった・・欧米と日本双方の歴史を理解した国民のために役立つ憲法論を修得してほしいものです。

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