国家的事業と自治体の拒否権4(外国人参政権2)

外国人参政権に戻しますと、中国人や韓国人(正確には外国人全部ではなく永住者に限定するなど規定の仕方によって資格を絞れますし拡大も可能です)が特定意図のために1年ほど前から与那国島や石垣島あるいは壱岐・対馬などに大挙して移住すれば、(既存基地廃止や移転反対決議)事実上決定権を握ってしまいます。
将来的にどこの国に帰属するかについて住民投票しましょうとなると、小さな島々に中国人が大挙し定住して行くとあっという間に中国領土になって行きます。
与那国島の場合には、自衛隊レーダー基地設置に対する住民の意思決定について外国人も投票権があったと書いていますが、高校すらない過疎が進む町.与那国島に外国人が入って来てどう言う就職先があったのでしょうか?
何のために外国人がいるのか不明ですし、何のためにこのような優れて国家的関心事である重要事項について外国人に投票権を認める決議(条例)が出来ていたのか不明です。
ウイキペデイアの与那国町のデータです。
与那国町(に相当する地域)の人口の推移
1970年=2913人 1975年=2155人  1980年=2119人
1985年=2054人 1990年=1833人  1995年=1801人
2000年=1852人 2005年=1796人  2010年=1657人 
総務省統計局 国勢調査より
1昨日紹介したウイキペデイアによると住民投票時の人口は1500人に減っていることになります。
外国人参政権を認めるべきかどうかの議論をするには、与那国島の投票例がちょうど良い事例を提供していると思われます。
折角の事例ですから、実態調査・・住民投票条例制定前後に(日本人を含めて)移住した人がいるか、いつ移住したのか?どう言う職業に就いているのか?住民投票後5年〜10年後も定住を続けているかなど外国人参政権賛否両者は調査報告する必要があるでしょう・・。
当然日本人活動家(活動家かどうかのデータは無理としても直前直後の社会的人口増減)の事前移住などのデータも集積して行く必要があります。
実証研究抜きの観念論だけで議論しているとすれば、政治家・政党として怠慢です。
以下、印象的・・根拠のない空想ですが、・・先ずは日常生活関連を決める自治体には国籍は関係がないと言う宣伝で外国人の投票権を認める運動を数十年単位で先行させておいて、これが浸透して来た時点で原発や自衛隊基地設置予定の過疎地で反対運動を始める・・平行して国策上重要な地域への外国勢力の浸透が始まっている可能性があります。
尖閣諸島の土地国有化を当時の石原都知事が求めたのは、個人のママだと成田空港反対派による一坪地主のように、中国人に買い占められ住み着かれると大変なことになると言う心配があったことによると思われます。
全国原発立地地域や自衛隊基地その他国策上重要施設のあるところに反対活動家が一斉にちらばる必要がない・・狙い定めた特定地域に(外人に限らず日本人でも一定の反対論者がいます)活動家を集中的に移住または周辺土地を買収して行き1回でも否定決議に持ち込めば次に狙った地域に移住巡業?して行けば良いのですから、人口的に言えば国民の0、00何%以下の少数者でも可能です。
例えばダム建設用地の周辺山林・・何町歩と言う広大な山林でも僅かな資金で買収可能ですが、これを成田空港用地のように活動家に一坪ずつ名義変更して行けば良いのです。
100人でも有効な反対運動が可能になります。
成田の場合で言えば、最後は土地収用法による強制買収が図られましたが、この収用委員会自体が自治体・千葉県の権限です。
土地収用法
斡旋・仲裁委員→知事の任命(15条
第五十一条  この法律に基く権限を行うため、都道府県知事の所轄の下に、収用委員会を設置する。
(訴訟)
第百三十三条  収用委員会の裁決に関する訴え(次項及び第三項に規定する損失の補償に関する訴えを除く。)は、裁決書の正本の送達を受けた日から三月の不変期間内に提起しなければならない。」

国政レベルで決まったことが、最後は司法権が最終決定権を有することになります。
この辺の問題点については司法の謙抑性のテーマで別に書いている途中です。
ここでは、折角国会で決まっても実施段階で何十年単位の膨大な時間軸が必要なシステム上の問題点・・これに事実上外国人が関係出来る問題点を書いています。
当時千葉県知事は国策協力方向でしたので、自治体と政府の対立関係がありませんでしたが、それでも収用委員会手続に入るコトまでに長期間を要し、空港開設計画実施・・着手が大幅に遅れました。
いわゆる過激派全学連の成田闘争とは、計画作成に必要な事前現地測量妨害事件だったと思われます。
具体的に委員会が始まると収用委員長に対する身体攻撃が発生し(文字どおりテロ行為です)後任の収用委員を引き受ける人がいなくなり、その後何年も委員会自体を開けない事態が生じていました。
収用委員会が麻痺したまま(この10〜20年くらいの動きを知りまんので再開しているかどうか不明)となったので、結果的に反対派農地を残して工事が進み開港にこぎ着けたので、今でも成田空港には滑走路を妨害するかのように農地・農家が点在しているし、滑走路の増設計画が難しいのはそのせいです。
この現実を見れば地元農民の内1%あるかないか・・国民全体から見れば何十万分の1にも満たない反対者を野党が唆すだけで、政府の国策推進がどうにもならない(占領軍の残した)我が国の制度設計とこれを濫用するものがいた歴史遺物と言えます。
(時流に反対ばかりして来た社会党は消滅してしまいました)
この残存農家・農地こそ、当時の野党が如何に民主主義制度を濫用して来たかの歴史を示す遺物として後世に記念館?として残す必要があると思います。
私は世界各地に建造した慰安婦像もこうした歴史価値があるこう言う捏造批判する国だと言う「韓国の恥の歴史」として残して行けば良い・・撤去運動する必要がないと思っています。

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