EU離脱論に逸れましたが、所得収支大幅黒字下にある日本のフラット化に戻ります。
世界一潤沢な資金を投じて介護や保育所その他の予算を増やす→市場コストより安く利用出来る人が増える=利用者にとっては10万払うべきところを5〜6万円ですめば4〜5万円余計収入があったのと結果同じです。
日本では、社会保障の充実によって所得修正がおこわなれている外、高額所得率も低い・・ソフトバンク社長と副社長の巨額報酬に驚いた人が多いですが、孫氏自身は在日系と言われていますし・生え抜き日本企業ではトヨタ社長でも社長報酬は大したことがありません。
成功者出現を排除しないどころか期待する格差反対論は、論理の行き着くところ従来からの分配率の修正・・成功者の取り分を減らせ→社会保障強化論の焼き直しだったのでしょうか?
日本ではアメリカの真似をして「格差反対」スロ−ガンでは反応する人が殆どいないので民進党の「保育所落ちた、日本死ね!」の主張に落ち着いたのかも知れません。
日本企業の場合事業成功しても、「国民の皆様の応援の御陰さまで・・」と言う精神・・自分一人の働きではないと言う意識ですから報酬取得も程々にとどめますが、(発光ダイオードの中村氏の訴訟が国民支持を受入れられていない原因・・母校に寄付したりいろいろ修正していますが・・)アメリカでは、国民のための企業ではないので経営者は儲ければ儲けの範囲内でいくら報酬をとろうと儲けた人の勝手と言う意識です。
賃金も国際相場との差額を企業が利益を削ってまで支給する発想・・25日まで書いて来た本来の働き以上に上乗せして(例えば10〜20ポイント上乗せ給与を払う気持ち)がありません。
こう言う社会では移民をドンドン入れて結果的に国内賃金水準低下・・国民総体生活水準低下を図って、企業利益最大を図れば経営者報酬が最大化する仕組みですから、従業員や国民全般の生活水準が下がろうともあまり気になりません・・これに対する不満が昨日まで書いて来たEu離脱論の基礎です。
昨年あたりからアメリカが中国工場と国内工場とでは賃金競争力が変わらないと自慢出来るようになった基礎状況ですが、低賃金を自慢されるようでは国民には溜まりません。
アメリカの場合成功も失敗も自己責任を強調する社会のために、いまだに全国民対象とする日本の国民健康保険制度のようなものを作れない状態・・オバマケアーで揉めていることから分るように基本的に社会保障政策は低調です。
自己責任主義の結果、儲けた方はいくら巨額報酬を得ても良いし企業経営者も国際相場以上の上乗せ賃金支給する動機もない結果、格差拡大が半端でなくなりました。
アップルのように大成功する企業あるいは、金融・資源メジャーで大儲けする企業がなければ、格差も生じない普通の低賃金国・・等しく貧しいのですが、なまじ成功者が出る社会だからこそ格差が気になります。
イギリスの場合世界の資本市場として成功したので却って金融関係者との格差が目について不満が噴き出したと言えます。
※イギリスでも金融取引関係者の多いロンドンでは残留派が多かった所以です。
さすがのアメリカも、格差拡大不満・反ウオール街意識の高まりに危機感を抱いた結果、国際相場に合わせた低賃金化進行による生活水準の急低下を修正するために、フードタンプの配給になっていることになります。
食糧券の配給に深夜12時に並ばせられるのではあまりにも国民が惨めですし、それとなく給与水準を上げて行く日本の優しさに比べて政策的に拙劣です。
ところでフラット化の追求・・従来60の技術者しか出来なかった仕事をロボットの補助等で20点の人でも出来る時代・・結果平等を模索するのは良いことですが、他方で努力する楽しみを持てる社会が必要です。
フラット化・平等化達成に反対するよりは、達成されれば達成された平等化の中で少しでも周囲に差をつける努力や意欲の能力差(制服着用下でもアクセサリーなどちょっとした工夫でオシャレする能力)がその社会での格差反対論の強弱に比例します。
江戸時代に奢侈禁止令が出るとそれで美術・文化が衰退するのではなく、着物の裏地で勝負したり言論の自由がないと落首で挑戦したようにその範囲内での挑戦能力の有無によります。
命じられた以上の仕事をしたら損だと言う意識の民族では、50点の人が25点の努力でできる仕事を与えられると楽出来るのは良いが、収入が減るのが不満でしょうが、日本人の場合、5〜60点の人が25点の仕事を与えられると能力が余るので、余った時間で与えられた仕事の改良などに努力工夫する人が多く出てきます。
身分格差の激しかった古代に於いて、地下人から自己実現努力によって武士団が抜け出て来たし、その内武士自身が信長など見ても分るように高度な文化の担い手になって行く・・・・江戸時代には町人やムラの名主階層まで俳諧等の高度な文化をたしなむ・・江戸時代初期から市民が文化の担い手になっています。
生き方として仕事させられていると考えるか仕事をしたいからしているかの違いですが、捲まず撓まず努力するのがスキでない社会では格差反対論で騒ぐしかないのでしょうが、格差反対論が支持される社会かどうかは、時間が余って工夫する時間が取れて嬉しいと感じる社会か否かの違いです。
日本で欧米の流行を取り入れて「格差反対」と文化人(欧米の真似すれば良いと思っていて日本の実態を知らない人が多いように見えますが・・)が叫んでも同調する人が少ないのはこの違いです。
日本は古代から一握りのエリートの指示に従って盲目的に動く社会ではなく、一人一人の納得で動く社会ボトムアップ社会であることを繰り返し書いてきました。
その前提としてどの分野の人の仕事にも神が宿っている・・便所掃除でも皿洗いでも何でも自分の職分には誇りを持って行なう精神が強固です。
大量生産社会到来後も各分野の仕事をしている人は自分自分の持ち場に愛着を持っていて、流れ作業に身を任せていれば良いと言う怠け者は例外で、同じ流れ作業でもこれを如何に良い物にするかの工夫に精進している人が普通です。
その中から多能工が生まれていて、最近ではその方が効率がいいと言われています。
零細規模の現場系でも20年くらい前ではちょっとした機械(例えば自販機)を数十センチ動かすのに、これは電気工の免許がないと出来ないとか水道の許可業者でないと出来ないとかタイルはタイル工が来ないと出来ないとか、いろんな職人が来て頼んだ方はびっくりする・・巨額請求に対するもめ事がありました。
最近ではこんなことでは客が納得しないので、窓枠のちょっとした交換その他リフォーム工事では、多能工独りで大方こなすのが普通になっているようです。
幕末の外国使節の日記などでも、下働きの女性でも諸外国では一々指示しないと働かないが日本人は指示しないことまで気を利かせてやって来ると驚く記述があります。