統計の正確性に戻りますが、統計とは国民の客観的な動きを把握=客観行動から民意を知る=民意に従う政策に活かすための制度です。
民意などどうでも良い中国の場合、国民の動き・民意を正確に知る必要がありません・・むしろ政府に都合の良いデータだけ公表する・・国民や外部に分っていない方が自由裁量性がありますから、各種データを混乱させる方が有利とする政策でしょう。
ただし、取り締まり対象としては正確なデータは欲しいでしょうし、その前提として不満蓄積前段階の経済の動き・倒産情報その前の不良債権率なども早めにキャッチしたい点は同じです。
政権の外にいる国民や外国に知られないで政権だけが知ることが出来る都合の良いデータはないので、個人企業で言えば脱税用あるいは燃費偽装など対外向けの二重帳簿を作るのが最も原始的で合理的です。
しかし国家全体の二重帳簿を誰にも知られずに作るの不可能ですから、結果的に政府権力者自体が自分の支配している国家の実態を知ることが出来なくなります。
ゴルバチョフの自伝だったかでは最後はどこへ行っても政府の実態不明で政治にならなくなっていたと書いているとおりです。
組織トップが不正をすると末端も不正をするようになるのが北海道警察事件その他で明らかになっていますが、トップだけが出来上がった数字をいじっていると、下位の地方政府もいじる→そのまた下部機関も順にいじるので、訳が分らなくなっているのが現在中国(旧ソ連組織同様)です。
ビッグデータ利用は、現在社会を効率よく運営するための必須作業である筈ですがこれの有用性を認めるものの、政府が収拾するのに反対と言うのは、政府は国民の敵対組織と位置づけているからでしょう。
防犯カメラに反対していた・・・犯罪があれば、犯人像や移動経路把握に反対するのは、国家秩序に反抗するものは全て保護すべきと言う思想によれば一貫しています。
犯罪・・国家秩序破壊から国民を守る国民の利益とスーパー店舗内や道路など公的空間でのプライバシー侵害との兼ね合いと言う視点が抜けているのです。
この立場からすれば、国民支配道具としての情報収集に反対・・収集目的が違うと言うことでしょうが、革新系文化人は中国基準(取締目的)でのデータの必要性を見るから政府のデータ収集をいやがるのでしょうか?
政府は国民の敵と言う意識が強いようですが、国民主権国家では国民のために政府が如何に働くかが重要です。
政府は国民のために働く下部機関ですが、企業で言えば部下にキチンと仕事をして貰うには、仕事の対象に関する正確な情報提供が必須です。
痛いところを治してもらうには出来るだけ多くの情報を医師に与える必要がありますが、会社に降格されたくない基準で言えば、会社には体調をあまり知られたくない方向に働きます。
「何でも反対」と言う革新系の意識に「政府は国民の敵」と言う前提があるのでは、国民国家の時代に前提が合っていないことになります。
国民主権社会では、日本社会のためになることを目指すのが政府の仕事=政府や野党政治家は国民のためになる政策提案を競うものですが、政府の政策は全て国民敵視政策と決めている立場からすれば、その政策が国民のために役に立つかどうかの検討よりも前に国家秩序に組み込まれるかどうかの視点・・組み込まれる恐れのあるものは全て反対となるのは仕方がないことです。
しかし統計や防犯カメラなどに協力すれば統治機構に組み込まれるかも知れませんが、安全社会や統計の正確さによる政治の効率化(ひいては国際競争に生き残る)の恩恵を国民が受けるのです。
革新系文化人は、社会の利便性や恩恵を無視して統治機構に組み込まれること自体が悪と言う19世紀の夜警国家の思想にこだわっているように見えます。
何かと言うと近代法の原理に反すると言うのが彼らの特徴ですが、思想の基礎が違って来ているのです。
現在中国ではまだ人権尊重が未発達・・国民主権国家ではないことから正に妥当する原理ですが、これを日本に持って来て教えてやると言うからおかしなことになるのです。
核実験であれ公害であれ、中国のやることには一切問題にしないで2世紀ほど先に走っている日本で19世紀型思想基準で問題にするのですから(幼稚園児に妥当する行動基準を大学生に強要しているようなもので)適用の場を間違えていないかの疑問です。