差異化社会4と多様な生き方3

従来型画一生産での国際競争においても、女性の視点が必要ですから、日本文化伝承が必要と言う立場でも、女性が一定数参加して頂くのは合理的です。
ですから、女性がみんながみんな従来型大量生産に参加させるために保育園など拡大するのに反対ということと、女性が一定数従来型生産方式へ参加したり、その一端である既存体制である指導者・・政治家や企業役員等への進出などへの参加を否定しているものではありません。
欧米あるいは中国的価値観バカリではなく(米中や西欧等の価値観は基礎が同じであることを年末に連載してきました)日本的価値観・・細やかなものを作って行く人や、変ったものを大事にする価値観が社会全体の主流になるほどの人数がいらないとしても、これを大事にする女性や好事家をバカにしない・・光を当てる必要性を書いています。
・・補助金や生活保護を拡充する即物的対策ではストレスをなくせない・むしろ彼らが誰も大して利用してなくとも、大事にしている気持ち・・やっていることを尊敬する心・・誇りを持たせる社会のゆとりの必要性を書いているだけです。
このゆとりが結果的に多様な文化を生み、次世代に光るものを日本から発信して行く種になるし、格差意識・ストレスを緩める効果があると思われます。
日本文化継承にこだわると、国家衰亡の道か?と言うとそうではありません。
明治維新以降バブル崩壊までは、外来の大量生産に向けた文化の取り入れは急務でしたが、今になるとむしろ基礎になる細かな作業を厭わない・幼児などを大事にする精神文化がなお生き残って来たこそが重要になっています。
細かな末端道具類を作る技術や行儀作法・結果を賞讃する社会では、いろんなものが生まれて来る・・これを愛でる文化は結果的に・・多様な価値観が賞讃される社会になり易いのです。
変なものを珍重する文化・・多数・少数の比較で言えば少数者の作品を大事にする文化であり・これが古代からの弱者・敗者を大事にして行く合議制の基礎です。
陶磁器でも中国や朝鮮半島では、型に決まったもの以外は相手にされないが、日本では変わった形が生まれると珍重され高く売れる・・この結果超高級品は日本に輸出される習慣が、何世紀も続いてきた結果、良いものは日本にしかない状態になっています。
日本では、織部焼きなどの変形ものが珍重され傑作が残ってきました。
「ひょうげもの」を珍重する文化と俳諧や、落語や川柳・狂歌・落首が生まれる土壌には、共通性があると思われます。
今の酷い中国をしらない2〜30年前に、漢文程度の知識しかなく中国文化に憧れていたときに、台湾の故宮博物院に行き3〜4日家族で通ったことがありましたが、清王朝の傑作と言っても象牙を精密に彫刻したり、石造りの桃ノ木などバカリで、作品が田舎臭・・泥臭さには、驚いた記憶があります。
中韓では儒教の影響で、からだを動かす労働を卑しむ価値観・・手を組んでいる身分が尊ばれる傾向が強い点が、下積みの物造りに優秀な人材が行かない・・勤勉に働く意欲を阻害していると言われます。
これがポスト産業資本主義への移行に赤信号がともっていると言われる所以です。
イタリアも「ママン」の影響力の強い社会であることが知られていて、だからこそ大量生産競争では負けて来たものの、高級車その他職人芸の技術が伝承されていると言われています。
そのイタリア料理では、黙々と働く日本人が誰もやりたがらない下働きばかり押しつけられている間に、いつの間にか日本人シェフがイタリア料理を支えるようになっていると言われているのもてを動かす作業「下積み仕事」をいやがらない・バカにしない国民性を表しています。
多様な生き方を認める社会に方向転換して行くとすれば、日本は最も適応性のある社会だと思っています。
ポスト産業資本主義社会が差異化社会であり、選別から落ちこぼれる人が輩出する絶望社会化が始まっていると言うのも1つの意見ですが、逆に多様な生き方を認める必要に迫られる社会だとすれば,これまで画一社会で息苦しく感じていた多くの人が解放される可能性を持つ社会でもある訳です。
現場系の親が、親は自分が駄目だった?分・・「子供だけは何とか高校くらい出してやりたい」と無理に高校に入れたがる親が一杯います。
自分が子供の頃に勉強がイヤだったのに、子供なら大丈夫と決めつけるのが不思議ですが・・・。

差異化社会3と多様な生き方2 

子供は自分のことを自分で一番良く知っているので、自分の能力にあったことをするのを厭いません・・どんな下働きでも、人は自分のレベルにあっているグループ内で自分の居場所を見つけて喜んで生活するものです。
私の少年事件処理の経験から言えば、子供自身が中学の授業が分っていないので、高校に行くのも無理・・自分の能力はこんなものと自分で良く分っているのが普通です。
知育教育には向いていない子供でも、何か役に立ちたい意欲を充分に持っているのが、諸外国との大きな違いです。
これは昔から、いろんな生き方を認めて尊敬して来た我が国社会の伝統が生き残っているからです。
November 22, 2015「民度と政体と4(新興国3)」で「分際を知る」テーマで分際を知る必要性を書いたことがあります。
「分際を知る」とは能力限界を知ってこれを受入れてじたばたしない能力であり、周囲もこれを尊重する社会です。
我が国では古来から、万物に神宿る精神で、些事・・何をするにも細かな儀礼様式を重んじ、身の回りの細かな道具類も大切にして「◯◯塚」などを作って供養します。
ましてや(刀鍛冶等名刀や伝統工芸品を作る人だけではなく)日用品でもどんな物造りに関しても、その道に精進している職人等を尊敬する精神でやってきました。
針塚その他の身近な道具でさえ神様扱いして来たことでも分るでしょうし、今でも日経新聞最終裏面で約1面を使って、しょっちゅうどうでも良いもの集めたり来歴を調べたり、保存運動・編纂している人の記事が大きく取り上げられて賞讃されている社会です。
1月4日の日経朝刊にも絵双六に関する市井の研究家が掲載されていて、今朝の朝刊にはけんかカルタの保存運動している人が紹介されていますが、こうした掲載が何十年もほぼ毎日続いているのは、これを賞讃する社会意識があるからです。
日本は古代から、八百万の神々を祭り、多種多様な価値を認める社会ですから、西洋式学校教育の画一的価値基準で落ちこぼれたからといってそれは職業向け能力の1つに過ぎないのであるから、そんなにがっかりする必要はありませんし早く別の道に進ませるべきです。
西洋伝来の画一的学校教育に馴染まない子供を一刻も早く解き放ってやることこそが必要です。
日本は分際(素質の方向性)に応じて生きて行くのが、難しい社会ではないし、みんながそれを望んでいるのです。
一応定年まで勤め上げた人の中にも、明治以降のさばっている知育基準の画一社会に不適合な人も一杯いて、何とかノイローゼにならずに定年まで持ちこたえていた人・・漸く解放されたと思っている人がかなりいる筈です・・。
そう言う人は定年後、まだ気力・体力があるからもっと画一社会で働けと言われても、もう懲り懲りでしょう。
気力の残っている人は、これから第2の人生をやる人もいますが・・・多分懲り懲りしていたが、体力・気力が余っていた人だと思います。
私の場合、能力が偏っている・・画一社会向きではないのに、未だに現役を続けていられるのは、タマタマ、個性的に生きて行き易い職業についているからに過ぎません。
明治以降西洋流の画一基準・・鋳型に押し込めるような窮屈な教育によって国民を一定方向へ向けたのは,折から勃興して来た産業構造・・画一生産力が国家の命運を決める時代・・労働者向け社会化にはある程度成功したとは思います。
1月3日書いたようにポスト産業資本主義(差異化)社会になってくると、単線的能力差が進むばかりでは、差を付けられた人のストレスが増すばかりです。各社会批判→唯物津論的対応・・高校授業無償化・精神科医を増やすばかりでは解決出来ませんので、個々の自由な生き方を広げて複線的・違った価値基準での挑戦機会を増やして行くことが個人の幸せばかりか社会発展のためにも必要です。
そして日本社会こそが、古代から多様な価値・生き方を認めて来た社会であり、この精神が明治以降圧迫されていた結果、文化伝承作業が定年後の慰みや、画一価値社会に絡めとられてない健全な女性の営みによって、日陰で脈々と受け継がれてきました。
これを無職女性の暇つぶしの余技や老後の慰みとバカにしないで、古来からの日本のアイデンテイーを守る大切な価値観であると認め、その復権・・古くて新しい価値観の時代こそ作って行くべきです。
私が、従来から女性の復権は男性の真似をして「朝早くから夜遅くまで外で働くことはない」「競争して勝つことではない」と繰り返し書いてきましたが、違った能力をゆったりと受け止める女性の子育ての生き方こそ日本文化の正当な継承者として尊敬すべきですし、保育所に乳幼児を預けてしまい、最重要な子供に対する文化継承作業を断ち切る政策運動に反対し続けている所以です。
ただし、高級品が売れる社会になったとしても、アップル製品等見れば分るように産業革命の延長上の大量供給品に頼る必要がなくなる訳ではありません。
効率生産・大量供給による時間や資金のゆとりがあってこそ、隠れ家的ホテル,レストランその他上質文化を楽しむゆとりを生むのですから、効率的大量生産組織や人員が不要にはならず、衣食足りて礼節を知ると言うようにむしろ文化の両輪と言うべきでしょう。

差異化社会2と多様な価値観の復権1

高齢者が自己の能力減退を見定めて生きているように、若者(中高年)も自分の将来の到達点を見定めて、老人並みに達観する能力を磨くことも重要です。
とは言うものの、若いときの特権で能力以上の遠大な夢があってこそ・・一見無謀な挑戦が成功することがあって、社会活力の源になるのであって「俺の将来こんなもの・・」と中学・高校時代から全員諦めている社会がどうなるかの心配もあります。
大方の若者が自分の能力に応じた選択して、たまに元気な若者が、夢に挑戦出来る社会・・・失敗すれば気を取り直して、別の方向へ転換出来るシステムが理想的かも知れません。
フランスその他の移民社会では、アラブ・アフリカ系移民2〜3世が将来の展望なく成人になって行く・・テロ予備軍になるリスクが、今になって重大問題になっています。
独仏等のアラブ系移民2〜3世のテロ予備軍は、本来能力(素質)がある子供もいるのに,移民したばかりの経済格差や言葉の壁などの外部要因でマトモな教育を受けられないことによる絶望的状況・・格差拡大・固定です。
難民の場合有能な人も交じっていますので、政策次第で何とかなる人もいますが、初めから現場労働目的で入って来る階層の場合、千年単位の文化継承が違う上に形式的知能指数基準でもいわゆる落ちこぼれ系中心になります。
代々の日本人でも社会の高度化について行けない人材が下から順に増える一方でこれをどうするかの問題に直面しているのに、日本語の通じない・家庭教育の習慣のない親に育てられた異民族2世の場合なお大変なことになります。
少年事件では(外国人)親が風俗系で働いていて朝方まで帰って来ない・・すぐに寝てしまうので弁護士の方から連絡出来るのは出勤直前の夕方しかない親がいます・・。
審判の結果自宅に帰れることになっても、親は寝ていて迎えに来られないと言う子もいて、その間事務所にいなさいと言うこともあります。
日本人の場合子供が事件を起こした審判となれば万難を排して親が出席するのが100%ですが、・朝起きられないからと言って、審判に立ち会いもしない・・行っても結果は同じと言えば同じ・・文化の違いに驚きますが、それは別として・・親が夕方からいない子供の家庭教育はどうなっていたのか?
最近学級に移民2世向け会話出来る教員配置の必要性などが言われていますが、社会にとって大変な負担になる割に大して効果のないことが明らかです。
私はこう言う結果になるのが分っているから、低賃金労働者受け入れの移民はやめた方が良いと言う意見を、古くは13年前の01/05/03「外国人労働力移入 2(人口減少賛成)」前後の連載で書いたのを手始めに、11/10/05「市場競争と脱落者のケア2(フランスの移民の暴動)」その他で繰り返し返し書いてきました。
目先労賃の安い労働力を利用すると、次の世代で膨大な負担と社会不安を引き起こし、大きな付け払うことになります。
独仏の移民政策の失敗・・目先の低賃金労働者確保目的でも移民導入政策間違っていたこと・・日本が人手不足代替のロボット大国になった成功を論じるべきで、ここまではっきりした段階で(独仏の移民受け入れ失敗→テロの恐怖に怯えているのを無視して)日本の難民受け入れが少ないとか、移民受入れ拡大主張を展開するおかしさには驚くばかりです。
ただし、日本では、偏差値その他で早くからスライスされ過ぎているので、早くから現実に目覚める・・夢を失った若者の続出は、(独仏等の移民2〜3世のように直ちにテロ予備軍にはならないでしょうが、)能力の低い若者が早くから閉塞感を抱くのをどうやってケアするかを検討する必要がある事は確かです。
人間に能力差がある限り優勝劣敗が起きるのは不可避ですが、これをいつどの時点で知るか,転換の容易さやどんな職業も尊敬する社会か否かによって、達観出来るか自暴自棄になるか、精神科医の世話になるか,原理主義宗教・テロ組織に入るかが分かれます。
自分の能力限界や適した方向性を早く知った方が不適性な方向へ間違って進まないで済むし、無駄な努力をしなくて良いので、1面では合理的です。
40歳まで挑戦し続けてやっぱり無理だったと諦めるのと、10台で諦める・・自分の限界を知るのとでは、効率性や衝撃度が大違いです。
教育界が多様な人材が必要と教研集会などのテーマにしながら、画一基準で選別教育していることについて、02/05/07「多様な人材の生きていける社会へ1」以下で批判した・・その他でも折に触れて批判してきました。
唯一神を基本とする社会・・画一的価値観の西洋から導入された学校基準に毒された(知育偏重基準のより上位を目指す)無理な挑戦にこだわらないで、出来れば早く方向転換した方が良い人が一杯いる筈ですので、早めに進路選択を決めた方が良いのは確かです。
進路選択が仮に早く決まるとしても、自分は東大や超1流大学は無理で、そこそこの大学しか行けないと分っても、その程度のことで人生に絶望し、自暴自棄になる人は少ない事は誰でも分ります。
ここで強調したいことは、偏差値基準の単線的上下格差を固定する進路選択ではなく、偏差値最低レベルの高校でさえもついて行けない子供でも、多様な価値観・・植木職人やトビ、ペンキ、基礎工事等々・・小さなものを終日根気よく磨き上げるのが好きな子供もいることです。
従来型ルートから外れてもアップルで有名なジョブスのように大成功する人がいる・・こう言う可能性を言うのではありません。
ジョブズの場合は、従来型単線的価値観の達成を前提にその目標に達するための別ルートに過ぎません・・。
私の言うのは到達点自体の多様性です・・路地の片隅の居職人のママまで、最後までこつこつとやって一生終わって行くことで満足する人が一杯いる・・日本では昔からこう言う生き方を尊敬する社会です。
日本古来からの伝統である多様な社会・・あらゆるものに神宿る・・多神教の社会を取り戻そうと言う意見です。
大きな神社も、寒村の祠も大切にする・・いろんな道具や物品・生き物まで◯◯の神様△の神様としてそれぞれ大切にお祭りする社会です。

若者と達観力(差異化社会)1

中高年を含めて若い人は高齢者のように悟る必要がないとしても、達観すべきときに達観出来ないとストレスが生じます。
(中高年を含めて)若い人のストレス・精神抑うつなどは、将来不安に根ざしている場合が多いと思われます。
精神科医がはやっていますが、要は自己能力と合わない無理な到達点を設定しないことや、間違った場合の修正可能性でしょうか?
うつ病等の増加原因が、・・能力以上のレベルを要求される学校や組織に入っていることにあるとすれば、薬を飲んで根本的解決する筈がない・・究極の解決は所属組織変更・目標値のレベルダウンしかありません。
レベルダウンを精神的に受入れられるかどうか・・個人の資質だけはなく、社会が転換を暖かく受入れる仕組みが必要です。
私どもも本来は高齢化に伴うレベルダウンに悩むべきですが、幸い年令(トシ)の功?で周りが一応敬意を表してくれる・・行く先々で大事にされているので、「俺はもう駄目だ」と開き直ってこれを悟りと称していられる?・・有り難さです。
能力の落ちた高齢者をバカにしないで逆に尊敬する道徳が確立しているのが,高齢者にとっては有り難いものですが・その分老害にならないように自覚的に身を引いて行くルールが成立しています。
高度成長期を生きて来たので、(例外もありますが)多くの高齢者には相応の蓄積や年金制度の保障があって生活に困らない点も大きな裏付けでしょう。
コトブキ退職みたいなもので、ノイローゼになる必要がありません。
この数十年で能力差による待遇差が厳しくなって来た・・受けいれる方もゆとりがなくなって来た点に戻ります。
昔・・農業社会を見れば分りますが、80点の能力の人も40点の能力の人も同じような時期に稲や麦を植え付けし、人の真似をしている限り収穫量がそんなに変わりませんでした。
能力差よりもより広い農地をもっているかどうかで、結果の違う社会でした。
現在社会では人並みの能力さえあれば、差がつかないのではなく、80点〜70点〜60点の人など、10点刻みどころか3〜5点刻みでさえ大きな差がつく時代です。
職場で大きな差がつけば、大きな家屋敷を相続した資産家の後取りも悩む点は同じです。
昔の女中さんの仕事程度では、隅々まできりっと掃除出来る人と出来ない人とでは、主人の覚えがちょっと違う程度ですが、これが企業で精密品を作る能力差になって来ると企業貢献度で雲泥の差が出て来ます。
事務処理や、対人交渉力も同じで1点差でも、契約を取れる人とれない人とでは、ゼロと全ての差になりますから、営業マンから能力主義が始まりましたが、内勤事務職も単に記録するだけはなく、企画立案能力やモノゴトをまとめる文書作成能力になって来ると,文字を書けるだけではなく、それ以上の差がはっきりしてきます。
企業は採用時点では求人者の能力詳細不明なので、比喩的に言えばアバウトな学歴や6〜80点の大きめのハバで採用しておいて、細かな能力差は仕事を通してみる仕組みですから、能力差を厳しく見る時代が来ると、無能でも年功で課長や部長にして行けなくなり、脱落組が出るのが避けられません。
弁護士の場合も実務経験によって能力差が広がりますが、これまでは弁護士数が少なくて実務向きでない・ある種の脱落組でも何とかなっていた・・外見不明でしたが、ここ10年ばかり弁護士数が増えているので不適合・底辺層になると食べて行けない不安一杯の若手弁護士が増えているでしょう。
昨年秋司法試験に合格したばかりの若者が公務員試験にも合格したので、私のところにどちらにするかの進路相談に来たのですが、今では合格時点で早めに悩む人が増えています。
これは弁護士になってから不適合に悩んでいる人が一定数いるからこそ、この気配を察した若者が入口で悩むようになったのでしょう。
大手企業に就職出来た場合も、脱落予備軍が組織にしがみついていると居心地が悪くてストレスが溜まります。
1流の高校に間違って入ってしまい、授業について行けなければ2流高校に転籍出来れば気楽ですが、(部活ならやめれば良いだけですが・・)これが簡単に行かないので、ストレスになります。
企業も同様で、いろんなランクの職場があって簡単に転籍出来れば良いのですが,一旦就職してしまうと中途退職に降格イメ−ジがつきまとうのが難点です。
「鶏口となるも牛後となる勿れ」と言うように最初に能力以上の組織に入るのは運が良いように見えて、長期的には却って不幸になることがあります。
バブル崩壊以降能力差を次第に厳しく見る社会になって来たのに対して、個人の方は厳しく能力査定されることに対する心の準備が追いつかないことや、これを受入れる(敗者復活)社会システムが追いついていことが、ストレスに悩む人が近年増えて来た大きな原因です。
1月3日日経新聞7pに経済学者岩井克人氏のインタビュー記事がのっています。
地方からの低賃金労働者吸収による高度成長・産業資本時代が終わったのがバブル崩壊であり、その後はポスト産業資本主義時代へ転換したと言う意見のようです。
これによると、(私の間違った理解かも知れませんが、)ポスト産業資本主義時代には、他企業→他者との差異化がないと生き残れない・重要になったように見えます。
汎用品を新興国に委ねる時代が来れば、汎用的・規格型人材も不要になります。
バブル崩壊後も前もって志願者の個性能力を把握し切れないので、企業は従来どおりに概括的基準・・学歴や旧来型試験で採用し続けている結果、採用後に実務経験を通じて事後的に差異化する・退職勧奨するしかなくなったようです。
若者は昔のように「◯◯に就職出来れば一生安心」と言えなくなったと言われます。

人生を味わう2

日々限界に挑戦しているスポーツ選手などは、以前より多く練習してもそれぞれの分野で選手寿命の限界があるのを誰でも知っていますが、凡人の日常生活は限界に挑んでいない楽な生活をしているから,体力の下り坂に入ったことが分り難いものです。
あと一歩も歩けない程、限界まで歩く人や寝不足や大食いの限界に挑戦する人も滅多にいないので、凡俗には限界値が下がっていることには気づくチャンスがありません。
厄年とは、普通の人は体力の下り坂になる転機に気づかずに従来とおりの生活をしていると、転んだり病気するよ!と言う戒めです。
この程度のことは、誰でも知っていますが、理屈が分るだけで、実感を伴わない・・限界能力の3〜4割しか使っていないつもりがいつの間にか限界の8〜9割に迫っているのに気が付かないからこそ(疲れが溜まってしまう・・)「転ばぬ先の杖・気をつけろ!」と言う厄年の教えなのでしょう。
無意識でいろんな厄年をくぐり抜けて来た私のように鈍い人間でも、70歳を過ぎると日常生活で日々体力・能力の衰えが目につくので、(具体的にどこかからだの具合が悪い訳ではないですが・・)寿命が細り始めているのを身近に感じるようになります。
厄年以降、体力が下り坂になってからの負けん気の発揮は、無理するとつまづいて転ぶだけですから、徐々に能力がゼロに近づいて行くのを従容として受入れて行く・・これが高齢者が自然に身につけて行く達観力・・特技と言うべきでしょう。
イヌを飼っていましたが、犬も高齢化して寿命が近づいたときには、私よりもずっと達観した顔をしていました。
能力の下り坂を口惜しいと思って「何を!っと、頑張れないのが可哀相」と思うのは将来のある若い人の発想で,高齢化するとこの先に良くなる未来がない代わりに「終わり」に近づくことを達観して行く過程・味わう能力が身に付いて行くのが不思議ですし、楽しいものです。
これから草木の萌えいずる春も良いですが、枯れて行く秋の夕暮れも良いと言う違いです。
古来から「秋の夕暮れ」の味わいを讃えている詩歌がいくらもありますが、この境地を表してるのでしょう。
悟りの境地などお釈迦様または特別な高僧でないと無理かな?と思っていましたが、図らずも高齢化して日々能力低下の進行を実感し、これをそのまま受入れる境地になって来ると、悟りに近づいていると思われていた昔の高僧は大方高齢者だったことが実感出来ます。
特別な人格者の悟りの境地とは内容・レベルが違うでしょうが、年さえとれば、凡俗も犬猫も皆「死」に向かって、おのずから悟りに近づくようです。
その気になって、周りの高齢者を見るとみんな元はどうだったと言わずに、弱くなった立場・・自分の体力気力の衰えをそのまま受入れて,・・、人の世話になればそのまま弱者として感謝して生きているのに驚きます。
これを惨めと言うか悟りに近づいていると言うかは、人の気持ち次第です。
老化を知って「惨め」と思う人は年齢進行に抗ってスポーツジムに通ったりして、「若い者に負けないぞ!」と頑張るなど人それぞれですが、私は(「己を知る」などと言い訳して)易きに就く方・・「年寄りの冷や水で鍛える」などもっての外ですから、秋が来たら早めに腹巻きするなどお腹を冷やさないようにしています。
易きに就く私の生き方からすると、元気に働いていた人が、(現役で)イキナリ亡くなると「可哀相」・・寂しいと言うのは、秋から冬に掛けての味わいを楽しむ期間がなくて、・盛夏にイキナリ「終わり」が来るのを勿体ないと言う意味かも知れません。
他方最後まで元気印の生き方を良しとする人は、「最後まで現役ですごい!と言う評価になるのでしょう。
私流の価値観では、お芝居でも音楽でも起承転結があるように、途中で幕引きになるのでは物足りないように思えます。
歌舞伎の1〜2幕だけ見る人もいますが、理解力が高いから理解出来るのかも知れませんが、私のレベルではやはり3〜4時間ものならば、3〜4時間かけてみた方が良いと思います。
ベート−ベンも「じゃじゃじゃじゃジャーン」と言うところまで聞かないと聞いた気がしないのが、凡人の辛さです。
今年は、元旦に書いたように悟りの境地の入口に立ったように思う自分に驚き、且つこれを味わえるようになった自分をほめながら,今後人生を味わい・楽しい1年を過ごして行く元年にして行く予定です。
ただし、若いときに自分の能力の限界を知るのはどうか・・悟っていられるかと言う別の問題がありますから、若い人にはこう言う生き方を勧めてよいかどうか分りません。
・・悟ったフリと言うか能力縮小・・最後にはゼロになることを自覚して気にならなくなるのは、下り坂に差し掛かった老人の特権・・生きて行く智恵と言うべきでしょう。
若いとき・・まだ上り坂の途中にあると思っている時期には、「これからは、下り坂しかありません」「達観しろ」と言うのは無理がありそうです。
(それぞれの能力に応じた目標としていた)登山に成功して、これから景色をゆるゆる眺めながら足下に気を付けて下りましょうと言うのと、目標途中で登山を諦めて下りましょうと言うのでは、意味が違います。
先のあるときには他人に負けるのに我慢出来ない口惜しさ、あるいは絶望は・・負けっぱなしでは将来が不安ですから当然の反応であって、これが向上力のバネにもなるし正常な気持ちです。
私たち老人の達観力?を若者が急いで真似する必要はありません。
達観や悟りの境地は高齢者のものですから、今年も若い人は悟らずに?頑張って前に進んで下さい。

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