各種売れに売れている大ヒット商品についても、大ヒットテレビ放送等でも国民の過半数が視聴したり買っていることは滅多にありません。
映画も野球もベストセラーも全て国民の過半数が見に行ったり買ったりしないと、国民がその映画や本が嫌われている・・失敗作とは言わないでしょう・・国民の一割でも見たり、買ったりすれば大成功ではないでしょうか?
特定のチョコレートを国民の1割も買うようになればヒットどころかホームランです。
国民の9割が否定しているのではなく、何万と言う似たような商品がそれぞれ0、00何%しか支持されていないのに対して、その商品だけが10%もの人から支持されていると言う見方をするのが普通です。
ある店で作ったお菓子が10個しか売れないのに、別の店で作ったお菓子が100個売れれば、多く売れた方が成功していると評価出来る・・人口比何%しか買っていないかではなく、比較多数に価値基準をおくのが人類共通の基準です。
上智大学教養学部教授中野晃一氏(政治学)の意見では、政党別の得票率を言うだけであって個々の候補者の得票率は有権者の半分以下でも良いんだと言うのかも知れません。
しかし、政党は選挙区で当選した・信任を受けた代議士の集合体として国政に影響力を持っているのであって、政党と言う抽象的なものは、制度上直接(比例代表制によって顔を出している程度ですし、これも個々の代議士の小選挙区での得票率・・惜敗率によることになっています。)予定されていません。
また政党別得票率と言われているものも、多分各選挙区の得票合計=各候補者の得票数によっている筈です。
政党の力は、個々の代議士が選挙区で国民の信任をどれだけ受けているかの集積ですから、選挙制度論は、個々の代議士の当落に関係させる議論でないと意味がありません。
あるいは政権批判しているだけで、野党の得票の場合には、こんなに批判票があったと、得票数だけを取り出すのが正しいとすれば、御都合主義過ぎてこれもおかしな議論です。
安保法制反対デモでは、人口一億数千万のうち(主催者発表で)数万人も参加したと大いばりですが・・・。
この学者の意見だとデモに参加しないその他国民全員が、安保法制反対運動を支持していないことになるのでしょうか?
投票率に話を戻しますと、選挙の都度、有権者の過半数を得た場合だけが信任されている→当選とした場合、昨日紹介したように石原氏でさえ僅か3割の得票率にしかなりませんので、適格者が全国でゼロ名〜7〜8名しかいない可能性が大ですが、そうすると日本全国殆どの選挙区では地元選出代議士がいない状態になります。
それでは困るので共倒れ防止のために選挙前の談合がはやって、実際には各選挙区では一人しか立候補しないようになるのでしょうか?
事実上の絞り込みの結果、選挙が事実上なくなって地方ボスの話し合いで村長さんを選んでいた時代に逆戻りになりそうです。
実際に千葉県弁護士会は未だにそう言う状態で、選挙らしい選挙したことがないことをこのシリーズで紹介しました。
気心の知れた少人数組織でしかも元々政治的な意見対立課題がない・・日常的同業組合的事務処理が中心だった時代・・例えば総称手続運営についての裁判所や検察庁との話し合いなどでは、プロの委員会主導で検討して、会長そのとおり発言して行けば良い・・適当な年功でなって行く・・言わば政治的立場は誰でも良かった・・日教組との政治対立のないときの小中学校の校長先生が名誉職だったのと同じです。
現在のように弁護士会が政治意見をしょっ中発表し行動するようになって来ると、(従来型お任せ意識の会員にとっては話が違うじゃん・・潜在的な会内意見対立・・)不満が蓄積して行きます。
運動体的な各種委員会はこの動きを早めに制して、従来名誉職的地域代表だった常議員会に委員会推薦立候補をさせるようになって来ていることを以前のコラムで書きました。
この結果「政治運動まで任せていないよ!」と不満が出るようになると、直ちに「正当な会内手続を踏んでいる」と言う反論が出て来ます。
こう言う正当化論が中国の全人代(地方から順次上がって来た民主的意見によって運営していると言う独裁正当化論)が民主的であると言う論理の基礎です。
弁護士会の場合、一人しか立候補しないと選挙すら実施しないのですが、立候補者が一人の場合こそ、信任・不信任の投票をしたら本当にみんなの意思で候補を絞ったのかの判定が明らかとなります。
公職選挙法の場合はどうなるのでしょうか?
候補者を一人に絞っても選挙・・信任投票を実施するとした場合、有権者の5割以上の投票率がないとこの理屈では不信任になります。
22日に紹介した上智大学教授の意見はこの段階を言うのかも知れません。
この場合でも棄権者を不信任に数えるといつまでも決まりせんから、(競争相手のない選挙・・信任だけの投票になると投票率が5割を超えるのは難しいでしょう)信任・不信任のどちらかの投票が出来るようにしておいて、有効投票の比較多数だけで決めるのが現実的でしょう。
結局棄権者を不信任と評価する考えはこの段階で破綻します。